第七話 魔竜少女とダイナー1
大きな紙袋を左手に提げ右手でご機嫌な足取りの魔竜少女の手を取り、旭はアンナに礼を言って教会を後にした。
小春日和の住宅街を歩くザジの足は軽やかで、譲ってもらった少しだけくたびれた黒いスニーカーが楽しげに音を立てる。
ステップを踏む様に歩を進めるザジはしきりに旭の右腕を揺らしながら、瞳と同じ赤いリボンで結ばれた金色の髪を踊らせていた。
旭の視界の端で跳ねる絹の様な金色の髪は竜の尻尾と言うより、嬉しさで振り切れそうな犬の尾だ。
「そんなに嬉しいのか?」
「あぁ。どこへでも歩いて行けそうだな」
ゴムソールの具合が気に入っているのか、顔を輝かせて何度も何度も確かめる様に舗装された道路を足裏で踏み締める。
爪先で突いてみたり、踵を鳴らしてみたりと魔竜の足元は忙しない。
「異世界出身からしたらゴムソールは珍しいか」
「知る限り人間達の靴の歴史は皮サンダル止まりだし、そもそもアルダ・イーヴェでオレには不要だ」
言われて旭は納得する。日本だから少女の姿に留まっているが、本来ならば黄金の魔竜としての姿をしているのだ。
恐らく鋭い爪を持っていたり、硬い鱗に覆われていたりするのだろう。ザジには足を保護すると言う概念がそもそもない。
ただサイズの合わない安いゴムサンダルを先ほど使っていたこともあり、今履いているスニーカーがそこそこ良い履き心地だと言うことは分かる様子。
足も痛くないしな、とザジが飛び跳ねる。
靴擦れは絆創膏で応急処置をしてもらい、痛みはかなり軽減された様だ。
「服もアリアナとアンナの計らいで手に入った。あとは飯を食うだけだな」
小さな竜が己を誇示するために翼を広げる様に、ザジが手を繋がれたまま両腕を広げてアンナに見繕ってもらった洋服を旭へと見せつける。
スカートの裾に綺麗な花柄が刺繍された白いワンピースに、色の抜けたジーンズ生地のジャケット。明るい水色の生地は蜂蜜色の長い髪と鮮やかなコントラストを見せている。ただ、旭が一番最初に着せた肉食系と書かれた赤い寝巻き用の半袖シャツは未だに着ていた。
半袖シャツがアンバランスではあるが少し大人びた格好だが、小柄で細いながら顔立ちの整っているザジにはよく似合っていた。
孤児院で試着した際に褒めたら、親バカだな、とアンナがからかいの言葉を投げてきたのは記憶に新しい。
断じて親ではない、と口を開こうとしたが、ザジが満更でもなさそうな表情をしていたので言葉は引っ込んでしまったが。
「そうだな。昼飯にしては少し遅いけど、お店も混んでなくて丁度良いはず」
スマホを取り出して時刻を確認すると、十四時まであと数分と言うところだ。
住宅地を抜けて再び商店街のアーケードを歩く。人波も先ほどよりは少しだけ穏やかで、好奇の目を向けられることもない。
ネタシャツにボロ布パレオと言う格好をさせて歩かせていたことを、旭は今更ながら非常に申し訳なく思う。
教会を離れる際も、アンナからも口酸っぱく「自分の身なり以上に気にしてやれ」とありがたい言葉を頂戴した。
「ところで旭、昼は何を食べるんだ?」
さりげなく右手で腹を摩りながら、言外に空腹を訴えるザジの姿に苦笑を浮かべる。
「ハンバーガー」
「はんばーがー」
「そう。美味しいところがあるんだ」
言葉と意味を噛み砕く様にザジが反芻する。
何度も単語を呟き、口に馴染んだところで彼女は顔をあげて勝気な笑みを浮かべた。
「そのハンバーガーとやらはどんなものなんだ?」
「端的に言ったら、円盤型のパンで肉と野菜を挟んだもの」
ザジが眉間にしわを寄せて考え始めたので、説明が悪いな、と旭が謝罪した。
「一目見れば分かるよ。見た目からして美味しいし、何よりボリュームもある」
「ほう……それは楽しみにしていて良いと言うことだな?」
「ザジの好奇心を満たすものであると断言する——店の作りも」
それは楽しみだ、とザジが右手を強く引くので少しだけ歩を早める。彼女の足が気になったが、歩くことを嫌がることもなく、先ほどの様に痛がっている様子もない。
「場所が丁度、観音通りと教会通りの間くらいにあるんだ。家と教会の真ん中にあるから行く機会が割と多くてさ」
「なるほどな。今回の様に教会には相談へ赴くことが多いのか?」
「相談事よりは手伝いの方が多いかな。教会は定期的に地域住民に対してイベントを催してるし、あとは長期休暇に子供達の面倒みたりとかさ」
穂坂聖アリアナ教会は孤児院の子供達と地域住民との交流を目的として、バザーや交流会を始めとして季節ごとのイベントを催している。孤児院育ちと言う色眼鏡で見られやすい子供達への近隣住民への理解と配慮を目的としたものだ、と以前ガレが司祭が言っていた。
「殊勝だな」
「まぁ……ずっと世話になってるのは事実だし、チビ達も面倒みてやろうって思うしね」
民達の営みを見守りたいと言う彼女の気持ちの動きと同じだな、と旭は思い、楽しげな笑みを浮かべるザジの横顔に頷く。
人混みを泳ぐ様に二人で歩き、教会通りの中程を北側の観音通りへと折れる。
大通りから外れると、商店はあるものの人混みも疎らになり賑わいは少し落ち着く。
そんな通りの中程に『OCHAME DAD』と派手な色使いの看板がドアの前に置かれ、カラフルなネオンライトに彩られた店がある。通りに面した壁際は大きな窓ガラスが設置され店内が見渡せる様なっており、四人掛けのボックス席が五席と八人掛けのカウンターが一枚。昼のピークを過ぎたからか、派手な洋楽がドアから漏れ聴こえてくる店内は穏やかな雰囲気が伺える。
商店街でも類を見ない個性的な店構えにザジが目を輝かせる。目に痛いと言う程ではないが、見る者に印象付ける外装は彼女の好奇心を刺激した様だ。
「かなり派手だな! 星の様に光っているではないか!」
興奮冷めやらぬと言う様子でザジは旭の腕を引いたり手を握ったりする。
落ち着け、と一言伝えると、しかし彼女は頰を上気させ期待の籠もった目で旭と店を交互に見やっていた。
「店のオヤジ曰く、アメリカン・ダイナーらしい。俺は詳しくないからコメントを控えるけど」
「それは店の名前か?」
「いや、違う。お店の種類って言った方がしっくりくるな」
「この商店街には色々な顔を持つ店があるんだな」
頷きながらザジが旭を見上げている。
紅の双眸がじっとこちらの瞳を見つめており、
「わかったよ。腹減ったもんな」
訴えに旭は苦笑した。
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店内に入った二人を一番最初に迎えたのは店内に流れるテンポの早い洋楽だ。ご機嫌にギターを掻き鳴らし、フルスロットルのバイクよろしくメロディーをこれでもかと走らせている。
ドアが閉まるのとカウンターから威勢の良い野太い声が飛ぶのは同時。少々騒がしいBGMをものともしない、声の主である禿頭の大柄な男が満面の笑みで片手を振っていた。
「良く来たな! 美人連れてデートとは羨ましい!」
「こんにちはジョン。羨ましいだろー代わってあげないけどな」
厳つい顔に人懐っこい笑みを浮かべる筋骨隆々の禿頭の大男が、旭の言葉に芝居がかかった動きで天井を仰ぐ。
百九十センチ近い体躯に鎧の様な筋肉と光沢を持つ禿頭、そして何よりも目を引くのが左半身の刺青だ。
牙の様なトライバルのタトゥーが左手の指先から首筋を走り顔の左半分も飾り頭の天辺まで彫り込まれている。
物々しいタトゥーのせいで近寄りがたい雰囲気があるが、薄いブラウンの瞳は子供の様に輝いていた。
彼は手招きして二人をカウンターに座る様に促すと、右手の親指で自身を指して口を開く。
「ジョンだ。ジョン・ボルドマン。ここ『OCHAME DAD』の太陽と言えばオレのことよ!」
白い歯を見せて力強い笑みを作り、己の左手で禿頭をしばき倒す。小気味良い肌を打つ音が騒がしい店内に響き、カウンターの一席離れた場所で食事をしていた半袖シャツの女性が肩を震わせる。
そんな女性にジョンはウィンクを一つ飛ばし、旭の前にメニューを置いて代わりにザジへは右手を差し出した。
「はじめまして小さなレディ。ご機嫌いかがですか?」
「悪くない、気持ちの良い男だな」
差し出された大きな手をザジが握り返しながら続ける。
「ザジ・ダハクと言う。南の大陸で《雄々しき太陽》と呼ばれている」
「南……オーストラリア出身なのか? 雄々しいって言うよりはお花みたいに可愛いけどな!」
小さな右手を離したジョンの視線が旭へと向く。
「子供……な訳ないよな。友達って感じでもなさそうだし……孤児院関係でもないよな?」
「アキラさんの知り合いなんだ。色々と縁があって、預かることになった」
あぁ、とジョンは妙に納得した様に頷いた。
そして彼は頷きを苦笑に変えて肩をすくめる。
「預けられたザジの前で言うのもなんだが、毎度大変だなお前も」
「慣れたよ。それにアキラさんには世話になってるし、ザジも聞き分けが良いから助かってる」
「あぁ、世話になるのだから旭の言葉はしっかり訊こうと思ってな」
旭の言葉に、メニューを興味深げに見やるザジが続く。
彼女の赤い瞳は文字を追い載せられた写真で止まり、美味そうだ、と小さく言葉をこぼす。
ジョンはそんな彼女の姿に淡い笑みを浮かべて尋ねる。
「まぁ……身の上話より食い気だよな。ザジ、文字は読み書きはできるのか?」
「いや、話すことはできるが読み書きは難しい。追々、覚えれば良いと思っているが……」
「随分と流暢な日本語だが、アキラさんに教わったのか?」
「そうなる。アキラについて回っていた時期があったから、その時に教えてもらった」
「そうか。確かにアキラは変人だが、語学は堪能だからな」
伊達や酔狂で世界中を回ってないしな、とジョンは笑う。
「おーいジョン、早く旭と連れオーダー取ってやれよ。嬢ちゃん、待ちくたびれてるだろ」
カウンターの奥側、オープンキッチンとなっているスペースから凛とした女声が飛ぶ。
背中の中程まである黒髪を頭の高い位置で一纏めにした、細身の、しかし女性としての魅力を持つ体つきをした長身の女性。眠そうな垂れ目と泣きボクロ、艶やかな唇には火の付いていないタバコを咥えており、白いカッターシャツに赤いタイを緩く締めた黒いサロン姿が良く似合う。
く、と喉の奥で彼女は小さく笑うと、旭に声を投げかける。
「旭も、嬢ちゃんにメニュー読んでやんなよ。読めないんだろ、字? レディのエスコートはスマートに、だ」
「わかってるよ。待たせてすいませんね」
いいのさ、と彼女は鷹揚に手を振ってこちらに歩いてくる。
流石に子供の前で遠慮はしたのか、咥えていたタバコはキッチンの中に置かれたゴミ箱へと放られた。
「こんにちは、おチビさん。私は百代、ここのオーナーの娘で店長ね。気軽にモモで良いよ」
「ザジだ。では気軽にモモと呼ばせてもらおう」
しなやかなモモの手をザジが握る。
「私のオススメはこのパティとチーズ盛り盛りのやつ。明日の昼まで飯食わなくて良いくらいに腹膨れるよ」
「ではそれで頼む」
「迷えよ!」
モモが開かれたページのメニュー写真の一つを指し示すと、ザジが躊躇うことなく頷きと共に注文をして、そのやりとりを見ていた男二人がツッコミを入れた。
「店主が進めてくれたものだ、悪くはなかろう」
「まぁ……良いけど。俺は卵とベーコン」
「あいよ」
モモが返事をしてジョンが伝票に注文を書き込むと、揃ってキッチンへと引っ込んだ。
そして交代する様に旭とザジへ声がかけられた。
声の主はカウンター席に座るグレーのパーカーを羽織った女性客だ。
「ザジちゃんだっけ? 靴擦れはもう大丈夫?」
カウンターに両肘をつき顔のまで指を絡み合わせた姿勢で、彼女は猫の様な笑みを見せた。
誰だ、と旭とザジが怪訝そうな表情を向けると、女性はパーカーの前を開いて中に着ていたシャツを見せる。
大きめの胸が主張する黒い半袖シャツには白い色で『唐揚こかとりす』とプリントされていた。
「芦野みゆきです。バイト中に君たちがお店の前で騒いでたから、こんなところで会うなんてびっくりしたよ」
こんなところとはご挨拶だ、と百代の声がキッチンから飛んできて、みゆきと名乗った少女は愛想笑いを浮かべた。
旭はべっこう飴を差し出してきた老婆が座っていたベンチの後ろにあった旗を思い出す。
ギョロ目の鶏が描かれた奇妙な唐揚屋の旗だ。彼女はそこのバイトらしい。
肩口までの焦げ茶色の髪と瞳で、猫の様な愛らしい顔立ちをしている。
「それは……ご迷惑をおかけしました」
「大丈夫だよ。ちょうど、お客さんの切れ目だったし。ザジちゃん、お洋服買ってもらったの?」
「旭が教会の孤児院でもらったものだ」
「よかったね。とっても似合ってるよ」
「無論だ。旭もそう言っている」
みゆきの賛辞にザジは胸を張り、旭はそんな彼女を見て苦笑をこぼした。
悪い気はしないが気恥ずかしいな、と言うのが正直なところだ。
「ザジちゃんは何歳なの? ジョンさんとの話を聞いてたら、オーストラリア出身だとか」
みゆきの問い掛けにザジは困惑した様に旭を振り返った。
どうする、と彼女の赤い瞳が細められて眉が寄る。
旭は少し考えたあと、ザジの頭を一度撫でて口を開く。
「アキラさん——俺が世話になっている人でザジを預かった人から、何も聞くなって言われてるんです。細くてちっこいから正確じゃないけど、年齢は八歳から十歳位だと思う。流暢に日本語が喋れるのが幸いかな」
「すまないな、みゆき。生まれた場所も親の顔も覚えていないし、年齢もわからないんだ」
「そんな……ずっと一人だったの?」
眉尻を下げて口を開くみゆきにザジは頷く。
ザジは金色の髪を指先で遊びながら、困った様に淡い笑みを浮かべた。
「そう……だな。親切になってくれる者は大勢いたが、一人だった。ただ、旭がその分優しくしてくれるから、オレは幸せだと思う」
言葉に、みゆきは顔を覆って店の天井を仰ぎ見て、数度深呼吸をする。
と、彼女はゆっくりとザジに向き直ると、そのまま彼女の頭を胸に抱えた。
「健気! 超健気! ザジちゃん、これからたくさん美味しいもの食べたり、可愛いお洋服着たり、楽しい場所で遊んだりしよう! 大丈夫、お姉ちゃんがたくさん連れ回してあげるから!」
みゆきは涙声で少女を豊満な胸に埋める。
ぐ、とザジのくぐもった声が聞こえ、抜け出そうともがき、諦めてカウンターを三度タップした。
しかし感極まったみゆきに少女のシグナルは届く事なく、ザジはさらに三度のタップをしたあと、ゆっくりと四肢から力を抜いてゆく。
尻をカウンターの丸椅子に乗せたまま四肢をダラリと力なく垂らす異国の少女の姿は非常にシュールだ。
「芦野さん、芦野さん。ザジがギブアップみたいだから離してあげてください」
旭の言葉にみゆきは己の胸元を見て、ぐったりと脱力するザジを認めて慌てて手を離した。