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アリア・ルージュの来歴表  作者: 千勢 逢介
第一章 『良いときも、悪いときも』
5/61

5

「ねえ、起きて……」


 優しい声と香水のにおいに耳と鼻をくすぐられ、僕はゆっくりと目を開けた。

 ぼやけた視界に、頬杖をついて微笑みかけてくるターニャさんの姿が映る。


「あれ、僕は……」そう言ったつもりだったが、まともに動かない舌ではふがふがとしか喋れない。

「もう、寝坊助さん。あんなにたくさん飲んじゃって」


 ターニャさんがくすくすと笑う。吸いこまれた挙句に埋もれてしまいそうなほど柔らかい笑顔だ。その表情を目に、僕は安らかさと至福を感じた。

 店内をきびきびと歩く彼女は素敵だったが、こうしてゆっくりとした時間に身を置いている姿も魅力的だ。

 同性なのに、まるで恋人たちのようにふたりきりのひとときを過ごしているような気分になる。

 中央から遠く離れたせいか、僕の価値観もそれなりに多様化の兆しを見せつつあった。


 ターニャさんはいま、ひとつにまとめていた髪をほどいており、それが彼女の女性らしさをぐっと引き出していた。


「髪、意外と短いんですね」

「え? なあに?」


 ターニャさんが訊ねる。どうやらまだうまく呂律がまわらないようだ。


「それで、このお店はどうだった?」

「最高です」僕は答えた。少しずつ活舌がよくなっているのを感じる。「ターニャさんは綺麗だし、お店の雰囲気もばっちり。それにロザリンドちゃんの料理が絶品で……」


 ふたたび訪れようとしているまどろみの中、目の前のターニャさんが野太い声でこう応じた。


「あら、嬉しいこと言ってくれるじゃない」


 その声を耳に、僕の視界と意識の焦点は頭をぶん殴られるような衝撃でもって一気に定まった。

 目の前のターニャさんが消え、頬杖をついた姿はロザリンドちゃんに変わっていた。


「のおぅ!」


 奇声とともに僕は椅子から立ち上がった。


「あ、シャルさん起きたんですね。目を覚まさないから心配してたんですよ」


 店の奥の床を掃除しながら、髪を結わえたままのターニャさんが言う。

 どうやらあちらが本物で、夢うつつの中で僕が会話していたのは偽物……もといロザリンドちゃんだったようだ。


「で、どこまで覚えてるの?」


 悲しいぐらいの現実感を伴ったロザリンドちゃんが訊ね、水を差しだしてくれる。そんな彼女の優しさもまた、現実のものだ。


「ええっと、食後にもう一杯ってところまでは記憶があります」水を受け取りながら僕は言った。「というより、段々思い出してきました」

「あら、それじゃあ結構頑張ったのね。でも、ダメよ。アリアちゃん、飲み食いの量が人並み以上なんだから。あの子に合わせてたら身体がもたないわよ」

「骨身に染みてます……それで、ルージュさんは?」


 僕はあたりを見まわした。店内にはルージュさんはおろか、僕たち三人以外に誰もいなかった。蝋燭の火も完全に消えており、店内は魔法が解けたかのように殺風景なものになっていた。


「先に帰ったわよ。あんた、そうとう面倒くさい絡み方してたじゃない」

「なんだかそんな気が……」


 コップを傾け、湧き上がるような不安を水と一緒に飲み下そうとしたが、そんな意思とは裏腹に記憶が生々しくよみがえってきた……




「ルージュさんはもっとご自分の仕事に誇りを持つべきです!」


 手にした葡萄酒がこぼれるのも構わず、赤ら顔の僕は据わった目をしながらそう言った。


「技術者としてそんなに素晴らしい腕前をしてるんですよ。自覚あるんですかぁ?」

「ああ……鼻にかけるつもりはないけどな。誉め言葉として受け取っておくよ」

「そんな謙遜してどうするんですか?」僕はジョッキをいきおいよく置いた。「いまや魔学技術はこの世界に欠かせないものなんです! 魔学は人々の生活を豊かにして、未来を希望あるものにするんですよ!」

「なんだよもう、絡み酒かよ。こんなことなら飲ませるんじゃなかった。面倒くさいなあ」

「面倒くさいとはなんです!? いいですか? 魔学は人々の生活を豊かにして、未来を希望あるものに……」




 完全に思い出した。

 昨夜はルージュさんに、自分の魔学技術に対する情熱について一席ぶったばかりか、酔っ払いの悪しき風習として同じ話題を何度もぐるぐると繰り返してもいたのだ。


「アリアちゃん、ひとり暮らしでしょ。だからつきっきりであんたの介抱をさせるわけにもいかないし。そもそもあんたが酔い潰れたとき、ここにはかよわい乙女三人しかいなかったから、運ぶこともできないわけじゃない?」

「え? かよわいって、ロザリンドちゃんなら片手で……え?」


 僕の疑問を無視してロザリンドちゃんが続ける。


「かといってあんたの家も下宿先も知らないから、仕方なくここに置いてあげたってわけ」

「それは、とんだご迷惑を……僕もおいとまします。まだ中央行のオーブは動いてるかな。もうとっくに閉店時間も過ぎてますよね。おふたりとも申し訳ありません」

「なに言ってんのよ」

「いえ、気にするなと言われましても、これ以上ご厚意に甘えるわけにも……」

「そうじゃないわ」


 ロザリンドちゃんが通りに面した窓に親指を向ける。

 そこからは朝日が差し込み、新しい一日を迎える町の人たちが行き交っていた。


「もう開店時間よ。うち、モーニングもやってるの。食べてく?」


 絶句した僕は、のどかな朝の風景を切り取った窓とロザリンドちゃんを、交互に眺めた。


「あらなに? あんたいまさらわたしの美貌に見惚れてるわけ?」

「念話!」

「念話?」

「念話ができるところ! この近くにありませんか!?」


 ロザリンドちゃんはすぼめた口から息を吹くと、カウンター裏にあるドアを示した。

 お礼もそこそこに、僕はふらつく足取りでそちらへと駆け出した。


 魔学が確立してもっとも発展したのが、この念話という技術だろう。

 人々は念話ができる機能を小さな水晶板などに落とし込むことで、遠く離れた人々と会話ができるようになった。いまだに手紙のやりとりをする機会はあるものの、主に中央に住む人の暮らしの中で、この五十年間で急激に普及したのはこの念話だ。


<ロザリンド>の事務所にも、固定式ではあるがこの念話用魔機が置いてあった。


 相手が念話に出るまでのあいだ、僕は祈るような気持ちで寝癖を撫でつけていた。

 会話をする相手の顔が見えないことで不安を感じないようにという配慮から、初期の念話用魔機には先方の姿を映し出す機能が備わっている。


 事務所の魔機も見たところ年代物で、こちらの外見が筒抜けになる仕組みになっていた。少しでも二日酔いの痕跡を消しておくにしくはない。

 若者に声だけを届ける小型の念話用魔機が普及するのも、こうした機能に不都合を感じる世代だからだろう。

 門限を大きく過ぎている時間帯に、親からの念話で盛り場にいることを知られたいと思う若者はいるまい。

 普段はそうした違いをあまり気にしたことがない僕も、今朝ばかりはそんな若者の仲間入りを果たしていた。


<魔学技術局>の交換手に告げた相手が念話に出る直前、僕は居住まいを正した。


「おう、ホワイトじゃないか。どうした、こんなに朝早く?」

「はい! おはようございます、教官殿!」


 念話用の魔機に写ったのは、僕の教育係であるスヴェン教官だった。

 眠たげな眼差しをした四十がらみの男性で、こけた頬から生える無精ひげの姿は、僕と同じ白いローブを着ていなければ、身を持ち崩したばくち打ちのようにしか見えない。


「大変申し上げにくいのですが、昨晩は諸事情により研修現場から中央に戻れませんでして……遅ればせながらご報告のため念話致しました」

「その件だな。おれも昨日の当直から聞いたぞ。ダメじゃねえか、ちゃんとやることやっとかなきゃ」


 教官の言葉はどこか緊張感を欠いていたが、僕は平身低頭した。新米の成績や配属先はすべて、この教官が走らせるペン先ひとつで決まる。

 お酒の失敗のせいで開発への道が閉ざされまいと、僕は必死だった。


「まあいいや。ところでさ、おまえそっちで下宿のあてなんかある?」

「下宿、ですか?」急に話題を変えられて面食らう。

「内々で話し合ったんだがな、昨日みたいなことが続いてもよくないだろ。どうだ、しばらくそっちに滞在してみないか? 中央から毎日そこまで通うのも大変だしな。上にはおれから言っておくからさ」

「ええ?」

「よし、決まり。これは教官命令な。最前線で研鑽を積んでこい。以上! ところで……」


 僕が断ろうとする間もあらばこそ、スヴェン教官はふたたび話の向きを変えた。もっとも、教官命令と言われれば最後、僕にこの決定を覆す権限は無いのだが。


「魔女の様子はどうだ? 相変わらず厳しいか?」


 魔女、とはルージュさんのことであり、彼女のそんな異名を僕に吹き込んだのはスヴェン教官だった。


「ええ……たしかにルージュ女史は厳しくもありますが、修理の腕前は素晴らしいと思います」

「素晴らしい、ね……おれに言わせりゃあいつはそんなもんじゃねえ、一流さ」

「一流、ですか?」

「初日を終えたばかりじゃわからないかもしれんがな。おれはあいつのそんな腕を見込んで、おまえを預けたんだ。ま、見てればそのうちわかるよ」


 ルージュさんの腕が一流。知り合ってからの長い月日の中で、誰かをからかうことこそすれ、褒めることなど一度もなかった教官からそんな言葉が出るのは驚きだった。


「あの、ひとつ質問をしてもよろしいでしょうか?」

「言ってみろ」

「はい。教官はなぜルージュ女史のことを魔女などと呼ばれるのですか? 彼女の技術者としての能力となにか関係が?」

「そうだな、おまえにはそれを知る権利がある」


 真剣な教官の様子に、僕は渇いた喉を鳴らした。


「あいつ……」

「はい……」

「酒が滅法強いだろ?」

「は?」

「だから酒だよ。酒樽が山と積まれりゃ、それをみんな平らげちまういきおいだ。おまけに気性も荒い。昨日なんて朝から念話越しに怒鳴られちまった。で、あいつと酒を飲むたびに怒鳴られたおれは、いつしかこう思ったんだ。魔女みたいに恐ろしいやつだ、って」

「そんな理由で?」


 というより、昨日の朝ルージュさんの念話の相手はスヴェン教官だったのか。


「そんな理由さ。それ以上なにを期待してたんだ? それじゃあ、さっさと下宿先を見つけろよ。今日中に罷免状の権限も増やしといてやるから。ああ、それからな。昨夜に懲りたらもう深酒はするなよ」


 それじゃあな、と教官は一方的に念話を終えた。なんと、最初から僕の醜態はすっかりばれていたのだ。


 事務室にはなにも映し出さない水晶板と、呆然とする僕だけが残された。

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