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いきおいよくドアが開く。
<ルージュ工房>で留守番をしていた僕は、戸口に立つ家主の姿を認めた。
「ルージュさん!」
僕が声あげたのは、彼女が全身血まみれで、肩を震わせながら荒々しく息をしていたからだ。
「どうしたんですか! いったい、なにがあったんです!?」
「しくじっちまった……」ルージュさんが答えた拍子に、押さえていた腹部から生暖かい血が流れ出す。「まさか、あんなにやばい仕事だったとはな……」
「と、とにかく奥に行きましょう! 傷の手当をしないと」
肩を貸そうとする僕を、ルージュさんが空いているほうの手で制す。
「悪いな、シャル。どうやらあたしはここまで――」
バケツいっぱいの量はあろうかという血を吐き出し、ルージュさんが崩れ落ちる。
慌てて抱きとめた僕は、彼女と一緒になって血だまりの上にへたり込んだ。<王立魔学技術局>の象徴である白いローブが、見る間に赤く染まっていく。
「しっかりしてください!」
僕はなりふり構わずルージュさんを揺さぶったが、彼女の赤い瞳はすでに精彩を欠いていた。
どこからともなく一匹の蠅が飛んできたかと思うと、その目に止まった。それでもルージュさんは、まばたきひとつしなかった。
やがて僕らは沈み込んでいく。
赤黒い血だまりの底無しへと。
もがけばもがくほど深みへとはまっていく。
深く……深く……沈み込んでいく。
「ルージュさああああああん!」
絶叫が尾を引くなか、僕は目を開けた。
身体を包むごわついたベッドと枕、それに着たままでいたローブまでが、汗でぐっしょりと濡れていた。
「夢? 嫌な夢……よかった、夢で」
すぐにでも現実感を取り戻したい一心で、僕はそう繰り返した。
窓の外の空は濃い紫色に変わっており、宿屋が面した目抜き通りからは夕食の時間を前に町の人々の和やかな話し声が聞こえてくる。
起き上がった僕は暗く見通しのきかなくなった部屋の中で手を伸ばすと、書き物机の上に置かれた水差しを探り当てた。
中身の半分を一気に飲み、ようやく息をつくことができた。
渇きと一緒に悪夢を洗い流せたようでほっとする。僕はそのままの姿勢で、身体と頭から眠気が過ぎ去っていくのを待った。
「今朝は良い夢が見れたのに……」
夕闇の中、暗い部屋で独り言を口にするのはあまり良い傾向とは言えない。
「そういえば、今朝は起きたあとのほうが悪夢みたいだったな」
ぽつりと言ってから、僕は思わずふき出した。
もちろん、いましがた見た夢とは比べるべくもない。まるでいまでも、自分のローブが赤く染まっており、手に抱きとめたルージュさんの感触が残っているかのようだったからだ。
あの夢は、そんな恐ろしい生々しさをはらんでいた。
落ち着きをだいぶ取り戻せたからか、空腹を感じていることに気づく。
外に出て、この宿屋と同じ並びにある<ロザリンド>へ食事をしに行くのもいいかもしれない。
あの店の料理はとても美味しいし、なによりロザリンドちゃんとターニャさんがいる。
ロザリンドちゃんは色々な意味で常識外れだし、ターニャさんは窓掃除だけで濡れネズミになるようなおっちょこちょいだ。それでもあのふたりのことを考えると、自然と心が安らぎ、先ほどの悪夢も薄っぺらなものに感じることができた。
ルージュさんの居場所がわからないいま、この町で唯一の知り合いと呼べるのはあのふたりしかいない。
水差しを置いてベッドから立ち上がった僕が部屋の外に向かったのは、空腹を満たしたいという気持ちより、ふたりに会いたいという気持ちからだった。
宿屋を出た僕は、目抜き通りにある屋台で買い物をする人物の姿を見て足を止めた。
取り出した銅貨を背伸びして店主に手渡すその少女の背中で、ふたつに結んだおさげ髪が揺れている。昨日の夕方、ルージュさんの家の前にいたあの子だった。
このあたりに住んでいるのだろうか。そんなことを考えながら見ていると、こちらを振り向いた少女と視線がかち合った。
「こんにちは。あ……こんばんは、かな」気まずさを拭うように僕は少女に声をかけた。「<ルージュ工房>に来てた子だよね? ひとりで買い物かな? 偉いね」
言いながら一歩近づく僕に少女は後ずさると、踵を返して一気に駆け出していった。
その動きは、撫でようと近寄ってきた人間から逃げる猫さながらだ。
とり残された僕は、引き留めようと手を伸ばしたまま、その場に佇んだ。
「誘拐? 感心しないわね」
背後から突然かけられた声に振り返ると、目の前にロザリンドちゃんの巨体があった。
「ロザリンドちゃん。どうしてここに? というか、人聞きの悪いこと言わないでください」
「買い出しよ。店を開けてから食材が足りないことに気づいたの。もう、嫌になっちゃう」ロザリンドちゃんは両脇に抱えたふたつの頭陀袋を持ち上げた。「あら、あの子ロレッタちゃんじゃない?」
ロザリンドちゃんが目をすがめながら、遠くに去っていく少女の背中を見て言う。
「知ってるんですか?」
「まあね。うちの店で面倒見てあげようかって持ちかけたことがあったのよ。それも結局、あの子の親戚がなかなか首を縦に振ってくれなくてね。やっぱりお酒を出すようなお店はまずかったわよね」
「原因はもっとほかにあるかと思いますが、なんにせよ保護者の方は常識にあふれているようですね」と、そこでふと気づく。「親戚って……あの子はご両親と一緒ではないんですか?」
「本人がいないところでその人の過去を簡単に喋るのはダメよ。もちろん、子供も大人も関係なくね」
首を横に振るロザリンドちゃんに、僕は恐縮する前にきょとんとしてしまった。
「どうしたのよ?」
「あ、いや。すみません。ロレッタちゃんのことを詮索したこともそうですけど。人の過去についてルージュさんも同じこと言ってたなって」
「アリアちゃんが?」
ロザリンドちゃんは丸くした目をすぐにすぼめると、ふっと笑った。その目つきは優しく、僕はなぜだか胸を締めつけられるようだった。
「いい? あんたもここでしばらくやっていくわけだし、いいこと教えてあげる」ロザリンドちゃんが袋を胸に抱え、空いた手の人差し指を立てる。「その人の過去を知りたければ、本人の口から直接教えてもらうこと。第三者が吹聴するなんて御法度よ。それがここのルールなの。わかった?」
「はい、肝に銘じます」
「まあ、田舎ならではのルールっていうか、風土かしらね。ここじゃ誰もが誰かの隣人なのよ。あんたが都会育ちだったら、ぴんとこないかもしれないけど」
確かに中央ではあまり意識しないことかもしれない。
それは中央では生活している人が多すぎるからでも、彼らの過去が軽いものだからでもない。ただ単に、あそこでは誰もが誰かに興味を持つことがないのだ。
だが、ここは違う。
中央のように人間を単位や数値で計らず、たとえ相手が子供であっても個人として尊重するのだ。だからこそお互いに信頼が生まれるのかもしれない。
ロザリンドちゃんを使ってルージュさんが僕をからかい、ロザリンドちゃん自身もそれが織り込み済みであるかのように。
そんなやりとりができるのも、お互いがお互いを信頼しているからこそなのではないか。
つい昨日この町にやってきたばかりの僕は部外者だ。
だからこそ、そんな人々が自分たちの作り出す輪の一員であることを羨ましく感じた。
「確かに変に見えるかもね。でもここにやってくる人間は、みんながみんな事情を抱えてるの」
ここが吹き溜まりだとルージュさんは言っていた。
魔学技術が発展し、急激にさびれてしまった町の片隅。国の端にあるそんな山間の土地は、確かに世界の袋小路のようだ。
「ところで、いつまでもレディに荷物を持たせてんじゃないわよ。どうせ夕飯まだなんでしょ。うちでご馳走してあげるから手伝いなさい」
押し付けられるように持たされた荷物の片方は、両腕が抜けるのではないかと思えるくらいに重たかった。
ロザリンドちゃんはこんなものを軽々と小脇に抱えていたのか。それに……
「いちおう、僕もレディなんだけど……」
言いながら、目抜き通りを行くロザリンドちゃんを僕は追いかけた。
足を前に出すたびに身体が大きくふらつき、関節が悲鳴をあげたが、それでも荷物を任されたことは嬉しかった。
ほんの少しだけ、輪の中に入れたような気がした。