夜明け前の駅
まだ日の昇らない中で前を歩く背中を追いながら、それでも好きだ、と思った。
「あ、まだだったか」
「え? ああ……本当だ」
その言葉と共に止まった背中にぶつかりそうになり、塩井冬治は慌てて少しだけ横にずれた。白い息の向こう、自分よりも大きな背中――糸山信の横から、まだシャッターの閉まった改札口が覗く。白く無機質なデザインの駅は、電源の入っていない機械のようだ。
「でももうそろそろだよな、始発」
「多分……?」
適当に頷き、糸山の隣で冬治は立ち止まった。そんなのスマホを開けばすぐ分かることなのだが、あえて調べる気は起きなかった。そのうちこの時間が終わることは分かっていても、それがいつなのかは知りたくない。
やれやれ、と改札横のフェンスに寄りかかってスマホを出す糸山の真似をして、そっと冷たい棒に体重をかける。つい糸山のスマホ画面に向いてしまった視線を剥がしながら、冬治は口を開いた。
「ごめんな、終電なくなるまで連れまわして。奥さん怒ってないか?」
「んー、どうだろう。最近俺にあんまり興味ないみたいだし。何とも思ってないんじゃないかなあ」
そんなはずはないだろう。だって今メッセージを打っていたのはその奥さんだし、「寒いから風邪をひかないようにね」という返信だって即時に帰って来ていた。何ならその背景画像が3歳になったばかりの子供であることまで見た。
「……そっか。大変だな」
だが、そうは言わず冬治はただ頷いた。人の家のことに首を突っ込むべきではない――し、もしかしたら本当に糸山の言う通りなのかもしれないのだから。
「つか、冬治は結婚とかしねえの」
こちらに目もくれずスマホをタップする糸山の口から漏れた言葉に、体が軽く強張った。
落ち着け。特に深い意味のある質問じゃないだろう。笑顔を意識して表情を作る。
「……しないよ。相手もいないし……まあ、僕と一緒にいられる人なんて、いないだろうしね」
茶化して答えると、「それもそうだな」とあっさり糸山は話題を引っ込めた。「電車乗ったらまた連絡する」と送信してスマホをポケットに突っ込んだ糸山がそれでも冬治の方向を向かないことに、ほっとしつつも顔に込めた力を緩める。
冬治の視線を追い、少しだけ明るくなってきた空を見上げる。都会の明かりに負けずに輝いていた星たちも、一つ一つと太陽に負けて消えていっているようだ。
紺から薄紫、それから橙色へと変わっていくグラデーションの空に、薄い雲のシルエットが漂っている。それが綺麗だから、というだけで泣きそうなほど苦しいのは、多分まだ酔いが醒めきっていないからだろう。
「……それにしてもさ、田島のこと、驚いたよな」
横から唐突に聞こえてきた内容に、冬治は冷たいフェンスを握りしめた。
田島とは、先ほどまで一緒にいた元同級生のうちの一人だ。今日は――正確にはもう昨日だが――高校時代同じ部活だった仲間で集まって飲んでいたのだが、今日終電を逃してしまったのはほぼ彼のせいと言っていい。
夜も更けて来たしそろそろお開きにしようか、そんな雰囲気になって来た頃合いで、田島が「そう言えば先週、北に告白された」と言いだし、場がその話題で盛り上がってしまったのだ。
「……まあ……驚きは、したよね」
小さく頷くと、「まあでも北って昔からそういう雰囲気あったもんなー」と糸山は笑った。
「やけにベタベタしてきてたし、距離感妙に近かったし。仲良くしなくてよかった、俺が告白されてたかも」
「そう……かもね」
北の話題がなぜ全員の関心を引いたのかというと、一つは北がその場にいた全員の共通の知り合いだったというのと、もう一つは北も田島も男だったからだ。
「いやー、でもあり得ないよな、男同士は」
「あー……難しい、よね……きっと」
飲み会で何度も同級生たちが口にしたのと同じ糸山の言葉がガラス片のように胸に刺さり、そしてそれをハッキリと否定できず曖昧に答えてしまう自分の言葉が傷口を広げていく。
今まで糸山とそういう話をしたことはなかった。意図的に避けてきたと言ってもいい。だから同性愛について糸山がどう考えているかなんて知らなかったし、そういうのを嫌悪する人がいるのも知っている。
知ってはいたが、こうして今の時代に目の前で見ることになるなんて冬治は思ってもいなかった。しかも、あの飲み会では少なくとも全員が同じ意見を共有しているように見えた。
――気持ち悪い、無理、と。
「で……でもさあ、糸山、百合好きじゃなかったのか? 意外だな、そういうの平気なタイプかと……」
震えそうになる声を隠すためにあえて冗談めかして、明るく大きめの声を出す。
「えー、二次元と現実は別でしょ。それに、女の子は二人でいちゃいちゃしてても可愛いけど、男がくっついてたら気持ち悪いだけだろ」
「あ、そう……か、なるほどね」
自分の答えに、見えない言葉がさらに深くまで刺さるのを感じる。
痛い。苦しい。
「そもそも普通じゃないし。おかしいだろそんなの」
「……そっか……」
心のなかにめり込んできた欠片が、冬治の一番奥にある柔らかい部分を抉る。
息が詰まり、目頭が熱くなる。フェンスを握る手に力を込めて意識をそらそうとするが、それでも呼吸が不規則になってくる。
これ以上奥に傷がつくと、自分が壊れてしまう気がした。
「そう……だよな」
何とかそう冬治が答えると同時に、改札の方から小さく音がした。駅員がシャッターを開けている。
「あ、開いた。行こうか」
「だな」
糸山が体を起こすのに続いて冬治も体を起こそうとして――
そして、できなかった。
これでいい。ここで別れて、家に帰って、そしていつも通りに過ごすべきだ。
そう思うが、体が寒さで凍りついたように動かない。
「ふ……普通って、何だろうな」
小さく漏らした声に、隣で糸山が首を傾げる気配がした。
「え、いや……女の子と付き合って……」
「そんなのそっちの『普通』だろ……」
出てきた言葉はどうしようもなく揺れていて、深呼吸をしたが変わらない。さすがにおかしいと思われたのか、視界の端で糸山がこちらを見るのが分かった。
「え? どうしたんだよいきなり」
「っ……」
斜め下を向きながら、手の甲を目尻に当てる。さり気なく目でも掻いたような雰囲気にしたかったが、たぶん無理だ。
「何? お前北とそんなに仲良かったっけ? ならごめ……」
「そんなんじゃない……っ」
北のことなんてもうどうでもよかった。そもそもあいつとの思い出なんて漫画を借りパクされたことくらいしかない。
「じゃあなん……」
「うるさいっ!」
フェンスを突き放すように前に踏み出し、糸山に体ごと向き直る。頬を熱いものが伝っていくのがわかった。ぎょっとしたような表情の糸山を、滲んだ視界越しに精一杯睨みつける。
「好きだったからだよ! お前のことが! ずっと!」
絶対に言わないつもりだった言葉を叫ぶ。
強い想いが籠もっていると思っていたのに。全力をぶつけたつもりだったのに。
冬治の口から出てきたのは、情けなく上ずった響きでしかなかった。
馬鹿なことをしている。そう思ったが、一度溢れてしまったものは止まらない。
「女性が好きなのは知ってたし、無理だとは思ってた! 分かってるよ 結婚だってしちゃったよ! それでも好きなものは好きなんだよ! どうしようもないんだよこっちだって!」
その残響が消え、冬治が刺すように冷たい空気を大きく吸い込んだあとも、糸山は唖然としたまま微動だにしなかった。
「だから……お前には、お前にだけは……そういうこと、言ってほしくなかった」
小さく付け加えた言葉も、糸山に伝わっているかは分からなかった。
夢くらい、見させて欲しかった。そう思いながら、もう一度、右手で涙を拭う。
瞬きをした糸山が口を開き、でもそこからは何も出てこない。
「このままずっと友達でいられたら良いと思ってたよ」
今度は、心からの笑顔を浮かべられた。
「ごめんね。……ありがとう」
振り向くと、案の定駅のシャッターが開いていた。じゃあね、と糸山に手を振り、改札へと歩き出す。
「ちょっ……待てよ! 冬治! 嘘だろ! おい!」
名前を呼ぶ声が聞こえて、それでもやっぱり振り向いてしまう。先ほどと変わらない位置に立ったままの糸山は相変わらず信じられないという顔をしていた。その足が一歩だけこちらに踏み出してきて止まるのを見届けてから、ホームへの階段を上る。
きっと糸山には、もう二度と会わない。けれど、それでいい。
やってしまった。だが、胸につかえていたものを吐き出してしまった爽快感もあった。
ホームに降りた瞬間、不意に視界が明るくなった。目を細めた先には、雲の間から覗く太陽が見える。
今朝の朝日は今まで見た中で一番綺麗で――そして、これから見るどの景色よりも美しいに違いない。
そう思いながら吐き出した白い息は、きらきらと光の中に溶けていった。