【06】練習曲集『水平線』より『朝』【11】
◆ ◆ ◆
「ハルルちゃんに……ジンさん。どうして」
「ああ。丁度、君を探してたら、緊急救助依頼の煙が見えてな」
運が良かったな、と呟いておく。
しかし、蘇った屍犬が十匹か。
蘇った屍犬は二匹~五匹くらいの群れを作る。
十匹は流石に珍しいな。
ハルルが槍を構える。
腰を低く、教え通りの構えだ。
「か、加勢しないと!」
「いや、大丈夫だ」
「大丈夫って……低級の魔物だけど、十匹ですよ!?」
「大丈夫ッス! 師匠もメーダさんも、少々お待ちくださいッス!」
振り返り、自信満々に微笑んだハルル。
背中を見せたハルルに対し、屍犬が三匹、同時に飛び掛かってくる。
いや、訂正する。──同時、という言葉は厳密ではない。
どんなに訓練された人間でも、同時に行動しようとしても、僅かに差は出る。
もし、それを見極めることが出来る目を持ち、来る攻撃を順番に捌ける速度があれば。
不利な多対一の乱戦を、一対一の戦闘にまで落とし込むことが出来る。
ま──見極めることが出来る『絶景』の方は、不調なようだ。
だが、まぁ。これくらいのスピード。
ハルルに飛び掛かった屍犬が三匹とも顎を槍の石突で引っ叩かれ、ノされる。
「自分は、こんな犬よりも迅い人とずっと手合わせしてるんスから!」
残りの屍犬たちも実力の差を感じ取ったのか、威嚇のうなり声を上げながら後ずさりし、即、反転。
脱兎のごとく逃げ去った。
「……ハルルちゃん。いつの間にあんなに強くなって」
「飲み込みは早いからな。応用は苦手みたいだが」
教えたことは、しっかり覚えている。そのあたりは、悪く思っていない。
あの重心が極端に低い構えは、相手の足や腕を狙いやすい、多数戦のやり方だ。
とはいえ、万能な構えじゃない。
あれは、あくまで、不利な状況を、互角程度に均すだけの構えと攻撃。
もっと数の差があったら上手くはいかない。
「えへへ。師匠! どーッスか!」
「ああ。悪くなかったな……で、メーダ。怪我は無いか?」
「え、あ。はい、大丈夫です」
抱きしめていた子供にも怪我はないようだ。よかった。
さて、本題だ。
「聞きたいことがあるんだが」
「そうッス! メーダさんしか、頼れる人がいないんス!」
◆ ◆ ◆
そう。目に映るモノを、映るままに描く。
そこに在るモノを、在るがままに描く。
そうすれば、思いも描ける。
何故なら、題材が思いを、既に持っているからだ。
岩のようにゴツゴツとした手で、老人は絵を描く。
その手はしばらく動かすと、止まる。
また、動き出すが、しばらくすると、また止まる。
そこに亡いモノ。
もう存在しない思い。
深く溜息を吐く。
穴の開いたカップに水を容れ続けるような、徒労でしかない無気力な虚無感が老人を支配していた。
部屋にノックの音が響く。
数度ノックされ、重い腰を上げる。
「ジンか、ミッシェルか? 何にしても今は一人に」
『おーい、じーさん! タイトルに、『北の』なんて入ってねぇじゃんか!?』
「なんの話じゃ?」
『ノイズで聞けない曲のことッス! 気になって調べまくって、見つけたんで! 一緒に聞きましょうッス!』
「いや、別に、音楽はいいわい。帰ってくれ」
老人はそう呟く。
『絵は、どうするんだ?』
「……もう描かんわい」
『そうか……』
暗闇の中、老人は、座り込む。
『じゃあ、これだけ、聴いてくれ』
さざ波の音が、聞こえた。
扉ごしに、旋律が、流れ出した。
八八鍵盤の独奏の、優しい曲。
◇ ◇ ◇
海から風が吹く。王都より遥かに北にある小さな島国。
厚手のコートを着ているが、手はかじかんでしょうがない。
流行りの蓄音貝を流しながら、ボクらは浜辺のベンチに座っていた。
八八鍵盤の独奏の、優しい曲を聴きながら。
曲が終わり、ミッシェルは波の来る寸前の所に立った。
空は冬の分厚い雲に覆われ、海は少し寂し気でも優しい灰色を映していた。
「先生は、海は好きじゃないんですね」
純白の髪が風に弄ばれている。それでも、ミッシェルは無表情のまま訊ねた。
「何故、そう思ったんだい?」
そう問いながら、ボクも彼女の隣に立つ。
「先生の絵に、海が無かったので」
「それは……海を背景に描くことが無かったからだよ」
「そうですか」
沈黙が、二人を包んだ。
波の音と風の音。時折、強い風にミッシェルの長い髪が舞う。
「私を描くなら、海を背景にして欲しいです」
「……キャンバスが。いや、絵具が、海風でやられるかもしれない」
「本当ですか?」
覗き込まれる。目を逸らし、どうかな、と答えた。
「キミは、海が好きなのか」
「先生よりかは」
海をまっすぐに見るミッシェルは、凛としていた。
そこにいるだけで、絵になる。そういう女性だ。
「キミは……どうして、指輪を受け取ってくれたんだ? いや、それより、何故、ボクとの結婚を決めてくれたんだ?」
海を好きな男ではないボクを。いや、それより。
二十のキミと、四十過ぎのボクと、酷い歳の差だ。
稼ぎも悪くなってきた。いよいよ生活も苦しいだろう。
「先生。私は。いえ、女性は、何も考えずに結婚に頷くことは無いと思っています。必ず、理由があります」
「それは、何か、教えてくれるかい?」
「分かりませんか?」
ミッシェルは、その時、意味もなく一度しゃがんだ。
それから、立ち上がり、ボクの前に立つ。
唇を重ね。
彼女は、口元を手で隠した。
ボクも、顔を赤くして、視線を逸らした。
「……何故、キミはいつも顔を隠すんだい?」
尋ねると、ミッシェルは無表情のまま、目をパチパチさせた。
「先生は。絵以外のことは、知らないことも多いみたいですね」
「え?」
「いえ。……ただの文化ですよ。私たちの国だと、特に女性は、異性の前で笑うことは、とても恥ずかしいことと教育されてきてます」
「そうだったのか。勉強になったよ」
いいえ、と呟いてから、ミッシェルは、海を見ていた。
何を考えているのかは分からない。
「ところで、一つ良いだろうか」
「はい?」
「キミを絵に描く時、その顔も、笑顔は駄目ってことかな?」
ボクが至って真面目に質問をしたにも関わらず、ミッシェルは目を丸くした。
顔を隠し、肩を震わせる。怒らせたか?
「ミッシェル?」
「もう……。先生は本当に。ほんと、絵のことばかりですね」
そう言いながら、ボクに向けた顔は。
ボクの人生で見てきたどんな人の笑顔よりも、一番、美しい笑顔だった。




