ヒトは、いまウイルスに時間を譲っている
コロナの日常が浸透してきて、コロナ前の日常の感覚もまだある時に、一番に感じたのは時間の流れが変わってきてることでした。進むのが早い遅いといったことより、時間ってなんだっけといったかなり足下を見ている感じです。
ただ、今がある。それをスケッチしていったら、思い出がフラットに重なってちょうどいいバランスをとるのです。
あまり先のことばかり意識せず、過去にのっかてる今を見ている気分を共有いただけたら幸いです。
お上から、密になるな密にするなのお触れが出てから、はや二月を越す。
やっと、少しずつ間口を広げてもいいと云ってきてるが、しばらくは手綱は噛まされたままらしい。だから、何をするにしても、ひとりでする作法の隅々においても、そのことがまとわりついて密かごとの後ろめたさは拭いきれない。そんなあれやこれやが斑に喰っついてくるのが嫌で、昼下がりがやってくると自転車にまたがり海へいく習慣がついてきた。普段によりも増して、風を切り歩くより早く進んでいることは、気持に響いてくる。
あちらからこちらにむかって近づいてくるのは、同じ部活同士だろうか。中学生の男の子二人がニコニコ笑いながら走ってくる。練習の走り込みなんかじゃなくて、二人でするかけっこが楽しくて楽しくて足が勝手に駆け出している子どもの顔に戻っている。互いの進行地点で交わったあとの二人が遠ざっていく暫くの間、私の顔も上手く取れたスナップ写真の現像を待っていた頃に戻っていた。
海岸道路を横切り、防砂の壁を抜いたトンネルを抜けて海にたどり着く。此処は、休日の昼下がりを波乗りや潮干狩りで過ごしたくなる眼がウルウル集まってくる海ではない。釣り竿、サーフィン、子どもの手を引っ張る人数なら、指なぞ折らなくて十分だ。見渡す遥か先まで、海の遠景が真ん中に堂々としてる景色だけが延々続いている。
サンダルは、砂が埋まる前にとっとと脱ぎ捨て、裸足になる。ズボンだって膝上の折れるところまで折って、波打ち際を踏みしめ、お日様を背にザックザック進んでいく。波が直接当たるのは冷たいが、潮が沈んで少し生暖かくなった黒い跡を順々に踏みしめていくのは足跡が蛇の斑のような線上の跡になっていき、泥遊びの達成感と同じのワクワク感を与えてくれる。午からは、海風に変わった。そのまま強い波風に押され、先程まで最遠に見えた親子連れが目に前まで迫ってきた。
年子だろうか。二人とも水にあたれば冷たかろうに、それでも、来る波に足を漬けることに、飽きない、厭わない。はじめの仔が浸かってキャッキャの声を上げれば、次の仔も同んなじ真似をする。親である人は「帰るよ、帰るよ」を連呼しているが、あまり本気で言ってるようには思われない。そんなこんなをループのように回していたら、「あれよあれよ」のうちに三人は目の前まで迫ってきた。今度は追い越さずに手前までで「回れ右」すると、いままで追い風だった波風は、全く違う顔になって立ちふさがる。
ほらほら、あそこ、半分砂に埋まった青いボートの先端に乗っけたままのサンダル、ここからじゃもう見えないだろうけど、サンダル、あそこでずーと両膝抱えるみたいに帰りを待っているサンダル。あそこに残してスタートしたんだから、ちゃーんと戻ってやんないと。そんなこんなを言われなくとも、少しは足に力を入れて、向かい出すから。オンタイムのラジオから「6曲続けて、どうぞ」を全部聞き終えても、まだ半分も戻っていない。やってくるときは、ウッドベースの効いた短めのロックンロール、3曲聞いただけだったのに。時間は、倍、倍、倍と費やされなければならないようだ。
振り返ると、「ズボンがこんなにびしょびしょになって、あれだけ、ズボンの裾まくりなさいって言ったのに、女の子なのに、もう・・・・・帰らなきゃ、今度はホントに帰らなきゃ」を促してた、もう若くはない母親は、そのふたりの仔らと一緒に、とうに姿を消している。釣果など期待せず、ずっと釣り竿を立てていた年寄りでさえ、背中が向こうの点になって、すぐにも消え去ってしまいそうだ。残ってるのは私の足跡ばかり。往きのふたつ、還りのふたつ。どちらも四つ並んで此処まで続いている。
再び、青いあのボートに目を戻す。ひっくり返された青いキールの先端に乗っけたまま落とされずに踏みとどまっってるサンダルまで、足跡はふたつ。波と風に削られ薄くなりながらも、どれひとつとして打ち消されずに顔を向けている。太い斑と細い斑、私の進行地点を間に、その線は変わっていく。だから、あるき続けなければ。「4曲続けて、どうぞ」「2曲続けて、どうぞ」「3曲続けて、どうぞ」と、DJも励ましてくれているし。
一時間にも満たないリクエスト番組なのに、よくぞここまで長く付き合ってくれたものと、感謝しつつ、砂を落としてサンダルを履く。砂を落としてる間、どうしたって足を見つめ続ける。いつも固いか平らなものばかり踏みしめていた足の裏は、本来のかたちを崩さずに済むものに馴染んだため、靴を知るまえの赤子の足のふくよかな柔らかさに戻っている。それに気づいたら、波風に洗われあんなにも健気に待っていたサンダルなのに、それさえ急に疎ましく、異物にさえ見えてくる。とても己れの身に付くものの気がしない。そうまで断絶したのなら、しょうがない。いったんは履いたサンダルを脱いで、裸足で自転車にまたがった。
喉の乾きよりも、コーヒーを、熱いコーヒーの香りが恋しくなって、すぐ向かいの喫茶店の入いる。依然に一度は来たことのある店だと、ドアを開けてからそう気づいた。ひとのお家の二階を店にした造りだから、玄関までは一緒になので、靴を脱ぐ。裸足のひとは、そのまま上がる。砂が零れないかと確認したが、先程あんなにもきれいに落としたので、一粒も足の裏についてない。スリッパは並んでいるが、せっかく裸足の心地よさにいるんで、裸足のひとはそのまま上がる。靴で来た人の中にもスリッパが嫌いなひとだっているだろうから、店に入っても不審に思われるはずはない。そう信じている。
靴もサンダルも履いてこなかったんです、裸足でそのまま上がってきたんです、でも、ちゃんと綺麗に、毎日掃除をかけているこのカーペットに砂が紛れるなんてヘマはしません、だって、ちゅーんと玄関先で足の裏とにらめっこするくらい確かめてきましたから、ほらっ、どっちの足の裏もキレイなもんでしょう。などと注文を取りに来た店主に向かって、ズボンをまくりあげ、両方のあんよをニぃーと突きだす衝動をグッっーと我慢する。
カフェオレを注文する。ホイップした泡が大きなカップの3分の2を蓋にしている凝った商品の写真に惹かれた。もう、先程の熱々のコーヒーの香りはどこかに翔んでいる。新製品、期間限定に昔から弱いのだ。
ついでの悪い癖で、注文してからメニューをしっかり読み込む。厚い表紙で囲まれた定番メニューの頁をめくると、あわてて、「ごめんなさい、カフェオレやめていちじく湯、ココに書いてあるとおり、お好みの甘さは最大でお願いします」と、店主を呼び戻す。呼び戻された店主は「いいんですか、本当に甘いですよ。いいんですね、それでも」と、企みのある顔でいうもんだから、「大丈夫、砂糖が溶け切る限界まで甘くても、大丈夫」と努めて落ち着いて安心するよう二度伝えた。
最初の大丈夫は主に対してだが、次の大丈夫は他の誰かに向けてのような感じが残った。一人客用のカウンター席は、店の売りであるマリンビューに向いているが、砂山を「もう、ひと声」高くする防砂のための工事のせいで、とってつけたようなマットな意匠の塀が横一列に並んで、二階席の遠景は空よりほか青いものは見えやしない。かろうじて、店の真ん前の砂山をくり抜いたトンネルの四角い穴の向こうに、ザンバザンバの波が白地に泡まで拵えうねってるので、此処の前は「すぐ、海なのだ」と教えてくれる。そうそう、あの海から此処を通り抜けて、裸足でこの店に辿り着いたのだ。
ヘレン・メリル、ジューン・クリスティ、クリス・コナー。すぐに金髪でアップした顔が浮かんでくるようなジャズボーカルが店内に響いてマットな感じに包まれていると、トンネルの先の四角い波のリズムがその声に合わせて呉れているようで、このままいつまでも見飽きる気が起こらなくなっている。私よりもいくらか人生の先輩である店主の趣味の良さを感じる。いちじく湯は、既に横に置かれていた。景色と声の方に引っ張り出されて、持ってきてくれたときは、きっといつもどおりの生返事を返していたのだろう。そう思うと少しばかり気の毒な気がした。それは店主に対してであるが、少しは自分にも向けられている気がした。
壁にかけられたモニターからは、CSでも受信してるのだろうか、午間っから超常現象もののバラエティが流れている。心地いいBGMを邪魔しないよう、字幕を貼って、動く意匠のように流している。女の子と呼ぶには少しとうが立ってるキッチュな女性と、こうした分野にはエライ詳しいお笑いタレントのMCを除いて、ほかの男たちは皆んな一様にサングラスと顎髭とタキシードの黒ばりでキメている。
時空と力が関わる大きな領域について話していた。「やはり、東日本の時のような大きな負荷が関わると、いろいろな処にゆがみが生じるんですねぇ。先程のロケバスに乗ってた人全員が、そんな大昔のことを見たり体験したりするのもそうしたことと深く関係があるんですねぇ」と、MCがその話のお尻をとって次の話題に繋げるところから字幕を読み始めた。BGMの歌い手は変わり、クリス・コナーが歌っている。生バンドをバックに歌う彼女たちの声は、モニター映像にも字幕にも溶け込んでいる。口に入れた途端、砂糖の結晶が張り付くくらい甘いいちじく湯も、当然にすんなり喉の奥を通っていく。
窓に目を戻すと、海を小さな四角い額縁に収めたトンネルが賑やかになってきた。自分たちは自転車に乗っているのに、一番小さな男の子は走らせてる男の子四人組が、トンネルまでやってきて中で何かを始めようとしている。他の子達の間をくるくる回りながら話しかけているリーダーっぽい男の子と、まだゼイゼイハァーハァーいってる一番小さな子は兄弟らしい。ふたりは揃いの金髪と青い目を持っていた。それでもハーフらしい。ふたりの中に共通の美しい日本人の女性の顔が見てとれた。見えてはいるし知ってはいるのに顔も名前も思い出せない。
モニターの字幕は、「おとがい、って骨をしってますか。顎の先端にある骨なんですけど、これがヒトしか持っていないんです。だから、それが人類の特別と何か繋がっているはずだって、専門の科学者たちは研究し続けたんですけど、どのような進化の中で現れたのか、何の作用に貢献しているのかっていくら探っても何も出てこない。結局、何かの役に立つ方面はないってことが結論らしいんですが、それでも何でこんな方向に行ったのか説明がないと収まりが悪いんで、そんな中で収まりのいい説明が、「狩猟しなくなったから、仲間と平和に過ごしていくからこうなった」っていうんです。農耕を始めて群れが大きくなると、闘争心むきだしの顔より仲間うちに穏やかに迎えられる顔の方が有利だと、噛みつく要素より細くて可愛い小顎が有利だと、そう考えると神扱いされる小顔女子の顔って進化の俎上にきっちり乗ってるってことになるんですね」と、ダラダラ説明の一文を追いかけ続けていたら、はじめて聞くその骨にまつわる話が、どこか小骨が引っかかったような私のモヤモヤをスッキリさせようとしている。
それはきっと、私があの仔くらいに幼くて、何処に行くにも誰かに連れて行ってもらわなければ行けなかったくらいに昔だ。
私はひとりっ子だったから、ゼイゼイハァーハァーいいながらでも連れて行ってくれる仔のいる家がいまでも羨ましい。幼い私を連れ出してくれるのは、いつも決まって父の方だった。母であるひとは、あまり外へは出たがらなかった。家族よりもひとよりも家と結びついているひとだった。だから、古い家の記憶が母と繋がっているように、幼い時分の外の記憶は父と繋がっていた。ふたりで何処に行くかの当ても無く家を出たときに、父がきまって連れていくのは海の近くにあった展望台だった。砂丘地が連なって出来上がったこの街は、丘の上に当時の為政者たちが思う立派な建物が並んでいた。お役所、官立学校、病院、庭付きの官舎、花街に繋がる大きな庭園、そして水道施設。物理の理に沿って建てられたのは病院と水道施設だったが、そのタンクの上に周回する展望台を拵えたのは。先の大戦後の為政者たちだった。技術や科学が、腹の足から皆んなの楽しみに皆んなの未来への掛け声が叫ばれていた時代だった。
喫茶室も兼ねていた展望室で父はいちじく湯ふたつとナポリタンをひとつ注文する。いちじく湯が一つでは甘い物好きのふたりには足りないし、ナポリタン二つでは、そのあとの夕食にさしつかえる。回っていく景色とテーブルに並んだ3つの品は、あまり贅沢な色は用いていないが明るい天然色の記憶として残っている。いちじく湯は、この店と同じく飲んだあと砂糖の四角い結晶が残る甘さだった。
いったんは海の方へと散った四人は、めいめい手頃な流木を持ち寄るとスティック代わりバチ代わりにトンネルの壁を叩き出す。聞こえてはこないが、カノンのように繋がっていた。
「結局、光よりも速いものを我々は意識することができないのです。だから、そういった意味では、光よりも速いものは存在し得ないといったアインシュタインは、正しいんです」モニターにその文字が映し出されたとき、そのサングラスの男は、とても寂しそうな目をしていた。「本当なのか嘘なのかと、突き詰めていったって、何か、こう薄っぺらいものをなぞっているだけなのかもしれない、それぞれ皆んなが意識と呼んでるものによっててんでバラバラなものを、何かに名付けて、そう信じてるだけなのかもしれない」
少し遅れて、彼らの父親がやって来た。あの二人の兄弟の中にいる日本人の母親を消し去れば、そっくりそのまま立ち上がってくる顔立ちの白いひとだった。スタンドのない自転車をそのまま浜に打ち捨ててトンネルに入り、子どもたちが用意しておいて呉れた流木で壁をたたき始める。4つの偶数で構成されたカノンは5つになって、2メートルの大人の高い位置からの反響が加わって、複雑にリズムを刻み始める。金髪をアップした女性ボーカルは引っ込み、アルトサックスが代わりを務めるようになった。モニターからは黒い男の映像と字幕は消え、窓の外の景色は、あの時代の砂上に建ったマンションが、囲った敷地ばかり広かった官立の施設跡に建てられたマリンビュー目当てのマンション群が、ドミノ倒しのように順々に砂丘に潜って消えていく。もう、あの頃一番高かった展望台を邪魔する建物はいなくなった。
いちじく湯は、ひとさじ残らず食べ終えた。きっと、あそこの二人のカップもひとさじも残っていないはずだ。