【26】本当に本当に本当に、【25】
──巨漢。
眼鏡は顔に減り込み、身に付けた衣服ははち切れる寸前。
そして、不潔。
でっぷりとしたその男の顔は、涎を口の周りに垂らして見るからに汚らしい。
「ぶひゅひゅ。良い馬車に乗ってますねえ。帰りはこの馬車で帰ろうとかなぁ」
ぐちゃぐちゃと崩れた顔で笑う男の名前は──パバト。
突然だった。その男が馬車に現れたのは、あまりにも唐突。
音も無く現れて、壁に張り付いた蛾のように最初から居たような雰囲気でそこに居る。
誰もが言葉を失った。転移魔法の類だと答えが出せない程に、ハッチもヴァネシオスも錯乱した。
だが、そんなことを考えるより早く、二人は動いていた。
ハッチは、横になっているヴィオレッタの前に立ちはだかるように体を引き摺って移動した。
ヴァネシオスは、拳を構えて殴りかかる。
「パァバトォォオッ!!!」
「ぶっひゅ、オカマぁ……! 僕朕との格付けはもう済んでるんだから、下がってろよぉ」
にちゃり、とパバトの肥えた舌が唇を舐めた。
巨漢に似合わぬ軽やかなステップ。
ヴァネシオスの右正拳を軽く躱したパバトは、硬く握った拳をヴァネシオスの鳩尾に叩き込む。
「ぐォっ!」
「前にも言ったけどさぁ、色気の無い叫び声は嫌いなんだよ、僕朕は。聞くに堪えなくてねえ」
膝を付いたヴァネシオス。そして膝。ヴァネシオスの顔面にパバトのみっちりと詰まったハムのような膝が叩き込まれた。
「ッ……のお!」
鼻血を流しながらもヴァネシオスは立ち上がろうとするがパバトは振り返りもしない。
パバトは、横たわったヴィオレッタを見てから目を細く光らせた。
血色が、戻っている。
それは。ということは。
パバトは──いつになく声が低くなった。
「僕朕が作り出したこの毒の解毒を。……成功させた、と」
「……ええ。成功したわよ。……自称、世界一の毒使いさん」
険しい顔だった。今まで戦闘中にすら見たこと無い程の、怒りとも失望とも違う顔。
「ぬっ……ッ! ぬっ!! 僕朕、意外に、解毒、なんか出来る訳がッ」
「──案外、……素直に解ける毒だったわ。雑魚毒、ね」
「ざッ、雑魚、毒ッ! 僕朕のッ! こ、こ、この雑魚ォ!!」
「……そうね、アタシは雑魚よ。もう指も動かせないもの。でも忘れないでね。
そんな雑魚に解毒が出来る程度の毒だったのよ、アンタの毒は」
「な、ッん! そんなのはッ!」
ヴィオレッタの前に移動はしたが、それ以上は動けないハッチだが、口は動く。
だったら。それなら。
「何度でも言うわ。……アタシを殺した所で事実は変わらない。あんたの毒は解毒出来る程度の毒よ」
「だ、黙れッ! 雑魚、雑魚ッ! 雑魚の分際で!!」
「口喧嘩、貧弱、ご愁傷様」
「ッ!!」
顔面を真っ赤にしたパバトは握った拳を振り上げた。
直後だった。
パバトの身体が水平に──真後ろに吹っ飛んだのだ。
その吹っ飛びには馬車の上のハッチもヴァネシオスも目を見開いて驚いた。
何が起こっているのか分からなかった。
いや、厳密には──吹っ飛ばされているパバトだけが現状を理解しつつあった。
(なん、だ。体が、誰かに掴まれて!? まるで、透明な人間に──透明? あ、ああ!!)
「い、いたなぁああ! 透明人間ッ!! お前は確かッ!!」
「ヴァネシオス殿! ハッチ殿!! 先に! 進んでくだされ!!」
「ヘイなんとかッ!!」
──泥水の上にパバトは背中から落ちた。
そして、その手前。泥水の中に足跡が出来る。
「パバト殿、いや、パバトと呼び捨てにしましょうか。お久しゅうございますな。
某をお忘れのようならご挨拶をしておきましょう。
魔王守護四翼が一対。『王護』、赤翼神ギルファ。その副官──ヘイズ・ヒーディアン。
貴公の命を貰いに参上し申した」
「っ痛ぅ……ああ、その古風語。思い出した、ヘイズ。ヘイズ。
すっかり忘れてたんだけどなあ。ぶひゅひゅ、僕朕、ロリ以外に全く興味が無いから、さ!」
──泥を蹴り上げるパバト。
(透明化の術技は触れてる物は汚れも消える。だから、投げ付けられた泥の消え方でどこにいるか分かる)
居場所を一瞬で発見し、パバトは拳を叩き出す。
だが拳は──柔らかい何かを殴っただけだった。
「それは某の衣服を脱ぎ棄てただけであります故」
パバトの背に穴が開く。
まるで透明なプラスチックが、徐々に色づくように、ナイフがそこに浮かび上がる。
「痛いなあ……ぶひゅひゅ。
刺された痛みで、僕朕はもう、涙が止まらなくなっちゃいそうだよお」
ナイフが震え出した──そして、シャンパンのコルクのようにナイフが弾け飛ぶ。続けて膿のように鮮明桃色の液体が噴き出した。
「──確か、肉体を常に泥のように流動化させる術技でしたな。刃物では刃が立たないと」
「ぶひゅひゅ。そうさ。なんなら打撃も無意味だしねえ。
痛くはないけど不快なんだよねええ。ほら、僕朕はさす専門なんだよお、ロリっ子にねええ!!」
空を切った拳。それは確実に何かを捉えた。
透明化が消えた。そこには男が立っている。パバトの拳を受け止めている男。
赤髪で、東方異字の『目』の模様が描かれている布で目を覆った細い男。ヘイズ。
両腕に手甲を巻き、そのパバトの拳を防いでいた。
「っ!! 他者の性的嗜好を咎めるような狭量なことはありませぬが、昔よりお前の行動の全ては邪悪だった。同じ四翼の軍に所属していた某が誅するッ!」
「ぶひゅひゅ……面白いこというなあ。ただの副官風情が、ええ? 対等に。
対等になった、つもりかあ!? この僕朕と! ええ!?
弾け跳べッ! 禁欲粉砕の毒拳法ッ!!」
パバトは、毒の魔法と自身の肉体を泥に変える術技の二つを組み合わせて使う。
自身の身体を泥にし、その泥を毒に変換して戦う。
殴った時に拳を溶かして毒を注入。それが基本戦術だ。
だから、パバトは今、自身の腕を液状化させ毒を放った──つもりだった。
だが、腕は腕のままだ。
肉体が泥に変わらない。
はらり、と──東方異字の『目』の模様が描かれている布が落ちた。
「──赤守の一族が、何故、目に覆いをしているか。知りませんでしたかな?
ギルファ殿も日除け黒眼鏡を付けておりましたでしょう」
「……僕朕に何した?」
「赤守の一族は、生まれながらに目に魔法を宿して生まれるのでございますよ。
浄眼──他者の術技の発動を無効化する瞳にございまする」
「……へえ。すっごい思春期感。僕朕じゃなきゃ鳥肌マックスで震えちゃうねえ」
「なんとでも罵るがよい。結果、お前の術技を封じ、詠唱魔法は某の魔法で消せる。
もう戦う手立ては──」
「背中を刺した時、何故、浄眼とかいうのを使わなかったのか。
それを考えるとすぐに破綻が見つけられる」
パバトは満面に笑む。ぶひゅう、とグロテスクな笑顔を咲かせた。
ヘイズは戦慄した。その顔への不快感もあったが、それだけじゃない。
「僕朕の目を見なければ発動しないタイプの魔法かつ、持続しないと見たよお。
じゃなきゃ説明しないもんねえ。僕朕に、術技使うのは無駄だって思わせないといけない訳だからさあ。ぶひゅひゅ、合ってるかなあ」
「ッ! 大口を開けた溶穴、無数に降り注げ──」
「ぶひゅー! 懐かしい魔法だぁ! あれだよね! 地面に穴を開けて上と下から炎がどがーんってなる。
たしか魔法の名前はそう──」
「「憤怒の鉱炉!!」 ──ぶひゅひゅ、返却」
真っ赤な光が飛び散った、──と思った直後には、線香花火がしぼむように火は地面に落ちていた。
(魔法崩壊現象ッ! 『対逆』という奴だっ! くっ、一瞬で対逆を見つけ出すなどとっ!
しかし、まだ使っていない魔法はいくらでもある! まだ──)
「あー、もしかして、まだ戦える、とか思っちゃってないよね??」
ぐにゃり、とヘイズの視界が歪んだ。
明らかに、毒だ。
(毒ッ……し、かし、警戒していた。魔法を使う暇など──)
パバトは呆れたように笑って足元を指差す。
同時に、その指差した左手が、泥となって溶けた。
──ヘイズは気付かされた。
泥だ。
ヘイズの足を掴んだような泥の後が、そこにあった。
「いつ、の間にッ! ず、っと、今も、まだ、術技は、消して……」
「いつの間に? まだ気付けないのかあ、鈍重だなぁぶひゅひゅ。
──馬車から降りたあの瞬間だよお。僕朕の攻撃は、その瞬間に終わっていたんだよお」
「そん、な」
ヘイズは頭を押さえながら一歩仰け反る。片膝を付き、パバトを睨むように見据える。
パバトはハムのような腕に収まった時計を見ながらヘイズの目の前にまで歩いて来た。
「あー、ヘイズ。ぶひゅひゅ。
戦士として戦った感想だけ伝えとこうかな。いやあ、立派だったねえ、流石、赤翼のとこの副官だぁ
本当に本当に」
「っ」
「本当に、──無駄な時間だった」
顔面に掌底一発。破裂音に近い打撃音が響いた。
耳からも血が噴き出る程に激しく打たれ、ヘイズは白目を剥いた。
「ぶひゅひゅぅう~! 僕朕は早くレッタたんをぶち■■タイム突入待ちなんだからさああ!
本当に邪魔しないで欲しかったよおお! クソがあ!」
ヘイズの髪を掴み、引き摺って──そのまま手頃な瓦礫にヘイズの頭を打ち付けた。
「昔から、お前嫌いだったんだよ! ギルファの腰ぎんちゃくで、ムカついてたんだよ!
正しそうなことを言う! 学級委員長か、お前はよお!」
何度も何度も打ちつけて、赤い線が瓦礫に描かれてから、ヘイズを投げ捨てる。
「死んでろよ、洗脳されて大切な記憶も無かったんだってね、クソモブ男くん。ぶひゅひゅ~~!
惨めな人生でございましたなぁ~ってね~!」
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次回更新日は 8月3日 を予定しております。
よろしくお願いいたします。




