5. 鈍そうだもんな。
木嶋の朝のルーティンは、天候にはあまり左右されない。
雨の日も風の日も、試験前も試験期間中も、同じ時間に起きては走りに行く。
とは言え、物凄い雷の日と、台風の日は休むのだそうな。俺としては暑い日と雨の日も止めるべきだと思っている。
天然なのかデレなのか、そして友情なのか恋なのかもハッキリさせない状態の好意を木嶋にぶつけられてどうしようかと思ったが、悩んで眠れなくなることもないので、試験が終わるまでは一旦置いておくことにした。
木嶋は木嶋で、あのやり取りに深い意味などなかったかのように、いつも通り俺を7時に起こし、一緒に登校して下校して試験勉強して就寝する、というサイクルを淡々とこなす。
正直なところ、自分だけが意識しているのではないかと思うと逆に恥ずかしく、申し訳ない気持ちになりつつあった。
木嶋は元々寡黙だから、発言する時の言葉の選び方が人より下手なのではないだろうか。
気を遣わなくて良い相手との同室を3年間続けたい、と言うべきところを、俺とずっと一緒に居たいと錯覚するような言い方をしてしまったのではないか、と考えるようになって来た。
そう言えば、俺の寝ぼけた顔がどうとか言ってなかったか。寝起きの俺を誰にも見せたくないという独占欲があるのなら、あの会話の後、何かしらの進展がありそうなものだが、そんな気配は全くない。
好きな相手と同室で、それが両想いだったりしたら何も手に付かなくなると思うので、勉学に励む高校生としてはこの状態はこれで良いのかもしれないが、どうも煮え切らない。
このまま心地良い距離感を保ったまま過ごすことを望んではいるが、どうせなら「言い回しがおかしかったけど友情だよ」とはっきり言われてモヤモヤを払拭したい。それで心が少し傷付こうとも、今までと変わらない関係が続けられるのならそれも良いのでは、と割と後ろ向きな考えが頭を支配するようになって来ていた。
学期末試験が終わり、そのまま試験休みになった。赤点を取った者は追試の為に登校し、その他は終業式まで休みとなり、その後は春休みに突入する。
寮内は少し慌ただしくなり、廊下に段ボールが詰まれていたり、抱えて移動する者を見かけるようになった。部屋の広さは同じはずなのに、2箱で済む者と、5箱以上の荷物がある者とが居るようだ。
移動する予定のない俺は、試験休みは自室でごろごろして過ごす。
今日は木嶋もベッドの上で陸上の雑誌を捲っている。昼間は走らないのだろうか。
「なあ。2年生になったら陸上部入る?」
何気なく口から出てしまった声に、木嶋が顔を上げる。
「ちょっとやってみようかなとは思ってる」
「へえ。時間が作れるようになった?」
「え?」
「何か、時間がない、みたいなこと言ってなかった?」
「ああ、あれは」
木嶋は目を泳がせる。
「あれは?」
「あれは……」
右手で後頭部をガシガシと掻いて、雑誌を乱暴に閉じて脇に置いた。胡座をかいてベッドの壁にもたれていた木嶋は、床に脚を下ろして座り直す。
きちんと正面に座って、進んでも良いのか? という微かな呟きを共に視線をこちらに向ける。
「何?」
「あー、……一応解決した、と俺は思ってる」
何だか歯切れが悪い。
「時間出来た?」
「うー、……出来たと言うか、確約を得たと言うか」
「ふぅん?」
「……」
「何?」
先程と同じように、木嶋は後頭部をガシガシと掻き回す。やっぱ無理かと呟いてひとつ大きく息を吐き、こちらに改めて強い視線を向けて来る。
「な、何」
「鈍そうだもんな」
「は?」
「……部屋割りシャッフルしたり、二年のクラス替えでクラスが分かれたら、乾と一緒に居る時間が減るから嫌だと思ってたんだけど」
「え」
木嶋がぐっと身を乗り出したので、思わず少し顎を引いて仰け反った。
「これからもずっと一緒に居られるなら、部活に時間割いても良いかなと思って」
「ず、ずっと」
頷いて木嶋は立ち上がる。ベッドとベッドの距離はほんの1m。1歩で目の前に立ったかと思うと、ベッドに木嶋の左膝が乗って来る。
距離を取ろうと益々仰け反る俺の右肩を木嶋の手が掴む。
「ちょ」
「この前の」
「ちょっと」
「この前のやりとり、俺の勘違いじゃないって事で良いんだよな?」
「な」
顔に熱が集まる。頬が、耳が熱い。強い視線で見詰められて、堪えられずに思わず目を逸らしたら、肩に乗っている木嶋の手が視界に入り、距離の近さに改めて狼狽える。
ぎしりとベッドが軋み、木嶋の右膝も乗ったのだと解った。肩を掴んでいた手が緩み、そのまま首筋をなぞり耳に触れる。ひえぇと心の中で叫ぶ。
真っ赤、という呟きと共にふっと息が漏れる音。
今、笑った?
恥ずかしくて下を向いていたのを一瞬忘れて、木嶋の顔を見ようと上を向きかけた時、背中に回された腕に力が入り、木嶋の腕の中にすっぽり収まってしまった。
「……っ」
木嶋の左手が背中に回り、右手は後頭部に当てられていて、俺は顔を木嶋の胸に埋める体勢。
ひえぇと又、心の中で叫ぶ。木嶋の右手が頭頂部から後頭部へ、頭の形をなぞる様に、優しく何度も下される。余りにも恥ずかしくて、胸に埋めたまま顔を上げられない。
「乾は鈍感そうだからちゃんと言うけど」
どきんと跳ねた心臓の音は、自分の音なのか、木嶋の胸の音なのか、どちらか区別がつかない。
「友情の好きじゃないから」
「!」
「ちゃんと本当に、乾が好き」
背中に回された左腕の力が緩み、二人の間に隙間が空く。ホッとしたのも束の間、額を撫でられたかと思うと、木嶋がぐっと顔を寄せて来る。
心の準備もなく、言葉を発する事も出来ず、あわあわしている間に唇が額に押し当てられた。離れる時に、ちゅと小さく音が鳴った。
拘束から逃れてぴったりと壁まで後退る。右手で額を押さえながら、夢のシーンを思い出す。シチュエーションは少し違うが、でもこれはデジャヴなのでは、と思うような錯覚。
夢で木嶋は俺の額にキスをして、それで。
突然物凄い勢いで腕から逃れた俺を膝立ちのまま見詰める木嶋は、その素早さに一瞬驚いた顔をしたが、その後、夢で見たような極上の、破壊力のある微笑を見せた。
「ひえぇ」
くらくらする。気絶しそう。いや、何だったら気絶したい。「友情を続けられれば良い」とか後ろ向きなことを考えていた自分に今のこの状況を教えてやりたい。
けれど木嶋の気持ちをぶつけられて、やったとか嬉しいとか幸せだとかいう感情は湧いて来ない。完全にキャパオーバーでどうにもならない。この事態をどう切り抜けようかと思うけど、どうすれば良いのか解らない。
くく、と木嶋が笑う。伸びて来た手が頬を撫でる。
「急がないから」
「……っ」
「慣れてよ」
「ひえぇぇ」
両手で顔を覆って、ベッドに倒れ込む。何でそんなに笑顔の大安売りなんだよ。何日分だよ、何年分だよ。表情が乏しくて寡黙な木嶋はどこに行ったんだよ。
又ぎしりとベッドが軋む。木嶋が傍に座り直したのだろう。顔を覆ったままの俺の傍で胡座をかき、子供をあやす様に、腕を一定の間隔でぽん、ぽんと叩き続ける。
顔を手で覆って暗くしていると、少しずつ気持ちが落ち着いて来ると共にうとうとして来て、いつもの如く睡魔に襲われる。今このまま寝るのはまずい、と頭の片隅で考えたけど、優しいリズムが心地良くて抗えそうにない。
無防備過ぎない? という苦笑混じりの声を聞いた気がする。
側頭部に温かい手の感触。ああ、この前の夢の続きだと思いながら、いつもの如く、ふわふわと眠りに落ちてしまった。
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