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職場の怪談

作者: 魚屋ボーフラ

 その春、前の会社をリストラ退職した私は、自動車部品を製造する工場に転職することが決まった。それは、希望に満ち溢れたとはとても言い難い、不安ばかりが付きまとう転職だった。なにせ四十歳にもなり、妻も子もある身の上での、初めて経験する業界なのだ。

 出勤日初日、私は緊張しながらも何とか、総勢百人ほどもいる従業員の前で挨拶をした。そしてその後、私と同年代くらいの総務の女性に連れられ、パーティションで仕切られた事務所の一画で、会社の就業規則や給料、福利厚生などの細かな説明を受けた。

「それからこれは、会社の就業規則というわけではないんだけど――」

 一通りの説明を終えると、その森々田(もりもりた)さんという総務の女性は、まだ緊張した様子の私をリラックスさせようという意図もあるのか、いたずらっ子のような打ち解けた口調で続けた。

「男性従業員の間では、暗黙の了解のようなルールがありましてね」

「はあ……、暗黙の了解、ですか?」

「そっ、暗黙の了解」そう言うと森々田さんは、私の顔の前で右手の人差し指を立て、その立てた人差し指を小さく左右に振りながら声を潜め、内緒話でもするようにこう続けた。

「学校の怪談って、知ってる?」

「え……、ええと、学校の怪談?」

「そっ、学校の怪談。ひと昔前、小中学生くらいの子供の間で、流行ったこと、あったよね」

「ええと、確か……」

 そんなものもあったような気がするが、"怪談"などという思いもよらない単語に意表を突かれた私は、言葉に窮した。その手の怪談話が極端に苦手な私は、ごくりと唾を飲み込みつつ、次の言葉を待った。

「あのね」と森々田さんは眉を潜め、ことさら芝居がかった調子で話を続けようとした。

 しかしその時、仕切りの外から忙しげな男の声が聞こえてきた。

「森々田さん、いるー?」

「あっ! いっけなーい、もうこんな時間だー」と、壁に掛けられた時計を見ながら森々田さんは、「すいませーん、すぐ行きまーす」と声を張り上げ、慌てた様子で書類などをまとめ始めた。

 それに倣うように、私も渡された書類をそそくさと封筒に入れると、急いで立ち上がった。

「ごめんねー」

 話の途中になってしまったことを謝る森々田さんに「大丈夫です」と言い、一人で事務所を出た。

 扉を閉めると、外の廊下は中の喧騒が嘘のような静けさだった。私の新たな職場となる作業場へと続く長い廊下は、まだ午前九時を過ぎたばかりの朝の早いこんな時刻には人気もなく、閑散としている。

 学校の怪談、か……。

 森々田さんが言いかけた話とは何なのか、もちろん気にはなる。しかしこの時の私には、新しい仕事に対する不安がとぐろのように渦を巻いていて、そしてそのとぐろの渦は一歩、また一歩と、作業場が近づくにつれ大きくなっていき、それに反比例して聞きそびれてしまった話のことは私の頭の中から少しずつ閉め出されていき、空気の抜けた風船のように萎んでいった。


「どう、仕事には慣れた?」

 朝のロッカールーム。着替えをしていた私に、近くにいた男性が親しげに話しかけてきた。鼻の下に洒落た感じの髭を生やし、渋い俳優のようなバリトンボイスは、若い頃はさぞや女性にもてただろうなと感じさせる、五十絡みの男だ。

「えっと……、そうですね、少しは慣れました」

「そうか、それは良かった。もし分からないことがあったら、一人で抱えてないで、すぐ誰かに相談することだね」

「はい。ありがとうございます」

「ただし、俺はダメよ。俺は、若い女以外の相談には、乗らないことにしているんだ」

「はあ……」

「はっはっはっ、冗談だよ、冗談。金のこと以外なら、何でも相談してくれ。それじゃあ、俺は先に行くよ」

 朝からやけにテンションの高いその男は、ポンポンと軽く私の肩を叩くと右手の親指を上に向け、ウィンクしながら「グッジョブ!」と言い残し、ロッカールームを後にした。

 一体、その英語の使い方が正しいのかどうかは甚だ疑問だが、取り敢えずそのことは考えないことにした。それよりも――。

 分からないこと、か……。

 分からないことと言えば、私の右隣のロッカーの前に置かれた、この緑色のヘルメットだ。毎朝ポツンと、必ず同じ位置に置かれている。

 そのロッカーを使っているのは、鼻緒(はなお)という珍しい名字の、恐らくもう定年間近と思われる年配の男性だ。残されたヘルメットにも、ちゃんと鼻緒と書かれたシールが貼られている。鼻緒さんは小柄で、私の肩までしか背丈がなく、キューティクルという言葉とは無縁の、白髪混じりの長いボサボサの髪を頭の後ろで無造作に束ねている。

 工場内はヘルメットの着用が義務付けられていて、必ず自分専用のヘルメットが与えられている。

 鼻緒さん、どうしたんだろ。ヘルメットを持って行くのを忘れたのかな?

 初めはそう思った。だが次の日もその次の日も、私がロッカールームに入ると、必ずそこに、鼻緒さんのヘルメットは置かれていた。

 あれから一週間が過ぎていた。

 元来、手先の不器用な私は、簡単な部品の組み立てでさえ、普通の人の倍くらいの時間を要した。それでも周りには、そんな私の不器用さを責める人はなく、少しずつ仕事にも慣れていくことができた。この調子なら、長くこの会社に勤められるのではないかと、そう思い始めていた。

 工場で働く男たちは、出社してタイムカードを押すと、まずはロッカールームで作業着に着替える。そしてヘルメットに手袋、タオルといったそれぞれの荷物を持ち、朝礼の行われるミーティングルームへと向かう。ロッカールームとミーティングルームの間には長い廊下があり、そうしないと結構な二度手間となってしまうのだ。

 この一週間、ヘルメットをロッカールームに残したままどこかに消えてしまう鼻緒さんだが、朝礼の始まる時刻には必ずミーティングルームに現れていて、長テーブルの上には(くだん)のヘルメットもちゃんと置かれている。鼻緒さんの話す言葉には強い北関東訛りがあり、しかもものすごい早口なので、何を喋っているのか私にはよく聞き取れない。しかし無類の話好きらしく常に誰かとお喋りをしていて、その声は遠くの席にいる私の方にまで聞こえてくる。

 この日の朝も、私はいつものように小さな疑問を抱えたまま、一人ロッカールームを後にした。

 右肩上がりの好業績が続いたこの会社では、しばらく前に長いこと廃病院となっていた隣の敷地を買い取り、建物を増築したという。そのため、ロッカールームを出るとミーティングルームまでは、無駄に長いリノリウム貼りの廊下が続いている。

 朝礼前のこの時刻、この廊下には常に誰かが歩いていたが、この日に限っては誰の姿もない。鉄心の入った私の安全靴の音だけが、コツーンコツーンと無機質な長い廊下に無機質な音を響き渡らせていた。

 どこかの窓が開いているのか、春先にしてはやけに生ぬるく感じる一陣の風が、私の身体を通り過ぎていった。

 ふと足を止め、後ろを振り返った。

 長く続く廊下に、開いている窓は見当たらない。そして、相変わらず無人だった。

「――学校の怪談って、知ってる?」

 不意に、あの日の森々田さんの言葉が頭の中で甦った。

 あれって一体、何だったんだろう? もしかしてこの会社には、幽霊でも出たりするのかな?

 忙しさにかまけて今まですっかり忘れていたが、思い出すと、(にわか)に気になり始めた。

「う……、うぅ……」

 と、その時、どこからかか細いうめき声のようなものが聞こえてきた。

 ビクッと身体を震わせた私は、再び歩みを止めた。しかしそれは、怖い想像をしていた私の、脳が聞かせた幻聴ではないかと思った。

「うぅ、うオぅ……」

 すると今度は、もっとはっきりと、男の人の声と分かる苦し気なうめき声が聞こえてきた。声は、その先にある左側のドアの中から響いてくる。

「うぅ、うオオォー」

 うめき声は益々大きくなり、ただ事ではないと思った私はドアを押し開けて中に飛び込んでいた。そこには更に、五つのドアが並んでいた。

 うめき声は、その一番奥のドアから響いていた。

「――ねェ、学校の怪談って、怪談って、怪談って……」

 ドアノブを掴もうとしたその瞬間、頭の中に反響する森々田さんの声は、低音で不気味な男の声に変化していった。それと共に、あどけなさの残る森々田さんのチャーミングな顔は醜く歪み、ドロドロと泥のように溶けていった。

 ほ……、本当に、このドアを開けてしまって、いいのか?

 ドアノブへと伸ばしかけた私の右手は、その手前で時が止まったように硬直していた。

「うオ、うオオオォー!」

 その硬直を打ち破る、獣を彷彿とさせる大絶叫が響き渡った。

「大丈夫ですかっ!」

 そう声を掛けながら、私の右手は反射的にドアノブを掴み、回していた。

 ガチャ。

 ドアは、訳もなく外側へと開いた。

 その瞬間、獣のような咆哮がピタリと止んだ。中にいたそれは、長いザンバラ髪を振り乱し、全身から言い知れぬ妖気のようなものを漂わせている。

 ギギィ~。

 立て付けの悪いドアが軋みながら開く、そんな緩慢な動作で、そいつの首が九十度、右に捻れた。まるで水木しげるの描く、砂かけばばあのような赤ら顔が、私の顔を睨み付けた。

「見ぃ~たぁ~なぁ~」

 ニタァ、と不気味な笑みを浮かべたそいつは下半身に何も身に付けておらず、和式トイレに跨がった、お世辞にも綺麗とは言えない黒ずんだ蒙古斑の残るそいつの尻からは、得も言われぬ臭いを放ち、ものすごい勢いで大量の便が(ほとばし)り出た――。


「ギャーーッ!!」

 その時、建物を揺るがす大絶叫が、敷地内に響き渡った。

「あれぇ、また誰か、一番奥のトイレのドア、開けちゃった?」

「ああっ! いっけな~い。私、あの新人さんに、鼻緒さんのトイレのこと話すの、忘れてた」

 悪びれた風でもなく、あっけらかんとした声で森々田さんがそう言った。

 鼻緒さんのトイレ、それは、この会社の男性従業員の間で語り継がれている、決して犯してはならない不文律であった。

 極度の便秘症で悩む鼻緒さんは、会社に来て作業着に着替えると、トイレで用を足すことを毎朝の日課としている。その際、どうやら特異体質であるのか、洋式トイレでは「出るものも出んっ!」と、必ず和式トイレを使用することにしている。会社の建物を増築する際、男性用トイレの一番奥の個室だけは和式のまま残すことになったのも、全ては鼻緒さんのためである。

 トイレに(こも)る鼻緒さんは、後ろで束ねた髪をほどき、ズボンとパンツを剥ぎ取ってから便器に跨がる。そしてあの、獣の咆哮じみた恐ろしい音を立て、真っ赤に腫らした顔でカッと目を見開き、鬼のような形相で激しく身を(よじ)りながら用を足す。その姿は既に変態の域を越え、もはや妖怪の域に達しようとしている。いきむ際に必要以上に大袈裟な声を出すのは、その音を聞き付け、ただ事ではないと心配した誰かがドアを開けることを期待してのことらしい。

「何であんな格好でうんこすんのよ?」

「ああしないと、出ねえんだよ。あれは俺の、ルーティンだ」

「それじゃあ、せめて、鍵を掛けなよ」

 そう言われて皆から責められる鼻緒さんだが、

「つい忘れちゃってなぁ」

 などと言って、ついぞ鍵など掛けたことがない。

 厄介なことに鼻緒さんは、どうやら露出狂でもあるらしい。トイレで用を足す姿を見られることに無上の喜びを覚える、などという特殊な状況下での露出狂というものがあるとすればの話だが。

「見ぃ~たぁ~なぁ~」

 用を足す姿を見られた鼻緒さんはその瞬間、無上の喜びと至福の安らぎとに打ち震え、リラクゼーション効果から刺激された副交感神経の働きが一気に活性化し、それと共に括約筋はマックスに弛緩し、それまで堰き止められていた己が便を、そんな決め台詞と共に一気に噴出させるという、身の毛もよだつ特殊技能を身に付けた。その姿を妖怪だと表するのも、(あなが)ち誇張だとも言い切れまい。事実、これまでにも既に、この世の地獄とも言えるその姿を目の当たりにした純真無垢な数人の若者が、失神して病院に運ばれている。


 ピーポーピーポーピーポー……。

 トイレでひっくり返っている私の耳に、遠くから救急車のサイレン音が近づいてきた。


  ~職場の怪談より「トイレの鼻緒さん」~

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