2-10 逃げ出したくなる事も
アキトはだいぶ飲んでいるのか顔が赤かった。
そんな彼を、盗み見てしまったような少しバツの悪さを感じながら、ハルは挨拶を返す。
「こんばんは、アキトさん。お邪魔してすみません」
「いえいえ。どうしました? 何かお困りな事がありましたか?」
「ナツが熱を出していまして。それで、ちょっと喉が渇いたらしく、お水をいただけたらと思って。台所はこちらで良かったですか?」
「ええ、大丈夫ですよ。でも、それは心配ですね。今日もだいぶ無理をさせてしまったでしょうし……。良かったら台所までご案内しますよ」
アキトはそう言うと写真を懐にしまい「よっと」と小さく掛け声を出して立ち上がった。
その時、少し足元がふらついた。
(酔っぱらっていますねぇ)
少々お酒うさいし、ついでに煙草の匂いまでする。
ハルの叔父も酔いつぶれた時等、、今の彼と似たような匂いをする時がある。
アキトはまだ若いのに、これはだいぶ、身体に悪い飲み方をしているなぁとハルは思った。
――とは言え、お酒はほどほどに、なんて言葉を酔っ払いに言ったところで効果がないのも分かっている。
とりあえず下手に刺激をしないように距離を取っていよう。
ハルはそう思いながら、アキトの後ろをついて行った。
そうして、そのまま少し歩くと目的地である台所に到着する。
台所には人気はない。片付けも綺麗に終わっているそこは、しん、と静かだ。
「はい、こちらですよ。湯飲み茶碗やグラスは、その辺りの好きなものを使っていただいて大丈夫です」
アキトはにこっと笑っておす言った。
ハルはお言葉に甘えてグラスを借りる事にした。花柄のレトロなデザインのグラスだ。
(……あ、そうだ)
一つ取ろうとして、アキトもだいぶお酒を飲んでいる様子だったなと思い、ハルは彼の分のグラスも手に取った。
そして蛇口をキュッと捻ってグラスに水を注ぐ。
今はあまり見かけなくなったタイプの蛇口だなと思いながら水を注ぎ終えると、
「はい、どうぞ」
片方をアキトに向かって差し出した。
「え?」
「アキトさんもだいぶお酒を飲まれているようでしたので。足元もふらついているみたいですから、お水、飲んだ方が良いですよ」
ハルの言葉に、アキトはぱちぱちと目を瞬く。
「…………ありがとうござます」
それからグラスを見て数秒固まった後、彼はやや戸惑い気味に受け取って、少しだけ微笑んだ。
そして、そのままグラスの水を一気に飲み干す。
どこか儚げで繊細そうな印象を受けていたが、意外と豪快な飲みっぷりである。
……もしかしてこの勢いでお酒を飲んでいるとか。
少々心配になったが、その辺りは部外者なので、深く聞くのは止めておこうとハルは思った。
そうして見ていると飲み終わったアキトが、はぁ、と息を吐いた。
「ああ、美味しい。はぁ。……ちょっと飲み過ぎていましたね」
「みたいですね。……もしかして、何か嫌な事とかありましたか?」
「え?」
「いえ。私の周りにもお酒を飲む人はいるんですが、深酒をする時は大体そういう時でして。……まぁ、そうは言っても、今ちょうど現在進行形で嫌な事は起きていますよね」
まだ未成年のハルは、お酒を飲む大人達の気持ちは分からない。
けれども酔いつぶれるまでお酒を飲む人は身近にいる。叔父がそうなる時は、大抵、嫌な事があった時なのだ。
もちろん楽しくて飲み過ぎる時もあるみたいだが、ハルが知る限りでは、嫌な事があった時の方が圧倒的に多い。
先ほどお酒を飲んでいたアキトの表情を見ても、彼が気持ち良く飲んでいるようには思えなかった。
なので何となくそう聞いてたのだ。するとアキトは自嘲気味に笑って目を伏せた。
「……そうですね。この村にいると色々とありますよ。逃げ出したくなる事もたくさん」
何かを思い出すように。
消化しきれない気持ちを吐露するように。
アキトは呟くように静かにそう言った。
「こういう狭い村だと、親戚付き合いとか近所付き合いとか、大変そうですもんね」
「……確かに、そうですね。ハルさんも経験が?」
「ええ、まぁ。私が住んでいる場所も、それなりに人口はあって建物も並んでいますけれど、東京みたいな都会と比べると、田舎の括りには入りますし。それに……」
「それに?」
「ああ、いえ。……前に少しだけ住んでいた家が、何かそういう感じだったので。こういう村だとすぐ近くに親戚が住んでいるんだろうなって。だからそういう繋がりとか、面倒な部分もだいぶあるんだろうなと思いまして」
ハルがそう言うと、アキトは目をぱちぱち、と瞬いた後、
「……そう、ですね」
と呟いた。
それから彼は、
「……ハルさん」
「はい、何でしょう?」
「ハルさんはナツ君の手を絶対に離さないでくださいね」
顔を上げて、ハルの目を真っ直ぐに見て、そう続けた。
一体何の話だろうかとハルは僅かに首を傾げる。
「アキトさん?」
「私は……離してしまいましたから」
アキトの口から零れたその声は、少し掠れていて、まるで後悔そのもののようだった。
思わず言葉に詰まった。
何と返したら良いのだろうかとハルが思案していると、
「……んん、水を飲んだら少しすっきりしました。もう戻りますか? お部屋までお供しますよ」
次の瞬間には、アキトの様子はパッと変わっていた。
作り物のように明るい調子で、彼はにこりと笑って近くのテーブルにグラスを置く。
呆気にとられたハルが、
「あ、はい……」
と返すと、彼はくるりと向きを変えた。
そして来た方向に向かって歩き始める。
「…………」
ハルもそれに続く。
……けれど、どうも今の言葉が頭の中から離れない。
目の前で揺れる背中が、何だかとても小さく、痛々しく思えた。
「アキトさん」
「はい?」
「余計なお世話かもしれませんが、お酒も煙草も、ほどほどになさった方が良いですよ」
そうして気付いた時には、ハルは彼にそう声をかけていた。
アキトは歩きながら、意外そうな様子で顔だけ少しこちらへ向けてくる。
「え?」
「さっきの知り合い……うちの叔父さんなんですけどね。叔父さんも、たくさん煙草を吸ってお酒わ飲むので。健康診断でたまに引っかかるんです。だから、その……身体を大事になさってください」
「…………」
ハルがそう言えば、アキトは目を軽く見開いた。
心配された事が予想だったのだろうか。彼は少し視線を彷徨わせた後、再び顔を前に向けた。
それから片方の手で、逆の腕をぎゅう、と強く握る。
「…………。……そう、ですね」
そして絞り出すような声でそう言った。
ハルの位置からはもうアキトの表情は見えない。
ただ……なぜか彼が泣いているように感じられた。




