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和牛に負けた男

 虫塗れの一日は幸せを運んできた。

 体調を崩して夕飯を作れなくなった百目鬼の代わりに、楊が玄人に食事を作る嵌めになったのだそうだ。


 昼間発見された液体状の死人をただの死体に戻してもらうために百目鬼を呼んだら、なんと、あの彼が潰れたのだ。

 そして、肉を約束された玄人が肉を食べられなくなった事で完全に壊れ、そのために気分の悪い百目鬼が楊邸で横になっているという事だ。


 意味がわからないが、とにかく玄人に会えるのだ。

 それに具合の悪い百目鬼を介抱して機嫌を取れば、再び玄人との仲を認めてくれるかもしれないではないか。


「葉山は何時頃に帰ってくるって?」


 相棒の俺が内勤のために、葉山はたった一人で外回りをしているのだ。

 彼は盗品バイクに乗っていた「足立少年」を知っている者はいないのか、相模原市内のバイク店や修理工場などを聞き込みで回っているのだが、写真も無いから本当に大変だろう。


「七時前には戻れるそうです。直帰するようにメールしておきました。」


「葉山もいればお前も悪さできないし、百目鬼も大丈夫でしょ。」


 葉山は先週の事件で住んでいる寮を破壊されてしまい、俺と同様に楊の家に住む事になった。

 彼は楊邸の一階の和室を使用している。


 そして、俺はようやく楊の助手席に乗せてもらえた。

 スーツは署のクリーニングに全部出し、シャツや下着は捨てた。

 署のシャワー室で全身を隈なく洗って支給品のジャージに着替え、そこでようやく車に乗せてもらえたのだ。


 俺はなんと現場で置いてきぼりにされ、そこから相模原東署まで、バスと電車を乗り継いで一人寂しく帰って来たのである。

 情けなくて涙が出そうでしたよ、かわさん。


「それにしても、具合が悪いくせに百目鬼は煩いね。ちびはダイエット中だから赤みのヒレ肉八十グラムに炭水化物無し、サラダにもドレッシング無し。砕いたナッツと塩で和えろとさ。凄いね。」


 百目鬼のメールは玄人の夕飯について事細かに打たれているらしい。


「まるで、美少女コンテストのスタジオママですね。」


 楊は吹き出した。


「まぁでも、俺らも高級和牛ヒレ肉が食べられるんだ。一人百五十グラムまでで後は自分で払えって指定されたけどね。あいつ金持ちなのにせこいよね。」


「それじゃあ、俺達はランク下げた肉にして大きいのにすれば。」


「それ駄目。ちびが壊れるって注意書きで先に禁じ手にされている。そこまで書くって、どれだけちびが壊れちゃったんだろうね。」


 俺はその言葉で悲しさが湧いた。

 玄人は俺と会えなくても壊れなかったが、食事制限をされたら、一発で彼は壊れてしまったのだ。


「俺はヒレ肉以下でしょうか?」

「お前は和牛のヒレ肉を食べた事があるか?」


 上司のすばやい切り替えしに、俺は、ありません、とその時はそう答えるのが精一杯だった。


 そして、和牛ヒレ肉は極上のものだった。


 脂身がないのに口の中でとろけるよ。

 何、この柔らかさ、旨み。

 俺は一口噛みしめるごとに、俺は肉以下だ、と再確認した。

 俺と一緒じゃあ、玄人にこんな肉を食べさせてやれない。

 そして俺も食べられない。


「良純さんと楊さんにぶら下がって僕達は仲良くしていけばいいのです。」


 玄人が以前に口にした、あの意味が良くわかった。

 あの時は玄人に怒ってしまったが、今の俺はそれで行こうって気持ちだ。

 そんな後ろ向きな考えになる程、和牛には魔力があったのだ。


「クロはどうしたの?食欲がないの?」


 葉山の言葉に玄人を見直したら、彼は殆んど、いや、全く何も手をつけていない状態であった。


「どうしたの?」


 玄人は俺の声に顔を上げて、チラとソファで横になっている百目鬼に悲しそうな視線を流した。


「良純さんは食事抜きです。僕と一緒に食事制限をしてくれているのに。」


 俺が玄人の言葉に百目鬼への嫉妬が湧き上がった事を知ったかのように、百目鬼は優越感のある笑い声を部屋中に響かせた。

 コイツは大嫌いだが、彼の声は本当に素晴らしい。

 畜生、俺はしっかりと聞き惚れているよ。

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