【23】挨拶しないとな【01】
香ばしい匂いだ──麦、いや、土を発酵させたような。
んー、ふさふさで柔らかく、弾力のある。
……肉球、だなぁ。
目を開けると鼻の上に犬の後ろ足が乗っていた。目覚めの香ばしい肉球サービス……ありがとう。
頭を動かすと、がんっと壁に頭をぶつけた。痛っつぅ……。
狭ぇ……そう、この場所は狭いのだ。三・四日近くも居るから慣れてきたが……ともかく犬の足を押し退けるように退かす。その立派な犬脚の持ち主は、顔の丸い茶色の犬──シキさんの犬の従者、イヌヌである。
両手両足をあけっぴろげた仰向け、鼻提灯なんぞ膨らませながら眠っている。
なんという格好だ。犬の寝相、これでいいのだろうか……。まぁ、昨日は、イヌヌには助けてもらうことが多かったし、仕方ないか。
体を軽く伸ばしてから、外を見る。
向かって正面に雪厳連山の山道。連山の頂上、雪厳要塞も辛うじて見える。遠くまで見えるのは、この場所が地面から割と高い場所だからである。
ここは、雪厳連山の中腹にある『破壊された拠点』である。
幾つか破壊された拠点はあったが、ここが唯一まともに使えそうだった。特に、俺が今いるこの煙突のように伸びた見張り台──この櫓は攻撃を一つも受けておらず(ということはメッサーリナリナの襲撃時に真っ先に逃げたってことかもしれない……)、丁度、見張りに持ってこいだった。その為ここを使わせてもらっている。
俺が寝ている間は、シキさんに借りてる従者が見張ってくれているのだ。
今、見張りに出てるのは……ああ、見えた。
雪厳連山の高く遠い空を飛ぶ、白い鳥。彼女もシキさんから借りてる従者。名前はトリリだ。──ハルル含む姉妹の名前、誰が付けたかよく分かるな……まぁおいておくとして。
とりあえず、今日が見張りの最終日。これでもう大丈夫だろう。
帝国は本当に撤退したようだ。
先日、俺とハルルと、ハルルの一家の力で、帝国を撃退せしめることに成功した。
フェインとリナリナは逃げた──が、逃げたふりして後で強襲なんてことはよくある。いかに彼らとちゃんと話したからと言って疑うべきだったから疑った。──杞憂に終わったがな。
まぁ帝国の強襲以外にも見張りをしていた理由もある。
『野盗』の警戒だ。
こういうちょっと大きめの戦闘・戦争の後には──『野盗』が現れる。
単純な火事場泥棒という場合もあるが、この戦域に取り残された兵士や住む場所を失った一般人が野盗化する場合がある。
今回の場合も敵である帝国兵が野盗化する可能性もあったし……王国民──勇者の野盗化の危険性もあった。
……防衛任務に当たっていた真面目な兵士が、守れなかった防衛施設を前にして──あるいは友人や家族の死に直面し──心が折れて、仕事を辞める。そして野盗となる──。
あり得なそうに聞こえる話なのだが、残念なことに割とよくある話だ。人間の心は意外と簡単に壊れてしまうこともある。
──帝国の新聞。昨日の日付のそれを見る。
その一面には、あのフェインという狐目の男が映っている。
あのフェインもまた、そうやって心が壊れた人間の一人なのかもしれない。
だからと言って沢山の人間を殺したことは許されることじゃないが。
……にしても。
新聞の内容に、俺は溜め息と苦笑が織り交ざる。
「凄い掌返しだな」
「何がッスか?」
「うぉおお!?」 ビクッと背を伸ばして俺は前のめりによろめく。
ハルルだ。ハルルが居た。梯子じゃなく、外のヘリの部分に居た。
「えへへ! ついにジンさんに気取られず近くに来れたッス!」
「お、おおっ、びっくりしたわ。つかどうやって……ここ家で言ったら四階か五階くらいの高さだが」
「えへへ。実はジンさんを驚かせようと思って、ジンさんが寝てる間に梯子を登って屋根の上に隠れてたッス!」
マジかよ。寝てる間とはいえ俺が気付かないとは……いや、敵意が無かったからと言い訳するわ……。
「その新聞、難しくてよく分からないんスけど。フェインさんは何してるんスか??
『帝国の軍事演習で予期せぬ王国領侵犯を謝罪』って書いてあるッスけど、どういうことッスか?」
「文字通りだぞ。うーん、分かりやすく言うと……
『今回は戦争じゃなくて手違いでそっちに軍を送っちゃった、ごめんね!』かな」
「!? どういうことッスか!?」
「曰く、国境で軍事練習をしていた途中で訓練用の信号じゃなく、本来使う本物の進軍信号を誤って使用した、っていう体らしい」
「それで人が怪我したり死んでるじゃないッスか! 手違いな訳ないじゃないッスか!!」
「そう。そうやって王国が抗議した。それに対して『皇帝として遺憾であると表明し謝罪』。で、『王国に被害状況を確認中』とのことだ」
「遺憾……っていうのは?」
「遺憾ってのは残念っていう意味だな。今回の使われ方なら表面上は謝ってるけど、今回のことが起きて残念です、ごめんね。くらいのニュアンスだろうな。で、実際に何がどう破損してどういう死者が出たか分かったら連絡をくれよ、って言ってる状態だな」
「えっと、それ。ちゃんと対応してくれてるんじゃないッスか?」
「そう見せてはいるよな。帝国的にはしっかりと対応しますよ、ってな。だけど今、王国の現状はどうか、まぁ俺たちのせいもあるけどさ」
「?」
「俺たちは直接感じてないけど、ナズクル率いる王国側は魔族自治領に対して圧力を掛けるっていう施策をやり始めたばかりだからな。
国民意識もそう。まずは魔族自治領をどうにかしないと、っていう考えが圧倒的に多い。
で、魔族自治領に圧力っていうのはイコール、西側地域に勇者を増員ってこと」
「あ、純粋に人員が足りないってことッスね!」
「正解。あのフェインはそれを理解してるんだろうな。
だから、そう簡単に動けない王国に対して『細かい被害の金額や数字が出たら対応する』って言ってる。『帝国は賠償する意思がある』って見せることによって帝国側が一番恐れている『勇者総動員の報復』を防いでる」
「ほへぇ……難しいッスけど頭いいんスね、あのフェインって人」
「まぁ、失策を好転させたっていうのは上手いやり口と認めるしかないな」
──つっても自分で失策して、それを自分で好転させてるんだから世話ねぇけどなぁ。
「ま。これで暫く帝国は国境を超えるような真似はしないだろう」
野盗もある程度は片付いたしな。そうだ、そういえば。
「ハルル、そっちはどうなったんだ?」
ハルルとお父さんたちには、拠点で負傷した勇者たちの手当と、近隣ギルドへの応援要請に回って貰っていた。負傷者は結構な人数で宿場の町は割と大変かと思ったが。
「別の町も協力してくれたので、割と大丈夫でしたッス!」
「ああ、そうか。ならよかった」
「ちなみに王国から勇者も到着予定ッス。明日って言ってたッス」
「そうか。じゃあ、そのあたりになったら」
「そッスね。魔族自治領に戻らないとヤバイッスね」
ハルルが少しだけ遠い目をした。
「じゃあ、とりあえず家に帰るか」
「あれ! 今日もここで見張りをするんじゃないんスか??」
「大丈夫だ。周辺一帯はクリアしてあるし、万が一の時には何とか出来る。
……明日には帰らなきゃいけないなら、お父さんやお母さんとも話をしたいしな」
そう。ちゃんと話をしないと、な。
ハルルを見てから、俺は少し微笑む。
「?」
「ま、ハルルも帰省最終日くらいは家族としっかり過ごした方がいいさ」
「えへへ、そうッスかね」
「ああ」
──あれ、俺が居ると水入らずにならないか?? まぁ、でも。
俺も、ハルルの家に……用があるのだ。
しっかりとした場所と時間を作って。
改めて。さ。
「挨拶しないとな」
「? 帰る時にでもいいんじゃないッスか?」
「あー、そういう挨拶じゃないが。まぁ、うん」
優しいお父さん──シキさん。凛々しいお母さん──ツユさん。
……あー、やべえ。それでも緊張はするなぁ。
お父さんに最初に会った時みたいに会話全部跳ぶのだけは嫌だな。
しっかりと、ご挨拶するぞ……っ!
◆ ◇ ◆
申し訳ございません。
諸事情あって、ようやく書きあがりました……。
すみませんでした。




