14・まさかそんなことになるとは思わなかった
どうやればこんなに変わるんだ?俺はそんなことをやった覚えがない。
そう思った。
「自分のやったことに気が付いたか」
また現れたオッサン。何がそんなにうれしいのやら。
「無かったことにしてくれと言っても遅いぞ?」
だろうとは思ったよ。
「だが、もう少し追加してほしい事があるなら叶えてやろう」
また何を言い出すんだ。だが、どうしろって言うんだ?何も出来やしないだろう。
「そうとは限らん」
何がそうとは限らんのか知らんが、何をやるという発想も今更ありはしなかった。いや、変わったなら見てみたいものがあるのは確かだ。
「ほう、なら、もう一度行ってくるか」
嬉しそうにオッサンが言うので拒否する。そんなことがやりたいんではないのでね。
「つれない奴だ」
そう言っているが、そうだな、無茶ぶりをしておくのが適当だろう。
そして提案したのが大和型四番艦の空母としての建造だろう。空母はゲームの空母を置き換える存在になれる。
「どんなのが良いんだ?もう一度行ってやって来ればいい」
重ねてそう言うが、もう一度の逆行は丁重に断った。もう一度やる気は無かったからだ。
「ならば、何かおいて来ればいいではないか」
何かってなんだよと思いはしたが、まあ、それしかないだろう。非常に都合が良すぎる気はしたんだが。
そして、懐かしいと言うかなんというか、十六試艦戦を設計していたころへと戻されてしまう。
何を残す。
空母と言われても堀越さんは艦船に関りが無い。どうすればいい?いや、一つあったな。
そこで俺は考えた。
この当時の空母というと、どれもこれもが中心線上にエレベータを配置しているじゃないか。それでいて大鳳なんかは装甲化するんだろう?その結果、エレベータ重量が100tとかとんでもない事になる上に2基に減少してしまっている。色々勿体無くはないだろうか。しかも、大鳳ではそのエレベータが損傷して甲板を塞ぐ作業の結果タンクが損傷していたことで格納庫にガソリンが充満してしまい、換気の手段が無かったという話まである。弱点はやはり排除すべきだろうな。
まず考えられるのは舷側エレベータだ。良し、それで行こう。船体はよくわからんから、航空機の見地から見た空母の姿として意見をまとめて海軍に渡せばいいだろう。
何の事は無い。そんな簡単な事だけして帰ってきた。
そして、ふと気が付いたのが空母讃岐の存在だった。もしかして?
調べてみるとやはりそう言う事だった。
讃岐は大和型戦艦四番艦として呉で1940年11月に起工されているが、開戦と共にその去就が議論されるようになった。
その時点で船体を解体するのか、そのまま建造を続けるのか迷う状況だったが、ミッドウェー海戦の結果、空母として再出発することが決定した。
横須賀において建造中の信濃も同様の決定が行われたが、進捗状況の違いから信濃は大鳳の設計を元にしたのに対し、讃岐では新たな設計を取り入れて建造が再開されることになった。
讃岐には日本で初めての舷側エレベータが備えられているが、当初は二段格納庫としたうえでそうする計画だったという。しかし、検討してみた結果、二段格納庫ではエレベータの下がる位置があまりにも水面に近すぎることが分かり、一段式の格納庫へと変更され、その代わりに閉鎖艦首の採用と格納庫の艦尾までの延長を行うことによって、格納庫面積の確保が行われることになった。
当初は大幅な設計変更であることから、船体をそのまま流用する信濃より早く進水させることが期待されたが、格納庫の一段化とそれに伴う設計変更で大幅に遅延することになった。
結局、前部エレベータを格納庫最前部中央とすることで非装甲区画へと追いやり、中央エレベータを左舷へ、後部エレベータを右舷へそれぞれ舷側配置として一応の設計が完了したのが1943年になってからだった。
一部にはアウトレンジ戦法を採り、信濃や讃岐を前線に進出させて補給基地化する案もあったが、二式艦戦(烈風)が大幅に航続距離を減じた事から沙汰止みとなり、通常の装甲空母として建造されることとなった。
信濃は建造を急ぐ事から船体に装甲甲板を更に載せる形で飛行甲板とし、その下を格納庫として使うアメリカ式の開放型構造に近いモノが採用されている。
たいして讃岐は戦後、アメリカが参考にした密閉式舷側エレベータ構造となった。
讃岐が竣工したのは1945年5月30日の事だった。
完成後すぐ、ソ連による宣戦布告を受け、慣熟も兼ねて日本海へと進出していく。
この頃には艦上機としては大型の迅電以外になく、当初予定していた70機という搭載機数にははるかに届かない54機の搭載となってしまったが、搭載したのもまた、迅電だけだった。すでにこの頃には艦攻や艦爆は生産を停止して迅電のみの集中生産が行われていた。
そのため、当時行動を共にした空母天城や笠置に搭載できたのも迅電のみであり、雲竜型においては爆装した迅電の発艦の場合、中団より前に並ぶ機体についてはカタパルトによる発艦が必要とされていた。
また、搭載機数も船体規模が小さいため、二段格納庫を持つにもかかわらず、讃岐と大差ない60機程度の搭載に留まるモノだった。
讃岐の実戦参加は7月16日のカムチャツカ攻撃からとなり、それまでは主に艦隊の上空警戒を兼ねた訓練に費やされており、ソ連軍との交戦は行っていなかった。
これ以後8月23日の停戦に至るまでに樺太沿岸やウラジオストク沿岸での行動を中心に活動し、幾度かの対地攻撃と対空迎撃を行っている。
戦後は賠償艦として外国への引き渡しという話も出たが、結局は米軍による調査を受けたのみで海軍での活動を続ける事が出来た。
戦後、天城や笠置が南洋からの復員のために航空艤装を撤去して帰還事業に転用されたのに対し、讃岐はずっと、対ソ連警備に従事していた。
天城や笠置が復員事業を終えた後、空母復帰を行うことなく退役、解体となったのは、当時の日本には多数の空母を運用するだけの予算が捻出できなかったのも大きいが、もし、復帰となった場合、迅電に合わせた改装が必要で、復帰費用があまりに膨大と見積もられたことも要因だった。
それに対して讃岐は当時世界的にもミッドウェー級に次ぐ大型空母であり、迅電のような大型機運用にも何ら問題が無かったことから、何の支障もなく活動を続ける事が出来た。
1950年に起きた朝鮮戦争において、日本はソ連の参戦を警戒して北方の守りを固める行動に出る。讃岐もオホーツク海に進出して千島や北海道へのソ連軍侵攻の警戒に当たっていた。
しかし、この頃すでにジェット機が主流となって来たことから、迅電では能力不足は明らかで、1951年に正式に米国を中心とした西側諸国との間に講和条約が結ばれるに至ると本格的に米国との関係を強める動きを加速させていくことになった。
讃岐がジェット機の運用能力を得るのはそれからまだしばらくを要したが、1956年に米国からFJ3の供与が行われることになり、ジェット機対応改修が行われることになったが、予算の都合もあってこの時の改修はあくまでFJ3に対応した小規模なものに限られている。
海軍でのFJ3運用は開始時点ですでに旧式化しており、新しい戦闘機が求められていた。しかし、艦の本格改修が必要な事もあってなかなか行われず、一時は讃岐を純粋な対潜空母とする話さえ上がっていた。
その流れが変わったのは1966年の話で、1975年までにアングルドデッキ化や蒸気カタパルトへの換装が行われると発表された。
もちろんこれは大きな代償を伴うモノで、当時完全に持て余していた戦艦大和、長門の退役を前提にしたものだった。
戦艦の退役は既にほかの多くの国でも行われており、世界の趨勢として受け入れられたが、一部の左派系の政治家や団体は讃岐の退役も訴える運動を行っていた。
政府の方針通り、1975年には讃岐はアングルドデッキ、蒸気カタパルトを装備して就役した。その姿は近代化改装したエセックス級やフランス空母クレマンソー級を思わせる外観へと変貌していたが、能力的にはそれらを超える余裕を持つ安定した空母であると、後に米海軍からも評価されている。
ただ、この改装に多くの費用を費やしたため、海軍のミサイル化は大きく遅れ、1982年就役の初雪型駆逐艦まで待たなければならなかった。
この時採用された艦載機はF-4ファントムで、空軍と機種統一することで運用費の削減が図られることになった。
戦闘機の運用費が削減できたと海軍が高らかに宣言を行ったものの、そもそもの空母運用費の高さは何ら軽減されていなかった。
そのため、改装後の再就役がオイルショックと重なり、更に、運用を始めて費用問題が議論されたところに第二次オイルショックが見舞った事で空母不要論すら唱えられることになったのだが、海軍はソ連の脅威を主張して空母の必要性を説いた。
しかし、皮肉な事にその直後にフォークランド紛争が起こると大型の讃岐ではなく、より小型の空母でもってV/STOL機を運用できれば良いではないかという論議が始まってしまう。そして、空軍が次期戦闘機としてアメリカ空軍の運用するF-15を採用することを決定した事が追い打ちをかけて、1984年には10年以内の退役という話になり、1990年には冷戦の崩壊とともに正式に退役が決定する。
しかし、その後に解体するのか、大和や長門のようにどこかの港で保管展示とするのかが長らく議論となり、結論が出たのは2017年になってからだった。
多くの候補地がある中で、結局、設備の充実やその保存環境などから名前の由来ともなった香川県における展示保存が決定し、瀬戸大橋の袂に公園の付属施設として保存することがようやく決定した。
讃岐の退役後の海軍では、後継空母の建造はしばらく行わず、駆逐艦戦力の近代化を図ることに注力し、空母計画が議論され始めたのは21世紀を迎えた後の事になる。
2003年には国産開発したF-2戦闘機の艦載型を搭載した空母の計画が発表されるが、2隻の空母を建造しても需要は60機程度で新たに艦載型を開発する利点が無い事から議論は紛糾し、2012年になってとうとう日本も参加しているF-35の導入が決定、独自開発の電磁カタパルトと共にF-35Cを導入することになり、2013年から建造を開始したが、電磁カタパルトの開発に時間がかかったことやF-35Cの開発遅延から2019年時点でようやく一番艦出羽の試験が開始された段階で、二番艦出雲の就役はまだ2年以上先と言われている。
なるほど、曲がりなりにも日本軍が残ってるのか。規模は俺の知る自衛隊とあまり変わりないから空母持つなんて大変だろうな。そりゃあ、駆逐艦が30隻程度しか持てない訳だ。
新型艦はどうやらガスタービンらしく、形も英国のクイーン・エリザベス級みたいなツインブリッジだ。違いと言えば、エレベータを3基としてるところくらいだろうな。