第六話 藍染坂と教会2
マザー・アリアナ。
今年で六十三歳を迎える修道士であり穂坂聖アリアナ教会の元司祭。二十歳に来日して以降、このアリアナ教会と孤児院を守り続けて来た意気軒昂な女性だ。白内障を患ったのを理由に彼女の補佐として以前から教会に勤めていたガレアへ正式に司祭を引き継いで現場を引退し、現在は孤児院の経営に携わっている。
本名は瑞草・メーヴィス・A・チェスタートと言う。元々国籍はアメリカだったが、身寄りがなく、また日本人男性と結婚をしたのを機に日本へと帰化している。
ミドルネームのアリアナは、彼女が心の底から尊敬して師と仰いだ先任の司祭から頂いたものだ。
来客のために設けられた丸テーブルを囲みながら、アリアナはザジに自己紹介がてらそう語る。
殆ど見えていないの、と言うアリアナの頼りない視線は、だがしっかりとザジへと固定されていた。
老婆のほぼ光を見せない枯れた青い視線と、ザジの炎の様な輝きを持つ力強い視線がぶつかる。対照的な視線だな、と旭は黙って二人を見つめていた。
「とても不思議な雰囲気を持つ子ね……お嬢ちゃん、お名前を聞いてもよろしいかしら?」
「ザジだ。ザジ・ダハクと言う。初めましてマザー・アリアナ」
「ご丁寧にありがとう。とても勇敢な響きを持った素敵な名前ね」
アリアナは猫の様な愛嬌のある笑みではなく、歩んできた年齢の重みを感じさせる笑みを浮かべた。
包み込む様な力のある穏やかな笑み。
枯れた青い瞳には慈しみがあり、全てを見透かす様な光は深い海底の様にも思える。
「初めてあったアキラも旭も同じ様に不思議な感じがしたのを覚えてるわ……でも、もっと尊くて神聖なものに感じるわね」
アリアナはそう言ってザジに手を伸ばす。
彼女は壊れ物を扱うように褐色の肌に触れ、ガラス細工の工芸品へ愛でるように慎重な手付きで頰を撫でる。
ザジは身動きをせず、ただアリアナにされるがままだ。
彼女の手がザジの絹糸の様な髪をゆっくりと梳き、水を流すような仕草で指先から溢してゆく。
「久しぶりにアキラから声が届いたのよ。『恐らく旭が面白いやつを連れて行くから、力になってやってくれ』って」
「アキラと言うのは、旭が世話になっている魔女殿のことか?」
似てない声真似をしながら楽しそうに告げるアリアナにザジが尋ねると、彼女は驚きに目を丸くして笑みを浮かべた。
「アキラが魔女って知っているのね? 旭が話したのかしら?」
「違いますマザー。ザジが勝手に気付いたんです」
「そうなの、聡い子なのね。でもそのまま秘密にしておいてね、ザジ。アキラは騒がれる事が嫌いなの」
「十分に騒ぎを撒き散らす性格をしていますけどね、彼女は」
苦々しげな表情を作る旭に、アリアナは幼い少女の様に笑う。
そうね、と頷きながらも、しかしアリアナは言葉を続ける。
「でも、それ故に彼女は騒がれるのを嫌うのよ。良くも悪くも目立つ事を知っていますからね、彼女は」
「アリアナ! 今、魔女殿と連絡を取ることはできるのか? 是非とも頼みたい事があるのだ!」
溜め息混じりに苦笑を浮かべるアリアナに、向かい側に座っていたザジが詰め寄った。
小さな少女の手が細い女の手を取り、必死に懇願する様な姿。
しかしアリアナは残念そうに首を横にふる。
「ごめんなさいね、ザジ。力になりたいのだけれど、いつもアキラからは一方的に連絡が来るだけなのよ」
「そうか……それは仕方がないな」
ザジは項垂れると、突然詰め寄った事をアリアナに謝罪して旭の隣に腰掛ける。
細い小さな肩を落とし項垂れる彼女の背中を優しく撫でてやると、ザジは顔を上げて力ない笑みを浮かべた。
そのままこちらに少しだけ身を寄せてされるがままになっている。
犬か、と旭が苦笑を漏らすと、アリアナがこちらを楽しげに見ていることに気付く。
「今日はどんな御用かしら? 多分、ザジちゃんの事での相談だと思うのだけれど」
「そうです。ちょっと都合をつけて頂きたい事があって……」
「お部屋の都合ってなると、少し彼女が可哀想よ?」
「ザジはウチで預かると本人と約束したので、そこは絶対に違えません」
力強い旭の言葉にアリアナは満足そうに頷いた。
「それならばどうぞ。私の力になれる範囲であれば、聞きましょう」
手を叩き膝を揃え、改めてアリアナは旭に向き直る。
「実はですね……ザジの服をいくつか譲っていただけたらと。事情が複雑なので聞かないで頂けるとありがたいんですが……彼女、家に転がり込んできたとき裸同然で。今はなんとか着られるものを着せてますが、出歩く為にも最低限の服が必要なんです。もちろん、生活に必要なものはこっちで後ほど買い揃えますが」
「とても大変な目にあったのね?」
旭の言葉にアリアナが悲しそうな顔をしてザジの方を向く。
「そう……だな。大変と言えば大変だったが、気に止む必要もない」
「必要なものはアンナに用意させましょう。下着も含めて三着あれば大丈夫かしら?」
「ありがとうございますマザー。十分です」
「事務室にいると思うから、尋ねてらっしゃい。必要なものもリストアップして貰えばいいわ」
「何から何まで助かります」
いいのよ、とアリアナは朗らかな笑みを浮かべて頷く。
「あなたにもいつも助けられていますからね」
「いえ……小さい頃にお世話になりましたから」
気恥ずかしそうに告げる旭はゆっくりと席を立ち上がる。
「ありがとうございます、マザー。また時間を見つけて遊びに来ます」
「えぇ、楽しみにしているわ。ザジちゃんも、ぜひ遊びに来てね」
ゆっくりと旭の手を握り、差し出されたザジの手をアリアナが握る。
彼女はザジの手を両手で包み込むと、
「何かあったら、私のできる範囲で力になるわ。覚えておいて」
「わかった。その時はぜひ、マザーに頼ろうと思う」
「もちろんよ。まずは可愛いお洋服、見繕ってもらってね」
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人懐っこい笑みに見送られて部屋を後にする。
二人は並んで歩いてきた廊下を戻り、旭の先導のもと施設棟の中央へと向かう。
ザジは旭の右手を掴んで左足を庇いながらヒョコヒョコと歩いていた。
「足は?」
「靴擦れ? は大丈夫だが、やはり気になって変な歩き方になるな。膝と脚は問題ない」
「それはよかった」
「マザー・アリアナは随分と不思議な方だな。オレの国の聖職者とはまた違う清らかな雰囲気を持っていた」
「昔から頭が上がらないんだよなぁマザーには。なんか、ずっと見透かされてる様な気持ちでさ」
「ふむ……恐らく目が良いんだな」
「それ、皮肉を言ってるのか?」
ザジの言葉に旭が剣の表情を浮かべると、彼女は小さく首をふった。
少女は己の瞳を指差しながら、
「正確には力を持った瞳だ。オレの世界にも稀にいるんだ、精霊の姿が見えたり死者の魂を認めたりする奴が。瞳の色が不思議な色をしていたり、淡い光を灯していたりと特徴は様々だが、総じてオレ達には見ることの叶わない世界を見ている」
「ザジはないのか? そういう良い目ってやつ」
「ない。大体は賜り物だ。オレはなんとか感じる事ができる程度だよ……こっちにきてからはさっぱりだがな」
彼女曰く、断片的であるとは言え異なる世界のモノを視ると言うことは、文字通り神の所業なのだそうだ。
「だがマザー・アリアナが見ているものはそれらとはまた異なる……その個人が持つ色とか雰囲気とかだろうな。魂の色、人間性の根源と言ったところか。実に興味深い」
「あぁ……だからマザーがザジの方を見てフワッとしたこと言っていたのか」
「彼女の知識の中に該当するものがないから、似た様な言葉を選ぶしかないのだろうな。この世界には魔術の痕跡が殆ど感じられないからな」
ザジが困った様に小さく溜め息をつく。
恐らく彼女はその魔術の痕跡とやらを当てにしていた節もあるのだろう。
言外に手掛かりがない、と語る小さな少女にできる限りのことをしてやろう、と旭は心の中で思う。
旭はザジに声をかけると引き戸の前で立ち止まる。
軽いノックを三回、中から張りのある女声が聞こえ入室を促す。
「アンナさん、いますか?」
「いるよーこっちで会うのは久し振りだね」
スチール製のワークデスクが四つ向かい合わせに設置された簡素な部屋で、南側の窓から広い中庭を望む事ができる。
壁際にはいくつかの書類だなや壁掛けタイプのホワイトボード、小さな応接スペースが存在する。書類やファイルが乱雑に置かれていたりもするので、少々手狭にも感じる部屋で孤児院の子供達もあまり入りたがらない。
黒髪を一纏めにした血色の良い女性が、応接スペースに近い奥の事務机から顔をあげた。
彼女は背もたれに体を預けながら手を振り、こちらに来いとジェスチャーする。
アンナと呼ばれた女性は旭の顔を見て笑みを浮かべ、次にその隣で手を引かれて立つザジの姿を認めて目を丸くした。
「何アンタ……子供いたんだ」
「明らかに肌の色が違いますよね? しかも年齢も合わないでしょ」
「ちょっとした冗談よ、頭硬いなぁ。それで、なんか用事?」
「はい。この子アキラさんの知り合いで、結構な間ウチで預かることになったんですよ。ちょっと事情があって服を持ってないので、孤児院で都合つけて貰えないかと。マザーには許可もらってます」
「はいはい。お安い御用だよ」
アンナは椅子から立ち上がると、壁にかけてあった緑色のタグの鍵を手に取る。
「アキラさんの知り合いねぇ……いつも奇妙な物を送ってくると思っていたけど、ついには子供まで送ってきたか」
感慨深げにアンナは頷くと、ザジの前に両膝をついて目線を合わせる。
化粧っ気のない顔に勝気な笑みを見せてザジの頭を一撫でした。
「私はアンナ。マザー・アリアナの娘だよ。ここで孤児院の職員をやりながら、たまに学校の先生もやってるんだ。お嬢ちゃん、お名前は?」
「ザジ・ダハク。旭の家で今日から世話になっている。色々とよろしく頼む」
「お……びっくり。案外流暢な日本語が出るんだね——ちょっと尊大だけど。日本語の教育係はアキラさん? それなら理由はわかるけど」
アンナはザジの口から紡がれる言語に驚き、そして一人でに理由をつけて笑みを濃くした。
旭を振り仰ぐザジに声を上げて笑い、彼女の頭を軽く叩く様に撫でると事務室の外を指差す。
「ほら行くよ。ダサシャツにボロ布パレオってどう言うセンスしてるんだい」
「仕方がないでしょう、家に何もなかったんですから。出歩けそうな格好にした俺を褒めてもらいたい」
「はいはい、頑張った頑張った。ザジちゃんごめんねーこいつ、昔からセンスがないから」
「アンナさんよりはあると思ってるよ。何そのシャツ、ヤバすぎでしょ」
廊下を歩きながら旭はアンナのプリントシャツを苦々しげに批評する。
頭にエリンギを生やし上裸マッチョのサングラスをかけた黒人が、タバコを片手にポーズをとっているものだ。立派な大胸筋と腹筋にかけて、白いペンキでエリンゲストと書き殴られている。
ワゴンで投げ売りをされていたとしても、絶対に購入を躊躇うデザインだ。
「わっかんないかなぁーこのシュールさ。どこから何を突っ込んで切り崩して良いかわかんないこの感じが堪らないのよ」
「そんなシャツ着て仕事してるって聞いたら旦那が泣くぞ」
「これ渡してきたの旦那よ? 子供達にバカ受けって言ってね」
「嫁も嫁なら旦那も旦那かよ」
「確かに受けたけど男の子達にバカ呼ばわりされてね……一人一人丁寧にしばき倒してやったわ」
「具体的には?」
「これでもかって位にエリンギ食わせてやったわよ。泣いて嫌がった奴には同じ様にしてやるからなって言って」
「マジックペンで胸に落書きか?」
「まさか——バリカンで髪型をエリンギにするのよ」
地獄だな、と旭が呟く。
泣き叫ぶ子供を押さえ付けてアンナがバリカンで髪をこそぎ落としていく姿を想像する。
実にたやすく想像できる光景に苦笑を漏らすと、ふと、廊下の奥からこちらを見やる姿を発見した。
二人組の坊主の小学生位の男の子で、旭達——正確にはアンナ——と目が合うと彼らは震えながら姿を消す。
「トラウマ植え付けてんじゃねぇか!」
「人をバカにするっつーのはそれくらいのリスクがあるって幼いながらに知って良かったじゃんよ」
「正確歪むぞあのチビ共……可哀想に」
「ほーん。さすが昔はひん曲がってた男は言う事が違うなぁ」
哀れみの視線を廊下の奥に投げかける旭にアンナは面白そうに笑みをこぼした。
しまった、とバツが悪そうに顔をしかめる旭を他所に、ザジが興味深げにアンナへと尋ねる。
「アンナ、旭はどんな子供だったんだ?」
「こいつ? ひん曲がってたと言うよりは、可愛げがなかった感じかな」
アンナは倉庫と書かれた鉄扉の前で立ち止まると、鍵を回しながらしみじみと言葉を続ける。
解錠の軽い音がして、アンナはゆっくりとドアを開いた。
「育ての親がアキラさんだったって言うのもあるんだけどね。まぁ、風変わりな子供だったよ。母さんもガレアさんも孤児院の職員がみんな苦労したよ、この子には」
「ふーん……問題児だったのだな、旭よ」
「十年以上も前の話だよ。恥ずかしいからやめて貰えると嬉しいけど?」
倉庫を進むアンナに続くザジは含んだ笑みを見せて旭を見やる。
旭は唇を尖らせながら前を歩くアンナに抗議するが、彼女は小さく笑うだけだ。
「強いて言うなら達観してたんだよ、随分と。五歳六歳の癖に大人顔負けのリアリストでね。御伽噺全否定って言うか……個人的には愉快だったけど、子供の個性として伸ばすにはちょっと強すぎたわね。幼少期から現実を見るのは悪くないんだけど、周りの子供への影響とかもあったから……」
「アンナさん」
「おっとごめんね。喋りすぎたよ」
語るアンナの名を旭が強く呼ぶと、彼女は肩をすくめて口を閉ざす。ザジが怪訝そうな視線を向けてくるが、小さく首を振って断りを入れる。
しかし彼女の手が強くこちらの右手を握るので、旭は小さく溜め息をついた。
「いわゆる除け者って奴にされたんだよ。小さい子って自分達と違うやつを弾きたがるから、それでな」
「なるほど。異端扱いされたのか」
「おっしゃる通りです。子供って言うのは残酷だからな……それくらいにしといてくれ」
「……わかった」
だがなおも右手を強く握るザジに旭が苦笑を浮かべると、アンナが薄笑いを向けていた。
なんだ、と眉間に視線をしわを寄せると、彼女は、別に、と肩を軽くすくめる。
「ザジちゃんには随分と甘いね。話すなって言った癖に」
「自分はアンナさんの名前を呼んだだけですよ?」
「はー! 可愛くない! 十年も十二年経ってもやっぱり変わってないわ!」
アンナが笑みを浮かべながら顔をしかめる。
だが彼女は旭を手招きしてスチール棚の衣類と張り紙がされた段ボールを指さす。
「もう良いよー旭なんてさ。ほら、これ出して。ザジちゃんせっかくだから可愛いの見繕ってあげるからねー」
唇を尖らせ、しかし金髪の少女に微笑みかけるアンナの指示にしたがって、旭は苦笑しながら段ボールへと手を伸ばした。