トイレの山口君
トイレに駆け込んで、俺は手洗い場の鏡を覗き込み、自分の顔をじっとみつめた。
「どこも赤くなっていないよね。」
俺はどうなってしまったのだろうか。
玄人の為に百目鬼の虐めに耐えると覚悟をしていたが、百目鬼が葉山に声をかけると葉山に取られたくないと焦り、百目鬼の俺を見る目に体が熱くなった。
「本当に可愛い奴だよな。」
背骨に響いてくる声で言わないで欲しい。
俺は百目鬼から逃げ出してしまったのだ。
違う!……自分からか。
「どうしちゃったんだよ。俺。」
あの日からだ。
百目鬼に玩ばれて自分を見失ったあの日から、俺は百目鬼の事を繰り返し思い出している。
俺は初めてだったのだ。
あんなに行為中に我を忘れたのは。
俺は常に喜ばす方で、喜ばされても冷静な自分がいた。
母親に好きでもない行為を無理矢理された反動か、俺はそれが大した事ではないと奔放に振る舞い、そしてそれを証明するかの如く数々の男と寝た。
玄人は抱きしめられる事が苦手だったこそ、俺は更に彼を愛した。
本当は俺もそうだったから。
それでも人肌は恋しいからと、俺は子犬や小動物を抱くようにして、そっと玄人を抱いていた。
いつしかお互いに慣れた俺達は抱き合えるようになり、俺は彼への性欲が生まれたが、その性欲も百目鬼が煽り、引き裂きを繰り返してこそのものだ。
俺は百目鬼の玩具だ。
彼に翻弄されるだけの玩具。
それなのに、俺には彼からの愛は無い。
「何を考えているの!」
鏡の中の自分を叱り飛ばす。
何が愛だよ!俺が愛しているのは玄人一人だっただろう?
手洗い場の水で顔を洗った。
そして、鏡の中の大嫌いな顔を見つめた。
母に似た美しい顔立ち。
だからこそ彼女は俺に執着し、俺に性的な事を強要し始めたのだ。
嫌な女と同じ顔が俺を見つめ返している。
「お前も笑いなよ。」
今日の百目鬼の俺を見る目はなんだ。
あの優しい眼差しは。
「俺、どうしちゃったんだろ。」
自分がわからなくなった俺は、情けなくも涙がポロリと落ち、洗面台だけではだめだと個室に入った。
俺はトイレ個室で、ほんの少しだけ泣くことにしたのだ。
「俺さぁ、公安のホープだった気がするんだけどなぁ。もう、ぜんぜん駄目。」
涙を拭いて顔も洗い、俺が特対課に戻った時には、恋人も仇も消えていた。
「俺に何も無いのかよ。」
薄情な二人によって、先程までと違う涙がこみ上げてきそうだ。
楊達は医務室から髙と加瀬を呼んだのか、部屋の奥の長椅子が置いてあるスペースで何やら全員で何かを話し合っており、誰も俺の入室に意識を払わない。
俺は要らない子だなぁ。
震えるスマートフォンを取り出すと、メールが二通届いていた。
「今日のこと怒っているよね。ごめんなさい。でも僕は力を使う時はあの状態になるのでいい加減に慣れてください。」
玄人らしいロクデナシメールだ。
謝っているようで謝る気が無い。
悪いとは思っていない傲慢な彼。
いい加減に慣れろとはどういうことだ。
「膝枕して眠ってください。」
そんな彼が俺に好かれようと、俺を楽にしようと、一生懸命になるのだと、水族館の彼を思い出すと心が温かくなっていった。
仕方が無いか。
彼は真っ直ぐなロクデナシなのだ。
もう一通のメールを開いて、俺は跪きそうだった。
いや、確実に脱力した。
「休みの日は前日にメールしろ。こっちで仕事に出ていたら拾ってやる。家事が出来たらお前は最高の子供なのだからな。しっかり覚えろよ。」
最高の子供。
年齢が大して違わない男に、「最高の子供」と言われて喜ぶと思っているのか。
「どうした?山口。戻っていたなら早く話に入れよ。」
楊の呼びかけに既に意気消沈の俺は、スゴスゴと彼らが話し合っている部屋の奥の雑談スペースに行った。
歩きながら、百目鬼に「最高の子供」って褒められるように頑張ろうと思っている自分がいることに、俺は気づくしかなかった。
だって俺、足取りが物凄く軽くなっている。
あぁ、情けない。




