第十話 二日目の朝
目覚めは微睡みの中から意識が浮上することを言い、それは身体の末端から感覚が巻き戻るように感じるものだ。
旭は眠気に抗うように重い瞼を上げようと奮闘するが、春先の気候は否応無しに眠気を誘う。開け放たれた窓からは風と共に木々と花の香りが運ばれてきて、爽やかな朝の香りが鼻腔をくすぐってゆく。
ふと、旭は懸念する。
……はて、窓を開けて寝ただろうか。
未だ眠気に絡め取られる思考のまま、旭は寝返りを打とうとして、己の身体が動かない事を悟る。
金縛りか、と旭は眠気に瞼を閉じたまま、うんざりしたように小さく溜め息をついた。
だがこの程度のことで旭は狼狽ない。
なぜなら長年住んでいるここ襤褸の棲は、表向きは骨董商を営んでいる魔女であり叔母の藍染坂アキラが、今もなお世界中を放浪して収集する“曰く付きの品々”が収められた場所だからだ。
金縛りやラップ音は日常茶飯事で、“曰く付きの品々”が集まるこの店では、多少我が目を疑うことが起きても不思議はない。ゴツい甲冑が動き回ったり、牙を持った魔道書が腕を食い破らんと襲いかかることもあるし、ドレスを着込んだ西洋人形が突然笑い出すこともある。一週間ほど前は夜中に起きたら、おっさんの幽霊三人がダイニングで半裸酒盛りをしていてマジギレをかましたのは記憶に新しい。
故に旭にとって金縛りを始めとするアクシデントは既に日常を形作る一つの要素だ。だが慣れたからといって心地よいものではないのは事実。そして旭自身、身体の自由が効かないことに快感や悦びを覚えるタイプではない。しかも今日の金縛りはいつになく“重い”。
面倒くさいタイプか、とうんざりした気持ちで目を開ける。
獰猛と凶悪を具現した巨大過ぎる猛禽類の様な怪鳥が、太い脚で旭の身体を押さえ付け黄色い瞳で睨め付けていた。
「おわあぁあぁあああぁ————!」
旭は腹の底から喉が千切れてもおかしくない位の声を出して叫び声をあげる。金縛りやラップ音は経験しているし幽霊は見慣れているが、流石に怪物の類にマウントを取られたのは初めての経験だ。
「喰わないでくれ————!!」
伝わるかどうか分からないが叫ぶ。逃げようと身じろぎをするも、大きな足で押さえつけられた体はあまりの体重差にピクリとも動かないし、相変わらず巨大な怪鳥はじっと旭を睨め付けている。窓から差し込む朝日に照らされ鈍く輝く嘴が実に禍々しい。
ふと、部屋の外からバタバタと軽い足音がする。子供の足音だ。そして旭は思い出す。今、この襤褸の棲には自分以外にも居を共にする者がいる事を。
「大丈夫か旭! どうした!」
ドアを蹴破らんばかりの勢いで、いや実際に遠慮なく蹴飛ばされてドアが勢いよく開く。
翻るのは照り付ける太陽で彩った様な金色の髪。
燃え盛る炎を閉じ込めた宝石の様な真紅の瞳。
張りのある健康的に日焼けした褐色の麗しい肌。
異界において《雄々しき太陽》と崇め奉られ、南大陸の信仰の象徴たる黄金の魔竜。活力と躍動感に満ち溢れた小柄な全裸の少女が、旭の叫びに応えるように勇ましく突入してきた。
「——ちゃんと服を着なさい!」
自身が巨大な怪鳥に喰われる心配よりもまず、昨日に続き全裸で登場した同居人である異界の魔竜に旭は心の底から苦言をぶん投げた。
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「全く……使い魔程度で騒がしい男だな」
ザジは唇を尖らせながら、薄切りのプロセスチーズと目玉焼きのトーストを齧る。焼き立てのパンの香ばしい香りと食感、チーズと目玉焼きの味に彼女は顔を綻ばせる。
ぶつくさと文句を言いながらも、しかし楽しそうな顔で朝食をとる彼女の向かい側に座る旭は、コーヒー片手に新聞に目を落としたまま、仕方ないだろう、と苦虫を噛み潰した様な顔で口を開いた。
「寝起きにあんなのが体の上に居てみろよ。叫んだだけ凄いと思うよ、俺は」
むしろ失神案件だろ、と旭は鼻を鳴らす。
今朝、ベッドの上で旭を見下ろす様に睨め付けていたのは、世界を放浪している魔女であり叔母のアキラが寄越した使い魔だった。
成人男性を優に上回る体格を持った凶悪な相貌の巨大な使い魔は、随分とドスのきいた低い声で主人である魔女の近況を告げると、さも当然のようにザジの事を知っており、彼女を襤褸の棲に住まわせる事を旭に念押しした。そして最後にこちらの最近の様子を話させ、全てを聴き終えると使い魔の巨体が糸の様に解けてそのまま窓の外へ出て行った。鳥の巨体を形作っていた糸が全て部屋の外に出終えると、突然、大きな羽音と共に窓枠を揺らすほどの突風を残して消えた。姿なく羽音と風を残して消えた巨大な使い魔を見送ったのはつい先程の話だ。
「大体……言伝をするのにあの体の大きさってなんなんだよ」
「大方、有事の際に備えていたんだろうよ。監視も兼ねていたんだじゃないか?」
「監視? 俺に?」
「いいや、恐らくはオレだろうな。魔女殿からしたら、自分の拠点に顔も知らない異物が入り込んだんだ。備あれば憂いなし、と言うだろう」
旭が怪訝そうな顔をすると、フォークで目玉焼きを潰しているザジが苦笑を浮かべた。黄身をちぎったトーストですくい、チーズと共に絡めて口に運ぶ傍ら、彼女は名も無い巨大な使い魔へ思うところを述べる。
「もしオレが旭や拠点に有害だと判明したら、あの使い魔で攻撃する予定だったのだろう。魔女殿の近況報告をしている間、彼奴の目はオレから微動だにしなかったぞ」
用心深いな、とザジが笑みを浮かべた。
「あー……気を悪くしたら、謝るよ」
「構わんよ。魔女殿も色々と考えることがあるのだろうし、用心深いことはいいことだ。オレも無理を言って旭と魔女殿の拠点に転がり込ませてもらっているのだから、多少の不都合は仕方ない」
「そう言うもんか」
「そう言うものだ。オレの世界でも、魔術師達の工房は神秘や秘匿で満たされているからな。体系化された魔術を除いて各家系の魔術や秘術は隠匿されているのが常だ。警戒をするのは当たり前だろう」
基本的に魔術師の工房は閉鎖的であるのが普通だ、とザジは言う。家系が長い時間と血脈をかけて紡いできた魔術は体系化された魔術とは異なり、より高次元の存在に干渉したり、事象を捻じ曲げたりすることが可能と言われているらしい。
故に家系や血統の魔術は秘術とされ、その魔術の根幹は秘匿されているとのこと。
「まさかこの家に秘術があるとは思えないけどなぁ……変な骨董品は多数あるけど」
旭の視線が骨董品が終われている倉庫と商店の陳列棚のある方へ向けられる。
動く西洋鎧に唸る本、笑う少女の人形に百面相をする壺等と珍妙怪奇な品々はあるが、そのどれもは素人目に見てもとても秘術とは言い難い。
「魔女殿の秘術は置いておいて、それとは別に自分の家に顔も知らない誰かが来たら、気になるものだろうよ」
「それは当たり前だな」
「預かっているとは言え息子同然の子供がいるのだ、親心としても気になるのではないか?」
「それはちょっと分からんなぁ」
ザジの言葉に飄々としたアキラの姿を思い出し、旭は思わず苦笑を漏らした。小さな子供を一人家に残し、たまに教会の孤児院に預ける人間に親心とは妙だな、と内心で笑う。変わった人間だと評される育ての親代わりだが、幼い自分自身を孤児院に預けたりしたのは、彼女なりの親心だったのだろう、とふと思う。
「往々にして親心と言うのは伝わり辛いものだからな」
「なんだ、経験あるのか?」
「オレ自身が子を成したことはないが、民達の営みの中で見かけることは多いな」
思うところでもあったのだろうザジが快そうに喉の奥で笑と、最後のパンの一欠片で更に残った黄身をすくい、口の中へと放り込む。
「野菜も食べろよ、成長期」
「食べ残しはせんよ——成長期であるかどうかは分からんがな」
皿の隅に残ったサラダを見て旭が声をかけると、彼女は頷きながらスライスされたトマトを頬張る。
「オレ達砂漠と荒野の民は常に飢えと渇きと共に歩んでいる。大地の恵には感謝をすれど、無碍にすることはしない」
ザジが信仰される南の大陸は、広大な砂漠と岩と枯れ木に彩られた荒野だと言う。作物が育つ水辺も限られており、飢えと渇きに苦しむ民も多い。土地と作物の侵攻略奪の歴史があり、故に気性の荒い武闘派揃いの部族民族としての気質が生まれ、その気質を間違った方向に向けない為に戒律の厳しい宗教が生まれ、その頂点にザジが君臨している。
そのような宗教や民族としての価値観があり、総じて南の大陸の民達は命を育む事柄には敬意を払っており、食事に関してもその一つだと言う。
彼女はそう告げて白い皿を綺麗にすると、手の拳を合わせて旭に向けて小さく一礼した。
「非常に美味かった。感謝する」
「あ……あぁ。口にあったようで何よりだ」
からになった皿を回収した旭は思った以上に重たい内容に甘く引きながら返事をするが、彼女は対して気にした様子もなく美味しそうな顔でオレンジジュースを飲んでいる。
使った皿をシンクへ置いて席に戻ると、ザジがグラスから顔をあげた。
「ところで旭。今日はどう言う予定なんだ?」
「そうだな……もう少しザジの服を買うのと、日用品を購入したいな。寝具は間に合わせのものがあるから、まぁ……大丈夫か」
ザジに当てがった部屋は二階に三部屋あるうちの一番北側、以前は屋根裏部屋に仕舞えなくなった骨董品を保管しておく部屋だったものだ。他の二部屋に比べてこじんまりとしたものだが、体の小さなザジには適当だろう。棚にはいくつかの骨董品が残ったままだが、ザジには私物がないので問題ない。孤児院からもらってきた服は、使われていない衣装ボックスを一つ与えて仕舞わせている。
「店が開きだす時間になったら商店街にいく」
「店番はいいのか?」
「んー? まぁ、最近は来客もないから大丈夫だろ。それに客が来るときは騒ぐんだよ」
「騒ぐ?」
あぁ、と旭は小首を傾げたザジに頷く。
「骨董品達が騒ぐんだよ。来るぞ来るぞって。ここ最近はそんな兆候もないし、放っておいてもいいだろ」
「声が分かるのか?」
「うん? 声っていうか、いつもよりガタガタ動くっていうのかな? こいつらの持ってる空気が騒がしくなるんだ」
来客がある日は骨董品達の持つ空気が忙しないのだ。長年に渡って骨董品達の整理や管理をしているせいもあるのだろう。
「アキラさんが言うには、多感な時期に骨董品達に触れ続けていたからって言っていたな」
「子供の方が感性が豊かだからだろうな。オレの国でも精霊達に好かれ易いのは子供達が多い」
言葉にザジは納得したように頷いた。子供の心は幼く感情の動きが大きく敏感だ。故に自我と言うよりは人間の感情でいうところの、喜怒哀楽程度しか持ち合わせていない低級の精霊や自然霊達は、子供達と波長が合いやすく纏わり憑かれやすいと言う。
「なるほどね。俺の方にも似たようなことは言われてるから、理由は似通ってるのかもな」
「存外この世界とアルダ・イーヴェには近しいものがあるのかも知れんな」
旭の言葉にザジが赤い目を細めながら頷く。
ふと、旭は思い出したように彼女へ問いかけをする。
「近しいって言えば、前、魔術の痕跡がどうこう言ってたけど、その魔術ってやつも似通ってるのか?」
「正直に言うと分からん。魔女殿の家に施されている結界を紐解いてみても良いのだが、それで敵視されるのも得策ではないし、何より構造も分からん術式を触る気にもなれん」
「危ないのか?」
「直接怪我をする様なことはないが、元に戻すことができないのだ。この拠点に施されている結界は非常に丁寧な作りだと言ったな? 人を拒絶するわけではないが、選別することに長けたものだ。察するに恐らく随分と複雑な術式を構築しているのだろうな……この世界の魔術がどの様な体系を以てして構築されているかが分からん以上、触る気にもなれん。何より、旭の言う曰く付きの骨董品を抑える意味もあるのだとしたら、尚のこと触れまいよ」
来客と訪問者の選別をしていると共に骨董品の封印を施している、とザジは言う。
なるほどな、と旭は頷いた。
確かに曰く付きの骨董品が危険性を孕んでいないとは言い切れないのは事実だ。
「まさか、気付いていなかったのか?」
驚くザジに旭は苦笑を浮かべた。
「確かに以前一度、西洋鎧に襲われたことがあったけど、基本的に何も——」
無い、と言い切ろうとして旭は口を紡ぐ。やや俯き、黙り込む。
「いや、ザジの言う通りだな。確かにそう言う意味合いがあるんだろうな」
「何かしら経験があるんだな」
真顔でザジに言うと、彼女は怪訝そうな表情を浮かべて吐息した。
「アキラさんの言う通りに送られてきた骨董品を片付けなかったり期日までに手順を踏まないと、骨董品が襲いかかってきたり夢見が悪くなったり体調が悪くなったりしたな」
「思い切り影響を受けてるではないか。尚更、触らなくて良かったと思う」
不気味故に触らずにいた西洋鎧が襲いかかってきたことや、気味の悪い百面相する壺を放置したら何日も嘔吐が止まらなくなったことを思い出す。
手順通りに施しをしなかったことも理由だが、その程度で済んだのはアキラが施していた結界のおかげかも知れないとも考えられる。少し前にアキラのことを疑問視した己を旭は恥いる。
「ちょっとは魔女殿の親心を感じたか?」
「心を透かすのをやめてもらってもいいかな?」
楽しそうに口の端を吊り上げたザジに、困った様な照れた様な曖昧な笑みを浮かべる。
咳払いを一つ、旭はさらに疑問を口にした。
「魔術の痕跡なしで、どうにかなるのか?」
「まぁ……一番手っ取り早いのが痕跡を見つけることだが、なければ無いで、オレが知っている魔術を一から試していくだけだ。地味で根気のいる作業になるかも知れんが、やったらやった分だけ、この世界の仕組みを知ることに繋がるからな」
ザジが知っているであろう魔術と、この世界で通用する魔術を一から摺り合わせていくと言う。
「この世界で効果を得た魔術を基点として、法則や構築様式を変更しながら少しずつ枝葉を伸ばしてゆく。いずれは全容が見えよう……幸いにも時間はあるからな」
藁の山から針を探す様な作業だな、とザジが笑う。
言っている内容はよく分からないが、途方もなく時間がかかることだけは理解ができた。
「大変なのはなんとなく、ニュアンスで察するよ。ちなみに魔術を使うんだよな?」
「あぁ、無論だ。試さないことにはどうしようもないからな」
頷くザジに旭は苦虫を噛み潰した様な表情する。
「家を壊すのだけは勘弁してくれよ」
旭の視線は、昨日彼女が打ち抜いた屋根へと向けられた。




