2・始まりはここから
気が付いたらよく分からないところに居た。ここは何処だろうか?
「堀越くん、ぜひ頼むよ」
目の前の人物にそう言われた。
ん?堀越?まさか、これから零戦設計するんかね?
そう思ったが、今は昭和七(1932)年らしい。おいおい、どっかの映画化された漫画かい!と言いたいが、仕方がない。
さて、自分のデスクへ帰ると、見慣れたものがあった。
いや、見慣れたものだが、それは昭和七年にあって良いものではないんだ。なぜ、パソコン画面が鎮座している?
よく分からないが、とりあえずそこにあるので昭和七年に堀越という人物が何をしていたか調べると、七試艦戦というモノを設計していたようだ。
見た目はこのころ米国で作られたP26に見えるが、主翼が異様にデカイのが相違点だろう。P26は500馬力のエンジンで時速377㎞を出しているが、七試艦戦は780馬力もあるエンジンで320㎞という体たらくだ。主翼が大きいのが原因なんだろうが、何ともやぼったい。
そこで、P26のようにスマートな設計にしてみた。
しかし、そこで問題が起きてしまう。
この当時の三菱では、そんな米国製みたいな高度な機体を製造できる設備が整っていなかった。
機体は見様見真似で出来上がったのだが、設計に比して使用素材の強度不足、精度不足が多すぎてどうしようもない機体に仕上がってしまった。
「堀越くん、欧米での経験のある君が米国の真似事をするのは構わないが、ここは米国ではない事を忘れないで欲しい」
そんなことを言われてしまった。
しかし、悪いのは俺、或いは米国へ行った外身の人物の責任か?いや、そんな事は無い。何もなさすぎる日本が悪いんだ。
そこで、出来る事からやっていく必要があると、カイゼンの提案をした。
通るとは思っていなかったが、なぜか話が通ってしまったらしく、航空機に限らず、あらゆる分野で取り組むことになるらしい。
そして、この機体に積まれたエンジンは時代を先取りするような空冷星形14気筒の複列エンジンだったが、如何せん問題が多すぎた。
エンジンについても見知った範囲という事でいくつかの指摘や提案をしておいた。ついでに、14気筒エンジンが実用化したら18気筒も作った方が良いとも助言してみた。
昭和八(1933)年の半ばまでに一応、欧米からの機械の導入を受けて、P26モドキをまともに完成させた。
海軍による試験ではなかなかの成績を出せた。史実と違って速度は350㎞にもなったし、操縦性もそんなに悪くは無かった。
しかし、如何せんエンジンに問題があるし、一品ものとしては良いが、これを量産するとなれば、既存の艦戦と3対1程度の交換比となるので、まるで現実的ではないと言われてしまう。あまりに高価な上に、整備も大変と来ては実用的とは言えない。
「仕方がない。日本がこのレベルの機体を普通に作れて扱えるだけの力を持たなければ、いくら性能が良くても意味がないんだ」
そんなことを言われた、励ましてくれたんだろうか?
それからしばらくはカイゼン関係の仕事を行う事になり、日本中を飛び回った。この頃の日本は本当に貧しくて何もないんだなと。
そんな国が良く戦艦大和なんて作れたもんだと少々呆れにも似た感情がわいてきたのは仕方がないだろう。
かといって、大和を造らずに国土開発に金を突っ込んだとして、発展したのかどうかもよく分からない。ある意味で卵が先か鶏が先かって問題なんだろう。
そんなこんながあってバタバタとしていたが、結局他の会社の機体も不採用となったらしく、来年には新たな試作の話が出るだろうという。
調べてみると、九試単座戦闘機なるモノがあった。
そうか、有名な逆ガル機か。
ここでも七試艦戦同様に少々弄ってみた。まずは、この時期には欧米で引き込み脚が次々実用化しているので、引き込み脚で設計を行った。
エンジンは試作段階だがまたまた14気筒を載せてみた。
馬力もあって機体の出来も悪くないはずだったのだが、引き込み機構に問題が起きた。やはり、電動と油圧を組み合わせた機構はこの頃の日本には少々難度が高かったのだろうか?戦後の日本と言えばそう言う分野が得意なはずだが・・・
14気筒はさすがにあくまでデモンストレーターだったわけだが、実用型としては中島の寿を載せるというのは既定路線らしく、それを搭載して二号機を設計した。
確かに速度は優秀なのだが、やはり、引き込み脚がネックとなる。機構の信頼性を考えれば固定にした方が良いのではないかという。
諦めきれなかったがどうしようもなかった。そして、固定脚、通常の主翼の機体を新たに設計し、それが何とか海軍に受け入れられることになった。
引き込み脚なら500㎞近く出たはずの所が、エンジン出力も下がり、固定脚となったがために420㎞を下回ることになってしまう。史実の九六艦戦よりも翼幅は狭く、翼面荷重は高い。