【10】ハサミ【26】
◆ ◆ ◆
人間には、それぞれ許容範囲がある。
本当に、限界は人それぞれだ。
同じ酒でも、一杯飲んで気を失う人間もいれば、店の酒を空にするまで飲んでも酔わない人間もいる。
同じように、精神的負荷に対しての限界超過のラインもそれぞれ別だ。
精神的負荷の許容範囲を越えた人間は、おおよそ二種類の行動をする。
逃避的行動。
状況から逃れようとする原初的な対処行動である。
相手の存在の否認から、自らの命を絶つ自殺行動もまた逃避の一つ。
そして、破壊的行動。
ある言葉に、耳馴染みがあるだろう。
──稽古用の無骨で不細工な木剣。それを、ゴールドローズは、目の前の店長の頭にめがけて振り下ろした。
窮鼠、猫を噛む。
窮地に追い詰められた物が、相手へ攻撃的な対処をすること。
木剣による不意打ちは、正確にその店長の頭を捉えた。
「あ、ああああっ!」
半狂乱になって、二度目、三度目と振り下ろす。
その四度目、頭から血を流した店長は木剣を掴む。
「ロジー……テメェ、コラ」
力任せに木剣を奪い取り、店長はゴールドローズの胸倉を掴んだ。
まだ暴れていた。無理矢理に壁に押し付け、店長は思い切りその顔面を殴った。
店長の拳は硬く、ゴールドローズは隣にあった机をひっくり返しながら、床に倒れ込んだ。
ここは、舞台裏だ。
と言ってもちゃんとした部屋ではなく、舞台と他の舞台の間にある僅かな場所を利用したウナギの寝床のように細長い場所である。
机や稽古用の小道具、使い終わった台本や板切り用の刃先の長いハサミまで置きっぱなしにされているただの物置のような仮設の舞台裏。
普通なら外からも丸見えの場所で、あんな大きな物音を上げたら誰かしら気付けるはずだ。
だが、ゴールドローズは運が悪かった。
丁度、裏手の劇が始まり、気付ける者がいなかった。
「ロジー。お前、馬鹿すぎだぞ、あ?」
這いつくばったローズの腹を蹴り、店長は言った。
「金で……解決できるって言ったのによ。お前は、ったくよお!」
店長は怒声を上げた。
こんなことなら部下を連れてくればよかったと後悔しながら、頭を抑える。
ゴールドローズは、地べたで蹲り、ギリっと奥歯を噛んでいた。
「ロジーならよ……合理的な判断の元、金を払うと踏んでいたんだがな……
お前がこんなに馬鹿だったとは、思わなかった」
言い放ち、男が背を向けて歩き出す。
ゴールドローズは、震えていた。痛みのせいでもあるが、恐怖もある。
全部が終わる。
妹弟子の舞台を潰したと世間に広まれば、白帽子工房へのバッシングだけじゃない。
師匠にも、兄弟子にも、迷惑をかける。そして、またみんなから白い目で見られる。
もう、誰かから、枠から弾かれるのは、嫌だ。
目の前が明滅していた。
冷静さの一つも無く、短絡的で、ただただこの状況を脱したいという気持ちだけ。
手を伸ばせば届きそうなところに、板切り用のハサミが転がっていた。
少し考えることが出来たなら、そんなことに意味がないと分かる。
だが、もう何も考えることは出来なかった。
ゴールドローズは、ハサミを拾い、走り出していた。
「ああっ! ぁあぁぁ!!」
奇声に近い声が上がった。
驚き振り返った店長が見たのは、狂ったように目を見開いたゴールドローズが、まっすぐに走ってきている姿。
そしてその手に、刃先の長いハサミ。
血飛沫が飛んだ。
その店長は、尻餅をついて倒れた。
ぼたぼたと血が落ちる。
ゴールドローズは立ったまま、震えていた。
「な、んで」
店長は──無傷で。
店長に向けて刺したハサミを、別の人間が受け止めたのだ。
「なんで、って。……他人様に、怪我なんてさせたら。
それこそお前さん、お仕舞だろうに」
細い体の細い顔。
ゴールドローズの元兄弟子、ホソデ。
彼の脇腹にハサミの刃先が、刺さっていた。
「兄、様」
「そこの他人様。確か、うちのローズが妹弟子の舞台を潰させたって?」
「あ、ああっ! そうとも、証拠も、ある」
「実はさっき盗み聞きさせて頂いたんで」
ホソデはため息を吐き、言葉を続けた。
「『監禁事件』、あったんで?」
その言葉に、店長はぴくっと頬を動かした。
「録音の内容は、監禁の指示。でも実際は監禁が起こってないんでは?」
「……だが、事実、舞台は失敗に」
「失敗? あれが?」
丁度、店長が尻餅をついた所から、辛うじて観客席だけ見えた。
「なっ……なんで、舞台が続いて。役者は」
「誰かが頑張ったんだろうね。で。結果で話せば、何も起こってないんで。
精々が、うちの馬鹿弟子が、兄弟子に腹立てて刃物をオッ立てたくらいで」
「そんなの」
ホソデがポケットに乱雑に突っ込んでいた布袋を投げた。
重い袋が転がる。
「金貨、十五枚くらいは入ってるんで。それで手打ちにして幕引きにしましょうや。
で。この話は終わり……。早くここから出ていきな」
店長は舌打ちをし、布袋を持って走り去った。
「ホソデ兄様っ!」
「……ローズ」
涙目のゴールドローズに、ホソデは目を細めて。
「こっんの、うすらトンカチのアホンダラ! 何考えてんで!?
ハサミは板布を切るモンで人様に向けるもんでない!
ガキん時に死ぬほど教えたのを忘れたんで!?
仕舞にゃ妹の脚本だけじゃなく舞台に手も出す始末! え?
白帽子を汚して黒帽子にでもする気で!? 巧くもないことを言うんじゃないよ!」
流れるような罵倒だ。
別に白帽子を黒帽子なんて、この私が言った訳じゃないし。
つまらない感想を内心で述べてから、ローズは肩をビクッと動かし縮こまった。
この細い人からどうしてこんなに大声が出てるのか不思議でならなかった。
それよりも、ゴールドローズは罵倒の中にあったある言葉に反応する。
「……妹の」
「舞台を潰そうとしたんで? どこまで自分に自信がないんで、お前さんは。
実力でやれ、実力で」
「そ、それもそうだけど……その。脚本のこと」
「はぁ?」
「……妹に、書かせてたって、兄様知って?」
「そんなもん、自分も、ガマルの師匠も知ってるんで」
「……な。え?」
「出来の悪い派手が取り柄のお前さんから、あんな出来の良い脚本が出るわけねぇんで」
「そ、そんなの。嘘。だって、知ってたら、なんで」
「とりあえず、お前さん」
「は、はい」
「ちと、早く包帯……声、荒げたら、血が止まらん、ので」
ホソデの細い顔から血の気が引いていた。
足元に、割としっかりとした血だまりが出来ていた。




