【25】Float like a bee , sting like a bee【27】
プチプチという音がした。細かい泡が弾けるような、炭酸が跳ねるような音だ。
それが皮膚が焼け爛れていく音だ。
それが──ハッチが意識を取り戻した時に聞こえた音だった。
絶叫しそうだった。ただ間一髪、食い縛ったのは彼女の負けん気だった。
片目しか見えない。左目の視界で、左手で右腕を抑える。
どれくらい意識を手放していたか。
数秒。いや、数十秒……もっとかもしれない。
少なくとも、パバトが毒液を撒き散らし飽きて、薬品机に向き直っている。
もうハッチに興味を持ってはいない。
今はもうただ解毒毒を調合することに全ての神経を注ぎ込んでいた。
(──あたしが、起きてること……気付いてない。痛……)
痛みで唇を噛んだ。痛いのは右目だ。
不意に、自分の身体を蝕んでいた意識が飛ぶ程の激痛が無いことに気付く。
冷静に自身を分析し──ただ麻痺しているだけ、と理解した。
まるで麻痺。毛穴全てが針に刺されるようなチクチクとした痺れ。
右腕がそんな感覚に焼かれていた。指を動かすことも出来ない。
唇を、血が出る程に噛んだ。
見えない右目から、涙を流す。顔をぐしゃぐしゃに。音を立てないように這いずった。
(オスちゃんを……ヘイズさんを、呼ばなきゃ。あたしじゃ……あたしじゃ、何も、出来ない)
たった一撃。パバトの毒液を飛ばす技で全てを察した。
銃を抜くよりも早い拳。いや、それは銃弾が放てたとしても防ぐか、躱されると予感させていた。
(あたしじゃ……。あたしじゃ、勝てない。助けられない)
(あたしは……ナメクジのように地面を這いずりながら、出口へ向かうことしか出来ない。
逃げたくない、とか言ってたけど、そうじゃない。
あたしは、逃げるしか出来ないんだ)
物音がした。
ハッチはビクッと背筋を伸ばしたが振り返ることもしない。
(お願い。神様、お願い。お願いします。こっちに気付かないで)
祈り、念じ──怯えながら。
ただ逃げていた。
(お願い。扉……扉)
扉の前まで来て。
自身の目の前に、黒い影が落ちたことに気付いた。
さっきまであった光源は、背後にある。
つまり。
ハッチの背後に大きな誰かが、立っている。
誰か、ではなく──巨漢の男、パバト・グッピが、立っている。
ハッチは振り返った。
唾液、涎、涙、鼻水、汗、血──ぐちゃぐちゃに混ざり合った顔で。絶望に震えながら。
パバトは眼鏡を掛けなおしていた。
暗く反射した眼鏡に表情は見えない。
ただ。
この先の展開は、ハッチは分かり切っていた。
虫のように。
踏むか、叩くか、毒薬で。
殺され──
『かちゃっ』
ハッチの横顔に、外の光が当たった。
何が起きたのか、ハッチは理解が出来なかった。
その目で見えていることが、正常に理解できない。
パバトが、扉を開けていた。
どうして扉を開けたのか。
開きっぱなしにして、ハッチを一度見てから、「 」小さく呟いて、パバトは戻っていく。
これはまるで。
ハッチが、外に這ってでも出られるように開けた。
誰がどう見ても、そういう行動。そういう真実だ。
ハッチの思考が、止まっていた。
なんで、外への扉を開けた。
どうして、見逃した。
ともかく。
逃げ道が出来た。
そう、逃げ道が。
『まず、虫一匹潰すのに3秒も掛からない。だけどね、その3秒が今は惜しい。』
あたしは、虫。いや、虫以下だと。
殺す、3秒も……手間だと。
『虫が暴れて僕朕の薬品を台無しにしたらと思うと恐ろしい』
薬品に混ざったら、汚れる。その程度の存在だから。
なら、見逃した方がいい。なんなら扉に汚れが付着するのも嫌だ。と。
そして。
今、最後に見た──パバトの目は。
死にかけの──汚い虫を見るような目。
逃げるなら、勝手にしていい。
殺す必要も無い。
どうせ何もできない。
お前は大切な人を助けることもどうせ出来ないだろうから。
そんな。
侮蔑した目だ。
そうだ。その時、あたしに。あいつは──。「 」。
……ざけんな。
指が。千切れるくらいに地面を掴んだ。
噛みしめすぎて、八重歯が砕けた。
目を見開き過ぎて、毒濡れた右目が血の涙を流した。
腹の底からマグマが沸く。心臓が熱く、吐き気と怒りで眩暈がする。
怒り。そう。怒りだ。
なんで。こんな惨めな思いをしなきゃいけない。
ナメクジみたいに地面を這わされて、神様お願いなんて子供みたいに縋り付かされた。
ざけんな。
それに。あいつ、なんて言った。
あんな奴に──。
血管が、はち切れた。
心臓も、肺も、内臓も、ありとあらゆるものが跳ね上がったようだった。
耳元には【羽音がした】。体も熱い。熱すぎて、【毒を受けたことも忘れたように】。
あんな、奴にあたしは。
あいつは、言った──超、小声で。「気持ち悪い」って。
気持ち悪い、って言われたのか。
お前……お前、それ……。それ。それは。
「…… ……えよ……」
ハッチは、壁に手を当てた。
壁に力を入れて、支えながら立ち上がる。
足はふらつく。だが、【もう毒は中和状態だ】。
机のパバトがぴくっと耳を動かした。
「僕朕、見逃してあげたつもりなんだけど。なんか言ったか、虫ぃ?」
「言った……あんた」
「うん?」
「鏡見てから言えよッ! お前の方が、気持ち悪いだろッ! この」
ハッチの声が劈くように響いた。
パバトは笑う。笑いながら──ようやく気付いた。
その声が、既に自身の真後ろにあったことに。
ナメすぎていた。
死にかけの虫だと、侮蔑し過ぎていた。
まさか。
振り返ったパバトが目を見開く。
慌てた。拳を構えるより早く。
「少女趣味の拉致監禁クソ変質者ッ!!」
ハッチの警告色の拳が突き刺さる。文字通り、突き刺さった。
そう。拳についている針が突き刺さった。
「ごっ!? こ、れッ、は!?」
「注射ッ!!」
パバトが机に背中からぶつかる。
そして、殴られた腹から──血が噴き出す。
そのことよりも、パバトは目の前のハッチの──異変に顔を歪ませた。
額から伸びた、二つの触覚。
四枚の薄い翅は、二等辺三角形にしっかりと伸びている。
動かなくなったはずの細い腕は、まるで蜂の腹部のような警告色の甲殻に覆われている。
「……ぶっひゅ。ぬかったなぁ。それは」
「【帝蜂】」
「術技か。ぶひゅひゅ。隠していた。いや──今、身に付けたか?」
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すみません。書き忘れてしまっていました。
次回は5/24に更新させていただきます。
よろしくお願いします。
2025/05/22 23:32 暁輝




