【16】ありがとう【64】
■ ■ ■
他人に、無条件に救って貰ったことがある。
私を救っても、相手にとって何の利益もないのに、救って貰ったことがある。
知らないことを知った。
無償の救い。理由のない善意。……食あたりを起こすスープ。
この世に、そんなものがあるなんて知らなかった。
その後から、私は命に対して自問を始めていた。
私は、戦争の被害に遭った場所を巡った。
それは、無為なことかもしれない。巻き込まれた人間たちからしたら、石を投げて怒り狂う行為なのかもしれない。
だとしても、その『怒り狂う人々』すら含めて、見るべきだと思った。
自己満足でも、偽善でも、何でもだ。
出来ることなんて、何もなくてもいい。
だから。
火が燃え、雪降る、あの日の夜。
私は、丘の上に居た。結果から言えば『偶然』だ。
華奢な少女は、兄の古びた冬外套を被り、墓石に背を預けていた。
その返り血塗れの手と身体。──あの燃える村から逃げて来たのだろうか、と最初は思った。
少女に近づいたのに、理由は無かった。ただ、顔を見ようとしただけだったのかもしれない。
近づいてすぐに分かったのは、異常な呼吸をしていること。
薄いのに、荒く、吐いているのか吸っているのかも分からない呼吸音。
そして、分かった。この少女も、もう、間もなくその命の火が消えるのが分かる。同時に、その目の暗く光る鋭さから──あの燃える村を作り出したのは、この少女だと言うことを直下した。
だが、私を見て、その目の鋭さはすぐに消えた。まるで、安心したかのように。
その時の微笑みに──無償の救いをくれた女性の顔が過った。
あの時の女性も、微笑んでいた。辛く痛いこの時間に、耐えるように。
私を見た少女が、何を思ったのか分からない。その時のことを、深く聞いたことは無い。──ああ、今思えば、聞いておけば良かったな。
少女は、自分が羽織る一枚の上着を被せて、頭の雪を払った。
ただ、それだけ。
『……キミはもう死ぬのか?』
尋ねると、少女は驚いたように僅かに目を開いたが、そこから目を閉じた。
こくりと、頷いて、少女は目の端から一筋の涙を流していた。
私は、その少女を──救いたいと思った。
そう。私は。自分のエゴで──少女を救ったんだ。
■ ■ ◆
少女の身体を癒した際──少女に病があるのが分かった。
寧ろ、死にかけていたのはその病のせいだけであった。
身体の至る所に血流に乗って転移を繰り返す不可思議な病気。
現代の医学で治療することは叶いそうになく、文献も少ない病だった。
とはいえ、対処療法だが、症状を緩和する魔法を作ることは出来た。
身体を癒したが、少女は、心を閉ざしていた。
家族を失った悲しみは、魔法でも癒せない。
生きてはいる。だが、生きていない。
少女には『熱』が足りなかった。それは『感情という熱』だ。
家族もいないのに、どうして生きなければいけないんだろう。それが、当初の少女の気持ちだったのかもしれない。
──どうして、少女を飼うことにしたんです?
ある魔族が訪ねてきた際、そのような質問をした。この頃は、まだ私の生存を一部の魔族に伝えていた為、幹部が時々現れていた。
私は回答に迷った。
そして、迷った挙句に出た言葉が『依り代』だった。
少女を生贄にし、私の蘇生を行う。
そう言った言葉を、言った。
──少女の耳は良かった。これは、知らなかった。
私の言葉を全て聞いていたらしい少女は、私に言った。
「魔王なんだ、貴方」
その後に続く言葉を私は想像した。『酷い、私を殺すつもりだったんだ』とか『最低』とか言われると思った。
だが、少女の次の言葉は、私の想像と逆だった。
「蘇生をするって言ってた。魔王は。……人を生き返らせるって出来るの?」
それは、少女が初めて見せた熱のある顔だった。
ああ。そうか。
その道は、少女にとって地獄になる。
血塗れで、苦痛に満ちて、たくさんの悲しみと矛盾を背負うことになる。
それが分かっていた。分かっていたが。
その道を提示しなければ、少女はまた暗闇に落ちることになる。
茨の道。いや、剣の葉が生える地獄の道行だ。
……だとしても。私は、提示した。
少女が生きる気力を取り戻せるなら。
そして、もし、その道を本気で歩むなら、私も一緒に行けばいい。
取り払える剣葉は、私が取り去ればいい。
途中でその道から抜けるなら、私が出してやればいい。
『死者蘇生が不可能と言い切れない。ただ険しい道だ。それでも、いいのか?』
「不可能じゃないんだね。だったら。今日から魔王が、師になって。私に教えて」
『ああ。いいとも』
諦めろ。と伝えるのが正しかったのかもしれない。
ただ、正しいことが全てじゃない。私は、その間違いで、少女が生きれるなら間違えてやろうと思った。……最近のガーと同じだな。
■ ◆ ◆
そして、多くのことを教えた。
生きることに強くあって欲しい。
そういう願いから出た『言葉』を、ヴィオレッタは今でも胸に刻んでいるようだ。
「私が死んだ後、私を師は食べるんだもんね」
『食べる、という表現は適切ではないが』
「その時の為に教えてくれるんだもんね」
私は、仕方なく、それに頷く。
無償の救いより、そういう名目があった方が少女は納得しやすかったようだ。
それに、私も気楽だった。
少女は自由に振舞い、私も魔法を教えて過ごした。
少女の背が伸びるのは、早かった。
と言っても、十三歳の子供らと比べても、背は少し低い。
それと、何度も教えたが料理の腕は上がらず(私が無頓着であったのも良くは無いが)、掃除も洗濯もよろしくなかった(新しい物を買えばいいという不精気質も悪いが)。
だが、魔法の研究においては、およそ並の学者を凌駕するほどの知識を得ていた。
知識を得ていく少女を見守り、多くの言葉を知り笑う少女の傍らに立ち続ける。
不思議に感じた。一人で過ごした二百年のことは特に記憶に残っていない。だが、少女と過ごしたこの年月の方は、多くのことが記憶にある。
それでも──時間は奪われていった。
少女の病は、悪化していた。私が作った鎮痛の魔法で誤魔化してはいるが、魔法の重ね掛けが必要な程になって来た。
この病は、『魔法や術技』といった概念ではなく、もっと物理的な現象に感じられた。
治す為には、『奇跡』でもない限り──否。
『奇跡』は起こるから、奇跡なんだ。
否。
起こして見せよう。
──そして。
ある日のこと、意想外なことから知ってしまった。
少女が──サシャラの妹だと。
私に挑み、討伐を成功させた魔王討伐隊《雷の翼》。その勇者の一人が、女騎士サシャラだ。
ライヴェルグと共に最後、私を追い詰め──私がその身体に寄生し、盾にした。
そしてライヴェルグは、サシャラごと私を討った。
その後、世間ではサシャラを殺した勇者が誹謗中傷の的になっていた。
それは、誤解を孕んだ真実。少女もそれを知っていた。
「死んだ人に復讐も何もないよ。
お姉ちゃんが生き返ったら、それでいいって思ってるし。どうでもいいかな」
だが、真相は。少女の姉の死のきっかけは、私にある。
もし、私が姉の死の原因だと知ったら。
いや、魔王という時点で多少は理解が──いや、それは、私とライヴェルグくらいしか知らない。
あの状況で、『私がサシャラに寄生した』ということを知っている人間はいない。
「? 師どうしたの?」
『いや。何でもない。そうだ、それより、術技の分析についてだが』
私は話を逸らした。
何故。私は、何を──怯えているんだ。
その後も、私はガーに顛末を知ってるか聞いたり、ジンに口止めを。
それは、私が。いや……。
いや、分かっている。
私は。
◆ ◆ ◆
『……嫌われるのが、怖く、言えなかったのだ』
滔々と、まるで割れたガラスから、水滴が零れ落ちるように、狼は言葉を出した。
『キミの、お姉さんの死……原因。いや、直接的に……私だ。私なんだ……殺したのは』
絞り出すように。ずっと恐れていた言葉を、狼は口にした。
『だから』
「そんなの……知ってたよ。ずっと前から」
ヴィオレッタは、狼の手を掴んだ。
『……何』
「私は言ったよ。原因はどうでも良いって。
師が殺していても、それを悔やんでるのだって、知ってた」
強く、その手を掴んでいた。
「世界を無茶苦茶にしたって、悲しんでるのも知ってた。だから。
……もう止めろって言わないで、ずっと背中を押し続けてくれたことに……
感謝しか、してないよ」
狼は、そうか、と呟いた。
「だから、師……私は」
『ありがとう。ありがとう──……ヴィオレッタ』
「……初めて、名前、呼んでくれたね」
『何度でも、呼べば、良かった』
「これから、何度も呼んで。何回も、何回も」
『ヴィオ、レッタ……いいか』
伝えたい言葉は、流れる血よりも多く溢れていた。
夥しい量の思い出が、とめどない量の言葉がある。
復讐に生きないでくれ、と諫めたい。
ジンは話が分かるから協力するといい、と助言をしたい。
ガーは頼れるが年相応になってから全てを進めろ、と戒めたい。
まだまだ、話したいな。まだまだ、伝えたい。
だけど。喋れるのは、後、数言葉か。
なら。伝えることは。
邪道に落ちるな、王道を行け、色恋、戒め……いや。
言いたいことは。
臆したら、負けか。死ぬしかない、か。
まさか。こんなに、臆しているとはな。この私が。
ああ、死にたくない。怖い、怖いな。それでも。それよりも。
『ヴィオレッタ。……キミは、笑って生きろ。
ずっと……臆しても。……負けてもいい。
笑ってくれれば。それでいいから。笑顔で。
自由に、好きなように……生きろ』
「師……ね。せん、せ」
ヴィオレッタは、狼の身体を抱き寄せた。
「え。……ま、まってよ。師、私、まだ何も。ね。ねぇ」
身体は冷たく、力は抜けていた。
「嘘。だよね。嘘でしょ。だって、師は、魔王、で」
血も、もう流れが。
「無理だよ。師、無理、笑うなんて。笑う、なんて……せん、せ」
体温が抜けていく。その腕の中から、狼の体温が。
「あ、あっ……あ、だっ、あ……ッ! あ!! あっ──ああああああああっ! ああっ!!」
魂が裂ける痛みに耐えられなくなった軋んだ心を、嗚咽と魂と、何もかもを吐き出すように彼女は泣き叫び続けた。
決して戻らない。もう戻らない時間が、赤く滴りながら。




