【20】20秒の攻防【36】
人間が呼吸を止めていられる時間の平均は、1分前後である。
ただし、それは何も訓練をしていない人間の平均と言っていいだろう。
海水浴で『息を止める遊びをしよう』と肺活量を競う遊びをしている平均とでもいうべきか。
呼吸を止めていられる時間は訓練すれば伸ばすことが出来る。
例えば、素潜り漁を生業にする人間は、3分もの時間を無呼吸で潜水が出来る。
また、プロの潜水士の中に、4分以上も無呼吸で潜水を行える人間が実在する。
(歯痒いです……ここに来て、何も、手助け出来ない)
(あうち……不覚。吸っちゃったわ。ほんとに、もう、最悪)
超強力な睡眠薬──竜を捕獲する時に使う『気化式睡眠薬捕獲道具』が地面に叩きつけられ、薬は空中に舞った。
たった一瞬。セレネとヴァネシオスの両腕が、重量のある泥でもへばりついているかのように、力だけで抗えない。
(ヴァネシオス、さん……)
セレネは足で『それ』を押す。
(何、セレネちゃん。あら……)
(これで……ハルルさんを)
(なるほど。いいわよんッ!)
ヴァネシオスが息を整える。
無論、呼吸を整えれば睡眠薬も吸ってしまう。
──そして、一方。
ハルルはスタブルと対峙していた。
「……こちらはもう退く所だ。追ってくるな」
(っ……でもここで見逃したら……ティスさんはまた魔族の誰かに襲い掛かるかもしれないッス。
申し訳ないッスけど……深追い、するッスよ)
スタブルは『角材』を乱雑に振り下ろす。
ハルルは僅かな動きだけでそれを回避した。
(やっぱりジンさんは──私の師匠は、ほんとに凄い人ッス。
『海中での戦闘』のことも考えて『息止め』を教えてくれたんスから。まさか、ここで役立つとは)
ハルルは両腕の拳を握り、脇を締めて顎を引く。
(自分の息止め記録は1分40秒。それが今の限界ッス。
だから、その時間以内に──ティスさんと副官さんを無力化するッス!)
ハルルは踏み込む。
まるでスタブルに突進するかの如く。
(1分40秒は、『ただ息を止めた場合』ッス。
戦闘しながら息を止めるのは……師匠曰く、3分の1になると言ってたッス。だから……えっと。
50秒くらい? いや、もっと短く20秒くらいと思っておけばいいッスかね……!)
尚、1分40秒の3分の1は約33秒である。
「ん!」
スタブルは思い切り角材を振り下ろした──だが、振り下ろした先にハルルは居なかった。
ハルルの踏み込みの二歩目、ハルルはスタブルの目から見て左右逆にいたのだ。
「早い、な」
それはこの世界では戦闘の歩行術の一種であり、別の世界で言うなら闘球の合間跳びである。
簡単に言うなら『フェイント』だ。進行方向に跳び出した時、バネにした軸足から着地。方向転換を一瞬で行い翻弄する技術と言ってしまってもいいだろう。
(この20秒で二人を制圧させて頂くッスよ──!)
ハルルは右拳をスタブルに向けて叩き込む。
角材でスタブルは防御し──続いてハルルは蹴りも叩き込む。
スタブルはそれを凌いだ。
その一連の攻防は、誰が見ても素手のハルルが優勢だった。
スタブルの角材の構えは正道──攻撃も防御も行い易い構えである。
だが攻撃も防御も精彩に欠ける。ハルルの拳を左腕に受けてよろけながらも角材で縦一振り。
動きも教科書通り。反応速度も速いとは言えない。攻撃どころの勘も無いとは言えないがあるとは言い辛い。
……スタブルの剣の腕は、誰が見ても『並』としか言えない。
だが、今に関して言えば。
(っ……このっ!)
その『並』が厄介だった。
ハルルは今、武器を持っていない。
無手のハルルと、武器を持った並の剣士スタブル。
比べた時、並の剣士の方が優勢だ。
並というのは『下手ではない』ということ。攻撃は普通に防御される。
これが、普通の戦闘だったら──ハルルの方が絶対的に強いだろう。
だが、20秒だけ。
愚直ともいえる並の剣術を、この数秒で、素手だけでは制せなかった。
(素手じゃなくて──せめて)
そう念じた、まさにその時だった。
「は、──ちゃ、んっ」
睡眠薬で意識が奪われる寸前──彼が『それ』を投げた。
弧を描き、山なりに跳んできた『それ』を見て、ハルルは空中に跳び上がった。
空中で『それ』を掴み──ハルルは強く握り込む。
その武器の種類は薙刀。柄は黒断石。その刃は輝きを放つ雷の色。
雷と火花が散るその薙刀。
「──『伽雷薙刀』ッ! 『落雷』ッ!!」
ハルルは全身全霊で振り下ろした。
それはまさに落雷。紫電一閃、薙刀の軌道に合わせて雷が落ちる。
雷がスタブルの頭から竜のように降り──一瞬、地面を揺らすような轟音が響く。
焦げた服。火のついた角材。そして──。
(『睡眠薬』が効かなかったんス。
そう、でした。よく考えたら)
じゃりと音がする。それは砕けた石畳を踏んだ音だ。
(その直前の──雷の炸裂。あれ、スタブルさんは避けたんでしょうか。いや、違う──違うようッス、ね)
ハルルは、膝を付く。動き回りすぎた。
僅かに鼻から入った睡眠薬が、足の力を奪っていた。
スタブルは、雷を受けて尚、平然と歩く。
その姿を見て──ハルルは歯を鳴らした。
「……術技、ッス、か?」
ハルルが苦々しく問うと、スタブルは転がったティスを抱き上げてから答えた。
「ああ。【無頓】という。
俺は『薬品などの状態異常』や『属性のある魔法』では傷つかないそうだ。……打撃斬撃は有効だがな。
だから、『仙日草の毒煙』も効かない。『睡眠薬』も雷も、俺には効かないそうだ」
「……ッ。待つ、ッスよ」
「待たない。……ティスは療養させる。手を引く。こちらももう手を出さない。
お前にとっては、成果だ。その魔族を守れたんだ。……故に、こちらはもう退かせて貰う」
「ま──っ、て」
ハルルは手を伸ばす。
だが、その手は届かない。重くなっていく瞼──。
それでも、ハルルは手を伸ばした。
(ティスさんは言ったんスよ……ッ)
『だから、今度は──…… 』
(『置いていかないで』。
『今度は置いていかないで』って。確かに、言ったんスよ。
だから。──私は、ティスさんも……助け……たい……ッ……ス)
そして、ハルルの視界の映像が緩やかに溶けたチョコレートのように歪んで行った。




