「第一章 ハンターとG・スラッグ」
『塩が浸む』という言葉がある。
これは、世の中の苦労を体験する。って意味のことわざで、いつその言葉を覚えたのかは忘れちゃったけど、オレの頭の中にはその言葉が何度もリピートされている。
『ウヴォシュリュアアアアッッッッ! 』
およそこの世のものとは思えない、不快な雄叫びが周囲にこだまする。
「くそう……なんでこんなコトに……」
運転手不在のショベルカーの陰に隠れながらオレは、今陥っている絶望的な状況を呪った。
『ヴォアアアアッッッッ! 』
[ヤツ]は再び下品な声を上げながら、こっちにどんどん近づいて来ている……
オレはショベルカーの陰から、ゆっくりと顔だけを出し、迫り来る恐怖の存在を再確認する。
そこには、異臭を放ち、毒々しい粘液を全身に帯びて、一対の禍々しい触覚を備え付け……さらにはマンホールのようにポッカリと空けられた口まで揃えていて、その円周に沿ってナイフを思わせる牙まで携えているモンスターがいる。
焦る……おののく……腋から大量の汗が吹き出す……
そのモンスターの正体は、巨象に匹敵するサイズの[大ナメクジ]だ。
オレはこの状況にヤケクソになって、両手で握りしめた頼りないハンドガンを乱射しないように、心の中で自分自身に語り続けて平静を保とうとした。
落ちつけ……落ち着くんだ……猿飛火夏18歳……心を抑えろ……心臓を落ち着かせろ!
オレは、今どこで何をしているのか……ゆっくりと整理して気持ちを切り替えよう。
今オレがいる場所は【グローバルスタジアム】。五年後に、ここ東京で開催される世界的スポーツの祭典[ファイブスターピック]のメイン会場……になる予定だ。
建設中のこのスタジアムのただ中で、オレはなんでコソコソ身を隠して、バカでかいナメクジに怯えているんだっけ?
それは、オレがこの気色悪い大ナメクジ……正式名称〈G・スラッグ〉を駆除する、プロの《ハンター》だからだ。
今日は、仲間の《ハンター》3人と共に、栄えある世界的祭典の場に突如現れた気色悪い大ナメクジを排除してほしい。と依頼を受けてここにいるのだ。
そう! オレ達が狩って、ナメクジが狩られる側だ……! 上下の関係なのだ。よしよし……落ち着いてきたぞ!
さぁ……そして問題は、なぜオレが今、敵の姿に[一人]で怯えているのか……
答えは簡単。仲間の三人はすでにやられてしまっているからだ。
今オレに襲いかかろうとしている〈G・スラッグ〉は、体長10mはあろうビッグサイズで、それだけでも驚異だ。しかし単にデカイだけではない。
頭部に突き出した二本の触覚は自由自在に振り回され、鞭のような強烈な一撃を見舞う武器となり、体表を覆う粘液はあらゆる衝撃を吸収し、拳銃の弾丸ごときは全く受け付けない。攻めも守りも一級品のとんでもない生物だ。
仲間の《ハンター》はその触覚攻撃によってあっという間に蹴散らされ、悶絶している……これは全くの想定外だ。
さっきまでおとなしく、好物の[鉄骨]をムシャムシャ貪っていたハズの〈G・スラッグ〉に対して全員で奇襲しようとしたところ、オレが近寄った瞬間に突然暴れ出してしまったことが全ての誤算……一体オレが何をしたっていうんだよ……
『グボシュラァァァァッ!! 』
三度オレの鼓膜を下品に刺激する〈G・スラッグ〉の咆哮。そのうなり声の主は、確実にゆっくりとオレが隠れている方向へと近づいて来ている……
このままじゃ、みすみすナメクジの餌になってしまうのオチだ……どこかで踏ん切りをつけてアクションを起こさなきゃならん……
よし、決めた! あと一回! あと一回〈G・スラッグ〉が叫んだらこの場から離れて形勢を立て直そう! うん、そうしよう!
オレはそう言い聞かせ、震えて立つこともままならない自分自身の体を鼓舞し、そのタイミングを今か今かと見計らう。
本当のところは今すぐにでも自分を標的にすることを諦めてこの場から立ち去ってくれないかと淡い期待を込めながら、オレの消極的な覚悟を無理矢理にでも引き起こさせてくれるキッカケを待つ。
『ギュボグララァァァァーー!! 』
来た! ついに来た! 〈G・スラッグ〉が醜悪な叫び声をあげた!
オレは自分で決めた公約通り、一週間分の勇気を前借りしてこの場から離れようとする。
「今だ! 」
……しかし、その直前に見せつけられた圧倒的光景により、オレの覚悟はあっけなく微塵に砕け去り、オレは再び[動けなくなってしまった]のだった。
「ウソだろ……? 」
無くなっていた……
オレが背中を預けていた……頼りがいのある鋼鉄ボディの防御壁……無人のショベルカーがいつの間にか姿を消していた……
『グルアグガラァァァァッ!! 』
ショベルカーの行方はすぐに分かった。地面に映し込まれたボヤけたグレーの影がオレに教えてくれた。
「うわああああっ!? 」
20トンはゆうに越えるだろう重量のショベルカーが、[持ち上げられて]しまっていたのだ! 〈G・スラッグ〉の太い触覚によって!
身を隠す壁を失い、オレは無防備となってしまった。
『グボロボロボロボロォォォォ……! 』
〈G・スラッグ〉は大きな口から、お湯を沸騰させた時に似た音を発し始めた。
間違いない……コイツはオレに向けて[溶解液]を吐きつけようとしている……
鉄をも溶かすとも言われているこんなモノをまともに食らっては、痛いどころの話ではない……
直結する運命は……間違いなく[死]
「ぬわああああッ!! 」
引いた……引きまくった……! 唯一の武器である頼りない拳銃の引き金を……!
ダンッ! ダンッ! と放たれた9mm弾は弾頭に塩分を含んだ[対G・スラッグ用]の特別仕様。しかし、相手はそれをヌメった体に何発受けようも素知らぬ顔。
ナメクジに表情が無くたって分かる。『ん? 今なにか、私の体に何かしたのかね? 』って感じで余裕かましているに決まっている。
『ブシュゥゥゥゥ……』
〈G・スラッグ〉のヤツは口をすぼめて溜め込んだ溶解液をこちらに噴出する準備を整えている。
終わりなのか? オレの人生……ここで終了なのか?
学校を中退して……家族の反対を振り切って挑んだ《ハンター》生活、及びこれからのまだまだ続くはずだった自分の人生はこんな中途半端なままリタイアしてしまうのか?
『グゴゴク……』
ああ……目の前いる〈G・スラッグ〉の動きがスローモーションに見えてきた。中華マンの生地を思わせるように不気味に捻れた大口が、今まさに開かれて溶解液が飛ばされようとしている。
終わりだ……
鉄骨とパイプだらけで未完のスタジアムで終える人生か……
でも、それはそれでオレらしいのかもしれない。
何をしても中途半端で[しょっぱい]オレにはぴったりだ。
あぁ……でも……
でも最後に……
もう一度だけでも[あの人達]を間近で見てみたかった……
唯一の後悔を残しつつ、死を間近に控えてあきらめかけていたその瞬間だった。
「危ない!! 」
勇猛果敢という言葉よく似合うハリのある声と共に、オレは腹部に強烈な圧迫感を覚えた。
「う・ッ!? 」
オレはどうやら誰かに思いっきりタックルをされて押し倒されたようだった。背中から腹へ、今朝食べたコーンフレークが口から飛び出してしまうかと思うほどの衝撃が走る。
『ジュウウウウッ!! 』
気が付いた時には、オレをドロドロに溶かす勢いだった溶解液は、傍らに積まれていた鉄骨へと誤爆し、炭酸水をコップに注いだ時のような音を発している。
『グギュアァァァァッ!! 』
そして続けざまに響いたのは、〈G・スラッグ〉の吐き気を催す悲鳴だった。よく見るとその体表にはバスケットボールほどの大きさの穴が空けられている。数秒遅れて理解したけど、何者かが遠距離からライフルを[射撃]して空けたのだろう。
そしてグガッシャァァァァンと金属が砕け散る轟音が鳴り響き、地面が震えた。〈G・スラッグ〉がさっきまで触角で持ち上げていたショベルカーを落っことしたのだ。明らかに弱っている。
「下がってな。スグに仕留めてやっからよ」
オレを仰向けに押し倒して溶解液の直撃から救ってくれた恩人は、そう言いながら立ち上がり、腰に携えた[機械仕掛けの長剣]を構えた。そして〈G・スラッグ〉の体をジッと見据えた。
すげぇ……
すらりとした体躯が映える、真っ黒な密着式ボディアーマー。男勝りの性格を現すかのような、赤みがかった髪……
そして、ショットガンの銃身に刀が取り付けられたかのようなフォルムが特徴的な銃剣型対G・スラッグ武器……
間違いない……オレの命を救ってくれて、自信たっぷりに〈G・スラッグ〉と対峙している彼女こそ……
《A級ハンター》波花リトナ……さん!
誰よりも多く。誰よりも手強い〈G・スラッグ〉を倒し続け、国内では数えるほどしかいないA級ライセンスの持ち主だ。《ハンター》界隈で彼女を知らない人なんていない。
そんなスーパースターともいえる存在が、オレを助けて、その自身あふれる背中をこちらに向けているのだ。
『グヴォオオオオッ!! 』
「危ない! 」
オレはうっかりリトナさんに見とれてボーっとしてしまっていたらしい。そんな隙を逃がすかとばかりに、〈G・スラッグ〉は容赦なく二本の触覚鞭をこちらにスウィングしてきた!
「しゃらくせえ」
しかし、リトナさんにとってそんな攻撃は小学生が掃除時間に振り回すホウキ程度のスピードにしか見えなかったようだ。
「フン! 」
気合いの一声と共に、彼女は銃剣を小枝のように振り回して、触覚をいともたやすく切断してしまった。
「トドメ行くよ! 援護頼む! 」
そして彼女は間髪いれず首に巻き付けたインカムで誰かに援護の指示を送りつつ、そのまま迷いなく〈G・スラッグ〉に向かって突進する!
銃剣を粘液まみれの巨体に直接刺してトドメをさそうとしているのか? でも、いかんせん距離が長すぎる! 敵の懐にたどり着く前に……
『グオゴォクオオオオ…………』
〈G・スラッグ〉は斬られた触覚のことなど全く気にすることなく、再び大口をすぼめて溶解液を噴出させようとしている! このままではリトナさんが危ない!
『ギグアアアアァッ!! 』
しかし、そんな心配など始めから不要だったようだ。〈G・スラッグ〉は溶解液を吐き出す間もなく、再びどこかから放たれた弾丸によって風穴を空けられてしまい、悶絶している。
周囲を見渡すと、オレ達から離れた場所にある輸送トラックのルーフ上に、大型の狙撃銃をしゃがんで構えているスナイパーの姿があった。
遠目で見ても分かるほどの巨躯の持ち主。トレードマークのサングラスと金色に染められた短髪は威圧的で、子供だったら視界に入っただけで失禁してしまうだろう。
「ハアアアアァァァァッ! 」
リトナさんはスナイパーの援護を盾に、そのまま軽やかな体裁きで〈G・スラッグ〉の体表を駆け上がり、その頭上へと飛び乗った。
「[死を]くれてやる!! 」
そして勇ましい掛け声と共に、リトナさんは銃剣を勢いよく足下の体表へ突き刺す!
『グオグゴアアアアアアァァァァッッッッ!! 』
ジャグリ! とした鋭い挿入音と共にスタジアム中に響きわたる〈G・スラッグ〉の断末魔、しかしまだ死に絶えたワケではない。あの巨大ナメクジを倒すには[もう一手]必要なのだ!
「塩注葬! 」
その一手はリトナさんの力強い叫び声と共に放たれた。
銃剣に備わっているトリガーを勢いよく引くと、バシュンッ! と圧縮された空気が弾ける音が響き、次の瞬間ついさっきまで縦横無尽に暴れ回っていた〈G・スラッグ〉の体が見る見るうちに縮んでいった。
『ピュモオオオオ…………』
〈G・スラッグ〉は弱々しく唸り、体内に蓄えられていた水分を体表から溢れ出させながらどんどん溶けていってしまっている。
その光景は何度見ても圧巻……
銃剣によって〈G・スラッグ〉に打ち込まれた物は[塩]だ。
それもただの塩ではない。対〈G・スラッグ〉用に開発された《レア・ソルト》と呼ばれている特殊な塩だ。
銃剣のブレード面には無数の穴が開いていて、トリガーを引くと装填された《レア・ソルト》のカプセルが弾け、そこから勢いよく噴出される仕組みになっている。
〈G・スラッグ〉を倒すには、体内に直接この《レア・ソルト》を打ち込まなければならない。リトナさんの銃剣はそれに特価した巨大ナメクジの天敵といえるのだ。
「ハント完了! 」
リトナさんは溶け落ちる大ナメクジから飛び降り、得意な表情で銃剣を折り畳む。さっきまでオレ達が手こずっていたのがバカらしくなるほどに、彼女には余裕が感じられた。
その堂々とした姿は、有名な絵画である[民衆を導く自由の女神]を彷彿させる。
『ブジュルゥウウゥゥ……』
〈G・スラッグ〉の体はもはや跡形も無くなり、残ったのはその体液が作り出した腐臭漂う水たまりと、一つの[真っ黒な球体]。
ボーリングほどの大きさのその球は《核》と呼ばれる物で、《ハンター》達は皆、コレが目当てで巨大なナメクジを退治しつづけている。
「こりゃ大物だな、30万? 50万はするかもな」
戦闘を終えたリトナさんは、その《核》を拾い上げようとするが、表面に覆われていた粘液で手を滑らせてしまい、コロコロと地面に転がしてしまった。
「あ……! 」
そしてその《核》は導かれるように、こちらへと転がり続けてオレの足下でその動きを止めた。
これはチャンスだ!
オレはここぞとばかりに一流の《ハンター》との面識を作ろうと、その《核》を拾い上げてそれをリトナさんへ手渡ししようとした。
「お、悪いな」
リトナさんはそう言ってオレの方へと近づきながら、両手をこちらに差し出してくれた。
うおお……
これはちょっとした感動だ。憧れの人がこちらに歩み寄って来てくれ、その瞳をこちらにまっすぐ向けてくれている……
「い、いえいえ……」
でも……オレはその時緊張してしまったのか……持ち上げた《核》をあろうことか……
「うわっ! おとっ! おぉっ!? 」
リトナさんと同じく粘液で滑らせ、熱々の肉マンを手に取った時のようにお手玉してしまう。
「おいおいおいおいっ!? 」
その姿に焦ったのか、リトナさんは急遽歩みをダッシュに切り替えてこちらに接近してきた!
「わわっ! 」
近寄るリトナさん。慌てた表情で向かってくる彼女に気を取られたオレは、とうとう《核》を手の上から重力の赴くまま、地上へと落下させてしまった……
「うおおおおおおーーーーッ!!? 」
さっきまでの気丈な雰囲気を台無しにするような奇声を上げながら、リトナさんは仰向けにスライディングして《核》をキャッチしようと試みるが、その健闘空しく……
ガシャン……!
《核》は固い地面へと落下。無惨に砕け散ってしまった……
「す……すみませぇぇぇぇん! 」
ボクの謝罪に対して、リトナさんは今にも泣き出しそうな顔になってしまった……
「う……うう……」
彼女はオレの開いた両足の間に、仰向けに倒れ込んだ状態でいる……スライディングの勢いが強すぎたのだ……落下した《核》を通り過ぎ、ちょうどオレの股下にリトナさんの顔がある奇妙な状態……
「どうしてくれんだこの野郎! あれだけの大物! 滅多に現れねぇんだぞ! 《核》がなきゃ……ハントの報酬が……報酬が……」
「ご……ごめんなさい! 手が滑って……その……」
足下のリトナさんに向かって必死に弁明するも、彼女の怒りは収まらない……そうしているうちに、さっきまでトラック上で狙撃をしていたスナイパーの男がこちらに向かってきた。
「どうした姉者ッ! 」
うわっ! ヤバいぞ!
リトナさんを[姉者]と呼びながら近寄ってくる屈強な男の存在感にビビったオレは……その時身の危険を感じとってしまい、ついつい……
やらかしてしまった……
『ブフォオオオオォォォォオオオオッ! 』
オレには一つ、他の人とは違う体質を持ち合わせている……それをたった今発揮してしまったのだ……
「う……うげぇええええっ!!? なんだこりゃああああッ!! 」
見るにも耐えられないほどに顔を歪ませてしまったリトナさん……彼女をそこまで苦しめた要因は……
オレの[屁]だ……
「ゆ……ゆでたまごを……温泉で五十万個……濃縮したみてぇな臭い……もう……だめだ……」
オレの屁は……常人とは比べものにならないほどに臭い……その直撃を……ボクは憧れの人に近距離で浴びせてしまったのだ……
「姉者ァァァァーーーーッ!! 」
リトナさんが白目をむいて泡を吹きながら失神した姿を見ながら……オレは呪った……
何をしても空回りして失敗しまう……
オレのしょっぱい人生を……