【12】今だけサービス期間だよ【10】
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暗い湖面は、今は波が立っていて地面と湖の境界線がはっきりと分かるが、先ほどまではまるで平らな地面のようだった。
水の中には岩と同じ色の魚たちが群がってきている。
その地底湖は天然の罠だ。
細い道を通り抜けてここに来て、最初に目につく少し大きめの明かりは、湖の先にある。
歩いて進めそうだと勘違いして進めば、そこは水。しかも急に深く、一瞬で膝下まで水に浸かる。
慌てたら最後、そのまま滑って湖の中へと落ちていく。
すぐに出られればいいが、それを妨害するのがあの魚たち。
「キミ。運が良かったよ。ボクが居なかったら埋溺魚の晩ご飯になっていたね」
埋溺魚。
本来は海に生息する魔物で、泳いでいる生物に群れで近づき、海底へ引きずり込む。
そして、獲物の足を岩の間に嵌め込んで、泥の魔法で固定。
そうやって獲物を溺死させてから、水に溶けた肉を食う。
単体では恐ろしくないが、複数集まったら厄介な魔物である。
「怪我はない?」
輝鉱石の薄い黄色の灯りに照らされながら、彼女は岩の上に座っていた。
彼女の名前はルキ。
星を鏤めたような紫の夜色の長い髪を持つ魔法使いである。
その右腕と両脚は、鋼鉄の義肢。新調したばかりの鈍く光る義肢たちは、訓練をすれば歩けるようになるという。
「はい。本当にありがとう、ルキさん」
礼を返したのは、ビショビショになっている女、ハッチだ。
赤染めした金の髪。さっぱりとした短髪のハッチは着ていた服を脱ぐ。
あられもない姿だが、女性しかいないし気にはしていられない。
ルキに背を向けて服をぎゅっと絞った。嘘みたいに水が出る。
「キミ。名前は?」
ルキが訊ねて、ハッチは少し苦笑いする。
「ハッチ、です」
「……キミとはどこかで会ったような気がするのだが」
ギクっとハッチは服を絞りながら顔を強張らせる。
実際、ハッチとルキは面識がある。
とはいえ、ハッチと名乗る前──彼女が『ハニエリ』という名前だった頃だ。
ある町の聖女としてハッチは暮らしていた。
ヴィオレッタを助けて匿った最中、彼女を探しているルキが町に訪れたのだ。
会食を終えた後……ハッチは嫌なことを思い出す。
そのルキとの会食の後だった。ハッチのことを商品としてしか見ない両親との口論になり、彼女は父を殺害してしまう。
その後、成り行きとはいえ、その罪をヴィオレッタが肩代わりした。
そして、ハニエリという聖女はその時に死んだことになっている。
だから、ルキに『自分が生きている』などとバレる訳にはいかなかった。
ハッチはおもむろに振り返る。
「や、やだなぁ。魔王討伐の大賢者のルキさんと、会ってる訳ないじゃないですか」
「ふむ。そうか……いや、それより、どういう顔だそれ?」
顎を突き出し、目を窄めてしゃくれ顔。
「も、元から、こういう顔、的な」
「無理があるだろ」
「で、ですよねぇ」
「ふぅ……まったく」
「は、ははは~」
「所で」
「はい?」
「ボクはまだ名乗ってないんだが、どうして知っているんだい?」
服をぼとっと落として、ハッチは目を泳がせる。
──だけど、すぐに冷静さを取り戻した。
嫌だなぁ、と笑いながら服を拾い上げて──脳をフル回転させた。
「ルキさんのことを知らない人はいないですよ。魔王討伐の勇者様じゃないですか」
あの言い回しはカマかけだ。ハッチはそう内心で落ち着かせる。
魔王討伐隊の顔は雑誌や写真で良く見かけているし、一方的に知っているのも不思議じゃないはずだ。
「ふむ。それもそうだな。悪かったね」
「そうですよ。ははは~」
「お詫びと言っては何だが、その服を貸してくれ」
「え? あ、はい」
ハッチがビショビショのシャツをルキに手渡す。
ルキは指を軽く振る。白っぽい赤みが掛かった光がシャツを包み──水気が抜けた。
「すごっ!」
「ふふ。乾燥魔法とでも言おうかな。雨が続いても服をすぐに干せる便利魔法だよ」
「へぇ、魔法って何でも出来るのね」
「何でもは出来ないさ……さて、そうだ。もう一つ聞いてもいいかな?」
「なに?」
「キミは手配書が無いが……ヴィオレッタの仲間かい?」
その深い紺色の目と、ハッチの目が合う。
気軽に尋ねているようで、賢者の目の奥は笑っていない。
質問の意図は至極明快。
(誤魔化すべきだ。そうだ、あの村の怪我人ということにすればいい。
そしたら、この人に守って貰いながら先へ進めると思う──けど)
「仲間だよ」
ハッチの回答に、ルキは逆に面食らった。
だが、表情に出さないように腕を組み直し、ふむ、と声を出した。
「……嫌に正直だな。嘘を吐いて民間人だと言う方が、利点が多くあるように見えるがね」
「そうね。でも、嘘でも仲間じゃないなんて言いたくないわ」
真っ直ぐな目に、ルキは息を吐きながら頬を掻く。
正直、その目を嫌いになれなかった。
……嘘を吐いてくれれば問答無用で拘束したものを……。
ルキは消える程に小さくそう呟いた。
「うん? 今、何て言ったの?」
「いや。気にしないでくれ。とりあえず、出口を探そう」
「え?」
「ボクは義足がまだ馴染んでなくて歩き辛くてね。
たまに肩を貸して欲しい。その為には、キミを拘束するのは非合理だろ」
「……それは」
「ほら。肩を貸してくれ」
ハッチは言われるがまま肩を貸す。
ハッチの肩を掴んで、よいしょと立ち上がり、ルキは歩き出す。
あ、肩を貸すってそういう物理的な方向? とハッチは苦笑いした。
「さて。ほら、行くよ。きっちり借りは返す主義だから、
魔物が出たら全部まとめてボクが倒してあげるよ」
「え? 借りは返す主義? なんの話?」
「ああ、そうか。溺れてるの助けたから相殺でも良かったか。
まぁ人命救助はノーカウントにしておくとするか」
「ちょっとさ、勝手に話進めるのやめてよね。どういう意味って聞いてんの」
ルキは、ふふ、っと笑った。
「グラス、割ってくれたお礼さ」
振り返らずにルキは歩く。
あ……とハッチが声を出した。
それから、ハッチは困ったように、それから少し嬉しそうな笑顔を浮かべる。
『ハニエリ』だった時の会食で、ルキの嫌がる話題をグラスをわざと割って止めたことがあった。
──バレてるわ、ハニエリだって。
「ほら、早く行くよ、『ハッチ』」
「は、はい……そ、そのルキさん」
ハッチは慌ててルキの隣を歩く。
「ん?」
「ありがとう、ございます」
「ふふ。気にしないでくれ。成功例を知っているだけだから」
「成功例?」
「ああ。……本当の名前ではなくなったのに、本当の生き方をしている人を、知っていてね」
優しい声で、そして目を少しだけ逸らしてルキは笑った。
「……それは」
「何がどうしてそうなったかは知らないし、聞かない。
だが、さっきの真っ直ぐな目は本物だろう? 仲間のことを言う時の目はさ。
だったら、これ以上何か言うのは野暮だろう」
「ルキさん」
「もちろん、ヴィオレッタの勢力として居続けるなら、捕まえるけどね」
「今だけ特別ってことですか?」
「ああ。そうさ。今だけサービス期間だよ」
ルキは、ころころと笑った。
つかみどころのない笑顔に、ハッチもつられて笑った。




