【23】プルメイ・ルシール・ルーウェン【18】
◆ ◆ ◆
覚えているのは、頬の痛み。
真っ白な雪の中で泣いている私。
一番古い記憶が、これ。
『私を産んだ人』と『その人と暮らす男の人』は、私をよく殴る。
肌が褐色だから、らしい。
その後、思い返して分かったのは、父も母も姉も、肌が白いこと。
私は母の浮気の果てに産まれた子で、それが切っ掛けらしい。
本来は父母と呼ぶ相手は、ただ暴力を振るう装置。
秒針が短針と連動して動くように、姉も真似て暴力を振るう。
まだ三歳か四歳くらいだった。
この頃に喉が壊れて、声が上手く出せなくなった。
よく雪が降る土地だった。
だから、泣き止まないからと外に投げ捨てられた時、雪の上に転がるのはいつものことだった。
けど、それで一つ賢くなった。殴られた痛みは雪で冷やすと、痛くなくなるのだ。
焼けるように痛い所に当てて、すぅっと痛みが引いていく。
雪は薬だ。そう思っていた。実際は皮膚を麻痺させていただけみたいだけど。
だけど。ともかく、私は雪が好きだ。
しんしんと降りしきる雪の中。真っ黒な闇の向こうで、私を見ている目があった。
白い目だった。綺麗で、透明で、光っていた。
恐ろしいとは思わなかった。ただ、綺麗だなぁ、と思った。
それは、竜だった。
細くて長い四つ足、蝙蝠のような美しく広い羽。
大きさは大型犬くらい。光るような竜鱗は降り始めたばかりの雪のような銀。
銀色の竜。
竜は、私に近づいた。
私は竜が私を食べる気だと思った。でも怖いと思わなかった。
こんな綺麗な物に食べられて、綺麗な物の一部になれるなら嬉しいとも思った。
でも竜は何もしなかった。
何もしないどころか、私を見て動かなくなった。
ちょっと雪が積もったから、雪を払って触れてみたけど、くすぐったそうにするだけだった。
竜は、私の頬の傷を見た。
竜はまるで犬か猫みたいに、その額を私の頬に押し付ける。
冷たい。気持ちいな……そう思っていたら、──痛みがぱっと無くなった。
びっくりした。だけど嬉しくて、私はお礼を伝えたんだと思う。
がらがら声、酷く聞き取れない私の声で。
そしたら、竜は犬みたいに自分の首を掻き始めた。
長い爪で、しゃりんしゃりんと鈴みたいな音がした。すると銀の鱗が数枚、その場に散らばった。
なんだろう? と手で持った時、手の甲にぺったりとそれが張り付いた。嫌な気持ちは無かった。寧ろ冷たくて気持ちよかった。
そしたら、竜は、ぴょんと兎みたいに跳びあがって、屋根を伝ってどこかへ行った。
なんだったんだろう。でも綺麗な竜だった。
そう思った翌日。私は村長に手を引かれて歩いていた。
この村は、古い村で山の中にある。
南方地域の、王国と獣国を分かつあの巨大な連山の近く。一応、人族の村だ。
この村は、古い村。しきたりに縛られた、古い村だ。
凶事があると、選ばれた子供を生贄にする。
山に居る『人食い様』が選んだ子供が、お前で良かった──村長はそう言った。
村でも浮いていたんだろう。それに対しては何も思わなかった。
山奥の石の上に置き去りにされて、また雪が降り始めた。
生贄は、『人食い様』がくるまでここを動くな。そう言われたから、私はそうしていた。
同時に、私は幼いながらちゃんと脈絡を理解していた。
雪の闇の向こうから、雪を踏んで、現れる。
ただ、今度は黒い目だった。獣の息がした。
でも──やっぱり怖くなかった。壊れていた訳じゃなく、その声は優しく聞こえた。
黒い目。黒茶の毛皮。当時の私の、十倍も大きい体躯。
熊だ。
狂暴と見えるだろう。唸ってもいるから。
ただ、それなのに。私には愛らしく見えた。
食い殺されてもいい。だから、手を伸ばした。
すると……熊は、唸るのを止めた。
今思えばその真顔は『なるほど』という顔だ。
そして、その熊は私をひょいと持ち上げて、雪の山中を走り抜ける。
連れてこられたのは──山の麓。
岩で出来た祠のような場所だった。
そこに、白い竜が居た。
そして、隣に黒い熊が座る。
気付けば簡単。あの白い竜とこの黒い熊は、つがい。
夫婦なのだ。種族も違うし、どちらも雌だけど。
二人は間違いなく夫婦だった。
これが、私。プルメイの両親。
ルシールという白い竜と、ルーウェンという黒い熊。
二人が、私のお母さんたち。
それから、その白い竜の隣にいる、小さな竜。
彼女は私の新しい姉。カノン。
……あ。自己紹介をされた訳じゃないよ。
その名前は、人らにそう呼ばれていたから、そう私も呼ぶことにしただけ。
本当の名前は分からないけど、綺麗な名前だからそれでいいと思っているし、竜熊もそれでいいって言うと思う。
名前は姿を作らない。けど、誰かに呼ばれた時に姿になるものだから。
私の名前も、母たちが付けた名前じゃないもの。
でも、満足してる。誰が付けた名前かは、そのうちね。
ともかく私は、竜の母と熊の母たちに育てられた。
会話は何も通じなかった。けど、不思議だけど、言葉が無くてもなんでも通じた。
魔法は竜の母、ルシールから教わった。風も土も、水も氷も、無数の技を教えてくれた。
狩りは熊の母、ルーウェンから教わった。アッパーカットにボディーブロー、実践的な技だった。
遊びは竜の姉、カノンから教わった。だから私は積木抜きは無敵だ。
幸せな日常だった。
けど。幸せは突如として崩れた。
見たことの無い、白い男が現れた。
髪も白く、瞳も白い。肌も雪のように白く、爪も白く塗り、身に付ける衣服も白衣。よく磨かれた靴も白く──その背の羽もまた白い。
魔族四翼神──つまり、魔王の腹心、魔族最高戦力の一人の『白羽』だと、知るのはもっと先。
姉は、なんとか私の腕の中で守れた。
でも。
両親は、殺された。
殺されて、その心臓をくりぬかれた。
そして、私も──きっと死んでいる。いや、死ぬ途中。
意識は僅かに残ってた。でも、心臓が外に飛び出して潰されていた。
それでも、その光景はよく覚えている。
両親の身体からは大量の赤い血が流れていた。にもかかわらず、心臓からは、何故か別の色の血が流れていた。
竜の母の心臓からは、銀色の血が。
熊の母の心臓からは、金色の血が。
その白羽は、脈打つ心臓を両手に乗せて、歪んだ笑顔を浮かべていた。
満足したように、白羽はその場から消える。
それが居なくなった後──意識を手放す寸前の私の前に、二人の母が身を引きずって来たのを覚えている。
触れたいと思ったのに触れられず、瞳を閉ざすその時に。
私の唇に、雪のように冷たい物が──銀と金の血液が、触れていた。
そして、これも、完全にその後に知った。
聖竜と神熊の銀血と金血──二つを混ぜ合わせて生まれる『呪術法』がある、ということを。
これは……呪術にも詳しかったナズクルが教えてくれた。
◆ ◆ ◆
「よし、予定とは違うが……! 一人始末した!」
獣人はにたりと笑った。
ルキの前で──プルメイが倒れている。
心臓を一突き。──即死だ。
真っ赤な血を、夥しいと意外表現できない程に撒き散らして。
「《雷の翼》の一員と聞いていたが、意外と脆いんだな。
よかったよ、非戦闘員だったのか。まぁどうでもいい!」
ルキは唇を噛む。顔にも舞った血を拭うことも無く、ルキは拳を握る。
「はっ! 賢者よ。怒っているか? だが、安心しろ。お前もじきにその仲間の所に送ってやるさ!」
ぎろりと、ルキは獣人を睨む。
「……お前──」
「あん?」
「──本当にボクらのことを、何一つ知らないんだな」
「何? どういう──」
そこまで喋って獣人は違和感を覚えた。ルキの顔に変化があった。
──顔を拭う動作はなかった。にもかかわらず。
ルキの顔に付いた返り血が無くなっていた。
それどころか。
部屋に飛び散っていた赤い血が──何一つ無い。
「【余命九十九年】」
獣人は、その声に──視界が歪んだ。
そこに立っているのは。心臓が貫かれた筈の少女。
床の血が、僅かな肉片さえも、全て彼女の身体に這って戻っている。
「寿命。決まった日。その日が、来るまで。私。死な、ない」
そして、獣人の肩に──少女の手があった。
「ひ、っ、な!?」
「100歳。の、誕生日の、前日。まで、私。何が、あっても、『死、無い』」
「は、離せッ!」
手を振り払おうとするが、獣人の肩を掴む手は離れない。
みしりと骨を掴む手は、まるで熊の如く握力。
「けど。ちょっと、痛い。痛いの、おこ。激おこ。だから」
旋風の如く。
まったりとした少女と思えない程の素早い拳の引き、そして、体の捻り。
「っ!」
「『母熊の爆発拳』」
骨をも粉砕するアッパーカットが叩き込まれた。
獣人は頭を天井に突っ込んでぶらんと手足を垂れ下げている。
「安心。する──峰内、だ。どやぁ」
「それはツッコミ待ちかい??」
「え?」
「まぁいい……。それより、プルメイ、大丈夫かい?」
「ん。平気。ちょっと、痛いの。嫌だけど」
「そうか。それにしても、凄い技だ……。だが、その、昔から疑問に思っていたのだが」
「何?」
「熊って、アッパーみたいな動きはしないと思うんだが」
「!? そ。そんな、筈。無い。ルーウェン、教えて、くれた、もん!!」




