【23】めぎゃっん【02】
◆ ◆ ◆
「スタート」という合図と同時に──試合が始まる。
そして、ジンは痛感した。この試合は腕力だけではなく、瞬発力を重視する競技だということを──再確認した。
(《雷の翼》でも、俺は──絶対に1位2位だったんだ、がっ)
2人しかいない厨房──ことことと鳴る鍋と、ごうごう燃える竈。
めぎゃっん。というあまり聞いたことの無い音と同時に、机代わりにした樽が石畳に数センチ沈み込んだ。
「──やりますね、ジンさん」
「っ、それはっ……お母さんの方、じゃ、ないですかねっ……!」
「私は一撃で決めに行ったのです。まさか、持ちこたえるとは」
「光栄、で、す」
ジン VS ツユ
腕相撲
(いや、なんで腕相撲!? ってツッコミなら、数分前にしたからなッ!)
お互いの肘が、樽に少しずつ沈み込んでいき──樽の縁を止める鉄の金具が耐え切れず弾け飛んだ。
ジンは押されていた。彼の手の甲は、後2センチで台面に付く──ギリギリの所に押し込まれていた。
──腕相撲の発端はお昼ご飯の後。
ジンが食器を洗うと買って出た。
料理は御馳走になりっぱなしだし、ハルルの母であるツユさんと話したいこともあったのでそういう運びになったのだ。
ココ家は宿を兼ねているので厨房は大きい。
その上、宿の運営の都合があるのか、扉を閉めることで密室に出来る空間だ。
その大きな厨房で、ハルルよりも背の低いツユはせっせと動き回り料理を準備していた。だが、ジンが食器を運んでくると手を止める。
食器洗いをするとジンが告げると、ツユは頷いた。
それから他の人が来ないことを確認すると──ツユは扉を閉める。
『──ツユさん。話したいことがありまして』
『ええ、分かっております』
『……俺は』
『ジンさん。貴方は私の秘密を知りましたね』
『え?』
『私が、格闘技術を持っていると、貴方は知ってしまいましたね』
『え、ええ。そう、ですが』
──当然ながらジンが話したかったことは、そんなことではない。
彼女の娘──ハルルとの関係性と今後のことをしっかりと話そうとしたのだ。だが。
『──こうなったら、冒険者式の解決法しかありませんね』
『え? ええ??』
ツユは近くにあった空樽を引っ張り出し石畳の上に置いた。
『腕相撲を致しましょう』
『なんで腕相撲!?』
『……』
『──でしょうか』 取って付けた敬語をぶち込み、ジンはすぅと息を整えた。
『──好きだから? です。腕相撲?』
何で疑問形!? といつものジンならツッコミを入れただろうが、今日に限っては『そうですか』と頷いた。
『私が勝ったら、元格闘家であることは生涯口外しないと約束して頂きます。この勝負に誓って』
『え、っと。そんなことをしなくても』
『貴方が勝ったらハルルと付き合うことを認めましょう』
『!』 ──まさにそういう話をしようとしていた先である。
『口下手な私の、余興と思って付き合ってください』
確かに、ツユは感情が見え難い。
人見知りの性質もあるのだろう──真顔に近いツユに、とりあえずジンは同意する。
お互いが肘を立て、相手の右手と右手を握りしっかりと組み合う。
腕相撲──どの時代、どの酒場でも行われる力自慢たちの遊びである。
正直に言って、ジンは油断と慢心をしていた。
幾ら相手が元格闘家の冒険者であっても、最強の勇者という称号を持っていたのは伊達ではない。
武器無しの純粋な腕力の勝負で負けることはない上──恋人のお母さんから誘われた遊びであるという認識のままだった。
『開始の合図ですが、私が貰っても? ハンデとして、です』
『あ、はい。いいでs『スタート』
──奇襲。一瞬で樽が地面に沈み込み、ジンはこれが本気の腕相撲だと気付かされる。
ジンの腕から『めぎゃっん』というあまり聞いたことの無い音がした。
反則スレスレのスタート合図。それに合わせた瞬発力ある腕の抑え込み。
(奇襲ッ! つか、なッんッ、でッここまで本気!?)
間一髪だった。腕力では負けている筈がない彼だが、瞬発力と奇策で一気に追い込まれていた。
後もう僅か数センチで樽の台面に手の甲が付く。震えながらも、寸前でジンは耐えていた。
腕の筋肉も、樽も、地面までもがキリキリと音を立てている。
(この力加減ッ、本気で俺の腕を潰しに来てるッ!)
ツユは顔色一つも変えずに、握ったジンの手に対して、手首を乗せるように力を掛ける。
(! 噛み手かッ!)
ジンは額に汗を一筋浮かべながら腕の力を更に入れる。
だが、抑えつけられるように、腕が上がらない。
(相手の手首に手首を乗せッ! 深く巻き込む腕相撲の攻撃技法の一つ……ッ!
これは、考えられた攻撃だ……! ツユさんは俺より腕が短い……ッ!
となると肘の角度は俺より閉じた状態……! この技はッ!
確実に格上の腕力を持つ相手を殺しに掛かる技……ッ!!)
骨と筋肉が軋むような音が立ち始めた。
樽の縁を止める鉄の金具──残っていた部分が弾丸の如く弾け飛んだ。
石畳も軋む。筋肉の中から何かはち切れた音もする。腕力同士がぶつかり合い周囲の壁まで微振動を始めた。
(ヤバイ……ッ! 腕相撲っていう勝負の本質は、『いかに相手が実力を発揮出せないようにするか』っていう勝負だ……ッ! これは、まさに今──ッ!)
盛り返そうにも盛り返せない──! ジンの肘は更に樽へ沈む。
気付けばツユとジンの互いの足元──石畳が完全に捲れあがって割れていた。
「おかあ、さん……っ! ちょっと、一つッ」
「待ったと、術技は──無し」
「ッ」
(ガチのガチか──ッ! く、腕相撲、好きって、言ってたもんなッ!)
──それは照れ隠しだろうが、ジンは割と根が真面目だ。それ故に真に受けていた。
(全力……ッ! せっかく、お母さんが、俺と楽しむために腕相撲しようって……ッ!!
言ってくれたッ! なら、本気を──ッ!!
腕が。いや、この右腕の筋肉が全部断裂してもいい。……だから──!!)
ジンは肩を入れ、そして腕に更に力を込める。
腕相撲という勝負、力量差があれば覆せるが──不利な態勢から巻き返すのは難しい。
後僅か数センチまで倒し込まれていると、手を元の位置に戻すのですら、攻める側の倍に近い力が必要となる。
(ありったけを……!)
樽と地面が先に壊れた。
爆散。見事に樽はあり得ない程に粉々になった。
「……」
「……」
ツユは首を右と左に一回ずつ動かす。
ジンは腕がだらんとした。
(──やべ、腕が変だ。これ、魔王討伐より力入れたな……)
「引き分けですね」
「……そうですね。あ、もう一回やります?」
「いえ。やりません。引き分けは二人とも勝ちと決めているので」
「そ──あ」
(まさか、お母さん……。最初から)
30度程に傾けた、完璧な礼だった。
高級旅館で行われるような、まるで一つの皺も無いとでも表現すべき、美しい礼だった。
「──ハルルを、よろしくお願いします」
「ありがとうございます。お母さん」
ジンも頭を下げる。
顔を上げた時、ツユの顔が少し微笑んでいるように見えた。




