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13・その後の歴史2

先に言っとくと、そうするしか終わらせる方法が思いつかなかった。


流石に今回は出来が悪いわぁ~

 ソ連の対日宣戦布告は大きな衝撃をもたらすことになったが、ある意味で幸運だったのかもしれない。


 陸軍は打通作戦のためにシナ戦線に展開していた部隊を急いで満州へ撤収させ始めた。


 海軍は本格的な空襲が始まる前に動ける艦艇を日本海へと展開させ始めた。


 7月に入ると日本海軍はウラジオストクへの攻撃を行い、更なる攻撃目標を求めて北上を続け、間宮海峡周辺に展開してアムール川河口周辺のめぼしい港を破壊した。

 中旬になると千島列島へと向かい、カムチャツカ半島への攻撃を行い、ソ連海軍の息の根を完全に止めてしまう。

 陸軍も海軍の協力のもとで樺太に兵力を展開し、北樺太を占領する。沿岸地域の拠点を破壊されたソ連軍の反撃はほとんど無く、日本海とオホーツク海は日本の海となっていた。


 太平洋では米軍が攻勢を強め、7月に入ると沖縄への上陸を意図して攻撃を開始していた。

 日本側も数が揃いだした迅電や疾風による迎撃を行い出血を強いる。


 ただ、満州へと向かう日本軍の行動を妨害するような行動は一切行われる事は無かった。


 沖縄を狙う7月頃にはバシー海峡も米軍の勢力下であり、やろうと思えば大陸への攻撃も行えるはずだが、まるでその意志を見せることなくオキナワ攻略に集中している状況だった。


 その間のソ連軍の攻勢は未だ散発的なモノで、基幹となる地上兵力はまだ欧州から送られていなかった。


 7月下旬になるとドンドン到着したソ連軍による本格的な満州侵攻が始まるのだが、その頃にはシナ方面軍の多くは満州へと集結するに至っていた。

 本来なら日本軍を妨害するはずの国府軍は何をしていたかと言うと、日本が放棄した都市へとなだれ込んでは略奪暴虐の限りを尽くし、都市の支配権や略奪物の所有権をめぐる抗争が各地で頻発する状態になっていた。挙句は、日本軍が居なくなった華中、華南において共産党と衝突し、日本軍の相手をする状況など全く存在していなかった。


 そんな中で満州でソ連軍と対峙した日本軍だが、満足な装備は既になく、欧州での実戦経験を持つソ連軍の人海戦術の前にズルズル後退を続けるばかりとなっていた。


 ただ、一部の国境要塞は奮戦し、ソ連軍を食い止めていたし、海軍陸戦隊と協力した陸軍部隊がウラジオストクを占領するに至っても居た。


 8月に入ると満州はほぼソ連の占領下となり、遼東半島に防衛線を築いた日本軍をしり目にさらに南下して朝鮮へとなだれ込んでいくところだった。


 米軍による本土爆撃も激しくなり、6日には原爆が投下される。


 更なる投下に備えて日本軍の防空体制は強化され、9日に飛来した原爆投下部隊は捕捉、撃墜することに成功するのだが、当初、それが原爆部隊かどうかを日本側は把握していなかった。

 そもそも、4月に大統領の死去によって繰り上がった現職大統領は軍や科学者らの原爆警告要請を拒否して奇襲的に広島へと原爆投下を命じており、小倉への投下も日本へは警告していなかった。その為、撃墜した機体が原爆機かどうかは分からず、有明海に不時着した機体を調査したところ、大型爆弾を抱えている事を発見し、その調査の結果、原爆であることを確かめるに至った。


 原爆搭載機の撃墜は米国でも問題となった。そして、犠牲を出してでも撃墜された場所の確認を行うよう命令を出し、更に10機近い損害を出しながら、搭載機が有明海に原形をとどめて不時着し、日本側に原爆が渡った可能性を知ったのが8月11日の事だった。


 この時すでにポツダム会談において強硬に日本打倒を主張するソ連を退けて米英は日本の降伏を認める事になっていたが、大きな誤算が生じるとともに、原爆技術の拡散を恐れて、原爆の返還と原爆情報の引き渡し乃至は破棄を条件に、即時停戦を米国側から秘密裏に打診が行われた。


 原爆の返還で国体が守られるならと日本側もその提案に乗り、8月15日には対米停戦を宣言し、一応の終戦を迎えるのだが、ソ連はそれに納得せずに朝鮮半島を南下し続けていた。

 結局、22日に釜山に到達した事でようやくソ連軍の進撃は止まったが、そこに基地の建設をはじめ、ウラジオストク奪回にも動き出していた。

 この時点で日本とソ連の戦争は未だ継続していた。


 しかし、米国はこれ以上の戦争を望んでおらず、ソ連も朝鮮を得ることで十分に元を取っていた。


 結局、23日にはソ連も停戦に同意し、3年8か月に及んだ戦争はようやく終わりを迎えることになった。


 ただ、戦後処理が大きな問題だった。米国は完全に日本に弱みを握られての停戦であり、強くは出られない。事実が米国内に漏れてしまえば、政権も軍もどうなるか予想が出来なかったからだ。そして、ドイツ同様に日本も戦争犯罪で裁くと息巻くオセアニアや国民党をしり目に、米国は全く別の決断を下す。

 原爆の返還が9月1日には密かに行われ、日本側はその交換条件として国家の存続と日露戦争以前の領土の確約という密約を取り付けてしまう。


 10月には本来、占領下におかれるはずだった日本がなぜか独立国状態であることにソ連も反発するのだが、米国が押し切って現状を認めてしまった。


 ただ、形だけでもドイツのように戦争犯罪者を捌くことが必要とされ、多くの政治家や軍人が捜査され、米国の意向で逮捕されるもの、徹底した調査でアカとして拘束されるものなど多数が収監されることになった。

 1946年に開かれた東京裁判は俺の知るモノと様相が違って、そこには鳩山一郎の名前まで見られた。彼の罪状は日本を軍国主義に突き落としたという何ともよく分からない罪状だが、まあ、ある意味納得できるものだった。

 そして、嘘か本当か、コミンテルンとのつながりが指摘される軍人、政治家、財界人なども同時に起訴され被告席に座らされていた。

 ソ連が猛烈に批判し、否定する中、淡々とコミンテルン陰謀が語られ、日本に革命をもたらす陰謀だったと訴えられた。

 米国の意向で逮捕された被告は大アジア主義を主張したが、国民党の批判や現状から冷ややかに見る国民の視線の前では説得力を持ち得なかった。 

 そして、捏造報道で拘禁された報道関係者への批判は国民の側から大きく上がっていた。


 裁判の結果は俺の知るモノと違いはあったが、良く分からない罪でいわば私刑に遭うものが多数出たのは間違いない。政治家や財界人、報道関係者の死刑はそう言った類ではあるが、俺の知るモノより納得できるのも確かだ。

 国民党がぶち上げた南京大虐殺はまるで相手にされなかった。日本軍が満州目指して退いていく後を追いかけて都市を蝕んだのは他ならない国民党の兵士たちであり、香港にも彼らが入り込んで酷い惨状が世界に伝わっていたことで、国民党の主張が自分たちの罪状ではないのかという空気が会場を満たしたのは言うまでもない。


 目を外に向けると朝鮮をどうするかで米ソの意見が対立していた。切り取り次第という点では、現状追認すべきなのだが、ソ連は南樺太や千島を手に入れ損ねてしまっていた。米国としては朝鮮全域を渡すのは癪だった。


 お互いの妥協点として、米国は日本に認めた条件のうち、南樺太の放棄を迫って、朝鮮南部を得る事を決断し、日本が渋る中、どうにか抱き込んで認めさせることに成功している。

 そして、本来ならば日本軍は完全に解体すべきなのだが、米国には原爆を奪われた負い目があり、体制転換を条件に軍の存続も認められることになった。

 オセアニアや国民党が強硬に反対し、ソ連も武力をちらつかせたが、ソ連の恫喝は逆効果だった。中立条約の破棄と和平交渉の放棄という現実から対ソ不信は国民すべてに浸透しており、恫喝によって軍備の保持に反対する者は居なくなってしまった。



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