【18】愚王【06】
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戦応除 平穏也、先王如 賢王也。
剣呑徐 暗考也、現王如 愚王也。
とても直球な王族批判でありながら、市井の民の誰もが知っているのがその計詩だ。
幾ら『思想に寛容な王国』であっても、この次元の直接的な批判をした者は流石に即逮捕されるだろう。
だが、勇者たちも、王族に仕える者たちも誰もが分かっている。
現王ラッセル・J・アーリマニア王は『愚王』だ。
鼻の奥を焼くような甘い香が焚かれ、鼻に付く泥のような酒の香りがその部屋には充満している。
この部屋を訪れた者は、まるで空気が紫色に変色しているかのような錯覚を得るだろう。そして吐き気を覚えない人間がいるのなら見てみたいものだ。
その部屋が、王の寝室だ。
ラッセル王は長く伸びた金髪をだらんと下げて、ぐしゃぐしゃになったシーツの中で目を覚ます。
中年男性にしては痩せすぎの身体と、骨ばんだ体に見合わない整った顔立ち。彼は机の上に手を伸ばす。グラスとワインが落ちて割れ、そのまま小瓶を取る。
中に錠剤が入っている小瓶の蓋を開け、乱雑に口へ放り込む。
じゃりじゃりと錠剤を噛みながら、ほぼ空になった小瓶を強く握り込んだ。
正にそのタイミングで、ノックの音が響く。
王は返答しない。本来は王が返答しなければ扉が開くことはないが──この惨状を理解している一部の者だけが、返答を待たずに扉を開く。
失礼いたします。と声を出しながら、扉は開いた。
「陛下。本日のお体はどうですかな?」
入って来たのは背が低い大臣だ。饅頭のような顔と腹を持つ小男がそう諫めると、ラッセル王は深く溜息を吐く。
「駄目だ。全然。……もっと強い薬が欲しい」
「この香でも駄目でしたかな」
「ああ……最初はいい気持ちなんだが、駄目だ。もっと。もっと、強いモノが良い。身体が、こう」
「もっと痛みをお忘れになれるもの、でございますかな?」
「ああ。吐き気にも頭痛にも、身体の痛みにも……『悪夢にも』、効く奴を。何もかも、忘れられる物を」
頭を押さえ、汗ばんでいるラッセルは苦しそうな声でそう言った。
──この惨状は、王城内でも僅かな人間しかしらない。
王国の最重要機密だ。
「新しい物を用意させましょう」
「前の、南方の薬が良い。黒い、『吸う粉』。あれは、好きな。好きな夢が見れる」
「……あれは」
「頼んだ……頼んだぞ」
有無を言わせぬ王の言葉に、大臣は自分の饅頭頭を下げた。
「……陛下。本日ですが、面会の希望が──」
砕け散った。パリンッ! という音が響いた。
投げつけられた小瓶が饅頭頭の真横を掠めて壁に当たり、砕けた。
「黙れ。誰とも面会はしない。国賓であろうと、帝国の皇帝でも、獣国の皇であってもだ。
分かっているだろ。昨日、式典には出たんだ。出たんだから、休みだ」
「……ええ。分かっておりますとも。ただ、『ご子息様』の面会希望でして」
「……ご子息。はっ、子息!」
ラッセル王はケタケタと笑い始めた。まるで、風に吹かれた風車が一斉に回ったような、軽い笑い声だった。
「ラッセル陛下?」
大臣が心配そうに見ると、ラッセル王は胸を押さえてから、口角を上げて、眉間に皺を集めた顔で、笑んだ。
「余に子息なんていない。──出ていけ」
真っ暗な部屋の扉を閉めて大臣は外に出た。
外では、黒い背広を着た男が立っている。背がひょろりと高く、目がぎょろりとした、額の面積が大きい男がいる。
まるで執事のような男は、大臣の秘書である。
「ジューマン様。ご様子は」
「……」 ジューマンと呼ばれた小男の大臣はため息交じりに首を振る。
「王は薬を所望だ。前の南方の、砂漠の国の先から取り寄せた薬を、所望している」
「……それは、まさか。阿芙蓉のことでしょうか」
「そうだろうな」
「……ジューマン様ならご存じだとは思いますが」
「ご存じだ」
大臣が、ぴしゃっと言葉を打ち消す。
「使用量さえ間違えなければ薬だが、依存性がとても高い。異常な程に。ただ痛みや、王が抱える不安を取り払えるのはあれしかないやもしれない」
「……よろしいんですか」
「よろしいよ。大丈夫だ。どうせ昏睡しても、死ななければいい。幾らでもなんとでもなる。その為の術技が揃っているからな」
饅頭顔に似合わない獰猛な顔を一度浮かべた大臣に、秘書は顔色を変えずに目を伏して頭を下げる。
「はい。畏まりました。手配しておきます」
「任せたぞ。それと、ラニアン王子に伝えてくれ──」
◆ ◆ ◆
「面会は叶いません。王は執務に忙しい為……」
「今回は!」
ラニアン王子は声を荒げた。
秘書は──そして周囲で見ていた秘書たちも、その声に目を丸くした。
誰もが、あの大人しい少年王子が、そんなに声を荒げるのを、初めて見たからだ。
ここは、秘書官たちの共有作業場だ。
本来は大臣の秘書である彼が王子の部屋に行くところなのだが、何をどうやったか、ラニアン王子はまた部屋を抜け出して、この場所まで来ていた。
「王子?」
「今回は、どうしても……会わねばならぬのだ。カーヨン殿。頼む。どうにかしていただきたい」
──秘書は、少し驚いてから、目を背ける。
「? どうされた?」
「あ、いえ。……王子、何故、私の名前を」
「うむ? 先日、名乗ってくださったではないか。
カーヨン殿。カーヨン・リシクォ殿……で、相違ないであろうか?」
「え、ええ。合ってますとも」
(先日──って、四ヶ月くらい前に会ったきりだったのですけど)
カーヨンは唇を噛んだ。
(可能なら、貴方のような聡明な子の望みを叶える為に仕事をしたいのですがね)
「どうしても外せない用事がございまして」
「しかし……」
「ラニアン王子、こればかり──あっ」
カーヨンはすぐに目を伏せて頭を下げる。
それは、王子の後ろ側に向けて投げられた礼だった。
王子はカーヨンの仕草で後ろに誰か立っていることに気付き──そして瞳孔が開いた。
「どうして、そんなに会いたいのだろうか?」
カツンカツンと、重たい靴の音がする。
その靴の音、そして、その低く重い声は、昨夜聞いた声と同一。
赤褐色の髪の、戦士のような王国参謀長──ナズクル。
ラニアン王子の真後ろに、彼は立っていた。




