【19】ロクザ・ガルディア・リアーレ【08】
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一見すれば、普通の老人だ。
薄くなりつつある黒髪。何を考えているのか分からないが、ぽやんとした優しい顔立ち。
動きやすい白い服は、雪禍嶺や遥和で着られている『着物』を少し縫って洋服に近づけたような独特な服だ。
というのも彼は今、王宮で見られる『普通の礼服』というものを一人で着ることが出来ない。
王宮に似つかわしくない短い茶髪の中年の女性がそこに居た。
優しく微笑みながら、老人の肩を抱いてベッドの端に座らせる。
「ロクザさん。もう寝る時間ですからね」
「……今日は稽古しなくていいのかのう?」
「はい、稽古は無くて大丈夫ですよ」
「『ラッセル』は、今日は稽古したかのぅ?」
「大丈夫ですよ。『ラッセル』は今日も稽古を終えましたから」
中年の女性は微笑む。しかし、老人が言う『ラッセル』が誰なのか、彼女は分かっていない。
彼女は、老人の会話に合わせているだけである。ただ悪意があって行っていることではない。そうする必要があるから、行っていることなのだ。
「今日は逃げ出さずにちゃんと稽古したんじゃな。よかったよかった。
ラッセルはいい子なんじゃよ。逃げ足が速いから誤解されがちじゃが。
少し目をかける必要があるだけなんじゃよ、あの子は」
「ほら、ロクザさん。横になって」
「もう横にならねばならんかね? 座っていたいんじゃ」
「もう。じゃぁ灯りは自分で消せますね?」
「うん。大丈夫じゃ。ああ、いい星じゃ」
「ええ、良い夜ですね」
「時に、……夕飯はまだかのう?」
「あら。食事はさっき食べたわよ」
「ん……おお。そうじゃったか」
「ええ。では、何かあったらすぐ来ますからね。おやすみなさい、ロクザさん」
医務官であろう中年の女性はそう言って部屋を出た。
今日は調子がよさそうね。少し安心して彼女は微笑んで歩き出す。
ロクザ・ガルディア・リアーレ。
その苗字は王国唯一である。
『王の守護者』。
それは『当時』、誰よりも強く、誰よりも忠誠の心を示した彼が、先王ダックスから賜った名である。
されど、彼は──齢60を超えたあたりから、認知に障害を得ていた。
日に日に悪化し、衣服の着替えや、食事すら誰かの手を借りる必要がある。
会話の折々にも『過去の出来事』と『現在の事象』が混ざり合ってしまう。
本来なら医者の元で生活させるべきなのだが──認知を失い、老いても尚、頑なに王を守るという使命が彼の中にあるのか、何があっても王城から出ない。
そして、王城の中の『腹黒い狸たち』ですら積極的に彼を追い出そうとはしない。
理由は二つあると、誰もが知っている。
一つは『力』。
彼は『ボケてから』3度、国を救っている。9年前の王宮侵入事件。8年前の襲撃事件。そして、4年前のテロ未遂。
その全て、彼のお陰で防げたと言える。
曰く、彼は突如として50年も若返ったように意識が戻り、『誰も干渉が出来ない速度』で敵を容赦なく斬殺した。
その技を、その活躍をその目で見たものは誰もが『彼だけは特別に』と口を揃える。
そしてもう一つは──『人徳』である。
意識障害が出る前のロクザという人物は、気さくでおおらかな老人だった。
剣術指南役で若い世代の面倒見も良かった。その世代の男性には珍しいが、よく笑いよく喋る。
彼は裏表なく、教え子一人一人にしっかり向き合って来た。そういう真摯な部分を多くの人物が知っている。彼の指導を自分が受けたか、家族が受けたか。
誰もいない部屋でベッドに腰掛けて、窓の外をロクザは見上げる。
「星が多くていいものじゃ。サクヤは星なぞ興味ないか? だがいいものじゃよ。あれが北雪の星でのう」
ロクザは誰もいない隣に語り掛ける。
雲が分厚い。星は見えない筈だ。だが、彼の思い出が見せる空は、星空なのであろう。
「ラッセルは、今日は稽古したかのう」
「実は、まだやってないって恥ずかしそうに言ってたよ」
「やはりそうか。稽古は大切なんじゃがな。ただ詰まらないという気持ちも分からなくはない。
あの子はのう、一人で立つのが苦手な子なだけなんじゃよ。だから隣で稽古に付き合う誰かがいればのう」
「そうだな。間違いねぇな」
「ところで、お前さん、誰じゃったかのう」
その問いに『彼』は少し照れたように微笑んだ。
「ライヴェルグです。お久しぶりです、ロクザさん」
「おお。……ライヴェルグは、稽古をしているぞ。
サクヤはいつも彼を気になっているようなんじゃが、いまいち、行動力が無くてのう」
──ああ、十年前より、進んでしまったな。
『彼』──昔の名を名乗ったジンは、少し寂しそうに微笑む。
「ええ。……そうですね。サクヤはその頃から俺を知ってたんですね」
「ところで、お前さん?」
「ロクザさん。稽古の相手になってくれませんか?」
「ほう。ワシをロクザと知ってて稽古を挑むか。よいぞ」
「じゃぁ中央練習場、行きましょうか」
「よいぞ」
ジンは壁に掛けられている『刀』を背負う。そして覚束ない足のロクザの肩を抱き、外に出て歩き出す。
「ところで」
「なんだ?」
「夕飯はまだかのう」
「なんだよ。夕飯なら一昨日食べただろ」
「おお、そうかそうか……そうじゃったのぅ」
◇ ◇ ◇
王城の中庭の下には、練習場がある。
その地下練習場は、王城の中庭が出入口だ。流石に誰も使えない。王族が使うことはあるだろうが、今は誰も来ないだろう。
同じ感想しか出ないけどさ。ロクザさんは、結構……進んだな。
ベンチに腰掛けたロクザは、萎びた野菜に見える程、力を感じない。
俺はそのベンチの隣に、彼の刀を立て掛ける。
この国では『剣』を武器にする人が多い。
だが、ロクザさんは昔から『刀』を使う。──ちなみに、両刃の物が『剣』であり、片刃の物が『刀』である。
彼の愛刀『金烏』は、金の字こそ入っているが、派手な刀じゃない。
何なら『烏』と名乗った方がいい刀だ。
鍔も柄も黒くさらには、その刀身さえも黒い。
金の要素は一つも無いのがその『金烏』である。
「ラッセル。先ずは素振りをするんじゃ。ほら、サクヤも素振りをするぞ。一緒にやるといい。ほら、お主も混ざりなさい」
「素振りか」
「ほら、稽古付けるにしても素振りが大切じゃ」
苦笑いをする。まぁ時間を稼げるなら何でもいいが。
俺は腰にある『機剣』を構えて素振りをする。軽く素振り。
「なっとらんぞ。そうじゃない。構えが悪いぞ」
ロクザさんは立ち上がり、隣の刀を取る。
俺の隣に立って刀はこう握るのだと言い、構えを取った。
すぅ、と一つ息を吸った。
正道。彼は、両手で剣を構えた。
たったそれだけで、この空間から温度が抜けたようだった。
──これは、時々見かける光景だ。
町の中で、よぼよぼのお爺さんたちが市民館だか公民館に向かって『竹刀』を持って向かっている。
そんな老震えた手で刀を握れるのか、と不安になるかもしれない。だが、刀を握った彼らがどんな若者よりも勇ましい気声を上げ、竹刀を振っている。
丸まっていた背筋は伸びて、先ほどまでの意識が無かった顔がどこにもない。
まぁ、話を聞いた時からそうなると思っていたから、わざと刀を置いといたんだ。
……老いて意識が混濁したとしても。
『剣道』で何万回も繰り返した『構え』をした時、きっと『戻って来る』んだろう。
背筋を伸ばし、意識を尖らせて、その刹那にだけ集中する真剣勝負の場に。
思った通り。
「……久しぶりじゃのう。背も伸びたんじゃないかね、ライヴェルグくん」
「お久しぶりです。ロクザさん。久しぶりついでに……稽古、付けてくれませんか?」




