【16】ライヴェルグ VS ヴィオレッタ【37】
戦場に長くいればいる程、医学の知識が嫌でも身に着く。
もちろん、医療術師にしたら、教科書一頁目程度の知識だ。
だが、それだけでも、知っているか知らないかで生存率は数割も変わる。
例えば、人体を流れる血液の総量は、体重のおよそ13分の1であること。
人体の血液の20%を失えば、意識混濁や呼吸不全、つまりショック状態を招くこと。
そして、急激かつ多量な出血を起こした場合、死に直結しかねない。
具体的な数値で言うならば、血液の30%以上を一度に失えば、血圧の急激な低下は欠乏性ショックを起こし──生死にかかわる。
ジンは、蹲りながらも、朦朧とした意識を繋ぎ合わせる。
自らの腹に開いた穴に触れ──痛みと怖気と寒気の中で、どうにか正気を保っていた。
(死んでない。が、意識が薄い。血液量、致死量は行っていない。
およそ、15%……いや、それ以上、20%以下……なら。すぐに、止血さえすれば)
死んでなければ生きている。
当たり前のことだが、彼にとっては今現状、生死のラインが見えるということが肝心であった。
(止血すれば、俺なら……まだ、戦える。戦って──俺は)
まるでガラスを力任せに圧縮しているような、甲高く軋む音がした。それが空気と雷を凝縮し右手に集めている圧縮音だと、ヴィオレッタは少し遅れて気付く。
(ハルル、を……取り返す)
手に溜まった雷は、赤く、白く、輝いた。
それは膨大な電熱の塊。それを、ジンは己の開いた腹部に叩き込んだ。
異様な光景だった。肉の焼ける臭いと『じゅアっ』という嫌な音と、激痛による異様な玉のような汗を掻きながらも、その男──ジンは、叫び声一つ上げなかった。
ただ、血走った眼を見開いて、目標だけを見据えていた。
(体が、痛ぇな。……駄目だな。これじゃ。ハルルから貰った一撃がとにかく深い……)
ジンは、深く息を吐いた。
(この一撃で、終わらせる)
ヴィオレッタは怯えない。ただ──目の前の『獣』に警戒を怠らない。
ヴィオレッタはギリっと奥歯を噛んだ。
「この獣め」
ヴィオレッタは死にかけの男へ向かって言葉を投げつける。
意識は混濁。腹の穴は塞いだが、深い鎌による傷は塞げていない。
脈々と血が流れ落ちても、浅い呼吸のまま。
その目には──銀白髪のハルルを映していた。
ジンは、立ち上がった。
しかし──その姿は、幽鬼のようだった。
立っているだけでも奇跡。
彼の身体の周りに雷は無い。つまり、術技は発動出来ていない。
襤褸切れのような姿になりながら、それでも尚。
「ハルルを……返せ」
「……それなら、お姉ちゃんを、返せ」
決して譲らぬお互いの視線がぶつかった。
ヴィオレッタは理解していた。次の攻撃を躱してしまえば、彼がこれ以上の攻撃を行えなくなることを。
だが、躱すという選択肢は無かった。
それは、ある意味では愚かしいヴィオレッタのプライドであった。
──先ほどの攻防の中、ヴィオレッタの首を刎ねることが出来たジンは、咄嗟にその刃をひっこめた。
それが、癪だった。
手抜かりされて勝つ。
等ということは、ヴィオレッタのプライドが許さなかった。
「ヴィオレッタァアアッ!!」
「ライヴェルグッ!!」
ジンとヴィオレッタは、二人同時に走り寄った。
奇しくも二人がその激突に選んだ技は、同じ『右拳』の技だった。
「【靄舞】、『己衣』!!」
ヴィオレッタは吼えるように唱えた。
腕には黒い靄がオペラグローブのように纏わりつく。無論、その腕の靄はただの靄ではない。
肉体強化の魔法と鋼鉄の魔法が施されたヴィオレッタの鋼鉄拳。
それは、魔法の極致。
彼女の魔法と靄舞によって極限まで高められた破壊力を有した『破壊の右拳』。
対して。
「おおおおおおっ!!!」
ジンは咆哮した。
武器無し。防具無し。迅雷無し。
その右拳に、一切の小細工無し。
それは、力の限界。
彼の純粋な力のみで限界まで引き絞られた破壊力を誇る『破壊の右拳』。
互いに一切の防御を捨て、その右拳に全ての力を注ぎこんだ。
全身全霊。
拳と拳が激突り合う。
衝撃は大気と地面を揺らし、岩と木が根こそぎ吹き飛んだ。
その中心で──ジンは立っていた。
真っ直ぐに下へ向けた右腕は、ひしゃげていた。関節が四個くらい増えているくらいの、異常な折れ方。
青痣と血、指は軒並み手のひら側に折りたたまれるように曲がったまま。
ジンは直視しないが、肘から出てはいけない骨格の一部がはみ出ている。
それでも、ジンは立っていた。
目の前で──大の字で倒れるヴィオレッタを見下ろすように、立っていた。
一撃の対決──紛れもなく、ジンの勝利だ。
一歩ずつ、ヴィオレッタに近づく。
ヴィオレッタの右腕は焼け焦げたように黒ずんでいる。拳と拳がぶつかった時、ヴィオレッタの拳に込められていた魔法を力だけで跳ね返した結果ゆえだ。
だが、すぐにヴィオレッタは身体を起き上がらせる。
「まっ……だ。まだ……」
左腕だけで拳を構えるヴィオレッタ。
同じく、左腕だけでジンも拳を構えた。
お互いは、一歩も退く気は無かった。
どっちかの腕が無くなっても、止まらないだろう。
どちらかの命が無くなるまで、この戦いは終わらない。
それが、誰の目から見ても明らかだったから──。
『勝負に水を差すな、と言われていたが』
それは黒銀の毛並みの狼──『魔王』。
魔王の現在の姿だ。
黒い靄が、ヴィオレッタとハルルを包んだ。
「師……っ! 待って! まだ、私は!」
『このまま泥仕合を見守れる程、私は優雅な時間の使い方が出来るタイプじゃないのでな』
靄が──消えた。その黒い靄の移動魔法を、ジンは知っている。
だが、対応出来なかった。身体が、動かなかった。
「魔、王……ッ」
『勇者。……キミはあの子に勝った。それが事実で、それだけだ。
……キミと、『器』が出会ってしまったこと。
それは、想定外だった』
「何、締めの言葉を……言ってんだ、お前、はっ」
身体が動かない。それがどうした。
ジンは、前のめりに倒れる。そのまま、身を捩り、狼の足に手を伸ばす。
左手だけで、狼の前足がミシミシと鳴る。
「魔王ッ、アイツを……ッ! ハルルをッ」
『すまないが。もう終わりだ。次の満月の晩、ハルルはサシャラに上書きされる。
あの子はもう満足して死を選べる。もう……私には止められないだろう』
「だか、ら。何、締めに入ってるんだッ!!」
バキッと木の枝が折れたような音がした。狼の前足は、握り潰されていた。
だが、狼姿の魔王は眉一つ動かさない。
『こんな形で、因縁の決着とは思わなかった。だが、決着は決着だな──さようなら。勇者』
風が起る。
突風だ。ジンの身体を、軽く吹き飛ばす突風。
一瞬のことで、彼も理解が出来ていなかった。
空中に投げ飛ばされた。それも、断崖絶壁の先──崖下へ向けて。
緩やかに落ちていく中、どうにか掴もうと左手を伸ばすが、何も掴めなかった。
ただ、狼姿の魔王は最後──悲しそうに、すまないと呟いていた気がした。
ぐしゃっ。
落下して、肉と骨が拉げる音が響いた。




