転移の騎馬隊
この作品はフィクションです。
特に歴史上の人物、時代背景については、演出の都合上、改編を加えたり、筆者の想像で補っている部分が多々あるため、史実とは異なる描写がある事をご了承ください。
登場人物
牛金 魏の将。官位は後将軍。馬岱軍一千を討ち取り、先年奪い取った散関の救援に成功。
若武者 恐らく安土桃山期の日本の武将と思われるが詳細は不明。
馬岱 蜀漢の将。官位は平北将軍。爵位は陳倉侯。
王平 字は子均。蜀漢の将。官位は安漢将軍。役職は漢中郡の太守。
張翼 字は伯恭。蜀漢の将。前漢の張良の子孫。役職は前領軍。
費禕 字は文偉。蜀漢の尚書令。ハッキリ言ってかなりの高官だが単騎で戦場を駆けて勅使としての役目を果たすなどフットワークは軽めで上下分け隔てなく人づきあいをするなど、およそお偉いさんとは思えない行動で周囲をドン引きさせる。時折、炸裂する”ネタ”のせいで周囲は地獄のひと時を過ごすことになる。
【編集中】
陳倉の本隊から出頭命令が届いたので散関南門前に展開させた軽騎隊を一旦、入関させた。
守備隊の世話になる形なので、不和や揉め事が起きないように充分に注意を言い伝えてから守備隊にも話を通して、牛金は散関を後にした。
特に詰問というわけではなく状況が安定したので一度報告に戻れという事のようだったが、兵をそのままにして一人で、というのが気になるところではあった。
もっとも牛金自身にしてみれば魏という国の一将でしかなく兵員は国家の所属なので、その時々の現場で上役として組む仕事相手という認識でしかなかった。
荊州にて曹仁の下で部将を務めていた時に任されていた特定の部隊はあったが、その部隊の人員とも私的な交流は持たず、北方に転任となった今回も、それは変わらない。
今や後将軍という国家の上将と言っていい地位にあったが家臣郎党も抱えず私兵となり得る配下も持っていない。
普段からの護衛や従者すらも付けずに、これまで自分の仕事を自分一人でやってきたのだから少々引っ掛かりはしても特に不審だとは感じていない。
他の将軍から見れば変わり者だと思われていそうだが、それを気にするような性分でもなかったし牛金からすれば、本来は国の所属である人員を私的に抱え込む方がどうかしているという感覚だった。
それこそ何かが起きた時に叛意有りと見られても仕方のない事をしているように牛金には見えた。
そんな、とりとめのない思考が流れる風に飲まれて霧散していく。
牛金は手綱を軽く引いて速度を並足に落とさせた。
「そんなに急ぐこともあるまい。」
馬を労るようにそう声をかけた。
礼を言うように馬が鼻を鳴らす。
思えば自分が唯一抱えている家臣、いや、家族のような存在だった。
白い毛並みの中にまるで飛沫を浴びたかのように所々混ざる黒い斑点が嵐のような乱風を想起させる。
それがそのままこの馬の名前になった。
―――白嵐―――
伝説の赤兎馬…とまでは言わないが、その名に恥じない中々の駿馬だと思っている。
そんな愛馬に今は並足を強いている。
この調子だと途中の略陽に入るのは明後日になるだろう。
敵を追尾しているわけでもなければ火急の報を届けようとしているわけでもない。
のんびり…というわけにもいかないが馬を乗り潰すほどのことでもないのだ。
並足の馬の鞍上の心地よい振動が牛金を再び沈思の底へと誘った。
あれから四日か…。
牛金は先日の戦の事を思い出していた。
久しぶりに歯応えのある敵と巡り合った…と思ったのだが…。
中々、投入してこなかった両脇備えを敵将馬岱が遂に動かした時は、いよいよ総掛かりでの打ち合いが始まるのだと、どこか期待さえするような自分がそこにいた。
しかし案に相違して、波状攻撃を加えてきた馬岱は前衛を次々と入れ換えながら後退していき、そのまま撤退していった。
撤退の理由は、その後すぐに分かった。
勅使が派遣されて戦闘を中止させられたとの事だった。
さぞ不本意であったろうとは思うが、それは自分も同様だった。
散関というのは、はっきり言ってしまえば獲ったり獲られたりを繰り返している面倒な拠点だった。
こんな物さえ無ければ…とは向こうも思っているに違いない。
これまでこちらの方面の戦には関わりのなかった牛金でさえ、そう思うのだ。
それにしても…"牛"対"馬"とは…。
妙な符合に思わず笑ってしまった。
いつの間にか日が傾き始めていた。
鞍上で考え事を続ける牛金をよそにして馬は進み続ける。
地域名だけで言うなら、ここは既に略陽だ。
中心部ではないが小集落はちらほらと点在しているはずだ。
現に猟師小屋と思われる家屋は途上で幾つか目にした。
次に見かけたら、今日はそこで泊まることにしよう。
そう決めて牛金は手綱を握り直した。
過ぎ去る景色の中に小さな祠と不似合いなほどに大きな石碑が見えた。
祠の脇に控えるようにして立てられている石碑には「光烈廟」の文字が見て取れたが別段、気にも留めなかった。
ただ、そこだけが何故かぼうっと光っているように見えた事だけは頭の隅から離れなかった…。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
総大将の無謀な渡河命令によって始まったこの戦は河畔を…そして大地を赤く染めて、敵方による虐殺が、いつ果てるともなく続いていた。
総大将…と言っても、あくまでもこの先遣部隊の中だけでの話だ。
遅れて進発する予定の本隊も含めた総軍の長に任じられているわけではない。
先遣隊の仕事は前線での拠点構築と維持だ。
こちらから敵に仕掛けることは固く禁じられていた。
はずなのだが…。
昨日のこと。
現地に到着して敵情を見るなり、この総大将は渡河しての決戦を主張した。
当然、諸将は反対し、軍議は紛糾して収拾の付かない状態のまま時が過ぎ去って行った。
そうした中で、せめて陣屋の設営でも進めていられれば良かったのかも知れない。
しかし総大将自らが本来禁じられていた更なる進軍を主張したため、そうした作業でさえ誰も指示が出せず、結果、いつでも進発できるような態勢で待機を続けなければならなかった。
結局、渡河して戦う事になったのは、とある老将が賛同を表明したからだ。
この人物とて最初は渡河に反対していた。
ただ、あまりの軍議の紛糾ぶりに統率が取れないまま前線が崩壊する事を危惧したのかも知れない。
それはそれで非常に危険な事態だ。
一手の大名として参陣している自分の父にとっては仇敵とも言える存在のこの老将を若武者は深く尊敬していた。
老将…と言っても、まだ三十を幾つか過ぎたぐらいの年齢なのだが、その経験は既に老練の域に達しており、それ相応の風格を漂わせている。
幸若舞ではないが人間五十年と考えれば既に人生の折り返し地点を過ぎている。
地元では猛将として名を馳せた父とは何度も名勝負を繰り広げたお人だ。
武運拙く天下人の庇護下に逃げ込む形となってしまったが将帥としての力量は本物だ。
それほどの人物だから、この状況での渡河が如何に危険で無謀な行動なのか、充分に理解しているはずだ。
そんな人物が賛同を表明した以上、渡河して敵と交戦する事はもはや決定事項となった。
父は納得していない表情だったが、それ以上の反論をやめた。
ただ、その老将も納得していない…いや、それ以上に無念そうに唇を噛み締めていた。
父もその気持ちが分かったのだろう。
総大将だけが場違いな気勢の上げ方をして軍議は解散した。
軍議の場として最優先で設営された陣幕の外に出ると一人佇んでいた老将と目が合った。
「済まぬな。御曹子殿。」
彼は若武者を見るなり、そう声をかけてきた。
不本意な賛同表明で場を収めた事の謝罪であろう。
「なんの。戦と決まれば腹を括るだけにござる。」
「お見事な覚悟である。しかし、これで我らの敗北は決まった。後は如何にして御大将を無事に逃がすか…。」
「然り。御大将まで討死したとなれば天下人の軍勢としての面目が潰れましょう。」
「そして貴殿と御父上にも。」
「否。父には逃げて頂きますが、某は此処に留まりましょう。この身に代えても御大将と父上には生き延びて頂く所存にござる。」
「それはいかん。御父上も、そして貴殿もこれからの天下に無くてはならぬ人材。ここは、この老骨に散り場所を譲ってくだされ。」
「何と申されましても、こればかりは譲れませぬ。お一人で逝かせる訳には参らぬ。お供仕ります。」
しばらくの沈黙の中、老将と睨み合った。
老将が不意に表情を崩して微笑を浮かべた。
「まったく。頑固な若君だ。まるで御父上のようじゃな。」
「お褒めに預かり恐悦至極。」
「褒めておらぬわ。」
顔を見合わせて二人は大笑した。
それが昨夜までの出来事だった。
その忌まわしき渡河作戦はその翌早朝…つまり今朝、実行に移された。
そして、まだ昼にもならないというのに既に大勢は決していた。
現状は交戦という段階を通り越して敵方がこちらに対して掃討作戦を実行している状態だった。
逃げ遅れた者が容赦なく討たれていく。
敵が繰り出す小部隊での奇襲に一々反応したのがまずかった。
それを命じた総大将としては各個撃破を目論んだのだろうが…。
当然どの隊も敵の数に応じて追撃部隊を派遣する。
追ってはいけないと知りながら…。
案の定、敵の予定地点に誘いこまれて包囲される。
救援に動けば更なる大部隊で包囲してくる。
各個撃破されるのは敵ではなくこちら側だった。
敵の戦術は総大将以外の皆が分かっていた。
分断して各個撃破というのは彼我の戦力差で劣る側が勝る側に対抗するための常道だったが、それを総数二万五千ほどという圧倒的大軍の敵方が総数六千ほどのこちらに対して仕掛けてきたのだから堪ったものではない。
その後も敵方は地の利を生かし、巧みな用兵で、こちらの部隊を分断しては各個撃破という流れを地道に繰り返してきたが、その効果は絶大と言わざるを得ない。
敵は結局は同じ手を何度も繰り返しているのに誰も打開できないのだ。
それを率いている大将は戦術の天才と言っていいだろう。
敵ながら天晴れ。
我が生涯を締めくくる相手として不足はない。
首を失った者達が鮮血を噴き出しながら物言わぬ肉塊と化し、累々と横たわっている。
そんな光景に幾度となく出くわした。
遠からず自分もその内の一つになるのだろう。
父や主だった家臣を先行させながら後退を続ける。
そして今、敵を幾らか引き離したこの場で今一度態勢を整え、自身を含めた七百と余名は最後の戦いに臨もうとしている。
例の馬鹿大将は…というと、劣勢と見るやさっさと離脱したらしい。
まあ、護衛の人員を割く手間が省けたと考えれば必ずしも悪い事ばかりとは言い切れない。
やがて、かの老将の討死の報がもたらされた。
いざ負け戦となった時は互いに助け合わない。
その場を堅守して敵の足止めに徹する。
二人はそのように決めていた。
互いに、なるべく狭い所を選んで布陣する事にしていた。
敵に包囲されて、あっと言う間に殲滅されたのでは足止めにならない。
若武者自身も乱戦の中、父とはぐれたという体をとって、この場に落ち着いた。
老将もかなり持ち堪えたが、遂に陣を抜かれてしまった。
「我らもすぐに参りまするぞ。」
そう呟いて全軍に向き直った。
「各々方!敵はこちらに迫っている!今一度、武具を点検せよ!」
ふつふつと怒りがこみ上げてきた。
敵に対してではない。
異論があるなら申してみよ…と言いながら、こちらが発言しようとするところを遮って、無能なる田舎武者の分際で何も考えておらぬのに我が用兵に反対するのか…などとぬかす、口だけは達者なあの馬鹿大将に対して、だ。
無能なる田舎武者とは、そっくりそのまま彼の者に返せる罵詈雑言だった。
聞く耳もないのなら不要な頭の両脇のヒレを削ぎ落してやろうか…と、本気で思ったものだった。
「やることは変わらん!この場を死守!一人でも多く敵を斃し一刻でも長く時を稼ぐ!」
自害などという考えは全く頭をよぎらなかった。
腹を斬る暇があるなら、むしろ斬り死にするまで無心に敵を斬り続ける。
長柄の大長刀を杖に床机から立ち上がったその向こうに人馬の群れが見えた。
集結し態勢を整えながら接近してきていることから敗走してきた老将の配下ではないことは遠目に見ても一目瞭然だった。
全員が最後まで戦い、そして散っていったのだ。
目に熱い物が込み上げてきた。
しかし悲しんでいる暇はない。
その群れは数を増やしながらこちらに向かってきている。
「鉄砲隊第一陣!構え!」
堺で量産された鈍色の銃口が敵勢を睨めつける。
こういう場合、充分に敵を引き付けてから発砲…というのが基本だった。
だが、これは撤退戦であり、自分の役目は敵の足止めだ。
有効射程内ぎりぎりのところで発砲を命じた。
「第一陣後退!第二陣構え!」
一射目が与えた被害は少ないだろう。
だが確実に敵の足は遅くなった。
散発的に撃ち返しながらゆっくりと向かって来ている。
少し慎重になったのが手に取るように分かる。
「放て!」
構わず第二射を命じた。
慎重になったとはいえ第一射の時よりは接近している状態だったので敵の被害は多少は増えただろう。
そのようにして続けて第三射、第四射を浴びせた時点で敵は文字通り眼前にまで接近していた。
次弾を装填している暇はもう無い。
「総員抜刀!」
吶喊を上げ足軽が敵勢に斬り込む。
自身も先頭を駆けて長柄の大長刀を振るった。
六人…七人…。
八人目を斬ったところで刃先が折れた。
残った柄を振りまわして数人を打ち倒し敵に向けて投げつけた。
すかさず腰の左文字の太刀を抜く。
周囲の足軽や組頭も傷を負いながら奮戦している。
片腕を切り落とされながらも、なおも太刀を振りまわす者。
方々から槍に突かれて動きを止められてもなお届かぬ刃を届かせようと足掻く者。
額を銃弾で撃ち抜かれ立ったまま絶命している者。
自身も似たような物だった。
浅い傷を幾つも付けられていた。
袖や草摺は数度に渡る敵兵の斬撃を防いでボロボロになり二枚胴には銃弾で穴を空けられた。
急所からは外れているものの、時折、体を襲う激痛が動きを妨げる。
六人を斬ったところまでは覚えている。
そこから何人斬ったかはもはや数えていないが愛刀は着実に死体の山を築いていった。
その左文字も既に刃は毀れ、刀身は歪み、斬っているのか叩いているのか分からない使い心地だったが敵は確実に倒れていった。
それらを一々数えながら戦うのにも飽いた。
ただ無心に刀を振るっている方が性に合っていた。
そんなことを考えている間にも敵兵が血を噴き出しながら次から次へと転がっていく。
敵の誰かに名乗りかけられたようだが、かまっている暇はない。
一騎打ちに興じている暇があるなら一人でも多く敵を道連れにしてくれる。
だが敵兵の方が自分の周りから離れていき自然と一騎打ちの状況に持ち込まれてしまった。
「鬼神の如き凄まじさ!見事なる戦いぶりである!」
どうやら褒めてくれているようだが、耳を貸している場合ではない。
名乗りも上げずに斬りかかった。
二合…、三合…、いつ果てるともなく切り結ぶ。
既に満身創痍でありながら立っていられるのが不思議なほどに打ち合っていられる。
袈裟斬りを摺り上げて躱し、振り下ろした太刀を避けられ、横に薙いでくる刀を受ける。
そうした技の応酬を繰り返している間に周囲で立っている味方は一人も居なくなった。
いや、自分も倒れていた。
二枚胴のほぞが壊れ腹部が露出してしまい、そこに突きを食らってしまった。
うめき声を雄叫びに変えながら立ち上がる。
狂ったように斬りかかったが、すぐに片膝を突いてしまった。
「御覚悟を…。」
傍らで一騎打ちの相手を務めた敵将が上段に太刀を構える。
これで終いか…まあ良い…。
自分で腹を斬る手間も省けた上に介錯までやってくれるとは至れり尽くせりだ…。
ここまでやっておけば父も無事逃げおおせたであろう…。
振り下ろされた太刀の動きに逆らうように血飛沫が舞い上がった。
血の海の中に転がった若武者の首はなぜか微笑んでいた。
白い光が静寂と共に辺りを包んだ…。
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昨晩、見たものをなんと説明すれば良いのか分からない。
いわゆる幽霊というやつだが話しても馬鹿にされるだけだと思い馬岱は、そのことについては誰にも言わない事にした。
もっとも鄧聞には見られていたようだが…。
費禕は第三佰の兵達に護られて無事だったし、今朝は遅れて進発していた王平と張翼の軍勢も合流してくる。
敵将牛金は散関の南門前に軍勢を展開させたままだが特にこれといった動きを見せずにいる。
完全に危機は去ったが、だからといって中止命令が出た以上、態勢を立て直して再度北上するというわけにもいかない。
漢中の郡城まで撤退せずに野営を選んだのは無意味な意地の張り方だとは当の馬岱自身も思っているところではあったが、このまま野営を続けるつもりでいることには変わりない。
魏の脅威に晒されながらも、丞相派の排除などという下らない動きを見せている成都には、なおのこと戻りたくはない。
既に冷めた思いしかないが、それでも血を流して戦っているのは誰なのか、皇帝劉禅を含め成都に居る者達は今一度考えるべきだ。
思えば今の地位に封じられた時から始まっていた。
もともと先帝劉備に降伏した時点でも、涼州軍は三万を超えていたのだ。
あれだけ敗走、迷走を繰り返しながら流浪を続け、それでもこれだけの人数が残ったのは馬超の存在か大きかったからだ。
そこに関しては馬岱も認めていた。
馬騰の遺産や馬超自身の官位に応じた禄、それに|爵位を与えられ領地からの税収を得られるようになった事もあり人員と騎馬の維持には問題が無かった。
しかし、その馬超が死に、陣代として馬岱が後を引き継いでからは徐々に懐事情が苦しくなっていった。
平北将軍という官位を得たものの、その禄だけでは人馬を養いきれない。
馬騰、馬超の遺産も底を突きかけていたし、馬岱自身の私財を足しても大した額にはならなかった。
それを見越したかのように人員の配置転換令が馬岱の元に届くようになった。
元々、戦死した呉蘭の軍勢から引き受た者達を除けば全てこちらの人員であり、成都から干渉される謂れはないのだが、維持費の不足という現実がある以上、応じざるを得なかった。
最初から、これが狙いだったのは、とっくの昔に気づいていたが、さすがの馬岱も意地を張っていられる状況ではなくなっていた。
平北将軍というのは自身に向けられた最大の皮肉であり実にふざけた官位だったが、爵位の方はもっとふざけていた。
陳倉侯…。
陳倉は言うまでもなく魏の領土であり、はっきり言えば空手形だ。
収入を得たければ自力で攻め取れ。
そう言っているようなものだ。
そのくせ戦の邪魔だけは、しっかりとしてくるのだ。
いや、この際、自軍の収入はどうでもいい。
それよりも国そのものが危険な状態である事を理解しようともしない成都の対応には憤りを既に通り越して呆れる他なかった。
「馬岱殿。只今着陣しました。」
沈思の底に佇む馬岱に、そう声を掛けてきた主は王平だった。
「思ったより早かったな。陣張りは…。」
「それは西隣にしました。既に陣幕の設営に着手しております。」
「そうか…。伯恭は?」
「少し遅れていますが到着次第、本陣の東隣に駐屯すると打ち合わせ済です。」
流石だ。
自分が敢えて口を出さずとも既に仕事を始めている。
名目上は敵の動向を観察するための野営だから王平の行動は成都から特に問題にされることは無いだろう。
「悪いな、子均。お前さんの仕事を増やしちまった。」
呉懿も既に世を去り馬岱自身は少なくとも官爵の剥奪は免れない。
今後の漢中防衛の総指揮は王平に丸投げされるのだろう。
張翼は基本的に成都所属の援軍という扱いになるため、また違った立場になる。
「なんの。慣れましたよ。成都の馬鹿さ加減には。」
そう返して静かに笑う王平に馬岱は相変わらず図太い奴だな、と返した。
何も悪態をついたわけではない。
この図太さに馬岱自身も含め、蜀漢の軍人達は幾度となく救われてきたのだ。
今の蜀漢の中で名将と呼べる者は誰かと問われれば、まず間違いなく、この男が筆頭に挙げられるだろう。
それほどの器だと馬岱は思っている。
馬岱とは対照的に普段は寡黙なせいで何を考えているのか、いまいち掴めない所はあるが、やるべき事はきっちりとやり遂げる。
それが王平という男だった。
元々は魏の武官だったが漢中侵攻の際に降伏したそうだ。
こちらに将として迎えられ一軍を任されるようになってから、この男は変わった。
変わった…というより指揮官として覚醒した。
元々腕の方も確かで特に槍はかなり遣えた。
調錬や戦で一緒になる機会が多かったが、あまり心を開かないところがあるので、飯に酒に…と、無理矢理連れまわしている内に段々と打ち解けていった。
まだ劉備や諸葛亮が健在だった頃の話だ。
だから付き合いは結構長い。
費禕にしても少し遅れて到着する予定の張翼にしてもそうだ。
そうした仲間達を、あと僅かな期間で自分は失うことになるのだろう。
野営を引き延ばすにしても数日が限界だろう。
その後は成都に戻って審問を受けて罷免か死罪か…。
いずれにしても、もう彼等と会う機会は無くなるのだろう。
「まあ、野営はしばらく続ける予定だ。今日のところはゆっくりしていってくれ。」
「ええ。メシの方は期待してますよ。」
「なに?お前らの分までメシ作るのか?さすがに炊事方から怒られるぜ。」
「ま、それは大陸一の炊事方を育ててしまった宿命というやつですな。」
「勘弁してくれ。」
確かに何かの酒の席で酔ってそんな事を言った覚えが馬岱にはあった。
大体にして普段から″陣中食は人生で最後になるかも知れんメシだ。これがマズいのは許されん。″などと口やかましく言っていた。
滅多な事は口にするもんじゃねえな…。
そう思ったのは人生で何度目だったろうか。
「そっちからも人手を出してもらうぞ。」
「それはもちろん。せいぜい料理の技を盗んでこいと伝えておきますよ。」
「いずれにしても伯恭が輜重を運んできてからだな。」
「楽しみです。」
そう言って王平は付き添いの部下と共に自陣の方へ戻っていった。
軽く手を振って、それを見送る。
幽霊は今夜も現れるのだろうか。
これまでの思考とは何の脈絡もない事が急に気になった…。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
天目山。
追い詰められて、今ここに居る。
足を踏み外しても崖下に落ちないように、たまたま垂れていた太い蔦蔓を命綱の代わりにと片手で握りしめながら昌恒は太刀を振るっていた。
織田軍の兵は次から次へと湧いてくる。
はっきり言ってキリがない
いくら腕を飛ばし、いくら首を飛ばしても、五体満足な敵兵が後から後から迫りくる。
それでも昌恒は太刀を振るう手を止めない。
主君信勝と陣代勝頼が無事に最期を遂げられるよう、今は只々、敵を防ぐのみ。
勝機など、いくら戦っても来ない。
武田家の滅亡を少しでも見苦しくないものにするため、そのためだけに時間を稼ぐ。
それのみが今の自分に出来る最大限の事だ。
そうやって他の事は無理に意識の外に追いやろうと昌恒は足掻くように戦い続けていた。
突き出される槍を躱し、その敵兵を崖下へ蹴落とす。
蔦蔓の付け根の方から嫌な音が聞こえてきた。
左手にも嫌な感触が伝わってくる。
―――まだ…切れないよな?―――
昌恒が無理にでも追いやりたかった事が再び意識を支配し始めた。
―――頼む!保ってくれ!―――
しかし敵は待ってはくれない。
人がすれ違う事ができない幅の狭隘な場所を塞ぐようにして戦うには命綱が必要だ。
それが今、悲鳴を上げながら耐えている。
右側の崖下をちらりと覗いた。。
―――これ、落ちたら絶対死ぬやつだろ!―――
敵と斬り結んで死ぬか、上手く時を稼いでから主君の後を追うか、この二つ以外に選択肢はない…つもりだった。
新たな選択肢などいらない。
しかし蔦蔓は嫌な感触を左手に伝えながら更に悲鳴の大きさを増してきている。
それが、不意に無くなった。
「あ…。」
まだ、敵を捌いている最中だ。
地面を踏みしめている感覚も無くなった。
それは同時に最初に決めていた二つの選択肢が無くなった事を意味していた。
―――終わった…。―――
背中を引っ張られるようにして落下しながら昌恒が思ったのはそれだった。
自分の周囲が眩い程の白い輝きに包まれ昌恒は反射的に目を閉じた…。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
ここには将しかいない。
馬岱と張翼、そして自分だ。
馬岱が成都に戻る前の予備審問ということで費禕に集められたのだ。
それは陣幕を一つ空けて人払いをした状態で行われている。
外では昼食の煮炊きなど、人が忙しく動き回っている気配があり、その騒々しさが中にも伝わってくる。
しばらく話は続いていたが、その理不尽な内容に王平は怒りを禁じ得なかった。
ただ当の馬岱が何も言わないので口出しはしないようにしていた。
張翼は張翼で俯いたまま肩をブルブルと震わせている。
怒りを堪えているのだろう。
内容は、まず敵の攻勢への対応以外の軍事行動の禁止の旨から始まり、続いて散関へ出兵した馬岱の行動に対する非難だった。
それを独特なクセのある皮肉交じりの口調で費禕は話し続けている。
そろそろ我慢の限界か、という時に喋り続ける費禕を遮って馬岱が口を開いた。
「文偉。文偉よ。」
「で!あるからに…は、はい?」
「長えよ。そりゃ誰のモノマネだ?」
「ええっ!?この渾身のネタが分からぬのですか!?誰がどう聞いても郤正殿でしょ!」
「似てねえよ!」
馬岱がそう言った途端、張翼の顔面が崩壊し、恐らく陣幕の外にまで届くであろう勢いで笑い声が響き渡った。
―――こやつ…怒りではなく笑いを堪えておったのか!?―――
急にばつが悪くなった王平は、思わずあさっての方角へ視線を背けた。
当の張翼は似てる~、とか、腹が痛い、などと繰り返しながら、文字通り腹を抱えて笑い続けていた。
【編集中】
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