1.ゴリラになんて絶対嫁がないんだから!
──私の世界はいつも私中心に回っている。
トバイアス王国でも上位貴族の筆頭であるアルバス公爵家に生まれたアイリーンはそう思って疑わなかった。
この国の第一王子であるセオドリク殿下と婚約者であり、未来の国母であるアイリーンは高貴な存在であり、多少の我儘だって許される。そう信じて今まで生きてきたのだ。
──そんな私が何故……
「アイリーン・アルバス公爵令嬢!其方との婚約はこの場を以て破棄させてもらおう!!」
公衆の面前でアイリーンに婚約破棄を言い渡したのは、彫刻のように美しいトバイアス王国の第一王子であるセオドリクであった。
今日も完璧に美しく巻かれた金髪の縦ロールを揺らしながらアイリーンは信じられない気持ちでセオドリクを見つめるが、その瞳は氷のように冷たかった。
「な、何故ですの?私とはずっと…婚約者として良好な関係を築いてきたではないですか!」
「はっ、其方の高慢さは目に余った。高貴な身分を盾に自分より身分の低いものを虐げ、虫けらのように扱うのは未来の王妃として相応しくない!それに、私は真実の愛を見つけてしまったのだ……」
アイリーンに向ける視線とは全く異なり、蕩けるような眼差しを注がれ頬を染めているのは、最近セオドリクに近寄っていたルーナ・イースター男爵令嬢だった。
──何故私が排除したはずの羽虫が殿下の隣で微笑んでいるの!?
「殿下っ!有り得ませんわ…男爵令嬢などと…。それに私達の婚約は国王陛下がお決めになった…──」
「ルーナは侯爵家に養子に入る予定だから身分は問題なくなる。父上も承諾したことだ。其方との婚約は正式に破棄となる!まあ、俺も鬼ではない。傷物になった其方に勿体ないほどの相手を見繕ってやったぞ!」
セオドリクが何を言い出したのかアイリーンは理解するのに時間がかかった。
──陛下も承諾した…?まさか、筆頭公爵家の令嬢である私を…そんな扱い許されるはずがないわ!
信じられない気持ちで指先が冷たくなってくる。足元の地面が一気に脆くなり、暗闇の中に一気に落とされたみたいにアイリーンの瞳から光が失われていく。
「我が国最強の戦士であり、現騎士団長のライリー・ドライズが、其方の新たな婚約者として決定した!!私に感謝するのだなっ!!」
止めの一言に私は頭を殴られたような衝撃を受けた。
ら、ライリー・ドライズですって!!!???
「そ、そんな……──」
なんで、私があの、野生のゴリラみたいな男に嫁がないといけないのよ───っ!!!!!!
一瞬で目の前が暗くなったのであった──
◆◆◆
ライリー・ドライズ二十五歳、独身。騎士団の団長で最強を誇る戦士である。鍛え抜かれた体幹は銃弾をも跳ね返しそうな隆々とした筋肉に包まれている。男らしい精悍な顔立ちに、焦げ茶色の短く切られた髪に切れ長な黒曜石のような瞳が光る。
彼の外観は……
「ゴリラよぉぉぉぉぉぉ!!!!!」
アイリーンは公爵家の自室で寄声を上げていた。あの後ショックで気を失い、目覚めた時には既にセオドリクとの婚約は破棄され、新たにライリーとの婚約が結ばれていたのだ。
父親である公爵が怒ってくれないかと僅かな期待をしていたが、元々ライリーのファンであった公爵は瞳を輝かせ婚約を喜んでいたのであった。
トントン拍子に事が進み、今日はライリーとの顔合わせの日である。婚約までした仲であるが、アイリーンが部屋に閉じ籠った為、会うのは今日が初めてなのだ。
今日だって逃げるつもりだった。しかし、公爵家の精鋭部隊が送り込まれ、あっと言う間に磨き上げられこの日の為に仕立て上げられた豪華なドレスに身を包み、疲れ切った瞳をした自分と鏡越しに目が合った。
ライリー到着の報を受け、窓越しに覗いたアイリーンの瞳に映ったのは……屈強なゴリラのような男だった。
「なんで、なんでなのぉぉ!!ゴリラになんて絶対嫁がないんだから!!この部屋からは出ないわよぉ!!」
ここに来てまた部屋に閉じ籠ろうとしたアイリーンは、顔に青筋を立てた公爵の手によって部屋から引きずり出されてしまった。
「お、お父様ぁぁぁ!!!」
「この馬鹿娘っ!!ドライズ団長がお待ちだぞっ!!!絶対に、逃げるでないぞ!!」
「うわぁぁぁぁぁん」
捕まった猫のように引きずられ、アイリーンはライリーの前に差し出されたのである。
──ティーカップってこんなに小さかったっけ?
自分の目の前にあるティーカップと同じものとは思えない程小さく見えるのは目の錯覚だろうか。お茶を啜る騎士団長は、ゴリラにしか見えなかった。
アイリーンは恋愛小説に嵌り、線の細い中性的な美青年が好みなのだ。決して素手で壁に穴が開けられそうなゴリラではない。
「初にお目にかかる、ライリー・ドライズと申す。この度は陛下の命があり、アルバス公爵令嬢を我が婚約者に迎え入れることとなった。騎士の家系故、粗暴に見えるかもしれぬが、末永くお付き合いいただきたい」
「勿論でございますっ!!ドライズ家と縁続きになれるなど光栄でございます!!あ、あの、握手して頂いても!?」
──お、お父様っ!!!!
当人よりも熱量が高すぎる公爵にアイリーンは恥ずかしくなり視線を外した。元より体の弱い公爵は騎士に憧れて育ち、英雄とも呼ばれるライリーを心から尊敬し、大ファンなのである。
若干引きつつ、快く握手しているライリーは悪い人では無いのだろうが…
──ゴリラにしか見えないわ……
アイリーンは本気で逃げたくなるのであった。
今考えると、セオドリクはアイリーンの好みど真ん中であった。華奢な体つきに、整った顔立ち。物語の王子様のような人だったのに……
このようなゴリラを押し付けてくる非道な王子だとは思っても見なかったのだ。あの男爵令嬢に洗脳でも受けているのではと恨めしく思う。
父親である公爵が目を輝かせて持て成しているライリーを、アイリーンは直視することが出来ていない。
しかし、ライリーの方もアイリーンを直視出来ずに視線を彷徨わせていたのを、アイリーンは気付くことは無かったのであった──