【25】そうだろう、シャル丸殿!【22】
◆ ◆ ◆
まだ、僕が10歳にもならない頃。
もう四十年も昔のことだけども、僕はありありとその日のことを覚えている。
王都尋常学校──今じゃあ、初等学校というのか?
そこで、教師をしていた男は当時珍しくない軍属だった。
片足を爆撃で無くした退役軍人で、その日だけは遅刻してきたのだ。
珍しく、いや、初めて遅刻してきたその教師は、鳥籠のような鉄の容器を持ってきた。
そして、その日の授業が始まった。
子犬程に大きな蛙の魔物の──解剖だったんですよ。
仰向けにした蛙の魔物。手足は力なく伸びていた。
当時の麻酔は今と違ってね、臭いが酷かったんだよ。
何の薬品の臭いなのかは分からないけどね、焼いたばかりの生ゴムの臭いとでもいうべき悪臭が、鼻にへばりつくへばりつく。鼻で止まればいいのだけど、喉の奥まで入ったら、隣の坊主頭みたいに嗚咽しながら吐いてしまうね。
流石に、当時の僕は気持ち悪かった。
だけど、すぐに……くく。すぐに、変わった。気持ちが。
手腕が鮮やかだった。躊躇いなく薄い皮膚に鋏を入れて、じょきん、と軽い音一つで真っ直ぐに斬られた皮。
そこから腰に沿って切り上げて、皮膚を切除してね──光沢のある白い筋膜に薄い青筋……。
感動した。
僕はね。生まれたばかりの真珠だ、とその時の筋膜を見て思ったんだ。
日記に書いた。それに今でも解剖する時に皆に言う。生まれたばかりの真珠の筋膜の美しさを。
感動を。
ただ、感動はまだ続いたんだ。
鉗子──いや、当時はそんな医療用のものじゃなくて、もっと雑な、プラモデルでも作るようなピンセットだったね。
ピンセットで筋膜を掴んで、つぅ、っとメスを入れる。
切り開いていくとね。あっという間に出てくるんだ。
その艶に、宝石かと思った。
そしてね。先生は順序良く解体していくんです。
黒曜石をペーストにしたような肝臓。艶めかしい胃、ミミズのように鮮やかな腸。
リスの脳味噌のような赤い肺。
そして、最後に。
その中に隠れるように、赤みが掛かったブルーベリー色した心臓があるんですよ。
青黒い、深い海のような、心臓。
それを切除すると、まだ動いているんです。
上にある心房が動くと、下方の寝室が収縮して、ああ、生きようとしていたのだと。
心臓は切り離してからも意外と動き続けるんですよ。
とくん、とくん、て。
僕はね。
授業も聞いていたけど、とにかくその心臓が動くのが好きで好きで、たまらなかったんですよ。
切り離した筈の心臓が、まだ動いている。
目の摘出をしている最中も、まだまだ、まだ、動いていてね。
惹き付けられた。理由無く。
心臓が止まるまで、僕は見ていたんだ。
いや、無理に理由は付けられる。
不思議な現象に興味を惹かれて、知的好奇心から引きつけられた、と言えるかもしれない。
そう、それ以来、大好きなんだ。
その肉体の中にどんな宝石が隠されているのか。
どういう仕組みなのか。
臓器がどうやって動くのか。
どこまで生きてられるのか。
魔物の解剖は、特にそう。
どこまでが限界か、最後はどうなるのか。
その心臓が止まる直前の、最後の痙攣するような動きをね。
見たくて仕方が無くてね。それで。
◆ ◆ ◆
「つい人間も殺してしまったから、捕まったんだ。……くく、魔物だけにしておけばよかったんだけどね。さて」
モーヴェン・マルヴァジータ。
老いた竜のように細長い顔の初老の男性は、口を手で隠しながら引き笑いした。
「少年。──鬼ごっこはこれで終わりでいいのかい? くく」
紳士然としているが、その本性は。
「お前は……下衆野郎なのだ……モーヴェン……」
──そう言葉を絞り出したのは、金髪の丸メガネの少年、ラニアンだ。
ラニアンは、足を抑えてしゃがんでいた。
モーヴェンの目の前、岩に背中を預けてしゃがんでいる。
(足の……力が入らないのだ。これは、モーヴェンの術技、なのだろう)
ラニアンに痛みはなかった。だが、モーヴェンに斬りつけられた左足に力が入らない。
(毒、とは思えない……だから、きっと行動を制限する系の術技のようなのだ……)
ラニアンが唇を噛んだ時、モーヴェンは、くくっと乾いた笑いを吐き出した。
「下衆野郎だってえ? おいおい。言葉には気を付けろお? くく。まったく、下品だね」
「お前の方こそ品性が下劣なのだ……っ」
ラニアンは声を凄ませるが、モーヴェンはただ笑うだけだった。
「まぁいいさ。さ。少年。またやってくれよ、あの面白いぬいぐるみ化をしてくれよ」
モーヴェンは両手を広げて笑う。
(そうなのだ。余方がさっきまで追われていたのは……)
「珍妙な術技だ! ぬいぐるみになって動き回れる?? くくくっ! 凄い!
そのぬいぐるみ化している時の身体はどうなっているのか、中身は、内臓は、神経は骨は!
どう繋がっているのか、興味がある! 今までに聞いたことが無いからなあ! ぬいぐるみ化なんて!」
(奴の悪趣味が原因……いや、悪趣味のおかげで、どうにか殺されていない、というべきか。
シャル丸殿……無事ならいいが)
──ラニアンは、モーヴェンたちの後を尾行ていた。
会話から、シャル丸が捕獲されそうという状況を理解したが為に、足止めのつもりでモーヴェンに挑んだのだ。
実際、足止めは大成功と言える。
モーヴェンはシャル丸より目先の希少な術技──ラニアンに食いついていた。
「今日はいい日だな! こんな希少術技に出会えるなんてなあ!
後はシャルヴェイスをセンドくんが運んで来てくれれば、くく。どっちから研究すべきかなあ」
モーヴェンの歌うような言葉に──ラニアンは不敵に笑った。
「なにを笑っている?」
「……もう、30分以上も経ったのだ」
「んぁ?」
「子猫一匹、捕まえるのには長いとは思わないのだろうか?」
「──……な」
「話を聞けば、追跡が得意な者なのであろう。それがもうこんな時間にまで戻らないとは」
「っ、魔物の、それも幼生にセンドがやられる訳が無い……ッ!」
「本当にそうであろうか?」
「当たり前だ」
「……なら、そうだろう。だが、事実は受け止めてもらわねばならない。──そうだろう、シャル丸殿!」
「なっ!!」
モーヴェンは振り返った。腕程に長い鋏を構えてすぐに背後を斬りつける。
風の音だけ流れた。──来ない。いや回避した。
いいや、違う。
モーヴェンは奥歯を噛んだ。
そして、ラニアンが先ほどまで居た場所を、まるで部屋の中に張った蜘蛛の巣でも見るかのように睨む。
「っとに、口は達者のようだな。まんまと騙されたよ……」
ラニアン王子の渾身のブラフ。
シャル丸は助けになど来ていない。
振り返った隙に、ラニアンは脱兎の如く逃げたのである。
「それに大した逃げ足だあ。っとになぁ」
モーヴェンは首を、手にした鋏で掻いてから首をぽきぽき鳴らした。
「次は、かくれんぼかい。まったく、時間もあまりないのだがね」
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今話の描写は露骨にグロテスクな為、朝投稿ではなく夕方投稿とさせて頂きました。
申し訳ございません。
次回は5月14日に更新させていただきます!




