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紋章の系譜 3  作者: 瀬川弘毅
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第三章

 その後、魔法協会の職員の業務は多忙を極めた。

 穏健派に所属する魔術師をいくつかの部隊に分けて編成するため、そのリストを作成。そしてリストに従って部隊を召集し、集まったメンバーに作戦を説明する。

 二条が協会に電話をかけた翌日の放課後、高木にも召集がかけられた。協会の入り口の扉を開けると、北野と篠崎ももう来ていた。

「どこの班?」

「後方支援。そっちは?」

 先に北野に聞かれ、高木も聞き返す。

「あたしたち二人もそこ。偉い人たちとしては、新人には最前線に出てほしくないみたいだけど…なんか、過小評価されてるみたいで嫌な感じ」

「まあまあ、北野さん…」

 古参の魔術師が聞いたら堪忍袋の緒が切れかねないレベルの問題発言だったが、篠崎が彼女をなだめたおかげで事なきを得た。

 実際、北野の実力は普通の魔術師と比較しても決して引けを取らないだろう。幼少期から鍛えられてきた確かな実力は、過激派の幹部とある程度渡り合えるほどだ。高木や篠崎も、数々の戦いを経験する中で大きく成長した。特に冥界術という新たな力を得た高木は、過激派の放つ使い魔に使い魔で対抗できるという点で重宝するだろうと思われる。

 だが、やはり上層部としては若い魔術師を前線に投入して未来を奪われるような事態は避けたいのに違いない。

 ふと杉本の姿が視界に入り、高木は思わず後を追った。班ごとに分かれて各部屋で作戦の説明がなされる予定であり、杉本の向かうのは高木たちとは逆方向だった。けれど、師のこの作戦での立ち位置を知っておきたかった。

「師匠!…師匠は、どこに配属されたんですか?」

「先発隊だ」

 あっさりと答えた杉本に、高木はどう返していいか分からなかった。

「…そんな顔をするな。先発隊と言っても、やることは偵察に近い。もし敵に気づかれたら応戦はするが、それだけだ。じゃあな」

 杉本は微笑むと、茶のコートの裾を翻して行ってしまった。

「…頑張って下さい!」

 咄嗟に口をついて出たのは、何も飾らない、シンプルな激励だった。杉本は振り返らずに片手を上げてそれに応え、「会議室3」とプレートに記された大きな木の扉を開き、中に入っていった。

高木はそれを見送り、急いで自分の向かうべき部屋を目指した。長椅子に北野と篠崎と並んで腰かけると、まもなく作戦の説明が開始された。協会の職員らが、陣形の図などが記載されたプリントを出席者に回して配っていく。

 二条からもたらされた位置情報を元に、いよいよ過激派掃討作戦が実行されようとしていた。


「…む」

 廃ビルの一室で、黒田はぴくりと眉を動かした。椅子から立ち上がり、ところどころが割れた窓から外へ目をやる。

「来たか」

「…どうなさいました?」

 「威」が心配そうに尋ねる。

「穏健派の魔術師が数十名、ここを目指して来る。数キロ先に配置してある見張りから情報が入った」

 見張りというのは、黒田が契約している使い魔―ゴーストのことである。実体をもたない死霊である彼らはぼんやりとした白い煙のような姿をしていて、遠くから見ただけでは存在に気づきにくい。黒田はゴーストを隠れ家周辺の数か所に配置し、監視カメラとして利用していた。相手に憑りつき身動きを取れなくするなどして戦闘のアシストをさせることも可能だが、普段前線に出ない彼はもっぱらこの使い方をしていた。

「本当ですか⁉一体、どうしてここが…」

 動揺を隠せない「威」に、「覇」が冷静に進言する。彼はさほど驚いた様子も見せなかった。

「ともかく、それだけの数となると使い魔を総動員しても対処するのがやっとというところです。撤退も視野に入れるべきかと」

「そうだな」

 黒田が頷いた。元々過激派は、隠れ家を転々として穏健派に見つからないように活動している。次に移動するあてがないわけではなかった。

「総員、加速魔法を使ってここから撤退する。急いで荷物をまとめろ、ただし最低限のものに絞れ」

 黒田の決定に従い、過激派の構成員たちは支度を整えた。いつこういう事態に陥っても大丈夫なように、日頃から備えはしてある。逃走の準備には五分とかからなかった。

 黒田は忘れずに冥界術の奥義書を鞄にしまい込むと、黒のマジック・ウォッチを左手首に装着した。

『ヘルメス・アタック』

 それに続き、部下たちも一斉に魔法を発動した。

 何台かの乗用車に分かれて乗り込んだ杉本たち先発隊は、その数分後に廃ビルの向かいにある駐車スペースに車を停めた。降車し、先頭に立つ松宮に率いられ、緊張した面持ちでビルの入口へ近づく。

 非常階段を上り、意を決して中へ突入したときには、過激派のアジトはもぬけの殻となっていた。


 新しいアジトは、その数十キロ先にある今は使われていない結婚式場だった。中に足を踏み入れると埃が立つ。ステンドグラスから差し込む色とりどりの光が、無数の埃や蜘蛛の巣に乱反射しひどく幻想的な雰囲気をつくり出していた。

「前のビルの方が居心地はよかったわね…」

「これから綺麗にすればいいさ」

 無事に逃げおおせたもののやや残念そうな「威」を、「覇」は茶化してみせた。と、不意に彼の携帯が振動する。

「悪いな、ちょっと失礼」

 外に出ようとする「覇」を、「威」は訝しげに見た。

「…電話?こんなときに?」

 周りでは、黒田の指示で過激派の構成員たちが荷物を整理し、早速新しい環境づくりに精を出している。掃除をする者、寝るスペースをつくる者と様々だ。皆、自分のできることを一生懸命にやっていた。

 そんな中、外に出て電話に応じようとする彼の行動は、「威」には不審に感じられた。そこまで急ぐ必要のある要件なのだろうか。

「彼女からでさ。あいつ、すぐに出ないとうるさいんだ」

 「覇」は苦笑し、結婚式場の扉を開けて一人外に出た。何年も手入れのされていない庭は、雑草が伸び放題になっている。やがて、ぎい、と音を立てて扉が閉まった。

 彼に交際している女性がいるなどという話は、今まで聞いたことがなかった。

(まあ、でも、プライベートを詮索するのはあまり良い選択とは言えないわよね…)

 「覇」の行動を怪しむ気持ちがないわけではなかったが、「威」はそれ以上追及することはせず、仲間たちを手伝いに向かった。


 「覇」は扉を閉めるやいなや笑みを消し、黒のコートのポケットから携帯電話を取り出した。

「…ええ、予定通り移動しました。郊外の結婚式場です。…はい、後ほど位置情報を送ります。…はい、分かりました。それでは」

 通話を終了し、「覇」は満足げに微笑んだ。全ては計画通りに進んでいる。


 立て続けに轟いた爆音で、黒田は目を覚ました。時刻は午前零時を回ろうとしている。

「大変ですっ」

 式場の扉が勢いよく開け放たれ、一人の若い男が息を切らして駈け込んで来た。確か、外の見張りに立たせていた者のうちの一人だ。

「どうした」

「穏健派が攻めてきました」

「…何⁉」

 あり得ない、と黒田は思った。前回の襲撃からは五、六時間ほどしか経っていない。この短時間で新しい根拠地の場所を特定するなど不可能なはずだった。まさかこんな早くに攻撃を仕掛けられるとは全くの想定外で、ゴーストに周辺地域の監視を任せていなかったのは彼の落ち度かもしれない。

(逃走時に奴らに尾行されていたのか?いや、そんな気配があれば気づいていたはずだ…) 

ともかく、黒田は床に敷かれた寝袋から這い出るとマジック・ウォッチを身につけ、戦闘準備を整えた。原因究明はあとでやればいい。今は敵への対処が最優先だった。既に彼の同志たちも、騒ぎを聞きつけて起き始めている。

「状況は?」

「敵はかなりの数です…こちらの倍近い人数でしょう。この一帯を包囲されているので、前のように脱出するのは難しいかと」

 報告する男の服は、一部が焼け焦げていた。敵の魔法を受け負傷したのだろう。

「そうか…」

 黒田は見張りの男を、そして後ろで命令を待っている部下たちを見て、しばし思考に沈んだ。

 こうなってしまった以上、無傷で切り抜けるのは不可能だ。しかし穏健派の魔術師たちを正面から迎え撃とうとすれば、それは討ち死に覚悟の決戦をすることを意味する。仮にこの戦いに勝利することができたとしても、過激派の構成員数は大きく減るだろう。

 過激派の最終目的は、魔術師が正当に評価される理想の世界の実現だ。穏健派を倒せば目的達成の障害を排除できたことにはなるが、それ自体は目的ではない。来たるべき革命の日のため、こんなところで多くの同胞を失うわけにはいかなかった。自由に使える戦力が減れば、たとえ穏健派を打倒できたとしても目的の達成からはますます遠のく。

元より数で穏健派に劣る過激派は、既に幹部二人を失っている。それだけでもかなりの痛手なのだ。ここでさらに戦力を削られることだけは、何としてでも避けなければならなかった。

何より、大切な仲間をこれ以上失いたくなかった。

『この術式は使用者に絶大な負担を強いるが、その効果もまた絶大。とっておきの魔法ですよ』

 ずっと前、過激派を陰で支援してくれている団体の指導者は、こう言って黒田に術式のデータを渡してくれた。以来彼のマジック・ウォッチには、他の誰も知り得ないその「とっておき」の切り札が眠っている。

 その団体は冥界術のデータを搭載した過激派にマジック・ウォッチを提供するなど技術面でのバックアップと、資金援助等の財政支援を行ってくれている。「征」や「威」に人並みに教育を受けさせてやることができたのも、彼らからの援助があったからだった。

 これを使えば、おそらく自分は助からないだろうとの直感はある。だが重要なのは自分の生死ではなく、過激派という組織の存亡だ。生涯を賭した夢をここで終わらせないためになら、命を捨てる覚悟があった。

「俺が突破口を開く。お前たちはその間に逃げるんだ」

 黒田は皆を見回し、静かに言った。

「そんな…無茶です」

 「威」は唖然としていた。

「いくら何でも、黒田様一人だけで何十人もの魔術師を相手にするなんて―」

「俺のことには構うな」

 黒田が突然声を荒げ、「威」は台詞を遮られたことも忘れ硬直した。

「これは、過激派全体のためなんだ…分かるだろ、『威』…いや、明日香」

 リーダーに本名で呼ばれたのは何年振りだったろうか。十代の頃、リーダーと「征」―優一との三人で楽しく過ごしていたときをふと思い出す。あのときは魔術師同士の戦いのことなんてよく分からなくて、ただ普通の家族のような営みがそこにあった。懐かしい記憶が押し寄せ、何故か涙が溢れそうになる。

 否、泣き出しそうになったのはそのせいばかりではあるまい。彼女は悟ったのだ―おそらく、これが黒田との今生の別れになるであろうことを。

 幼い頃に両親を亡くしたときのことは、ほとんど覚えていない。身寄りのなかった自分を拾い、今まで育ててくれた男との離別は、本当の父親との別れのようだった。あえて下の名前で呼んだのは、せめてもの置き土産のつもりだろうか。

「本当に不器用な人ね…昔と全然変わらないわ」

 必死で涙をこらえ笑顔をつくった「威」の頭をぽんぽんと叩き、黒田は少し寂しそうに笑った。

「自分でもそう思うよ」

 そして扉から外へ目を向け、部下たちに背中を見せたまま言った。

「もう時間がない。俺が術を使って包囲網に穴を空ける…隙を突いてそこを突破しろ」

 皆は感極まり、言葉も出ない。ただ、崇拝するリーダーの最後の命令に従うのみだった。

 そのとき、風を切り裂いて扉から矢が飛び込んできた。「アルテミス・アタック」で放たれた矢は先刻駈け込んできた見張りの男の脇腹に突き刺さり、男が激痛に叫んで倒れる。

 続いて、穏健派の魔術師数名が突入してきた。だが、今度は黒田の方が早かった。展開された紫の魔法陣から、霞のようなものがいくつも出現する。それが魔術師らに纏わりつき、ゴーストに憑りつかれた男たちは肉体の自由を奪われて一瞬で無力化された。

 黒田は外へ走り出ると、迫りくる大勢の魔術師たちを睨み、左腕を天に掲げた。

『ハーデース・コネクト』


(師匠、大丈夫かな…)

 包囲網の最後列に配置された高木は、前方で先発隊が敵の本拠地へ斬り込みに行ったのを見つつ不安に思っていた。すぐ近くには北野と篠崎もいる。

 現在、包囲網の中ほどの部隊が敵の本拠地へ遠距離攻撃を行って揺さぶりをかけ、かつ先発隊が攻撃を仕掛けようとしている。次々に放たれる火炎弾や雷が、古びた結婚式場の外壁を容赦なく削り取っていく。高木たちの出番はまだないが、今攻撃を行っている者たちが魔術の行使で体力を消耗したら、彼らと後退する役回りになっている。

 と、式場の出入り口付近から黒い光の柱が噴き上がった。今までに見たことのない魔術だった。

「―何だ⁉」

「分からねえ。あんなの、見たことないぞ」

 周りにいる年配の魔術師たちからも、戸惑いと怯えの声が上がる。

 光の柱は数十メートルも空に向かって伸び、やがてある一点で静止した。巨大な漆黒の柱は異様な存在感を放ち、見る者を圧倒した。

(あれが、あの術式の効果なのか…?すごいことは確かだけど、攻撃に使える代物じゃないように見えるな)

 辺りがざわめく中、高木はその奇妙な現象を観察していた。

 しかし、その推測は間違いだったことが直後に証明される。

 柱と空の隣接点から、想像しうる限りの魑魅魍魎が、悪夢が溢れ出した。


 悪魔、堕天使、ケルベロス、ゾンビ、キメラ…無数の闇のものたちが光の中から現れ、耳障りな咆哮を上げた。その数は百を超えるかもしれない。翼をもつものは羽を広げ滑空し、もたぬものは黒い光の柱を駆け下りるようにして地上を目指す。

 予期せぬ事態に、魔術師たちの陣形は乱れかけた。

「前方の部隊は、柱を下りてくるものを狙え!後ろの者は空の敵に対処しろ!」

 だが、先頭に立つ松宮の指示で混乱はひとまず収まった。前列の魔術師らが、柱を目指し駆け出す。高木は篠崎、北野と頷き合い、上空を飛行する無数の怪物を見据えた。

『ポセイドン・アタック』

 青の紋章を展開し、氷の弾丸を立て続けに撃ち出す。滑空しこちらへ襲いかかろうとしていた小型悪魔を数匹仕留め、高木は空高くに浮かんでいる敵に視線を向けた。隣では北野が雷撃を、篠崎が火球をそれぞれ放ち、猛禽類に似た翼とサイの角をもつキメラを撃墜している。

 上方には二体の、ほぼ同程度の大きさの異形の者らが宙に浮かんでいた。鹿を思わせる巨大な角を備えた筋骨隆々としている悪魔と、漆黒の衣を纏い人形じみた笑みを浮かべている堕天使だ。

冷静にこちらの出方を窺っていた二体だったが、やがて大悪魔が口を大きく開き、堕天使が瞳を妖しい輝きで満たせた。火炎と熱線による攻撃で、一気にこちらの戦力を削ぐつもりらしい。

しかしそうなる前に、高木は既に次の一手を打っていた。

『ハーデース・アタック』

 二体の後方の空中に投射された、紫の魔法陣。そこから姿を現した一体の大型のガーゴイルが、石の翼をはためかせその背後に迫る。

 気配を悟られるよりも早く、ガーゴイルは両腕を悪魔と堕天使の背中に押し当て、爪を突き刺した。悪魔が痛みに唸り、堕天使は録音された音声のような無機質な悲鳴を上げる。身をよじって逃れようとする二体の闇のものは、すぐにそれすらも叶わなくなった。

 かぎ爪が食い込み、掌が接している背中が徐々に石化していく。触れたものを石にするという、このガーゴイルのもつ能力が発現されたのだ。離れた位置にいる敵への対抗手段を持たない一方で、彼は接近戦では無類の強さを発揮する。

 上半身のほとんどを石化され、悪魔と堕天使は声にならない叫びを上げた。頭部を石にされ視力を失っては、もはや二体はほぼすべての攻撃を封じられたと言っても過言ではない。

(…これ以上は支えきれん)

 ガーゴイルの苦しそうな思念が、高木の中に流れ込んでくる。石化して身動きを封じたはいいが、その影響で二体の体重は増している。そのまま持ち上げておくのは困難だろう。

「…北野、篠崎」

 高木は、横にいる二人に声を掛けた。

「あいつが抱えてる化け物二匹が、もうすぐ落ちてくる。俺たちで破壊するぞ」

「はあ?無茶言わないでよね」

 北野は思い切り顔をしかめてみせたが、乗り気なのは見え見えだ。

「…はい!力を合わせましょう」

 こくりと篠崎も頷き、作戦は決定した。

(―いいぜ)

 ガーゴイルに思念を送る。刹那、ガーゴイルの両腕が引き抜かれ、石像と化した悪魔と堕天使は自由落下に身を任せた。


 下にいる他の魔術師たちに当たらぬよう、それを砕かねばならない。

 高木は悪魔が落下する軌道を目で追いながら、その真下へ向かい疾駆した。数名の魔術師たちが、そこで中型の悪魔と交戦している。全身から奇妙な突起が伸びた悪魔は口から酸性の液を吐きかけ、魔術師たちと互角に渡り合っていた。

(…間に合え!)

 「ヘルメス・アタック」を発動し、移動速度を一気に引き上げる。魔術師らの側へ到達するやいなや、地面を強く蹴り飛ばした。

『アレス・アタック』

 電子音声が鳴り響き、全身の筋力強化及び皮膚の硬化が完了する。高木は空中で右足を伸ばし体を捻って、下から突き上げるような跳び蹴りを繰り出した。魔術により鋼鉄並みの硬度を付与された右足が真っ直ぐに突き出され、高速のキックが弾丸のように炸裂する。石化した悪魔の肉体は粉々になり、細かい破片となって降り注いだ。

 そのうちの一つが頭部に当たり、下にいた悪魔が怯む。隙を逃さず、魔術師たちが悪魔を取り囲み「アルテミス・アタック」の集中砲火を浴びせる。何本もの矢に体を撃ち抜かれた悪魔は絶叫し、地面に崩れ落ちて息絶えた。

 どうにかバランスを取り戻して着地した高木に、魔術師の男らはにっと笑いかけた。たとえ冥界術の使い手であっても、同じ穏健派の仲間であることに変わりはない。危ないところを救ってくれて助かった、ありがとうな―高木には、彼らがそう言っているように思えた。

 もっとも、実際には彼らは数秒の間高木に笑いかけただけで、次の獲物を探し歩き去ってしまった。それでも、一時期高木に向けられていた忌み嫌うような視線は、彼らからは感じられなかった。高木も微笑み返した。

突如怪物たちが出現し戦況は混沌を極めたが、大型の敵は今の時点でほぼ倒されたようだ。あとは残りの闇のものたちを一掃し、あの術を使った魔術師とその仲間を捕らえればいい。魔法陣からガーゴイルを冥界へ送り返してやりつつ、高木はそう思った。


「気になるあの人のことばっかり考えてないで、集中しなさいよね」

「…か、考えてませんから!」

 北野と篠崎は、石化した堕天使が落ちてくるであろう地点に立ち上方を睨んでいた。北野に茶化され、篠崎は赤面して若干むきになったように応じた。北野がくすっと笑う。

「…冗談だって。じゃ、行くよ!」

「はい!」

『『アレス・アタック』』

 篠崎もすぐに真剣な表情に戻り、二人が同時に術式を発動する。北野が左の、篠崎が右の拳を握り締め、渾身の力を込めて上に突き上げる。頭上にまで迫っていた歪な石像に強烈なアッパーカットが命中し、堕天使の肉体は一瞬で粉砕された。小さな石がぱらぱらと舞い落ちる中、北野はふうと大きく息をついた。篠崎も額の汗を拭う。

「まあ、あたしにかかれば楽勝ね」

 さりげない北野の一言を、篠崎は先刻からかわれた報復とばかりに聞き流してみることにした。彼女なりの小さな抵抗だった。

 何はともあれ、二人のコンビネーションがなかなかのものであったことは疑いの余地がない。


 異形のものたちが降り立ち混乱した戦場を、「威」ら過激派のメンバーは突破しようとした。けれども、問題が一つあった―召喚されたこの化け物たちは、敵味方の見境なく人に襲いかかるのだ。

(どういうことなの?黒田様が私たちを攻撃するはずはないし、元々こういう効果を持つ術式なのかしら…)

 近づいてきた悪魔をレーザー光で撃ち抜いて進みながら、「威」は疑問に思った。まるで暴走装置のような魔法だ。黒田が奥の手として取っておいた理由も、なんとなく分かる気がする。

 塀や柵などの遮蔽物に身を隠しながら進んでいたが、ついに穏健派の魔術師らに見つかってしまった。やむを得ず戦闘に入ろうとした彼女と「覇」の前に、何人かの仲間たちが割って入る。

「ここは私たちにお任せを」

 それは、かつて「征」や「武」の直属の部下であった者たちであった。

「…主君を失う悲しみを味わうのは、私たちだけで十分だ!」

 そう言い、彼らは紋章を展開して穏健派の魔術師の部隊へと果敢に突っ込んで行った。

 できるものなら引きとめたかった。だが、戦場では少しの隙が命取りになる。そんなことをしても、自分たちをも危険に晒すだけの結果になることは分かり切っていた。

「すまない…」

 不覚にも涙が零れそうになるのを感じ、「威」は視界が塞がらぬよう手でそれを拭って歩みを進めた。

 そのせいで、隣の「覇」の憐れむような表情に気づくことはなかった。

(惨めな者たちだ…何の大義もない戦いのために、自ら命を投げだすような真似をするとは。所詮、お前たちは我々の手のひらで踊っているにすぎないというのに)

 彼は、過激派の同胞の自己犠牲を悲しんでいるのではなかった。彼らの背負った悲惨な運命そのものを嘆いていたのだ。それも、他人事のように。

 式場の敷地の外が見えてくると、「威」は同志たちを振り向いて叫んだ。

「あと少し!加速魔法を使って逃げ切るわよ!」

「はっ!」

 部下たちは小さく首肯し、マジック・ウォッチを操作しようとした。そのときだった。

「…いや、そうしてもらっては困る」

 「覇」が口を開いた。唇を歪め、残忍な笑みを見せる。

「え…?」

 訝しげに尋ねた「威」を鼻で笑い、「覇」はマジック・ウォッチを装着した左腕を空に掲げた。銀色のデバイスが、月の光を受けてきらりと光る。

「何故なら…君たちには、ここで死んでもらわなければならないからさ」

 闇夜に紫の魔法陣が投射され、そこから一体の堕天使が顕現した。美しい黒髪を振り乱し、堕天使が両目を輝かせる。視界が眩い光で埋め尽くされる。

「―危ない!」

 近くに立っていた名も知らぬ部下が、咄嗟に「威」を庇って突き飛ばした。

 その後どうなったのかは、彼女には分からない。ものすごい衝撃に襲われ、何十メートルも吹き飛ばされた。建物の外壁であろう、何か固いものに強く体を打ちつけた。激痛のあまり、気が狂いそうだった。

 「覇」の勝ち誇った笑い声が徐々に遠ざかり、消えていく。

 瓦礫の中から辛うじて身を起こした彼女が目にしたのは、辺り一面に転がった仲間たちの焼死体だった。

 果てしない絶望と混乱が、彼女を包んだ。


「…くっ」

 黒田は膝を突き、術の使用を中断した。一度に大量の魔物を解き放てるこの魔術は強力だが、術者への負担も相応に重い。これ以上体力を消耗するのは得策ではなかった。漆黒の光の柱が細く薄くなり、やがて消滅する。気がつけば、滝のような汗が流れていた。

 穏健派の魔術師たちはまだ怪物たちと交戦していた。次々と放たれる雷撃や氷の槍に、ゾンビとケルベロスの群れが薙ぎ倒されていく。だが幸いなことに、黒田へ目を向けるほど余裕のある者はおらず、いずれも彼から離れた位置で戦闘を繰り広げていた。

 黒田は寂れた結婚式場の中へふらふらと戻り、扉を閉めた。

 術の使用をやめた今、新たに闇のものが召喚されることはない。それは、こちらの使える戦力が減り続けることを示していた。やがて悪魔たちが一掃されれば、連中はここにも踏み込んでくるだろう。自分にできることは、一人でも多くの魔術師を犠牲にして散ることだ。

(これで良かったんだ。…仲間たちを逃がすことにはどうにか成功した。新天地で、彼らが過激派を再興してくれるだろう…)

 黒田は長椅子の端に腰掛け、息を整えた。自分の役目は終わった。彼には、何の後悔もなかった。

 ただ一つ気にかかるのは、支援者である彼が提供してくれたこの術式だ。

 術を発動している最中、黒田は時折、逃げる同胞らの後ろ姿を見送っていた。無防備な姿を敵に見せることになるのは承知していたが、最後に仲間たちを一目見ておきたかった。

 そのとき、小型の悪魔の一体が「威」に飛びかかるのを目撃したのだ。すぐに彼女のレーザー光で撃ち抜かれて絶命したが、黒田は違和感を拭えなかった。

(何をしている。彼らは俺の仲間だ…近づくな)

 そう念を送っても、化け物らは黒田の意志に反して過激派の魔術師にも同様に襲いかかった。

 何かがおかしかった。大量の使い魔を召喚して場を制圧する魔法だと思っていたが、呼び出した魔物を自分の制御下に置けないのは通常の冥界術と異なる。

 数が多過ぎるためにコントロールできないのかと思い、試しに一体のキメラだけに念を送ってみた―しかし、結果は同じだった。黒田が普段使役している使い魔であるゴーストたちなら制御できるかとも思ったが、彼らさえも命令には無反応だった。

 どうやらこの術で呼び出された魔物は、術者以外の者に区別なく攻撃性を示すらしい。

(一体何なのだ、この術は…俺が知っているどの術式とも異なっている)

 ようやく呼吸が落ち着いてきたが、疑問は解決されないままだ。傍に置いてあった冥界術の奥義書をぱらぱらとめくり、それらしい記述を探す。けれども、こんな魔法は例がなかった。

 不意に、何かが砕け散る音が響いた。はっと本から顔を上げ、素早く辺りに視線を走らせる。

 式場の一段高くなっている場所の上部に配された、色とりどりのステンドグラス。それに衝撃が加えられ、ガラスの破片が降り注いだ。

 扉を破壊して正面突破してくるものとばかり思っていて、反対方向からの奇襲には無警戒だった。だが黒田は流石の反応速度で「ハーデース・アタック」を発動、紫の紋章の盾を展開し破片の雨から身を守った。

 そして侵入者へ目を向け、息を飲んだ。

「何故、お前が」

 ステンドグラスが粉砕されてできた空洞からは、空に光る星たちが見える。

 その明かりに照らされて式場に降り立ったのは、真っ黒なプロテクターに身を包んだ一人の男だった。綺麗に剃り上げられた頭を上げ、男は黒田に笑いかけた。

「ご苦労様。これで君の役目は終わった。…君が穏健派の連中に余計なことを喋ってしまう前に、退場していただこう」

 黒の分厚い強化スーツを着込んだ二条はにやりと笑い、銀のマジック・ウォッチを前に突き出した。


「…七賢人の老いぼれどもは、一筋縄ではいかない。君のことをすぐ処分しはしないだろう。じっくりと時間をかけて尋問する。そうなっては、我々にとって都合が悪いんだ」

「ま、待ってくれ」

 黒田は動揺し、がたっと音を立てて立ち上がった。

「融和派が俺たちを秘密裏に支援していた事実が、明るみに出てはまずいことは理解している。それについては絶対に話さない。約束する」

「尋問用の魔術を使われても話さないと言い切れるのかい?真実しか喋れなくする古式魔術も存在するというのに」

 返す言葉を失った黒田に、二条は畳み掛けるように言った。

「悪く思わないでくれ。要は、口封じだ」

「貴様…」

 黒田は歯ぎしりし、再度「ハーデース・アタック」を発動した。展開された紫の魔法陣の中心点から、目にも止まらぬ速さでレーザー光線が撃ち出される。

「俺や仲間たちを支援しておいて…劣勢になったら切り捨てて、自分は関与していないとのたまうのか!貴様には仁義というものがないのか!」

 怒りを剥き出しにして、叫ぶ。

 黒田の放った必殺の一撃を、二条は避けようともしなかった。代わりに両腕を広げ、不敵に微笑む。胸部に光線が命中したと思った瞬間―それは発射されたのと全く同じ方向に跳ね返された。

 完璧な角度で反射されたレーザー光が、黒田の胸を撃ち抜いた。

「が…っ」

 驚愕に目を見開き、黒田が崩れ落ちる。白煙の立ち昇る胸を押さえ、必死で喘いでいる。二条は彼を一瞥し、からからと笑った。

「この強化スーツはアレスプロテクターといってね、少し体力を消費するだけで常時『アレス・アタック』と同じ能力を発動できる戦闘スーツなんだ。…過激派の魔術師と有利に戦えるよう、レーザー光を反射する機能も組み込んである」

 その台詞は、過激派と対立することになるのを最初から予期していたように聞こえた。

「君はさっき、私が過激派を支援していたと言ったね。だがそれは、真実のほんの一片に過ぎん。結局のところ、我々は穏健派の味方でも、過激派の味方でもないのだから」

「何…だと」

 息も絶え絶えに言う黒田を、二条は憐れみをこめて見下ろした。

「我々は我々の目的を果たすだけだ…さて、無駄話はこれくらいにして、そろそろ終わりにしようじゃないか」

「…ふざ、けるな…」

 黒田は倒れたままの姿勢で荒い息を漏らし、震える手を二条へ向けた。

『ハーデース・アタック』

 投射された紋章から三体のゴーストが飛び出し、霧のようにぼんやりとした姿を取ったそれが二条へと襲いかかる。

「無駄だ」

 二条は後方へ大きく跳び、白い精神体の突進を余裕で躱した。アレスプロテクターの効果で、彼の運動能力は今飛躍的に向上している。

 式場の床に着地すると同時に、二条はマジック・ウォッチを装着した左手をさっと黒田へ向けた。

『ゼウス・アタック』

『リピート』

 天界術を発動するときの通常の合成音声に続き、女性的なやや高い合成音声が響く。

 次の瞬間、黒田の前後左右、四方に黄に光り輝く魔法陣が展開された。同一の術式の同時多重的な展開―従来のデバイスでは不可能だった技術が、融和派のテクノロジーにより実現されていた。

 四つの紋章から、一斉に雷撃の槍が放たれる。

 超高電圧の電流を体に流し込まれ、黒田は既に息絶えていた。黒焦げになった死体を満足げに見やり、二条が微笑む。術者が倒されたことで、ゴーストらの姿は既に消えていた。

 再度跳躍してこの場を去ろうとした二条だったが、足を止め、さっきまで黒田が座っていた長椅子に近づいた。死体を避け、月明かりを頼りに辺りを探す。やがて目当てのものを見つけると、装飾の施された表紙をじっと見た。

「…これは私たちが持っていた方が良さそうだ。穏健派の手に渡っては、潜在的な脅威になる」

そう呟いて数冊の書物を拾い上げると二条は高く跳び上がり、式場から脱出した。

(はたして、「覇」の方は上手くやってくれたかね)

 頭の隅でそんなことを考えながら、二条は屋根から屋根へと飛び移り、逃走した。魔術の効力によるものが大きいが、恰幅の良い中年男性とは思えぬ身軽さだった。

 数分後に式場の中に突入した魔術師たちが目にしたのは、過激派の指導者だった男の無残な最期だった。

 

「―皆さま、今日はお集まりいただきありがとうございます」

 松宮はマイクを手に壇上に立ち、一同を見回した。

「皆さまの協力のおかげで、死者を出すことなく過激派掃討作戦を成功させることができました。過激派構成員の多くは焼死体で発見されており、もはや彼らの野望は潰えたと言えるでしょう」

 魔術師たちの間で、次々に歓声が上がった。

「指導者だった黒田智宏は『ゼウス・アタック』の攻撃を受けたものとみられ、感電死しているところを発見されました。彼を倒したのが何者か、はっきりとは分かりません。ですが、末永殿に対し使われたものと酷似した攻撃パターンが使われた形跡があることから、過激派内部で仲間割れが生じた結果であると推測します」

 松宮は自信たっぷりにそう言い、ワインの注がれたグラスを掲げた。

「…さあ、祝杯を上げようではありませんか。魔術師同士で争う時代は終わり、魔法の平和利用の研究に全力を注ぐことのできる時代が到来したのです。それでは皆さま、準備はいいですか?」

 祝勝会に集まった魔術師たちは皆笑顔になり、それぞれにコップを掲げた。

「乾杯!」

 松宮が音頭を取ったのに続き、小気味いい音があちらこちらで響いた。


 魔法協会で開かれている祝勝会には、掃討作戦に参加した魔術師のほとんどが出席していた。一階の普段客間として使われているスペースを利用し、豪華なメニューの載せられたテーブルが等間隔に配置されている。バイキング形式の立食パーティーで、魔術師たちは皿と箸を手に各テーブルをゆっくりと巡回していた。

 そこにはもちろん高木、篠崎、北野、それに杉本も出席していた。同じテーブルに集まった四人が、かちん、とコップを打ち合わせる。冷たい麦茶を一口飲むと、高木はあいさつ回りに向かった杉本の後を追いかけた。

「…あの、師匠」

「何だ?」

「…それで、見つかったんですか?冥界術の奥義書ってやつは」

 杉本は足を止めて振り返り、険しい顔つきになった。

「…いや。まだ、そういう報告は受けていない。生き残った構成員が持ち去ったか、あるいは焼失したかだ…その可能性についてはあまり考えたくはないが。新たに報告が入れば、すぐ連絡する」

「分かりました。邪魔してしまってすみません」

 杉本は踵を返し同僚たちの元へ近づくと、すぐに談笑し始めた。高木は努めて明るく言い、二人のところに戻った。

 しかし落胆しているのは隠し切れなかったらしく、北野にはすぐに見抜かれてしまった。

「駄目だったの?」

 皿に乗せた春巻きを頬張りながら明日の天気でも尋ねるように聞いてくる北野は、いささか呑気すぎるともいえよう―場を和ませようという、彼女なりの心遣いかもしれなかったが。高木は肩をすくめた。

「まだ見つかってない。見つかったら連絡するって」

 以前過激派が魔法協会の書庫から持ち出したままになっている、冥界術の奥義書。それには、冥界術を会得するために必要となる特別な儀式を行う方法が記されている。

 だがそれには同時に、冥界術の儀式による闇のものとの契約を解く方法も記載されているという。過激派を打倒して奥義書を奪還しその手順を行うことで、契約を破棄する―それが、高木のここしばらくの目標だった。

 戦いが終結した今となっては、冥界術の力は必要ない。高木が冥界術の力を手にすることを選んだのは、仲間を守ることのできる力が欲しかったからだ。私利私欲のために使える力を欲したわけではない。

「ふーん」

 北野は皿を一旦テーブルに置き、高木をじろじろと見た。

「もし見つからなかったらヤバいんじゃないの?」

「分かってるよ、そんなこと」

 思わず荒い言い方になってしまい、しまったと思った。

「…ちょっと、北野さん」

 場を収めようと、篠崎が小声で言う。ごめんごめん、と軽い調子で応じた北野は彼女を見て、目を瞬かせた。

「…あんた、それ」

「…へっ?」

「いつぞやの勝負服」

「…わあああああっ⁉へ、変なこと言わないで下さい!」

 かあっと頬を赤く染め、篠崎は北野の口を手で塞ごうとした。北野は身をよじってひょいと躱し、にやにやと笑いながら後輩を見ている。

 今日の篠崎の服装は、薄い水色のチュニックに紺のスカート。以前、北野と二人で買い物に行ったときに買ったものだ。

「ち、違いますからっ!今日はパーティーだから、その、きちんとしたコーディネートの方がいいと思って…」

 しどろもどろになっている篠崎を、北野が意地悪そうに眺めている。高木には、二人が何の話をしているのかちんぷんかんぷんだった。

 魔術師たちが集まる正式な会ということで、参加者には「ふさわしい服装」での出席が条件づけられていた。高木は無難にスーツ姿で、北野は高校の制服で参加している。杉本ら魔術師の多くは、スーツやタキシードを着用している。

「でも学校の制服じゃないってことは、ある程度意識したんじゃない?ちょっと背伸びしてみたいな、なーんて」

 北野は篠崎に一歩近づき、耳元で囁いた。

「本当は彼にエスコートして欲しいんでしょ?正直になりなよ」

 耳にふっと息を吹きかけられ、篠崎はびくっと震えた。顔は真っ赤に火照り、何も言い返せずにいる。反論できないのではなく、よりによって高木の前でこんな風に弄ばれる羞恥に耐えられなかった。

「―おい、やめろ。何だか知らないけど、嫌がってるだろ」

 北野の肩に手を置き、高木がそこに割って入る。北野はしぶしぶといった表情で数歩下がり、篠崎はほっとしたように胸を撫で下ろした。

 篠崎が感謝の言葉を高木に述べようとする前に、北野は苛立たしげに首を横に振った。

「あーもう、分かった分かった。あんたたちは二人で楽しくやってなさい」

 言うが早いか隣のテーブルに移動し、若くハンサムな男の魔術師に声を掛ける。高木は呆れて彼女を見送った。この歳で見ず知らずの男性に色目を使っているようでは、将来が思いやられる。

「先輩、ありがとうございます。それと、すみません…」

 篠崎はぺこりと頭を下げ、改めて感謝を伝えた。頬の紅潮は徐々に引いてきている。

「先輩は私たちを助けるために、危険を冒してまで冥界術の力を手に入れたんですよね。でも、契約を解除する方法が書かれた魔導書は見つからないままで、私たちも何もできなくて…私、自分が情けないです」

 儀式手順を踏み冥界術の力を得た者は強大な力を手にするが、同時に代償を払うことにもなる。死後魂の一切の自由を奪われ、永遠の苦痛を味わうこととなるのだ。戦いの中で命を落とした過激派のメンバーは、皆この末路を辿った。

 ハーデースと再契約しガーゴイルを使役する力を得た際に、高木の契約は完全なものとなっている。契約を破棄し冥界術の力を手放さない限り、魂の自由は奪われたままだ。

 申し訳なさそうにうなだれる篠崎に、高木は励ますように言った。

「篠崎が自分を責める必要なんかない。俺が選んだ道だから」

 そしてにっこり笑い、やや顔を赤らめて付け加えた。視線がやや泳ぎ気味になる。

「それと…その服、よく似合ってると思う」

 再び真っ赤になった篠崎は、恥ずかしそうに微笑んだ。

「…ありがとうございます」

 蕾が花開いたように眩しい笑顔を、高木はうまく直視できなかったかもしれない。

「さ、気を取り直して楽しもう。パーティーはまだ始まったばかりだ」

「…はい!」

 二人は笑い合い、歩調を合わせて隣のテーブルへと移動した。


 やがて、祝勝パーティーも宴たけなわとなった。テーブルの上の料理は大方なくなり、魔術師たちはお喋りに興じていた。

 そんな折、協会入り口の扉がどん、どんと強く叩かれた。

 近くにいた女性の魔術師は扉を開けて来訪者を迎え入れようとし、悲鳴を上げて後ずさった。彼女を押しのけ、ぼろきれを纏った生ける屍たちが中へと侵入してくる。

 異常事態に気づいた魔術師らがざわめきだし、華やかな雰囲気は一変した。突如現れたゾンビたちは両腕を振り回し、前傾姿勢でよろよろとこちらへ近づいてくる。

「過激派は撲滅したはずだ。何故、冥界術でしか召喚できない使い魔が…」

 グラスをテーブルに置き、松宮は呟いた。だが、七賢人の自分はこんなときにこそ士気を高揚させる責務があると思い直し、マイクを再び手に取った。

「…過激派の残党の襲撃に違いない。全員で迎撃するぞ!」

「―おう!」

 あちこちで、威勢よく応じる声が上がる。正装の魔術師たちは懐からマジック・ウォッチを取り出して装着すると、すぐに戦闘準備を整えた。迫り来る死者の軍勢に向かって、陣形を組んだ魔術師たちが次々に魔法を放つ。


『アポロン・アタック』

 怒涛の勢いで連射される火炎弾が、敵の腐敗した肉体を焼き尽くす。

 高木らが加わるまでもなく、入り口付近にいた数十名の活躍で、ゾンビの群れは完全に消滅した。殲滅にさほど時間はかからなかった。

 しかし、こうなるとパーティーどころではない。予定より二十分ほど早い閉会式が行われ解散となったのち、協会に常駐している職員らは事後処理に追われていた。火球が掠め焼かれた床を魔術で修復したり、息絶えたゾンビの肉体を外へ運び出して処分したりと忙しい。

 また、過激派の勢力がなお残存しているのではないかという疑念は、勝利の喜びを薄れさせもした。皆思い思いに、複雑な表情を浮かべながら会場を後にする。

 高木も協会を出て、駅への道を歩いていた。道中は篠崎と一緒だったが、少し考え事をしていたせいかあまり会話は弾まなかった。駅に着くと彼女と別れ、一人電車に乗り込む。

(もし過激派の構成員が一定数生き残っていて、彼らが冥界術の魔導書を保持しているのだとしたら…)

 そう考えると、高木は不謹慎ながら希望が見えたように感じずにはいられなかった。


「失敗したようです」

「やはりか」

 協会の様子の偵察から戻った「覇」からの報告を受けて、二条は苦笑した。広い屋敷の縁側に腰掛け、彼は言った。

「過激派の仕業に見せかけて奇襲をかけるのは悪くないアイデアだが、融和派のメンバーの中で冥界術が使える者はそう多くない。戦力が不足しとる…」

 「覇」はその傍にうやうやしく跪き、頭を垂れた。

「左様でございますね」

 融和派としては、計画を実行するうえで邪魔になり得る穏健派を排除したいところである。けれども、出し抜けに穏健派に戦争を仕掛けるのは賢いやり方ではない。そこで、過激派が首謀者であるかのような偽装工作を行ったのだ。

「…穏健派に喧嘩を売る、何かもっともらしい理由をつくらねばならんな」

 二条は笑い、湯飲みに注がれた茶を一口飲んだ。そこでふと思い出したように、「覇」の方を向いて言う。

「そう言えば、気になることがある」

「…何でしょうか?」

「この前の過激派掃討作戦の際、私が黒田を始末しに出向いたのは知っているな」

「ええ、もちろんです」

 完成した新型のマジック・ウォッチと強化スーツ「アレスプロテクター」の性能のテストも兼ねて二条自らが戦場に赴いたことは、「覇」も把握していた。結果は満足のいくものであったと聞いている。

「あのとき、穏健派の魔術師の中に冥界術を使っている者がおってな」

「そんな…馬鹿な」

 「覇」は驚き、言葉を失った。

 通常、冥界術を会得するには定められた手順を踏み魔物と契約する必要がある。そしてその儀式の詳細は、冥界術の奥義書を保有している過激派の構成員しか知り得ないはずだった。

なお「覇」から情報が流されていたおかげで、融和派のメンバーの中には彼のように冥界術を使える者も何名かいる。だが、それは全体のほんの一部に過ぎない。戦力増強の一環として、二条が部下に会得させただけのことだ。

儀式手順を知っている穏健派の魔術師がいるはずはない。となると、何故冥界術を使える者がいるのか。

答えは、おのずと一つに絞られる。

「まさか…」

 はっと目を見開いた「覇」に、二条は重々しく頷いた。

「ああ。奴は、自力で冥界術に覚醒した可能性が高い」

 特定の魔術へきわめて高い適性をもつ者の場合、正式な手順を踏まずに魔法を発動できるようになることは稀にある。例えば、呪文を一部省略して唱えても通常通り発動することができる場合がある。七賢人の中にも、そのような特殊技能をもつ魔術師がいると聞いたことがあった。

 しかし、冥界術の会得は単純な手順の簡略化とはわけが違う。元々使用できる魔法をさらに洗練されたかたちで使えるようになることよりも、己の力のみで新しい魔術を獲得することの方が困難であるのは自明であった。過激派一の実力者であった黒田でさえも―「覇」自身は彼より自分の技能が劣っていると思ったことはないが―、冥界術の習得には正式な手順を踏んだという。

 もしも穏健派の魔術師の中にそのような人物がいるのなら、融和派が計画を進める上で障害になることは確実だった。

「調べはついているのですか?その魔術師については」

 落ち着きを取り戻し、「覇」が尋ねた。二条は軽く首を縦に振り、和服の懐から一枚の書類を取り出した。履歴書のような体裁をしていて、経歴や個人情報がびっしりと書き込まれている。「覇」はそれを両手で受け取り、ざっと目を通した。

「部下に穏健派のデータベースをハッキングさせて、構成員のリストを漁ってみたよ。…高木賢司。過激派の連中が目の敵にしていた杉本宗一、彼の弟子だ」

 予想よりも若い人物であったため、「覇」はやや意外に感じた。顔写真を見ても、ごく普通の大学生にしか見えない。やや茶色がかった髪と意志の強さを感じさせる顔立ちが印象的な、長身の青年だった。

「本当に、彼が冥界術を?」

「間違いない。私がこの目で見たのは、この顔だ。使い魔を使役する力も身につけていた」

 それを聞いて、「覇」の表情は曇った。

「厄介な存在ですね。…始末しますか?」

「いや」

 けれども、二条の返答は意外なものだった。

「奴には利用価値がある。殺さずに生け捕りにしなさい」

「…利用価値がある?彼が我々の側につくとは思えませんが」

「そういう意味ではないよ」

 「覇」は訝しげに尋ねたが、二条は有無を言わせぬ口調で穏やかに言った。

「彼は、儀式手順を踏まずに冥界術を会得した、類い稀な才能の持ち主だ。…彼の遺伝子を烈に組み込めば、列は究極の魔術師として完成するだろう。我々の計画の完遂にも、大きく近づくことになる」

「なるほど」

 「覇」は合点がいき、ぽんと手を叩いた。にっこりと笑い、二条に頷く。

「それならば、私にお任せください。全ては、来たるべき安寧の日のために」


 高木は大学からの帰路に着いていた。キャンパスの最寄り駅から電車に乗り込み、揺られること十分と少し。電車を降り、自宅へと徒歩で向かう。既に辺りは暗くなりかけていた。

 途中にあるスーパーで弁当を買い、夕食を調達する。今日は必修の授業が重なり、少し疲れている。帰ってから自炊をする気にはなれなかった。

 スーパーを出れば、学生マンションまではほんの少しの距離だ。自然と足取りが軽くなったのも無理はない。

 だが、近づく人影に気づくのが一瞬遅れたのは迂闊だったかもしれない。バス停の側に設けられたベンチで佇んでいた男は、高木を見ると無言ですっと立ち上がった。そして、つかつかと彼に歩み寄った。

 足音がすぐ後ろまで迫り、高木ははっとした。振り返り、相手の姿を視認する。否、見上げると言った方が正しいか。

 かなりの長身であるその男は端正な顔立ちで、ついさっき美容院に行ってきたばかりといった風な髪形をしている。おそらくはこまめにセットし直しているのだろう。白いシンプルなデザインのシャツの上に黒のジャケットを羽織った彼は、なかなかに洒落ている。

 けれども、ぎらぎらとした瞳がその印象を覆す。あからさまな敵意が、そこには込められていた。

「誰だ」

 高木は声を硬くした。男は足を止め、にっこりと笑う。

「答えづらい質問だな。コードネーム『覇』、と言えば分かるか?」

 その言葉に、高木は一層警戒心を強めた。背中に背負ったリュックを歩道にそっと下ろすと、素早くマジック・ウォッチを取り出す。カチャリ、という小気味いい音を立ててそれが装着されたのを、「覇」は微笑みを浮かべて見ていた。

「…過激派の残党か。仲間を殺された復讐か?」

 高木に睨みつけられてもなお、彼の余裕は崩れない。

「それについてはノーコメントで頼もうか」

 興味なさげに返し、シャツの袖を少しまくる。露わになった銀色の時計型デバイスを見せつけるように左腕を突き出し、「覇」は続けた。

「詳細は省くが、俺はある人物にお前を拘束せよとの命を受けている。大人しく従ってくれるとありがたいのだが」

「…嫌だと言ったら?」

 高木は油断なく相手を見返した。

「…決闘あるのみ、だ」

 「覇」はにやりと笑い、高木を手招きした。表通りから一本脇に逸れ、人通りのない裏へ入る。

 双方が距離を置いて左手を相手へ向け、やがてどちらからともなく魔術が炸裂し、激突した。


『ポセイドン・アタック』

 高木が放った無数の氷の弾丸を、「覇」は紫の紋章を展開し盾として防ぐ。障壁に当たって氷塊が砕け散るのを見て、「覇」は挑発するように言った。

「そんな単純な攻撃で、俺を倒せるとでも?」

(…だったら!)

 高木は作戦を変え、「覇」の足元を凍りつかせることで身動きを封じようとした。しかし、魔法の発動される気配を察した「覇」はさっと後ろに跳び退り、二度目の「ポセイドン・アタック」を難なく躱してみせた。直後、彼の立っていた路面が凍てつく。

「お前の実力はその程度か。見せてみろ、お前の力を」

「…言われなくてもそうするつもりだ!」

 高木はデバイスの照準を相手に向け、冥界術を解き放った。

『ハーデース・アタック』

 紫の閃光が、真っ直ぐに放たれる。「覇」は微動だにせず、その直撃を喰らった―かに見えた。

 確かに、レーザー光は彼のシャツを瞬時に焼き焦がした。だが、それ以上の破壊効果を及ぼさなかった。

(…⁉)

 ぞっとするような悪寒がし、高木は直感的にアスファルトに伏せた。その直後、「覇」の着ていたアンダースーツに反射されたレーザー光が、高木の頭上を通り過ぎていった。

「やはり、お前が冥界術の使い手であることは間違いなかったようだな。それにしても今のは惜しかった」

 命中しなくて実に残念だ、と言いたげに「覇」が呟く。

「…試作品を借りておいて正解だった」

 融和派が開発した新武装、アレスプロテクター。二条が黒田との戦いでその第一号を使用して以来量産化が進められているが、まだ十分な数は揃っていない。「覇」が借り受けたのは、レーザー反射機能のみがインプットされた試作段階のものだ。筋力強化の効果はかからないものの、冥界術を使う相手には大きなアドバンテージを得られる。

 体を起こして立ち上がり、高木は慎重に間合いをとった。

(どういうからくりかは分からないけど、こいつに「ハーデース・アタック」の普通の攻撃は効かない)

 天界術を使っても、今の高木の実力では一歩及ばないだろう。先ほどのように軽くいなされるのがオチだ。それに、あまり体力を消費しすぎるのも避けたい。

(…なら、答えは一つじゃないか)

 高木は左手を空に向け、巨大な魔法陣を投射した。

『ハーデース・アタック』

 そこから、石で造られた悪魔の像が降臨する。意志をもつ魔像は蝙蝠のような翼を力強く震わせ、咆哮を上げた。

(―ガーゴイル、力を貸してくれ!)

(―よかろう)

 高木の思いに応じ、ガーゴイルが唸る。

「そうこなくては倒し甲斐がないというものだ」

 「覇」も同様に紋章を展開し、複雑な図形と数式の中から一体の堕天使が顕現した。黒き衣に身を包んだ女性型のそれは、妖艶な笑みを口元にたたえている。

「君とは直接戦ったことはなかったと思うが、これで分かるだろう?」

 小馬鹿にしたような口調で言う「覇」と堕天使を見比べ、高木は思い出した。

 「武」が魔法協会に侵入し戦闘になったとき、彼を逃がそうと何者かが使い魔を―堕天使を放ってきたことがあった。

 あのとき、「ヘルメス・アタック」により自身の意志を伝えてきた謎の魔術師。それが、今目の前にいるこの男なのだ。

「勘違いしてもらっては困るが、冥界術による魔物の使役は、対象を召喚する座標が術者から離れれば離れるほど効果が落ちる。『武』をサポートした際、俺は遠隔地から制御を行っていたにすぎない。つまり…」

 堕天使の両の手のひらの上に、黒く輝く光弾が浮かび上がった。

「…これが俺の、本当の強さということだ!」

 連続して放たれた光弾を、ガーゴイルは空中で巧みに体を捻って躱す。そのまま、翼を広げて堕天使の懐へと突っ込んで行く。

「その能力は対策済みだ」

 「覇」はこともなげに言い捨て、堕天使に念を送った。それに応え、堕天使が漆黒の翼をはためかせ上昇する。ガーゴイルから一定の距離を保つと、堕天使は両目を光らせ熱線を放った。ガーゴイルはすんでのところで後方に下がり、刹那、横薙ぎに繰り出された灼熱がはるか下の道路を燃やし尽くした。

 高木の操るガーゴイルは種族の中でも上位に位置する個体で、触れたものを石化する能力をもつ。だが、遠距離攻撃の手段を持たない点で堕天使とはやや相性が悪い。堕天使は見た目こそ華奢な女性の姿をとっているが非力というわけでは決してなく、目から放つ熱線と両手から撃ち出す光弾の圧倒的な火力で敵を殲滅するスタイルを得意とする。接近戦に持ち込まなければ能力を発動できないガーゴイルからすれば、やりづらい相手だ。

 勝ち誇ったような表情を浮かべ陶酔していた「覇」だったが、徐々に近づいてくる喧騒を耳にし我に返った。

 野次馬らしき人たちの話し声が、少しずつ大きくなってくる。

「―俺は、考えもなしにあんたの挑発に乗ったわけじゃないぜ」

 高木は不敵な笑みを浮かべ、息を整えて「覇」を見据えた。

「堕天使の主力攻撃は熱線。けど、こんな暗い時間帯にそれを使えば注目を集めないはずがない」

「…俺に煽られたふりをして、これを狙っていたというのか」

 「覇」は悔しそうに歯噛みした。このまま戦闘を続行しようとすれば、騒ぎに気づき集まってきた人々に根掘り葉掘り聞かれるのは避けられない。そうなってしまえばもうターゲットを捕獲するどころではないし、面倒な事態になってしまう。融和派も穏健派と同様、魔術の存在を公にするのは望むところではないのだ。二条の意に反するような真似をするだけの無謀さは、彼にはなかった。

「…今日はここで引き上げるとしよう。次は必ず決着をつける」

 捨て台詞を吐き、「覇」は「ヘルメス・アタック」による自己加速で逃走した。あとには一陣の風だけが残る。術の使用が中断されたことで、堕天使の姿も消滅した。

 高木もガーゴイルの使役を解除し冥界へ帰してやると、同じく「ヘルメス・アタック」を発動した。

 駆けつけた野次馬に姿を見られることなく、高木は高速移動を駆使しその場を去った。あのまま戦いが続いていれば危なかっただろう。機転を利かせ引き分けに持ち込むことができたのは、幸運だった。

 集まった人々は焼け焦げたアスファルトを見て、口々にここで何があったのかという推測を言い合ったという。正解に辿り着いた者は、もちろん皆無であった。

 あくまでも一般の人々の間では、魔法はファンタジーの産物なのだ。それも、戦争の道具として使われうるようなものではなく、夢や希望を与えるものとしての魔法だ。


 翌日の放課後、高木は魔法協会へ立ち寄った。

 前もって連絡しておいた杉本と合流し、応接室で向かい合ってソファに座る。昨日「覇」による襲撃を受けたことを話すと、杉本は憂慮するような表情を見せた。

「…高木」

「はい」

「高木は確か、以前にも過激派の幹部と思われる魔術師に攻撃を受けたことがあったよな」

 しばらく前のことだが、「威」に奇襲を掛けられたことがある。あのときは「アフロディテ・アタック」による幻惑の魔術をかけられ、危うく抵抗できぬまま無力化されてしまうところだった。直接対決でも終始圧倒され、悔しかったが撤退を余儀なくされた一戦だ。

 仲間を殺された憎しみに燃える彼女は強かった。もしかしたら、「征」とは深い関係にあったのかもしれない。

 杉本は両腕を組み、続けた。

「あのときも護衛をつけることを考えたが、高木一人でもどうにか対処できる相手ならば大丈夫かとも思って判断を保留していた。しかし、二回も攻撃を受けたとなると話は別だ」

 杉本には話していないが、実はそれより前に「征」の襲撃を受けたこともある。北野が加勢してくれたおかげでその場を切り抜けることに成功し、師を心配させてもいけないと報告まではしなかった。思っていたよりも、自分は過激派の魔術師に目をつけられているのかもしれない。

 もっとも、今回何故攻撃を受けたのかは謎のままだ。「征」が高木を襲ったのは、彼の宿敵である杉本、その弟子にも矛先が向いたからだ。「威」は復讐を果たすために杉本についての情報を集めようとし、高木に接触した。「覇」はある人物に高木を捕らえるよう命令を受けたという。しかし、それは一体誰なのだろう。過激派の指導者、黒田智宏は死亡が確認されている。残党のメンバーの中の誰かであろうか。

「…というわけで、紹介しよう。こちらが、高木につける護衛の二人だ」

「…えっ?」

 俯き、考え込んでいた高木は、不意を突かれぱっと顔を上げた。それと同時に部屋の木の扉がそっと開かれ、二人の男の魔術師が入ってきた。

「どうも。俺は江原悠。こっちは弟の江原想だ」

「うっす」

 一礼したのは、長身の兄と、それより少し背の低い弟というコンビだった。

歳は高木より数歳上だろう。兄の悠の方は黒い帽子を深く被り、服装も黒と白でシンプルかつフォーマルにまとめている。対して弟の想はそれよりはやんちゃな印象で、動きやすそうな半袖半ズボンといった格好だ。体育会に入っている大学生のイメージに近く、良く言えば快活、悪く言えばやや子供っぽい。対照的な二人だなと思った。

 そんな感想はおくびにも出さず、高木もぺこりと頭を下げた。

「高木賢司です。よろしくお願いします」

「二人は兄弟で魔術師をやっていて、江原兄弟といえば穏健派の中では名が通っている。実力は申し分ないぞ」

 杉本のざっくりとした紹介に、想は照れたように頭を掻いた。

「いやー、それほどでもないっすよ」

 魔術への適性は、遺伝的なものだ。とすれば、遺伝子情報が似通っている兄弟が揃って適性を備えていても何らおかしいことではない。高木は幼い頃に母を亡くし、弟や妹はいない。彼らが少し羨ましくもあった。

「高木君のことは、前から監視させてもらってるよ」

 にっこり笑って放たれた悠の台詞に、高木はぎょっとした。

「…え?それってどういう…」

「君が冥界術を使えるようになったとき、七賢人は君の存在を危険視した。それで、君に監視をつけたんだ。覚えてるかな。あれ以来、君の動向はちょくちょく監視させてもらってる。今日からは護衛も兼ねてだけど」

「ああ、そういえば…」

 あれこれと質問をされた後、「監視をつけさせてもらう」と言われたのだった。だが、それがこの兄弟たちだったとは全く気づかなかった。彼らとは初対面のはずなのに「よろしく」の一言もなかったことに違和感があったが、これでようやく腑に落ちた。

「とにかく、これから協力して上手くやってくれ」

 杉本の言葉に頷き、高木は江原兄弟と固い握手を交わした。


(やりづらい…)

 背中に二人の視線を感じ、高木は妙な圧迫感を覚えてしまう。帰路に着き歩いていても、彼らは一定間隔を保ってついてくる。

 護衛をスタートしてから数日が経過したが、江原兄弟は「過激派の残党から、若く未来ある魔術師を守るのだ」とばかりに張り切っている。監視を命じられていたときは気配を完全に消していて、高木が勘付くことは一度もなかった。けれども今回はボディーガードということでだろうか、常に見られているという感覚がある。どうも落ち着かなかった。

 さすがにプライベートまでは侵入されないので、高木としては早く帰宅して自室でほっと一息つきたいところだった。

 しかし、運命がそれを許さない。

『久しぶり』

 聞き覚えのある声が、脳内に直接飛び込んでくる。間違いない。「ヘルメス・アタック」による音声の伝達だ。

『今、君と初めて会った場所にいるよ』

 その瞬間、記憶が呼び覚まされた。バイト先のレストラン。そこからの帰り道。耳に飛び込んできた、マジック・ウォッチの合成音声。

(あの空き地か)

 高木は足を止め、突然方向転換した。横道にそれ、早足で目的地を目指す。護衛の二人が狼狽し後を追ってくる気配がしたが、気にせずに歩調を速める。

 やがて雑草の生い茂った例の空き地に着くと、夕闇の中、待っていた青年はこの世のものとは思えないほど美しい笑みを浮かべて高木を見た。先の軽くカールしたくせ毛。シャツから覗く、男にしては驚くほど細い華奢な腕。鼻筋の通った整った顔立ちは、魔性の美をたたえていた。

 青年は朽ちかけた木のベンチから立ち上がった。ぎいっという鈍い音が、静かな空間に響く。まるでこの世の終わりのような光景だった。

「…まさか、父さんから探すように言われたターゲットが君だったなんてね。高木賢司君」

 どこか悲しそうに、そして嬉しそうに彼は言った。高木は戸惑いつつも口を開いた。

「君は、あの時の…。どうして俺の名前を?」

「父さんが教えてくれた。…僕も一応、礼儀として名乗っておこうかな。僕は倉橋烈」

 あっけらかんとした口調で青年は明かした。

 彼は融和派のメンバーだと言っていた。何故彼の父親が自分の名前を知っていて、自分のことを探しているのか。

(何か、俺に伝えたいことでもあるのか?)

 内心そう思ったが、即座に否定した。融和派は穏健派と協力関係にある。コンタクトを取りたいのなら、魔法協会を介して連絡できるはずだ。

(―いや、もしかして)

 穏健派には知らせることのできないような案件なのか。

「…じゃあ、早速で悪いけど」

 倉橋烈は微笑んだ。

 悪い予感というのは的中するものらしい。

「君を無力化して、連行させてもらうよ」

 倉橋が左手をすっと前に突き出す。その細い手首には、いつの間にか銀色に輝くマジック・ウォッチが装着されていた。


「―ここは俺たちが引き受ける」

 いつの間にかすぐ後ろまで接近していた江原兄弟が、高木の前に出た。既にデバイスは装着している。二人は息の合った動きで左腕を伸ばし、同時に白の紋章を展開した。

『アルテミス・アタック』

 しかし、そこから矢が放たれるよりも早く倉橋が動いた。兄弟の斜め上の座標に黄の魔法陣を二つ並べて投射し、そこから目にも止まらぬ速さで稲妻を撃ち出す。直後、放たれた二筋の雷が命中し、二人はなす術もなく崩れ落ちた。

 新型のマジック・ウォッチは、従来のモデルよりも術式の発動速度が速い。その上、術式の多重展開も可能となっている。さらに術者自身の高い魔術的適性も相まって、防御する暇を与えない必殺の攻撃がなされていた。

 手練れの魔術師を一瞬で倒したその実力を見せつけられ、高木は倉橋に底知れないものを感じ身震いした。江原兄弟に駆け寄り体を揺さぶったが、目を閉じたままで反応はない。

「…大丈夫、加減はしておいた。死に至るほどの電圧はかけていないよ」

 倉橋烈は安心させるような声音で言うと、高木の方へと向き直った。

「…何故俺を狙う?俺を捕らえて、お前たち融和派に何のメリットがあるっていうんだ。それに融和派がこんなことをしたと明らかになれば、穏健派の上層部が黙っていないぞ」

 高木は数歩後ずさりながら、冷静に問うた。相手は只者ではない。まともにやり合うのは得策ではないと判断し、時間稼ぎに徹することにしたのだ。隙を見て「ヘルメス・アタック」の意志伝達効果を使い、魔法協会へ応援を要請するのがいいだろう。

(…いや、それも最善の選択肢ではないかもな)

 並みの魔術師では倉橋には勝てない。それはたった今の数秒間での決着を見るに自明だった。であれば、不意を突いて逃走を図るしかないのか。

 幸いこちらの思惑に気づいた様子はなく、相手は高木の目を見つめて笑っている。

「君の遺伝子を取り込むことで、僕の肉体は飛躍的に強度を増す。儀式による補助なしで冥界の魔物と契約を結んだ君には、自身でも気づいていないであろう高い潜在能力があるんだ。…僕は、それを自分のものにする」

「…肉体の強度?」

 眉をひそめた高木に、倉橋は首を縦に軽く振った。

「僕は、父さんの進めている人造魔術師計画の最初の成功例…優秀な魔術師の遺伝子を部分的にコピーし、遺伝子組み換えを施されて生み出された、人類史上最も魔術への適性が高い人間なんです」

 そして唇を舐め、攻撃的な表情を垣間見せた。

「君の力をコピーすることで、僕はまた完全な存在に近づく!」

 倉橋が勢いよく地面を蹴り飛ばし、距離を詰めてくる。「アレス・アタック」により瞬発力を向上させ、先手必勝を狙うつもりだ。

(速い…!)

 その発動速度は流石のもので、高木も同様に「アレス・アタック」を使ったがやや出遅れてしまった。

「融和派のお偉いさんが何を企んでるのかは知らねえけど…」

 倉橋の放った右フックが唸りを上げて迫る。高木はそれを身を屈めて躱し、空いた胴体へ渾身のストレートを繰り出した。

「胡散臭い計画に、無関係の人を巻き込むんじゃねえ!」

「人聞きが悪いなあ」

 倉橋は後ろへ跳躍し、高木の攻撃をあっさりと回避してみせた。音もなく着地し、さらに術式を発動する。

「僕たちは人類を救済しようとしているだけなのに」

 前方に円を組み合わせた青の紋章がいくつも展開され、魔法が放たれる。

『ポセイドン・アタック』

『リピート』

 高木はほとんど反射的に、防御用の術を使った。「ガイア・アタック」で土の障壁を形成し、予想される氷のつぶての飛来に備える。敵の攻撃が見えてから反応したのでは遅すぎることは、とうに学習済みだ。

 だが、倉橋の攻撃パターンは通常のものとは違った。気づけば、高木を中心とする半径二メートルの円の外周に沿うようにして、無数の氷塊が浮遊している。やがてそれらは淡い輝きを帯びたかと思うと、中心へ向かい収束するように高木へ襲いかかった。

 全方位から高速で放たれた氷の弾丸に、高木は「アレス・アタック」で皮膚を硬化してダメージを軽減するのが精一杯だった。何より、こちらの動きを逆手に取られたのが痛かった。一方向からの攻撃しか防げないという、障壁の弱点を突かれたのだ。

『アポロン・アタック』

 続いて倉橋は巨大な火球をつくり出し、赤の魔法陣から射出した。荒れ狂う炎は土の防壁を瞬時に破壊し、衝撃で高木を数メートル吹き飛ばした。背中から地面に叩きつけられ、鈍い痛みが走る。

「そんなものかい?」

 つまらなそうな顔をしてみせた倉橋に、高木は燃えるような怒りと悔しさを感じた。生け捕りにしろとの命令が出ていなければ、高木はとっくに始末されていただろう。マジック・ウォッチの性能差もそうだが、力量の差もまた歴然としていた。

 けれども、高木には倉橋にはないはずの武器がある。

 見るからに病弱で、スタミナの無さがうかがえるにもかかわらず―おそらく遺伝子操作の弊害なのではないだろうか―、彼はこれまでの戦闘で一度も冥界術を使っていない。自分が彼の立場なら、迷わず使うだろう。それでも使わなかったのは、まだ儀式を終え契約をしていないからではないのか。高木の遺伝子情報を手に入れて初めて、冥界術を会得しようと考えているのではないのか。

 ならば、それに賭けるしかない。

 高木は右手をついて再び立ち上がり、倉橋を挑むように見た。

『ハーデース・アタック』

 左手を空に向ける。天に描かれた紫の紋章から、ガーゴイルが咆哮を上げて飛び出す。蝙蝠のような翼を羽ばたかせ急降下し、ガーゴイルは倉橋へ襲いかかった。

『ガイア・アタック』

 倉橋は動じた様子も見せず、冷静に対処した。形成した土の壁でかぎ爪による一撃をガードすると、ガーゴイルの背後に出現させた魔法陣から雷撃を見舞う。不意打ちを喰らい、ガーゴイルは苦痛の叫びを上げた。石でできた皮膚からスパークが飛び散る。

「使い魔を召喚したところで、僕の優位は変わらない……」

 嘲笑した倉橋の体が、突然、がくりと揺れた。目を驚きに見開いている。片膝を突き、左手を胸に当てて喘いだ。

 魔術の連続行使による、体力の消耗だろう。ともかく、この好機を逃す手はなかった。

(…あっちの二人を協会まで運んでくれ。向こうで合流しよう)

 高木はガーゴイルにそう意志を伝え、「ヘルメス・アタック」を発動した。荒い呼吸を繰り返している倉橋の脇をすり抜け、この場から撤退する。

(―やれやれ、人使いの荒いやつよ)

 ガーゴイルはけだるげに言い、しぶしぶ主の命に従った。地面すれすれに浮かび、両脚の大きな爪で二人をがっちりと掴み上げる。両腕を使わないのは、触れれば石にしてしまうからであろう。

 風となって逃れた高木と、気絶した兄弟を掴み力強く飛び去っていくガーゴイル。倉橋は息を整えながら、悔しそうにその姿を見送っていた。


「…何かな?杉本君」

 翌日、円卓の間の入室許可を得て入ってきた彼に、扉の近くに腰掛けていた白髪の老人は怪訝な目を向けた。他の五人の七賢人も、一斉に杉本へ視線を向ける。なお、末永が過激派の魔術師と思われる人物に殺害されて以来、空いた席はまだ埋まっていなかった。

「護衛をつけていた私の弟子が、襲撃を受けました。しかも、敵はその護衛をも一蹴するほどの実力の持ち主だったようです」

 あの後、江原兄弟は協会の職員の魔術師たちに回復魔法を施してもらい、命に別状はなかった。だが、彼らを運び込んできたという高木の話は驚くべきものだった。正直なところ、報告を受けた今でも信じられない部分は残っている。けれども、彼が嘘を言っているようには見えなかった。表情や目つきは真剣そのものだった。

「相手は融和派の魔術師だと名乗ったということです。前回彼を狙った『覇』という魔術師と襲撃方法が似ていることなどから、何らかの形で過激派の残党と通じている可能性もあると思われ―」

「まあまあ、少し落ち着きたまえ」

 老人は杉本を手で遮り、やや苛立っているように言った。

「どうせ、過激派の連中が自分たちのことを融和派だと偽ったのに決まっている。奴らは疑われないためにならどんな手でも使う」

「しかし」

「仮に融和派の仕業だったとして、どうやってそれを証明できる?証人が一人いるというだけでは、根拠の不十分な言いがかりにしかならんだろう」

「ですが…」

 なおも食い下がろうとする杉本に、松宮がテーブルを指でこつこつと叩いて言った。

「杉本さん、弟子を信じたいというあなたの気持ちは分からなくはない。人材育成のため尽力しているあなたなら、人を見る目もあると思われる。だが、これとそれとは話が違います」

 松宮は、出来の悪い生徒を見るような目で杉本を見た。

「我々としては、根も葉もない噂のために不用意に融和派との関係を悪化させるわけにはいかないのです。それはあなたにも分かっているはずだ」

「…ええ、その通りです」

 杉本は視線を円卓へ落とした。

 先の過激派掃討作戦の際、融和派は多大な貢献をしてくれた。過激派の本拠地の特定は、穏健派が長年取り組んできたものの果たせなかったことの一つだ。それを彼らは実に迅速に解決してくれた。

 また、技術面での協力も見過ごせない。穏健派の魔術師に支給されているマジック・ウォッチは、融和派の開発した技術がベースになっている。修理などのメンテナンスも引き受けてくれており、心強い存在だ。両者が敵対するような事態は、杉本としても望むところではなかった―本当に融和派が何も悪事を働いていないのであれば、だが。

「よし、話は終わりだな」

 先刻杉本を出迎えた老人が、あくびを噛み殺して呟いた。扉の方を顎でしゃくる。用が済んだのなら早く出ていけ、と言いたいのだろう。

 これ以上何を言っても埒が明かないと思い、杉本は素直に引き下がることにした。

「失礼しました」

 一礼し、七賢人らの集う一室を後にする。

 扉を閉める直前、誰かが不平を漏らすのが聞こえた。いや、わざと聞こえるように言ったのかもしれない。

「そもそも冥界術などを使える異端児がいるから、こんな面倒なことに発展するのだ。過激派の連中に目をつけられおって」

 攻撃を受けた側である高木に責任をなすりつけようとするかのような発言に、杉本は内心強い怒りを覚えた。

(…いつか必ず、真相を明らかにしてみせる。高木のためにも、魔法界の未来のためにも)

 無意識のうちに、握り締めた拳が震えていた。


 関東内陸部、いわゆる避暑地に建てられた二条の別荘に倉橋烈が帰り着いたのは、夜遅くになってからだった。融和派の計画はいよいよ最終段階へ入ろうとしている。そのスムーズな実行のためには、一時的に住まいを関東に移す必要があった。木造一戸建ての邸宅は、本家ほどではないにせよ随所に和風の建築が施されている。

 ドアを開けると間もなく、二条が出てきた。

「烈、大丈夫か?」

「…うん、平気だよ父さん。連続で魔術を使い過ぎちゃっただけだから」

 心配そうな様子の二条に、倉橋は笑顔で答えた。二条が表情を和らげ、ほっとしたように頷く。

高木賢司の捕獲に失敗したことについては、既に倉橋から報告を受けている。そのことについて二条は責める気はなかったし、済んだ話を蒸し返すつもりもなかった。それよりも重要なのは、次の一手をどう放つかだ。

「そうか。…やはり、まだお前の肉体には改良が必要だな。戦闘経験は、少しずつ積んでいけばいいだろう」

 そして、おもむろに後ろを振り返った。

「おい」

「はっ、何でございましょう」

 長い板張りの廊下の暗がりから、「覇」が姿を現した。うやうやしく会釈し、主君の命を待つ。

「烈にはまだ、長時間の戦闘は荷が重いかもしれない。そこで、再び君の出番というわけだ。…今度こそ、高木賢司を捕縛し連行しろ」

「お安い御用です」

 「覇」は頭を下げ、不敵な笑みを浮かべた。


 それからしばらく、高木は何かと神経を使うことが多かった。

 外出すれば決まって護衛の二人がついてきて、どうも見られているという感覚が気になってしまう。前回倉橋に呆気なく退けられたことを屈辱に感じているらしく、江原兄弟はいつになく任務に熱が入っていた。ボディーガードをしてくれるのは非常にありがたいが、プライベートの確保ができないという問題もある。

 それに、「覇」や倉橋といった謎の勢力のことも気がかりだ。いつまた奇襲をかけてくるか分かったものではなく、出歩く際は気が抜けない。

 そんなこともあって、週末の演習が良い気分転換になった。

『ポセイドン・アタック』

 高木の撃ち出した氷柱の嵐を、

『ガイア・アタック』

篠崎がつくり出したドーム状の土の防壁が防ぎ切る。高木は演習場の床を蹴り、高い土壁に向かって疾駆した。

 再度「ポセイドン・アタック」を発動し、空気中の水蒸気を凝固させ球形の氷を生み出す。それを高木は両手で掴み、振りかぶって思い切り投げつけた。氷塊が障壁に激突し、大きくめり込む。

 それを視界の隅で確認するやいなや、高木は「アレス・アタック」を使用した。

 先刻の攻撃はあくまで陽動。氷をぶつけた方向から追撃を繰り出すとみせて、実際は別方向から特攻し力技で壁を壊す。

 強く床を蹴り飛ばして跳躍し、高木は一瞬で右斜め前に移動した。眼前にそびえる厚い土壁に、勢いに任せ硬化された拳を叩き込む。壁に大穴が空き、がらがらと崩れ去った。

 互角の攻防は数分間続いた。

 演習場の壁にもたれ、北野はその光景を退屈そうに眺めていた。


「いい勝負だった」

「…先輩、強いですね。さすがです」

 試合はやや高木が優勢ではあったが決定打には至らず、今日のところは引き分けとなった。篠崎も着実に腕を上げている。

「…いや、そんなことないって。篠崎こそだいぶ上達してるよ」

 微笑み、頬を上気させた後輩に目をやり、高木が若干照れているように見えたのは気のせいではないだろう。

 タオルで汗を拭いながら談笑している二人をよそに、北野は一足先に帰ることにした。二人の模擬戦より前に杉本と手合わせをし、彼女の演習内容はもう終わっている。もちろん師にはまだ敵わないが、「精度が上がったな」と褒めてもらえたのは少し嬉しかった。

「それじゃ」

 一言だけ告げ、足早に階段を上る。心なしかいい雰囲気になっている高木と篠崎を邪魔しては悪い、との思いもあった。やはり、自分にはこういう役回りが似合っている。

 正直なところ、徐々に親密になっていく二人が羨ましかった。何度も窮地を救ってくれた高木のことは内心尊敬していたし、篠崎のことも彼女なりに評価している。二人と仲良くなりたい気持ちがないわけではなかった。

『あたしなんか、今まで彼氏のいない時期の方が短いくらいだったんだから』

 以前篠崎にこう言ったことがある。確かに篠崎は異性にモテる。何人かと付き合ったこともある。けれど、あれは誇張だった。誰かと付き合ってもすぐに別れ、決まって長続きしないのだ。友達らしい友達もいない。

 魔術師だった母を失くしてから、北野は父親の手で育てられてきた。父は一人娘に苦労をかけまいと一生懸命に働いていて、帰りが深夜になることもしばしばだ。食事は北野がつくることも多い。そんな環境で育った彼女には、肉親から愛情を受けたという経験が決定的に不足していた。誰かから愛されたことのない人間が、誰かを愛せるはずがない。

 北野は、通っている高校では優等生を演じていた。いや、実際優等生だった。常に学年首位の成績をキープし、推薦入試で有名大学に進学することも確定している。きつい性格はなるべく表に出さないようにし、物静かで真面目な生徒、というキャラクターを作り上げてきた。

 本当の自分は、他人より自分が劣っていると認めるのが大嫌いな、わがままな人間だと自覚している。勉強でも運動でも魔術の技能でも、誰にも負けたくなかった。

 階段を上り終え、一階に着く。出入り口の扉を開け、魔法協会を後にした。複雑な感情が、胸の中にもやのように渦巻いていた。

 駅へ向かい、人気の少ない道を歩き出す。

(あたし…何やってるんだろ。馬鹿みたい)

 些細なことで他人と張り合い、意地悪な態度をとってみせたりして。思えばこれまでの自分は、実際以上に自分を大きく見せたいという自己顕示欲の塊だったのかもしれない。そんな自分に嫌気がさした。

 その後ろをゆっくりと歩く気配に、考え事をしていた北野は気づかなかった。


「…見つけた」

 低い声を掛けられ、背筋がぞっと泡立つ。

 ぱっと振り返ると、グレーのパンツスーツを着たキャリアウーマン風の女が、こちらを睨みつけていた。艶やかな黒髪をポニーテールに纏め、ごく薄くメイクをしている。だが頬はやつれていて、やや不健康そうな印象を受けた。

「…誰?」

「―私は過激派の『威』」

 怪訝そうに尋ねた北野に、女は簡潔に答えた。その瞳には、深い絶望が映っている。

「覇」の裏切りにより、彼女以外の過激派構成員は全滅した。果てしない混乱と悲しみの中に取り残された彼女が導き出した結論は、「『覇』は穏健派に通じていたのではないか」というものだった。

 そして今、殺された同胞の無念を晴らすことに憑りつかれた「威」は、誰彼構わず穏健派の魔術師を倒そうと復讐に燃えていた。直接戦ったことがあるわけでもない北野を狙ったのは、杉本の弟子の一人として以前マークされていた人物で、足取りが比較的掴みやすかったからにすぎない。

「私の恋人を、仲間を、リーダーを…全てを奪ったあなたたち穏健派の魔術師を、私は絶対に許さない。殺してやる…一人残らず殺してやる!」

 「威」は憎しみを露わに叫び、マジック・ウォッチを装着した左手を北野へと向けた。巨大な紫の魔法陣が展開され、象ほどの巨体を誇る大型のケルベロスがそこから現れる。三つの頭部をもつ地獄の番犬は、術者の強い感情に反応したかのように鋭い遠吠えを上げた。


 空気を切り裂き猛烈な勢いで突進してきたケルベロスを、北野は躱すので精一杯だった。咄嗟に「ヘルメス・アタック」を発動し、横に転がって回避する。

 けれども追撃をも避けるのはほとんど不可能で、闇の猛獣はすぐに方向転換し、再度向かってきた。三つの顎が大きく開かれ、鋭くとがった大きな牙が覗く。

(―速い!)

 回避は難しいと判断した北野は、両腕を体の前でクロスさせ防御の構えを取った。

『アレス・アタック』

 瞬時に皮膚が硬化される。直後、北野の眼前まで到達したケルベロスが首を振り上げ、思い切りその喉笛に噛みつこうとした。

 番犬の真ん中の頭を姿勢を屈めて辛うじて躱し、左から繰り出される牙の一撃を拳で殴り飛ばして退ける。右の頭部も払い除け、致命傷は防いだと北野が思った瞬間だった。

 左腕に鈍い痛みが走った。

 ダメージを与えたはずの左の頭部は既に傷を癒し回復していて、北野の上腕部に喰らいついている。鋼のごとき強度が付与されているはずの皮膚をものともせず、がっちりと噛みついて放さない。

「なっ…このっ…!」

 万力のような力で咥えられた左手は、引っ張ったりもがいたりした程度では外れなかった。魔法を発動しケルベロスを吹き飛ばそうとするが、左腕をホールドされているせいど魔法陣を投射する位置座標が定まらず発動できない。中間魔法なら使えなくはないが、今この状況を逆転できるような魔術はその中にはない。「アレス・アタック」を継続的に発動し、深い傷を負うのを避けるのがせいぜいだ。

 中央の頭部も左肩に噛みつき、さらに右の頭部も右腕を狙おうとする。腕を固定された状態では避けるのもままならず、北野は完全に身動きを封じられてしまった。両腕に恐ろしいほどの力が絶えずかかり続け、ケルベロスは彼女の肉体を噛みちぎろうと躍起になっている。北野は硬化魔法を更新し、それを必死に食い止めようとした。

 しかし、「威」が圧倒的優位に立っているのは明らかだった。「アレス・アタック」の使用には体力の消費が伴う以上、このまま我慢比べを続ければ先に倒れるのは間違いなく北野である。

 何度目かの魔法発動で、ついに北野の身体がぐらりと揺れた。足元が一瞬ふらつき、額には玉のような汗が浮かんでいる。

 そして、均衡が崩れた。

 ケルベロスの三つの頭部の牙が、鋼鉄の硬さを示す皮膚を一センチほど貫くことに成功する。「威」が勝ち誇った笑みを浮かべたのと同時、噛みつかれた北野の両腕から鮮血がほとばしった。

「…待って。多分、あなたは何か勘違いしてると思う」

 北野の目に涙が浮かび、ほとんど喘ぐように言った。

「…勘違い?」

 「威」は表情を歪め、ケルベロスに目で合図を送った。ますます強い力で喰らいついてくる地獄の番犬に悲鳴を上げそうになるのを堪え、北野は懸命に言葉を絞り出した。

「少なくとも…あなたたちのリーダーを殺したのはあたしたちじゃない」

「白々しい嘘を!」

 声を荒げ、「威」は使い魔にさらに念を送った。ケルベロスの牙がもう二センチ奥まで突き刺さり、北野が激痛に悶える。

「うっ、ぐっ…が、はっ」

 薄手のシャツは、とうに血で真っ赤に染まっていた。

「本当なの…。お願い、信じて」

 嘘偽りのない瞳で見つめられ、「威」の心は揺らいだ。

 普通ならば敵の戯言になど耳を貸さず、容赦なく使い魔に喉笛を噛みちぎらせていただろう。だが、何の打算も込められていないように思える北野の言葉には、何か心を動かされるものがあった。

 不意にケルベロスが顎を放し、北野が反動で後ろに倒れ込む。驚き、目を見開いた彼女の側に、「威」は黙って屈みこんだ。スーツの内ポケットから、二枚のメモ用紙を取り出す。そこに記された魔法陣は、北野にも見覚えのある回復魔術のものだった。

 「威」は無言で、メモ用紙を北野の左右の腕に押し当てた。小声で、ぶつぶつと呪文の詠唱を開始する。数秒後、北野の腕が一瞬光に包まれたかと思うと、ケルベロスの牙に穿たれた傷は完全に塞がっていた。出血も止まっている。

 北野は相手の意図が読めずに戸惑いつつも、手際よく治療を済ませた「威」の技量に感心していた。これほど精度の高い医療魔術を使える者は、穏健派の中にもなかなかいないだろう。もし彼女が味方であったならば、どんなに心強いことか。

「続けて」

「えっ」

 何のことを聞かれたのか分からずに聞き返すと、「威」は不愛想に言い直した。

「さっきの、黒田様を殺したのが穏健派じゃないって話。もっと詳しく聞きたいんだけど」

 そのために傷を治してやったんだからな、と暗に脅されている気がして、北野は寒気がした。アスファルトに手をついてゆっくり上体を起こし、祝勝パーティーで七賢人の松宮が誇らしげに語っていた内容を思い出す。

「…あたしたちが過激派のアジトに突入したとき、黒田って人は何者かに殺害されてたの。死因は、『ゼウス・アタック』を受けたことによる感電死だったみたい」

「…本当に?」

 「威」の顔から感情が抜け落ちた。頭の中でいくつもの推測が浮かんでは消え、浮かんでは消える。

(堕天使を召喚し私たちを攻撃した後、「覇」は式場に戻り黒田様を殺したというの?…いえ、それは無理があるわ。わざわざ戦場に戻るのはリスクが高すぎるし、そんな真似をすれば当然穏健派の魔術師にも見つかるはず)

 では、一体誰が黒田を殺したというのだ。過激派の魔術師は全員、あのとき「威」と行動を共にしていた。独断行動をとることができた者はいない。

「穏健派の上層部は、過激派の内部で仲間割れが起きたんじゃないかって言ってた。あたしは正直、その説に完全には納得してないんだけど…」

 過激派の元構成員であった相手の逆鱗に触れないよう、珍しく遠慮がちに北野が言った。

「…あり得ない。あの黒田様に勝負を挑んで勝てるほどの実力者は、過激派の中にはいない。『覇』くらいの幹部クラスになれば五分に戦えるかもしれないけど、何か秘策でもない限り倒すのは無理よ」

 「威」は首を振った。

 一方、彼女が口にした名を聞き、北野には思い当たる節があった。

「あっ」

「…何よ」

「コードネーム『覇』って…高木を襲った魔術師のことで合ってる?あいつが言うには、堕天使を使い魔として操れるらしいけど」

 顔色を変え、どうしてそれを、と「威」は問いただした。北野は真剣な面持ちで、高木や杉本から聞いた話の要点を話した。「覇」と名乗る魔術師が現れ、高木を襲ったこと。彼が、「ある人物の命令で君を捕縛しに来た」と高木に告げたことを。

 それを聞き、「威」はしばし黙考してしまった。

(「覇」が穏健派に通じていたと考えるのには無理がある。もしそうなら、同じ穏健派の構成員を彼の上司が襲わせるはずがない。と、なると…)

 頭をよぎるものがあった。

(「覇」が融和派のスパイだったと考えれば、一応筋は通る。いや、むしろそう考えるのが自然かもしれない)

 疑問は尽きない。何故融和派がそのような策謀をはたらかせなければならなかったのか。彼らの狙いはどこにあるのか。「覇」はどうして彼らに組しているのか。

 全ては、自らの手で明らかにしなければならないことだった。否、そうすることが戦いの中で散っていった同志たちに自分ができる唯一の手向けだと思った。あの戦いの意味を、真実を明らかにしなくては、同胞らは報われないだろう。無論、死んだ愛しい恋人も。

「…話してくれてありがとう。礼を言うわ。おかげで私も、少しは前に進めるかもしれない」

 すっと立ち上がり、「威」は微かに笑った。手荒な真似をしてごめんなさい、と申し訳なさそうに謝る。

 そして北野の衣服に目を落とし、少し考える素振りを見せると、

『アフロディテ・アタック』

幻惑の魔法を彼女にかけてやった。

「わ、何⁉」

 素っ頓狂な声を上げ、北野が自分の華奢な体を見下ろす。さっきまで血に濡れていたシャツが、クリーニングに出したばかりのように真っ白になっていた。

「さすがに、そのままの格好で帰すほど私も鬼じゃないもの。一時間くらいしか効果の続かない目くらましだから、あとは頑張って親御さんを上手く誤魔化して」

「…分かった」

 父はいつも仕事で帰りが遅い。父親が帰宅する前に漂白剤を使って手入れしておけば、怪しまれることもないだろう。こういうときばかりは、忙しい父に感謝したくなる。

 頷いた北野を一瞥し、「威」は踵を返した。

「それじゃ。迷惑をかけて悪かったわ」

「どこに行くのよ」

 思わずその背中に問いかけた。「威」は振り返らず、強い意志の秘められた声で言った。

「私は…私にできることをやるだけよ」


「またお前か」

 数日後、高木は正午過ぎに帰宅していた。午後の講義が教授の都合がつかなくなったらしく休講になり、珍しく早い時間帯に大学を後にすることができたのだ。

 前日の夜はバイトのシフトが入っていた。今日くらいは早く帰ってゆっくり休もうという算段だったのだが、学生マンションの共同玄関で待ち受けていたのはあの男だった。

 こんなこともあろうかと、既にマジック・ウォッチは装着済みだ。

 ややうんざりした調子で投げかけられた言葉に「覇」は嫌な顔一つせず、スーツについた埃に気づき手で払った。

「…無関係の人たちを巻き込みたくはないだろう。表へ出てもらおうか」

 目を合わせぬまま、「覇」が告げる。

「…ああ」

 こうなった以上衝突は避けられない。高木は頷き、マンションの前の道路へ出た。道路といってもほとんど車の往来のないある種裏道のような代物で、通行人の姿もなかった。

「念のため、この周囲には人払いの術をかけてある。この間のようにはいかない」

 自信たっぷりにそう言った「覇」はスーツの上着を脱ぎ捨て、ワイシャツ姿になった。ネクタイは身につけておらず、ラフな格好に見える。左手首に装着された銀色の時計型デバイスが、日差しを受けてきらりと光った。

 前回はあまり気に留めなかったが、これは倉橋烈が使用していたものと同一のモデルだと思われる。やはり、「覇」は何らかの理由で融和派に組していると考えるのが自然だろう。

 双方が魔術を放とうとしたそのとき、間に割って入った二つの人影があった。加速魔法を用いて風となった二人は高木の前に並び立ち、「覇」へ威嚇するような視線を向けた。

「高木君に手出しはさせません」

「やるってなら容赦しねえぞ!」

 護衛を務めている江原悠、想の兄弟が駆けつけてくれたのだ。

 驚いている高木へ振り返り、兄の悠がにやりと笑った。

「ここは任せてください」

 そして相手へ向き直り、兄弟が左腕を前へ出す。

「人払いの効果圏外に潜んでいたか…小賢しい。邪魔をするなら消えてもらう」

 「覇」は小さく舌打ちし、腕を突き出すと紫の紋章を展開した。それも、一度に十以上の魔法陣をだ。新型マジック・ウォッチによる、術式の同時多重展開である。いくら使用しても体力を消費しない冥界術とは、非常に相性の良い組み合わせといえるだろう。

高木は後ろに下がり、戦いの成り行きを見守った。

『アレス・アタック』

 江原兄弟も魔法を発動し、自身の運動能力を引き上げる。次々に放たれるレーザー光を巧みに躱し、二人は一気に距離を詰めた。

「はっ!」

「おらっ!」

 悠が左から、想が右から。兄弟は「覇」の側方に回り込むと、両側から勢いよくパンチを繰り出した。鋼の強度をもった一撃は、しかし瞬時に展開された紋章の障壁に阻まれる。

『ヘルメス・アタック』

 だが、兄弟の攻撃はそこで終わらない。さらに加速魔法を使うことで拳を撃ち出す速度をアップさせ、音速のラッシュを仕掛ける。

(すごい…)

 二人の戦いぶりに、高木は圧倒されていた。兄の放つジャブを躱そうとすれば次の弟のストレートが躱し切れなくなるという、計算しつくされた息の合った連携攻撃。一朝一夕に身につく技術ではない。長年に渡る鍛錬の賜物だろう。

 両サイドから放たれる怒涛の連続攻撃を、「覇」はバリアを多重展開することで凌いでいた。しかし劣勢を意識したのか、出し抜けに後方に大きく跳び退ると、左手を空へと向けた。

『ハーデース・アタック』

 投射された巨大な紋章から、漆黒のローブを纏った白く美しい肌の女が降臨する。ただし身長は三メートルほどもあり、背中からは黒い翼が伸びている。のっぺりとした凹凸の少ない体つきは、どこか無機質だ。「覇」の使い魔、堕天使である。

 堕天使の両目が、眩しく輝く。

 江原兄弟が防御用の魔法を発動するよりも一瞬早く、堕天使の邪眼から灼熱の光線が放たれた。人払いを施してあるおかげか、「覇」は躊躇することなく大火力の攻撃を実行している。横薙ぎに繰り出された熱線は二人を吹き飛ばし、ブロック塀へと叩きつけた。

 衣服の所々が焼け焦げている。目は閉じられ、気絶しているようだった。

「…次はお前だ」

 フン、と鼻を鳴らし、「覇」が改めて高木へと向き直る。

 身構えた高木の耳に、靴音が飛び込んできた。

「―その前に、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

 はっと振り向くと、黒の革靴にくたびれたスーツといった出で立ちの黒髪の女が、毅然とした表情でこちらへ向かって来ていた。女は高木の斜め前に立つと、「覇」を睨んだ。

「…ちょうど人払いの効果が切れて、ここにやって来れたというわけか。しかし、まさかお前がまだ生きていたとはな。感動の再会というやつだ」

 「威」を見つめ、「覇」は茶化すように言った。

「今更何の用だ。仲間を皆殺しにされた復讐か?」

(仲間を…って)

 「覇」の台詞の意味するところを察し、高木は絶句した。二人の間に何があったのかは分からないが、「覇」を含む融和派の魔術師が過激派の殲滅に絡んでいたことはもはや疑いの余地がない。

「色々と考えたけど、まだ頭の中はぐちゃぐちゃだわ。答えらしい答えも出てない。でも、これだけは聞かせて」

 質問を無視し、「威」は問うた。

「…あなたは融和派のスパイだったの?」

「ああ、そうさ」

 対して「覇」は、悪びれずに答えた。口元には笑みさえ浮かべている。

「俺は実質的に融和派のナンバーツーだ。過激派の幹部というのは仮の姿に過ぎない」

「…っ」

 「威」は奥歯を噛みしめ、悲痛な表情で叫んだ。

「どうして裏切ったのよ…どうして!」

 計り知れないほどの悲しみがこもった言葉には、高木の胸を打つものがあった。

 動じた様子もなく、「覇」は右手の人差し指で、シルバーのマジック・ウォッチをとんとんと叩いてみせた。

「…こいつを完成させて俺たちの計画を遂行するためには、魔術を使って行われる戦闘のデータが大量に必要だった。だから俺たちは、穏健派と過激派の双方を陰でバックアップして対立を激化させ、データ収集に利用していた。旧型のデバイスを作る技術をお前たちに提供したのも、そういう魂胆があってのことだ」

 そこで一旦言葉を切り、両手を下ろして乾いた笑い声を上げる。

「俺はもとより融和派所属の魔術師だ。裏切っていたのは最初からさ…過激派の一員になったのは、融和派が新型のマジック・ウォッチを完成させ次第、組織を内側からも潰せるようにするためだ」

 「覇」は小馬鹿にしたように「威」を見た。

「ついでにいいことを教えてやる。『武』を殺したのは俺だ。お前たちのアジトの居場所が穏健派の連中に伝わるように仕組んだのも、俺だ。お前たちのことを仲間だと思ったことなど一度もない…ただの使い捨ての駒だ。我々の理想を実現するためのな」

「お前…それでも人間かよ」

 それまで黙っていた高木は、苦々しげな表情で吐き捨てるように言った。

 過激派は穏健派と激しく対立し、その中で多くの犠牲者を生んだ。高木の母も、意識不明で入院している篠崎の父も、北野の母も―たくさんの魔術師が犠牲になった。彼らの所業を許すことは、到底できないだろう。

 けれども、過激派の構成員にだって彼らなりの正義や理想があったのだ。今目の前にいる「威」も、大切な人だったのであろう「征」を失って気が狂うほど悲しんでいた。悪事をはたらいた人間であるからといって、問答無用で斬り捨てるような真似はできない。少なくとも、どうしてもその必要に迫られない限り。

 だが、「覇」の語る融和派の所業は、明らかに常軌を逸している。

 魔術師を自分たちの計画―その全貌がどのようなものかは不明だが―を進めるための道具としてしか見ず、必要なくなったら見捨て、処分する。そんなやり方は間違っている。狂っている、と思った。

 俯き、握り拳を震わせていた「威」がやがて顔を上げ、高木の方へ視線を向けた。

「『征』を殺したあなたたちのことを、許したわけじゃない。だけど、これでようやく心が決まったわ」

 そして数歩下がり、高木の隣に立つ。「覇」を真剣な表情で見据え、彼女は己の意志を表明した。凛とした声が響く。

「あの人が命を落とす根本的な原因をつくったのは、あなたたち融和派だった。諸悪の根源であるあなたたちを倒して…私は、利用されて死んでいった仲間たちの無念を晴らしてみせる。そして、争いのない世界を取り戻してみせる!」

 優一、見ていてね、と「威」は心の中でそっと呟いた。いや、彼だけではない。尊敬していた黒田、軽口を叩き合った仲だった「武」、それに「覇」の裏切りで散っていった多くの同胞たち…融和派の計画の犠牲となった人々の思いを背負い、彼女は再び戦う覚悟を決めたのだ。今度は自分の個人的な感情のためでなく、皆が望む未来を切り開くために。

「…融和派が何を企んでるかは知らないが、ぶっ倒して洗いざらい吐いてもらうぞ!」

 その横で、高木も負けじと声を張り上げる。その横顔を「威」は一瞥し、目で合図した。

「…行くわよ」

「ああ!」

 二人が同時に紋章を展開し、それぞれの使い魔を召喚する。並んで投射された巨大な魔法陣から、悪魔をかたどった魔像、ガーゴイルと、冥界を守護する大型の三頭犬、ケルベロスが見参する。二体はお互いをちらりと見ると小さく頷き合い、共通の敵へ咆哮を浴びせかけた。空気が震え、「覇」が僅かにたじろいだ気配がする。彼を守るように、堕天使が宙を移動してその前に浮かんだ。

 穏健派と過激派。敵対していた二つの勢力が、初めて協力し共に戦う瞬間だった。

 ガーゴイルが高く舞い上がり、ケルベロスは強靭な筋肉を備えた後ろ足で力強くアスファルトを蹴り、疾駆する。魔像は空から、猛犬は地から。

二人の操る使い魔は堕天使へ向かい、猛スピードで突っ込んでいった。


堕天使が両の手のひらの上に漆黒の光弾を生成し、地上から迫るケルベロスに向け連続で放つ。地獄の番犬はジグザグな軌跡を描いて疾走し、爆発の中をかいくぐって光弾を全て躱し切った。そして大きく跳び上がり、顎を目いっぱい開く。唾液にまみれた鋭い牙が露わになった。

堕天使は身をよじり避けようとしたが、空中で体を捻ったケルベロスがそれに追随する。陶器のような白い首筋に真ん中の頭部が、両肩に左右の頭部がそれぞれ喰らいつき、深々と牙を突き刺す。堕天使がノイズのような悲鳴を上げ、怒りの形相で視線をケルベロスに向けた。

 その両目から熱線が放たれるより前に、ガーゴイルが動いた。急降下した魔像は宙で体を一回転させ、石でできた長い尾を堕天使の背にしたたかに打ちつけた。衝撃でバランスを崩し、ケルベロスに噛みつかれたまま堕天使がふらふらと降下する。黒い羽が何枚か散った。

(―この間の借りは返させてもらう!)

 ガーゴイルが吠え、翼を大きくはためかせた。一気に高度を下げて堕天使に追いつき、その真上から右拳を繰り出す。鈍い音がして、堕天使の頭がぐらりと揺れた。

 だが、ガーゴイルは殴りかかった体勢のまま拳を引き戻そうとしない。

 魔像の拳と堕天使の黒髪の接点から、ぴきぴきという小さな音が徐々に全体へ広がっていく。それは、「覇」の使い魔の肉体が石化していく音だった。

 ケルベロスは素早く牙を引き抜くと、堕天使から離れて地面に着地した。

 直後、石像と化した堕天使がアスファルトに衝突し、耳障りな音を立てて砕け散った。ケルベロスの隣に静かに舞い降り、ガーゴイルは「覇」へ挑むように目を向けた。「覇」が怯んだように後ずさる。

「くっ…二対一では分が悪い。ここは退かせてもらおう」

 いつの間にか「アレス・アタック」を発動していたらしく、「覇」は高く跳躍して高木の住む学生マンションの屋上に降り立った。

「逃がさん!」

 「威」がケルベロスに後を追わせようとしたが、相手の方が一枚上手だった。

『ポセイドン・アタック』

 マンション最上部に設置された貯水槽の水を利用し、洪水のように放たれる水流。横一列に複数展開された魔法陣から、それは繰り出された。高木たちが思わず腕で身を庇ったときには、屋上にはもう「覇」の姿はなかった。

「…逃げられたか」

 悔しそうに言い、「威」が冥界術の使用を解除する。濡れて垂れてきた前髪を無造作にかき上げ、適当に整えた。

 高木も同様に術を解いて彼女の方を向きかけ、すぐさま顔を背けた。心なしか頬が熱い。

 戦いはひとまず終わり、しばし沈黙が訪れた。やがて「威」が倒れている江原兄弟に気づき、口火を切る。

「あの人たちが目を覚まして私に気づいたら面倒なことになりそうだから、そろそろ行くわね」

「あ…はい」

 目を合わせず歯切れの悪い答えを返した高木に、「威」は怪訝な眼差しを向けた。

(そりゃ、少し前までは敵同士だったわけだし、警戒されるのも無理はないか…)

 そう思い、何気なく視線を落としたとき、彼女はようやく異常事態に気づいた。先ほど浴びせられた大量の水のせいで白いブラウスが透け、下着がうっすらと見えてしまっていたのだ。

 運悪くこの日は赤い色のものを着ていたため、より形が強調される結果となっている。

「き…気づいてたなら言いなさいよ」

「すみません…」

 真っ赤になって黒の上着の前をかき合わせた彼女へ、高木はようやく安心して視線を向けることができるようになった。

 頬を朱に染め、わざとらしく咳払いを一つしてから「威」は言った。

「…と、とにかく、こっちも独自で動いて融和派の動向を探ってみるから。穏健派の魔術師が私を許して受け入れてくれるとは思えないし、表立ってはあなたたちと連携するつもりはないわ」

「分かった」

 高木は深く頷いた。

「…それと、頼みがある。もし、また俺や俺の仲間たちが窮地に陥るようなことがあれば、そのときは力を貸してくれないか」

 高木の真っ直ぐな視線を、「威」は正面から受け止め微笑を浮かべた。

「―ええ、もちろんよ」

 そしてくるりと体を反転させ、彼女は去った。

その足取りが以前よりも軽くなっているように、高木には思えた。


「それで、話とは何ですかな。松宮殿」

 二条智宏は円卓の空いた席につき、意外感を滲ませた口調で言った。そこは以前、末永が座っていた椅子だった。

「実は、真偽ははっきりしておりませんが、部下からある重大な報告がありまして」

 彼の真向かいに腰掛けた松宮が、躊躇いがちに口を開く。部屋にいるのは二人だけだった。

 融和派との友好的な関係を維持したい松宮としては、このような話を持ち掛けることはきわめて不本意であった。しかし、再三にわたる杉本の訴えを無視し続けることも難しくなっているのは事実だ。部下からの信頼を得るためにも、ここは一つ、ポーズだけでも二条を問い詰めておくことが必要だった。

「…融和派の魔術師と名乗る者たちに、穏健派のメンバーが襲われたのです。それも一度ではなく、計三回も」

 弟子の高木がまた襲撃を受けたと聞いた杉本は、負傷した江原兄弟に回復魔術を施した後、ものすごい剣幕でこの会議室に入ってきたものだ。受け入れたくない事実だったが、実際に怪我人が出ている以上高木と杉本の話を信じるしかない。

「ほう」

 二条は瞬きをし、頬杖をついた。

「そんな話は初耳ですな。その者の素性は分かっておるのですか?」

「いえ、それは…。そのうちの一名がコードネーム『覇』、と名乗ったという情報はありますが」

 松宮は言葉を濁したが、思い出したように付け足した。

 なお、彼は自分の判断で倉橋烈については触れないことにした。ずばり本名を言ってしまえば、強く追及している印象を与えてしまう。そうなれば融和派との今後の連携体制に影響が出かねない。

「ですが、彼の顔を見た人物が三名おります。融和派の構成員のリストをもし見せていただければ、どの魔術師であるかは判別できるかと思われます」

 こちらの握っている情報を一気に出すのではなく少しずつ明らかにしていく。すぐには手札を相手に見せず、出方を窺う作戦に出たのであった。もっとも、松宮個人の「融和派との揉め事を回避したい」という思惑があったといえばそれまでなのだが。

「…なるほど。しかし、証拠はあるんですか?そんなことをした者が仮にいたとして、穏健派の方を襲ったという確たる証拠は」

 二条は腕を組み、苛立ちを露わにしていた。

 まずい、と松宮は思った。さすがに強い態度を取りすぎたか。

「お恥ずかしい話ですが、私どもとしてもその裏付けはまだしっかり取れていない状況でして。ただ、弟子が襲撃を受けたと言ってうるさい部下がいるものですから、形だけでも二条殿に伺うということをさせてもらった次第です」

 愛想笑いを浮かべ、反応を見る。二条は手を膝の上に乗せ、はっはっは、と豪快に笑ってみせた。

「そういうことでしたか。いやあ、困った部下を持つと苦労しますなあ」

 つられて松宮もはは、と笑うと、二条はにっこりと微笑んだ。

「一応私の方でも該当する魔術師がいないか探してはみますが、まあ、おそらく無駄足でしょう。十中八九、松宮殿に報告された方は酒にでも酔っていたに違いない」

「違いないですね」

 優秀な魔術師である杉本のことを悪く言うのは気が引けたが、二条の機嫌をまた損ねることはしたくなかった。松宮も笑顔をつくった。

「私どもに何らかの恨みがある人物がもし融和派にいるのなら話は別ですが、そうでない限り攻撃をする動機がないですし」

「その通り」

 ついでにもっともらしいことを言うと、二条はますますご満悦のようだった。ふと、壁にかかった時計に目をやる。

「…話というのは、以上ですかな?」

「ええ。お忙しいところ恐縮です。こんなくだらない案件に付き合わせてしまいまして」

「いやいや、とんでもない。念のため、怪しい魔術師がうちの構成員にいないかだけ調べてみますよ」

 二条が席を立ち、松宮が会議室の扉を開けて見送り役を務める。

 一触即発の空気が立ちこめはしたが、会談は何事もなく終了した。

 しかしそれは、見方を変えれば全く別の図式となる。融和派との関係を保ちたいあまり松宮が低姿勢に徹した結果、議論らしい議論もないまま話し合いは終わってしまったのだ。結局彼は、倉橋烈の名前には触れもしなかった。

 つまり、真の問題は何も解決していなかったのである。


 その週末、演習場での訓練が終わり高木がタオルで汗を拭っていると、杉本がそっと近くへ歩み寄ってきた。小声で伝える。

「七賢人に話は通しておいた。話し合いの結果、融和派内に犯人と思しき人物がいないか探してくれるそうだ」

「ありがとうございます」

 高木は深々と一礼した。自分の突拍子もない話を信じて上に掛け合ってくれた師匠には、感謝の気持ちしかない。

「進展があるようだったら、また連絡するからな」

 そう言って杉本は立ち去りかけ、足を止めた。

「…どうかしましたか?」

「いや、あの兄弟コンビでも歯が立たなかった相手らしいからな…護衛を増員した方がいいかもしれない」

「や、そこまでしなくても大丈夫ですって。ほんとに、大丈夫ですから」

 気持ちは嬉しかったが、これ以上プライベートを監視されるのはごめんだ。それに、高木には新しい仲間がいる。

 師にはまだ話していないが、元過激派の「威」―彼女もまた、共通の敵を相手に戦っている魔術師だ。「威」が味方についていてくれれば、かなり心強い。これ以上ボディーガードを増やす必要はないだろう。

 彼女が今までしてきたことを全て許せるとは思わないが、「威」にとってこの戦いは罪滅ぼしの意味もあるのだろう。自分もその手助けをしてやりたい、と思う。

「そうか。高木がそう言うのなら、多分大丈夫なんだろう」

 杉本はふっと笑うと、書類を片付けてくる、と言い残して先に階段を上がっていった。今日の演習メニューはもう片付いていて、あとは各自解散となる。

「あー、疲れた」

 北野がうーんと伸びをし、首をこきこきと鳴らす。初夏の暑さが到来し人々も薄着になってきているこの頃だが、今日の北野はかなり扇情的なスタイルだった。上に着ている白く薄い上着は生地が荒く、下に着ているキャミソールがほとんど透けて見えてしまっている。それを狙ってのファッションなのだろうが、いささか目のやり場に困った。

 それに比べ、いい意味で堅実なコーディネートに身を包んだ篠崎には柔らかく優しい印象を受けた。涼しげな青系の衣服で全身を統一し、肌の露出も控えめである。

「…あ、あたしこの後予定入ってるから。お先」

 北野はバッグに荷物を詰め込むと、そう言って階段の方へ向かった。やけにぎっしりと中身の詰まった鞄だった。

「…塾?頑張れよ」

 教科書類だろうと想像して高木が声を掛けると、北野は振り向いて露骨に嫌そうな顔をしてみせた。

「は?違うって。推薦で大学行けること確定してるのに、わざわざ無駄に勉強するわけないでしょ。彼氏とプール行くんだから、邪魔しないでっ」

 怒ったように、靴音を響かせて階段を上っていく。


 残された二人には知る由もなかったが、北野は別にデートを楽しみにしているわけではなかった。告白されてとりあえずオーケーしてみたが、今の彼氏のことはあまり好きではない。大して面白くもない冗談に大笑いしたり下品なジョークを飛ばしたりするし、つくづく低俗な人間だと思っていた。そのうち振るつもりだが、異性と泳ぎに行くという経験はそういえば今までしたことがなかったし、まあいいかと思って誘いに応じたのだった。

(もし変なことしようとしてきたら、ぶん殴ってやる)

 自分の水着姿を見たくて誘ってきたのではないか、ということは容易に考えられた。変な気を起こしたら、冗談抜きで「アレス・アタック」で威力を倍増させたパンチを見舞ってやるつもりだ。

 高木と篠崎を後に残したのは、自分がいない方が二人が話しやすいだろうという彼女なりの配慮でもあった。


 北野の奔放な振る舞いに苦笑し、二人は魔法協会を出た。

 少し歩いたところで、篠崎が思い切って切り出す。

「…あのっ、先輩。お家までご一緒してもいいですか?」

「…へっ?」

 様々な思考や推測が高木の脳内を駆け巡り、何故か顔が赤くなった。

「…へ、変な意味で言ったんじゃないですからね⁉」

 篠崎は自分の発言が与えたかもしれない誤解に気づき、真っ赤になってしまった。俯き、恥ずかしそうに続ける。

「融和派の魔術師がまた現れるんじゃないかと思うと、心配で…。私、防御用の魔法は得意ですし、少しはお役に立てると思います」

「いや、そんな、悪いよ。遠回りさせることになるし」

 北野と篠崎も、高木が襲撃を受けた事件の大体のあらましは把握している。心遣いはありがたかったが彼女を巻き込みたくはなかったし、それに江原兄弟という優秀な魔術師が既に護衛をしてくれているのだ。

「…駄目ですか?」

 無意識にであろうが、篠崎は上目遣いをして高木を見た。

 その仕草を見て、呼吸が止まるかと思った。心臓の鼓動が速くなる。自分が赤面しているのを自覚した。

「…先輩?」

 ひょいと覗き込むようにしてくる様子もどうしようもなく可愛くて、高木は返答に少しの時間を要した。

「……じゃあ、どうしてもって言うなら」

 やがて、高木は優しく微笑んだ。篠崎も、はにかんだような笑みを浮かべる。

 辺りは薄暗くなりつつあった。二人は学校のこと、友達のことなど、他愛のない話に笑い合いながら駅までの道を歩いた。時間があっという間に過ぎていくのを感じた。

 少なくともその瞬間だけは、魔法界で起きている諸々の問題を忘れ去ることができた。幸せで、密度の濃い時間だった。


「いいよなあ、ああいうの。青春っぽくて」

 江原想はぼやいた。

「兄貴には彼女いるんだろ。俺も出会いが欲しいよ」

 一定間隔を保って高木と篠崎の後を歩き、兄弟は彼らをそっと見守っていたのだった。

「焦るなよ。お前も俺に似てイケてる顔をしてるんだから、いつかチャンスは巡ってくるさ」

 横を歩く悠がフォローすると、想は途端に相好を崩した。なお、兄の言葉に若干のナルシシズムが含まれていることには気づかなかったらしい。

「そうだよな。果報は寝て待てって言うもんな。流石兄貴だ」

 調子をよくした弟に適当に相槌を打ちながら、悠は前方を歩く二人を見つめていた。

(…あいつら、案外似た者同士なのかもな)


 高木は遠慮したが篠崎がついていくと言って聞かず、結局高木の住む学生マンションの前まで二人は一緒だった。魔法協会の最寄り駅から電車に乗りここまで来て、篠崎はだいぶ遠回りをしているはずだ。けれども彼女は、嫌そうな素振りを一度も見せることはなかった。こうすることが、彼女の意志だったのだ。

 共同玄関の前で足を止め、篠崎の方を振り返る。

「ありがとう。篠崎が傍にいてくれて、安心だったよ」

「…いえ、大したことはしてませんし」

 結局道中怪しい人物に出会うことはなく、心配事は杞憂に終わった。そう言いながらも、篠崎は嬉しそうに微笑んでいた。

「気をつけて帰れよ」

「はい。では、私はこれで…」

 二人は、笑顔で手を振り合って別れた。


 帰りの電車に乗り込み、篠崎はふうっと大きく息をついた。

(…あのまま、ちょっとだけお邪魔してみたかったな。でも、やっぱり迷惑かな…)

 気がつくと頬が紅潮していて、車内の冷房がやけに心地よく感じた。


 荷物を放り出してベッドに倒れ込み、自分が何かまずいことをしなかったか、と高木はさっきまでの行動を振り返った。

(つれない素振り見せちゃったりとか、してないよな)

 感情表現が下手で不器用な自分を、今日ばかりは呪った。その日の残りは、何だか悶々として過ごしてしまった。


 どんどん、とやや強く木製の扉がノックされた。返事を待たずドアが開かれ、微風が吹き込んだ。

「何事ですかな」

 円宅の間の入り口付近に腰掛けていた白髪の老人は、眉をぴくりと動かし、無作法な侵入者をしかめっ面で迎えた。

 無許可で入室した謎の男は痩せていて、頭を綺麗に剃り上げていた。険しい表情も相まって、鍛錬を積んだ修行僧のような印象を七賢人たちに与えた。

 男は後ろ手に扉を閉めると、手短に名乗った。

「私は藤原というものです。融和派のナンバースリー、と言えば分かりやすいでしょうか」

 それを聞き、老人の隣の席に座っていた松宮は姿勢を正した。もしや、先日の二条との会談で何かまずいことを言って関係を損ねてしまったのではないだろうか。不安が頭をもたげた。

 しかし、藤原が使わされた理由はもっと別の、予想だにしていないものだった。

「この写真を見てください」

 藤原がスーツのポケットから取り出した一枚の写真には、ソファの背に体を預けている恰幅の良い男性の姿があった。だが通常と異なるのは、男の着ている和服の胸の辺りが焼き焦げていて、男の目の焦点が合っていないという点だ。

「二条殿っ」

 松宮は思わず立ち上がり、叫んでいた。

「これは一体、どういうことですか」

 藤原は彼をじろりと見ると、淡々とした口調で答えた。

「見ての通り、我々の指導者である二条智宏様が、何者かによって殺害されたのです。昨日の深夜に発見されました」

「…ちょっと見せてちょうだい」

 眼鏡をかけた老婦人が席を立ち、藤原の手から写真を受け取る。目を細め、色々な角度から眺めた後、それを返した。

「やっぱり合成写真には見えないわね。残念だけれど、どうやら本物みたい」

「当たり前でしょう」

 藤原は吐き捨てるように言った。老婦人は身内を亡くした人に対し失礼な発言をしてしまったことに気づくと、曖昧な笑みを浮かべて着席した。

「何故このようなことに…」

「それはこっちの台詞です」

 驚きと戸惑いを隠せない松宮に、藤原はつっけんどんに応じた。

「まあ、見当はついていますがね」

「…と、言いますと?」

 藤原は、七賢人たちを眺めまわすようにして睨みつけた。

「我々の厳重な警備をくぐり抜け、自宅でお休みになっている二条様を殺害したとなると、組織的な犯行でなければ不可能です。僅かな戦力しかない過激派の残党の仕業では、まずありえないでしょう」

「なら何だ。穏健派がやったとでも言いたいのか。この無礼者がっ」

 お茶の注がれたカップをテーブルに叩きつけるようにして置き、松宮を出迎えた先ほどの老人が声を荒げる。松宮は動じず、首肯してみせた。

「その通りです。逆に聞きますが、あなたたちでなければ誰がやったというのです。まさか、融和派内部の人間について疑っているんじゃないでしょうね。融和派構成員のアリバイは既に調査済みですが、昨日の夜犯行が可能だったと思われる者はいませんよ」

 一同が答えに窮したのを見て、藤原は写真を胸ポケットにしまった。勢いに乗り、語りがますます饒舌になる。

「穏健派の魔術師による、融和派指導者の殺害―これは、我々としては非常に許しがたい事態であります。悪魔の所業と呼んでも差し支えないでしょう。我々の提供したマジック・ウォッチの技術を利用しておきながら、過激派との抗争が終結に近づけば用済みとして切り捨てようとしていることの証左に違いありません。断じて容認できません」

 根拠のない批判だとも、被害妄想だとも、言い返すことができたかもしれない。だが七賢人たちは相手の剣幕に押され、咄嗟に反論することができなかった。

 藤原はにやりと笑い、続けた。

「ゆえに、我々は決意しました。穏健派を討つことを」

 そして右手を掲げ、高らかに叫ぶ。

「今ここに、穏健派への宣戦布告を致します!」

「…貴様、ふざけるのもいい加減にしろ!」

 松宮は怒りの形相で、藤原につかつかと歩み寄った。

「証拠もないのに一方的に疑いをかけるなど、あなたたちのやっていることの方がよほど容認できない!」

 胸倉を掴もうと右手を伸ばした瞬間、左胸に熱い衝撃が走ったのを感じた。

『ゼウス・アタック』

 ひっ、と老婦人の口から悲鳴が漏れたのを、松宮は薄れゆく意識の中で聞いた。

「―宣戦布告はしましたから、これは不意打ちにはなりませんよね?松宮さん」

 松宮が崩れ落ちた傍らで、藤原は愉快そうに笑って立っていた。左手首に巻かれた銀のマジック・ウォッチが、午後の太陽の光を受けて光る。

 藤原が松宮の体を蹴飛ばし、死んでいることを確かめる。至近距離から高圧電流を流し込まれ、ほとんど即死に近い状態だった。痛みを感じる暇さえなかったろう。

 融和派に対して親密な態度を取り続けた松宮は、穏健派を融和派の望む方向に動かすための駒として非常に有益な存在だった。しかし、計画が最終段階へ入ろうとしている今となってはもう用済みだった。

「よくも―」

 ショックから立ち直った老人たちが口々に何かを叫び、一斉に席から立ち上がる。

 それと同時に、部屋の後方に設置された窓ガラスを突き破って黒ずくめの集団が押し入ってきた。量産化に成功した融和派の兵器、アレスプロテクター。僅かな負担で恒常的に効果を発揮する、厚く頑丈な能力拡張スーツ。

 突如現れた十数名の融和派精鋭部隊が藤原に加勢し、戦争の火蓋は切って落とされた。


 緊急招集を受けた高木は、息を切らして魔法協会の中に飛び込んだ。

 辺りを見回すと、黒いアーマーに身を包んだ男たちと穏健派の魔術師らが交戦していた。色とりどりの魔法陣が投射され、激しい魔術の撃ち合いが行われている。同様に招集されたはずの杉本や北野、篠崎の姿は見えない。まだ到着していないのだろう。

「―はあっ!」

 突然、上方から気合いとともに手刀が振り下ろされ、高木は反射的に横に跳んで回避した。二階から飛び降りて奇襲攻撃を行った短髪の男が着地し、忌々しげに首を振る。

通常なら無茶な動きだが、アレスプロテクターのサポートの恩恵で男の肉体は何のダメージも受けていない。苛立っているのは、攻撃を外したからだろう。

「…小僧、悪いが容赦しないぞ」

「遠慮はいらないぜ」

 こちらを睨み静かに言い放った相手に、高木は堂々と対峙した。

 男が床を蹴り飛ばし、一瞬で高木の眼前に迫る。筋力強化の効果で、恐るべき瞬発力が発揮されていた。続いて繰り出された右の拳を、高木が展開した氷の盾が受け止める。

 鋼鉄並みの強度を誇る殴打の前には、厚さ数センチの氷の塊はあまりに無力。けれども、高木の狙いは防御のみにあるのではなかった。

「…っ」

 男の動きが止まった瞬間を、高木は見逃さなかった。

 いかに皮膚を硬化しようとも、五感を消せるわけではない。無論、熱や冷たさを感じ取る触覚も。

 零度の氷の盾に思い切り拳を叩きつけたことにより、男は冷気にじかに触れるかたちとなった。ゼロコンマ数ミリ体を震わせた隙に、高木は次の一手を放っていた。

『アレス・アタック』

 男のがら空きとなった胴に、渾身の回し蹴りを喰らわせる。右足を叩き込まれて呻き、のけぞった男に、高木が右手を突き出した。その前方に、デバイスから黄色の紋章が投射される。

『ゼウス・アタック』

 男の装着しているアーマーはかなりの強度だ。単純な打撃が効きづらい相手には、耐久性を無視してダメージを与えられる魔法が有効だろう。

 魔法陣の中心から、稲妻が勢いよく撃ち出される。雷撃の槍を胸部に受けた男は吹き飛ばされ、倒れ込むようにして意識を失った。

(まずは、一人…)

 相手を無力化したことを確認し、束の間、高木は呼吸を整えた。

 融和派が戦争を仕掛けてきたとの旨を知らされたときは驚いたが、同時にいよいよ動き出したか、という張り詰めた気持ちにもなった。今の男が着ていた強化スーツは、以前「覇」が使用していたものと似ている。おそらくはあれを改良し、量産化に成功したのだろう。

 融和派の目的は倉橋烈の言う「人造魔術師計画」にあるのではないかと、高木は今まで睨んできた。しかし、ついに穏健派と明確な対立姿勢を打ち出した様子を見ていると、それは違うのではないかと思えてしまう。新型のマジック・ウォッチの開発、能力拡張スーツの量産、そして遺伝子操作を受けた魔術師である倉橋烈―これらが行きつく先はどこなのだろうか。

 高木は小さく首を振った。今は余計な詮索をしている場合ではない。まずは目の前の脅威を倒すことが優先だ。

 遠くに、四人の融和派の魔術師に囲まれながらも互角に渡り合っている江原兄弟の姿があった。敵の攻撃を的確な障壁展開で完璧にガードし、隙あらば火炎弾や雷撃で反撃を図っている。だが多勢に無勢、決定打を放ち相手を圧倒するには至らないようだった。

 フロアを横切り彼らに加勢しようとした高木の前後左右を、紫色の八つの紋章が取り囲んだ。

『ハーデース・アタック』

『リピート』

 新型のマジック・ウォッチにより同時多重展開された魔法陣のそれぞれから、レーザー光が紫電の如く放たれる。

(まずい―)

 全方位から撃ち出される光線を前に、防御も回避も間に合わない。冷や汗が流れ落ちるのを感じた。

「二条様はお前を生け捕りにしたいようだが、俺の考えは違う。血液サンプルを採取し遺伝子情報を手に入れられるのならば…生死は問わない」

 いつの間にか後方に立っていた「覇」が、くっくっと笑った。

 刹那、八筋の光が高木を襲った。


 一方建物の最上階では、藤原と彼の部下数名が七賢人を相手に上手く立ち回っていた。

『アポロン・アタック』

『リピート』

 藤原と、アレスプロテクターを装着したその配下の魔術師らが、魔法陣を横並びに一斉展開する。次々に放たれる火球に、七賢人は冷静に対処した。

 痩せた老人がすっと左手を前に出し、ぶつぶつと呪文を唱えながら手を細かく動かして印を組む。そして目をかっと見開き、褐色の魔法陣を投射した。

『ガイア・アタック』

 年老いた彼らは、全盛期ほどの体力をもっていない。ゆえに、魔法の行使に肉体の疲労が伴う天界術を使っての長期戦は不得手にしているといえる。

 けれども、彼らの強みは古式魔術と現代魔術を織り交ぜて使えるという点にある。彼らより後の世代はマジック・ウォッチを使っての戦闘に慣れていて、詠唱や印を必要とする昔ながらのやり方はあまり用いようとしない。知識としては古代の魔術の行い方も知っているが、補助デバイスを使ったスピィーディーな戦いが一般的となった現代では、あえて実戦で使おうという発想に至らないのだ。

 七賢人は穏健派の中でも選りすぐりの、魔術への適性が高い者たちだ。そして、高い適性を備える魔術師は術式を発動する手順の一部簡略化も可能である。ちょうど、高木が冥界術の契約において儀式手順をすっ飛ばすことができたように。

 老人の唱えた呪文は細部を大幅に省略されており、瞬時に発動へ移行された。何重にも展開された頑丈な土の壁が火炎を阻み、仲間たちを守る。続いて、形成された障壁がドミノ倒しのように相手に向かって倒れかかっていく。複数の魔法を重ねて使うことにより編み出された、攻防一体の魔術だ。

 藤原は部下たちに目で合図した。黒のアーマーを着た重戦士が彼を庇うように前に出て、倒れてくる壁にアッパーカットを放つ。ものの数秒で障壁は全て砕かれ、円卓の間には土煙が立ち込めた。

 老婦人が詠唱を開始し、右手をさっと振る。手のひらの上に生じた赤い紋章からゆらゆらと炎が立ち昇り、やがてそれは巨大な鳥の形をつくった。

「…ほう、珍しい魔法だな。確か、不死鳥の術とでもいったか」

 藤原は眉をぴくりと動かし、にやりと笑った。

「だが、そんな非効率な古式魔法で我々には勝てるとお思いか?最先端のテクノロジーを駆使し融和派が開発した新型の魔術こそが完璧であり、世界を統べるのにふさわしい」

 再び、横一列に紋章が展開される。

「…魔法を人殺しの道具としか見ないお前たちに、負けてなるものか!」

 老人たちも一歩も引かず、それぞれに得意魔法を発動させる。

 赤き炎の鳥に続いて放たれた強力な魔術の数々を、藤原らが同時に繰り出した稲妻の嵐が迎え撃った。


 暗闇しか見えなくなった。

『ガイア・アタック』

 高木を包み込むようにして形成されたドーム状の障壁が、レーザー光を防いでくれていた。

 術を使ったのは、高木ではない。こんな巧みにこの魔法を使いこなせる人物を、高木は一人しか知らなかった。

 熱に晒された壁が砂へと戻り崩れると、視界が取り戻された。そこに、聞き慣れた声が飛び込んでくる。

「…大丈夫ですか?先輩」

「篠崎…!」

 たった今扉をくぐったばかりの彼女は高木の側へ駆け寄り、並び立つようにして「覇」と向かい合った。

「間に合ってよかったです」

 囁いた篠崎の呼吸は少し乱れていて、自分を助けるため必死で頑張ってくれたことが伝わってきた。ちらりとこちらを見る横顔は紅潮していて、チュニックが汗ばんでいる。

「…ありがとう。助かった」

 高木も微かに笑みを浮かべて返す。篠崎が少し赤くなったような気がしたが、気のせいだったかもしれない。

舌打ちし、「覇」は二人を苛立たしげに見た。

「邪魔が入ったか…ならば、まとめて始末してやる」

 真剣な表情に戻り、高木は篠崎に小声で指示を出した。

「…あいつは一度に多方向から魔法を撃てる。多分、俺一人じゃ防ぎ切れない。だから」

 唇を潤し、続ける。

「篠崎にサポートを頼みたい。さっきみたいな攻撃が来たら防御してくれ。俺は攻撃に専念して、あいつを倒してみせる」

「…はい」

 篠崎は頷いた。

 単に適材適所というだけの作戦ではない。お互いを深く知っているからこそできた、強固な信頼関係に裏打ちされたフォーメーションだった。

 高木が前衛に、篠崎が後衛に回る。

 「覇」と高木はほぼ同時に左腕を天井に向け、巨大な紫の魔法陣から使い魔を召喚した。防御魔法に秀でた魔術師が高木に味方した今、遠距離からの魔術の連射に頼った戦法では分が悪いと「覇」は判断したらしい。それよりも、普通の障壁ではガードできない圧倒的な火力でねじ伏せる方が理にかなっている。

 漆黒の衣を纏いし堕天使が、長く艶やかな髪をなびかせる。

 蝙蝠のような翼を広げ、長い尾を揺らす。石で形作られた命を宿す悪魔像、ガーゴイルが角を振り乱し、威嚇するように唸る。

 両者は一定の距離を保ち旋回していたが、やがて堕天使の両目が妖しく光った。協会の壁を焼き尽くし、抉り取るように放たれる絶大な威力の灼熱の光を、空中で身を捻りガーゴイルがすれすれで躱す。そのまま翼をはためかせ、堕天使へと肉薄した。


 アレスプロテクターにより身体能力を向上させた融和派の襲撃者たちは、手数で圧倒するスタイルを好んだ。

 一撃必殺の魔法を繰り出すのではなく、素早く立ち回って打撃攻撃主体で着実に体力を削り取っていく。強化スーツの効力を維持するために消費するのはほんの僅かなエネルギーだけであり、彼らの方が穏健派の魔術師よりもスタミナを温存することに成功していた。

 穏健派が苦戦を強いられていたこの状況に、一石が投じられた。

 大きく開け放たれた出入り口の扉から、猪ほどの大きさの猛犬の群れが押し寄せる。三つの頭部と鋭い牙、黒く硬い毛皮をそなえた冥界からの使者は、プロテクターを纏った男たちへ果敢に飛びかかり噛みついた。

(…ケルベロス⁉)

 まさかあいつが助太刀に来たのか、と北野は思った。

 彼女と交戦していた若い男が、足首を噛まれ悲鳴を上げた。その隙を逃さず「ゼウス・アタック」を発動し、男の肉体に電流を流し込んで失神させる。

 ぱっと出入り口へ視線を向けると、ダークスーツ姿の女が入ってきたところだった。北野に気づき、軽く微笑む。

「あんた…何で」

「説明すると長くなるけど、色々あったのよ。結論だけ言うと、今私が倒すべき相手は融和派だってこと」

 「威」はそこで言葉を切り、さらに紫の紋章を展開した。象ほどの大きさの冥界の番犬が降臨し、咆哮する。

「…さあ、行くわよ」

「…あたしに指図しないでよね!」

 北野は少々不服そうに言い返し、「威」の使い魔の群れに囲まれている融和派の戦闘員らに向かって走った。彼女と並び、大型のケルベロスが駆ける。

 中距離から北野が魔法を炸裂させて相手を怯ませ、そこにケルベロスが体当たりをかまして強引に突破する。二人は見事なコンビネーションを見せ、次々に敵を撃破していった。

 最初は冥界術の使い手の乱入に混乱していた穏健派の魔術師たちも、この好機を逃しはしなかった。

 ケルベロスの大群の援護を受け、反撃に転じる。手足を噛まれ動きを制限された相手に魔術を浴びせかけ、一転攻勢となった。

 たちまち、一階と二階で交戦していた融和派の構成員のほとんどは無力化された。


 堕天使は漆黒の翼を震わせ、スライドするように後方へ飛び間合いを取った。

(あのガーゴイルの能力は厄介だ…先に、術者の方を始末するとするか)

 使役者である「覇」の意志を受け、堕天使は両の手のひらを前に突き出した。そこから、黒い光を放つ破壊光弾が連射される。

 そのうちの半数は、ガーゴイルでなく高木を狙ったものだった。

 使役魔法の特性上、「ハーデース・アタック」により使い魔を操っている間は天界術を行使することはできない。その弱点を突いた戦術であった。

 普通であれば、ここで高木は窮地に立たされていただろう。使い魔の使役を保留にして防御の魔法を使えば、相手の使い魔に一方的に攻撃される。魔術を使わずに回避することも、攻撃範囲の広い堕天使が相手では無謀な行為だ。

 だが、彼は一人ではない。

『ガイア・アタック』

 篠崎が即座に発動した魔法で、高木の前に厚い土の障壁が築かれる。光弾は壁にクレーターをいくつも生じさせたものの、粉砕するには至らなかった。

(―小癪な)

 ふと、ガーゴイルの思念が流れ込んでくる。彼の方は攻撃を躱し切れず、多少ダメージを負ったようだった。石でできた腕の皮膚から、白煙が立ち昇っている。

(小僧、さっさと片付けるぞ)

(…ああ!)

 高木は小さく頷き、使い魔に念を送った。ガーゴイルが天井すれすれまで上昇し、一気に降下して堕天使に突進する。今度は距離を取る暇を与えない。光線の一発くらいは喰らうことになるかもしれないが、それを覚悟のうえで相手の懐に潜り込む。堕天使の体に触れ、石化させることができればこっちのものだ。

 勢いよく襲いかかった目標が突如消滅し、ガーゴイルは戸惑ったように飛行を停止した。

 文字通り、消えたのだ。それが意味することはただ一つ。

 ぞわっと、肌が泡立つような感覚があった。「覇」は冥界術の使用を中断し、別の一手を放とうとしている。

 その「覇」の姿を、高木は一瞬しか捉えられなかった。

『ヘルメス・アタック』

『ポセイドン・アタック』

 新型のマジック・ウォッチにより、二つの術式が同時に発動される。

 高速移動して土の障壁の横側に回りこんだ「覇」の視界に、ついに二人が入った。

「…まずは、邪魔な小娘から消してやろう」

 すっと前に出した左手から青色の魔法陣が投射され、何本もの氷柱が弾丸のように音速で撃ち出された。篠崎の表情が恐怖に染まり、声にならない悲鳴が漏れる。完全に不意を突かれ、防御も間に合わない。

 考えるより先に、体が動いていた。

 高木は咄嗟に、彼女を抱きかかえるようにして庇った。

 その背に数本の氷のナイフが突き刺さり、白地のシャツが赤く濡れた。術者が意識を失ったことにより、ガーゴイルの使役も自動的に中断される。

目の焦点が徐々に合わなくなり、高木は膝を突き崩れ落ちた。


「…先輩?」

 篠崎の声は震えていた。

「……先輩!」

 肩を掴み揺さぶってみるが、高木はぐったりとしたまま反応を見せない。

 パニックに陥った彼女のことは「覇」の眼中になく、彼が注目していたのは高木の背に刺さったままの氷の欠片だけだった。

「これは好都合だ」

 口の中で短く呪文を唱え、右手を軽く振る。直後、背中からずるりと抜け落ちた氷柱が宙を飛び、「覇」の手の中に収まった。その先端には、べっとりと鮮血が付着している。

彼はこみ上げる笑いの衝動に抗えなかった。可笑しそうな笑みを浮かべ、篠崎を見下ろす。

「意外なかたちとなったが、これで彼の血液サンプルの採取は完了した。…さて」

 辺りを見回すと、「威」の率いるケルベロスたちが場をほとんど制圧していた。上階ではまだ融和派が優位を保っているようだが、戦闘を過度に長引かせる必要はなかった。目的は達成されたのだから。

「そろそろ潮時だな」

 「覇」は再度加速魔法を使うと、速やかに撤退した。それを合図に、他の融和派の魔術師たちもプロテクターの補助による跳躍で離脱する。

 同志らの動向は、上階にいた者たちにも伝わった。

「…今日はここで引き上げるとしよう。ま、七賢人を一人減らせたということで満足しておくか」

藤原は交戦を続けていたが、「ポセイドン・アタック」で発声させた霧を目くらましに使い、部下を連れてその場を離れた。割られた窓から飛び降り、拠点へと帰還する。

こうして、戦いは幕引きとなった。


「威」は無言で高木の側へしゃがみ込むと、スーツのポケットから魔法陣の記されたメモ用紙を取り出した。北野の治療に対して使ったのと同じ、回復魔法の術式だ。それを背中の傷口に押し当て、魔力を送り込む。出血が少しずつ止まり、深々と抉られた傷が塞がっていく。

篠崎は「威」と面識はなく、魔法協会常駐の職員だろうと思っていた。ただ傷が癒えることだけを願って、祈るように高木の横顔を見つめている。

「…おいお前、何をやってる」

 頭上から胡散臭そうな声が投げかけられ、「威」は顔を上げた。途端に強い力で後ろから羽交い締めにされ、痛みに顔を歪める。メモに当てていた手が離れ、魔力の流れが途切れた。

 江原想が捕らえた女を、兄の悠が静かに問い詰めた。

「お前、さっき冥界術を使っていたよな。何者だ?まさか、過激派の残党か」

「…そうよ」

 「威」が静かに答えたのを聞き、周りにいた魔術師たちもざわめき始めた。篠崎は戸惑い、彼女と江原兄弟の顔を交互に見ていた。

「お前が何の魂胆で融和派を攻撃したのかは知らないが、劣勢だった俺たちを助けてくれたことには一応感謝しよう。…だが、素性の知れない者を放っておくことはできないな。もちろん、治療を任せることも」

 後ろを振り返り、悠は他の魔術師たちに命じた。

「この者を拘束しろ」

「はっ」

 数人の屈強な男たちが前に出て、「威」を取り囲もうとする。

「…ちょっと待ってっ」

 そこに、北野が割って入った。彼女の声音はいつになく真剣で、凛として響いた。

「この人、前にあたしのことを助けてくれたことがあるの。だから少なくともあたしは、彼女を信じたい」

 男たちは驚いて顔を見合わせた。どうしたものかと兄弟へ視線をやると、彼らもまた判断に悩んでいるようだった。

「…私も、信じたいです」

 おずおずと、篠崎も口を開く。

「もし敵なら、戦いが終わって真っ先に治療を施そうとするはずがありません」

「…想、放してやれ」

 江原悠は少しの間黙考し、やがて弟に命じた。

「兄貴…」

 やや意外そうな面持ちで、手を離す。

「無礼をはたらいて悪かった。治療を続けてくれ」

「…分かってるわ」

 気まずそうに謝罪の言葉を述べた悠に、「威」は目を合わせずに返した。そして、再び回復魔術を発動した。


 傷の癒えた高木が目を覚ました頃も、招集された魔術師の大半はまだ忙しく動き回っていた。せわしなく人々が歩き回っている靴音が、まだ少しぼんやりしている頭にやけに大きく響く。

「…ん」

 重い瞼を開けると、夕日が眩しかった。彼は来客用の部屋のソファに横たえられていた。ゆっくりと起き上がると、隣に俯いて座っていた篠崎がぱっと顔を上げた。

「先輩、私、私…」

 一瞬だけ嬉しそうな表情を見せたものの、すぐに泣き出しそうになってしまう。

「ど、どうしたんだよ」

 回復を喜んでくれるものとばかり思っていた高木は、当惑した。頭にかかっていた靄などとうに吹き飛んでいた。

篠崎は目尻を拭い、振り絞るように続けた。

「私、先輩を守るって決めていたのに…守るどころか、先輩を傷つけてしまいました」

「篠崎…」

 結果としてそうなっただけじゃないか。気にするな。そう軽く笑い飛ばせたらどんなによかったか。高木は、涙を流す彼女を前に言葉を失った。

 自分のことはいつも後回しで、誰かのために必死で頑張って。篠崎はいつもそうだ。

「それに、融和派が狙っていた血液サンプルも取られてしまったし…私、何も役に立てませんでした」

「篠崎、落ち着いてくれ」

 いつかの、あの雨の日も。

 冥界術を会得したことで皆から悪意ある眼差しを向けられ、挫けそうになっていた自分に寄り添ってくれた。自分の分まで泣いて、悲しんでくれた。あのとき俺は確かに救われたんだ、と思う。

「…自分が情けなくて、不甲斐なくて…私には先輩を守る資格なんてないんです。傍にいる資格も」

 だから今度は、自分が彼女の支えになりたかった。

「…篠崎」

 高木はそれ以上何も言わせず、彼女を無言で抱き締めた。温かく柔らかな体が最初はびっくりしたように震え、すぐに抵抗をなくす。シャツの肩に、篠崎の目から溢れる雫がこぼれ落ちるのを感じる。優しい微笑みを浮かべて、高木は言った。

「…篠崎は全然悪くねえよ。悪いのは融和派の奴らだ。だから、もう泣くな」

「……っ」

 篠崎はもう、何も言えなかった。高木の腰に回された細い手に僅かに力が入り、彼女はそのまましばらく嗚咽を漏らしていた。高木は何度か、その頭をそっと撫でてやった。

 茶色がかった髪は、夕日を受けると本当に美しく輝いて見えた。


「あ、やっと起きた」

 ドアからひょいと顔を覗かせ、北野が呟く。抱擁を解いた後に来てくれたのは幸運である。並んで座る二人の向かい側のソファに腰掛けると、彼女は高木をじろじろと見た。

「…何だよ」

「別にー。あの『威』って人がちゃんと治してくれたんだなって思っただけ」

 ぶっきらぼうに返し、北野はそっぽを向いてしまった。

篠崎は例によって、このぎすぎすとした空気をどうしたものかと思い悩んでいる。涙の痕は、もうほとんど分からないくらいになっていた。

「あいつが…」

 高木は独り言ち、束の間思索に沈んだ。かつて宿敵であった人物に命を救われたことが、何だかちょっとした奇跡のように思える。やはり、融和派を討ち魔法界をあるべき姿へ戻す、という彼女の志に嘘はないようだ。「威」がこれまでしてきたことを全て許せるとは思っていないが、今では彼女は心強い仲間だった。

「…そういえば、あの後あいつ大丈夫だったのか?見とがめられたりしないで帰ったか?」

「いや、バリバリ捕まってた。けど、あたし…とこの子がお偉いさんを説得して、何とか拘束されることは避けられたよ」

 北野は篠崎をちらりと見て言い、付け加えた。

「ていうか、魔法協会が忙しくてそれどころじゃなかったから。あの人に構ってる暇はあんまりなかったみたい」

「?」

 怪訝な顔をした高木に、篠崎が横から説明する。

「先輩にはまだ伝えてなかったんですけど、今回の襲撃で七賢人の松宮さんが亡くなられたそうなんです。それに、融和派にも色々と問いたださないといけない事柄があるらしくて…」

建物の破損した箇所の修復、戦いの中で命を落とした松宮の遺体の処理及び葬儀の手配など課題は山積している。指導者の二条が殺されたという口実で戦争を仕掛けてきた融和派に、事実関係を確認する必要もあった。もっとも、素直に応じる相手でないことは確かだが。

「…嘘だろ」

 目を瞬かせ、高木は唖然とした。過激派掃討作戦の折に、常に先頭に立ち指揮を執っていた姿が思い出される。松宮が死んだという事実をすんなりと受け入れるのは、なかなか難しかった。

「融和派も本気ってことね」

 皮肉交じりに、北野が吐き捨てる。

彼らの計画の全貌はいまだ明らかではないが、それが実行されるのはそう遠い日ではないだろうという予感がした。


「―すまん、遅くなった」

 そこに杉本も現れ、ようやく全員が揃った。北野の横に座り、額に浮かんだ汗をハンカチで拭き取る。よほど急いで来たらしい。

「師匠、遅ーい」

 無遠慮に不平を漏らした北野に、杉本は苦笑した。

「援軍を許すまいと、融和派が魔法協会周辺の何か所かに人払いをかけていたようでな。俺を含めて多くの魔術師が、随分到着するのが遅れてしまった」

 人払いの魔術をかけられているエリアには、何も物理的に立ち入れなくなるわけではない。通行人の意識に働きかけ、その道を通ることを選ばないような行動を取らせるのだ。「アフロディテ・アタック」と似た精神干渉型の魔法だが、より効果範囲が広い。魔術にかかっているという自覚がなければ、術を破るのは容易ではない。

 使えば同時に自分たちも援軍を呼べなくなるからであろう、融和派も周辺の全ての地域を効果範囲に指定したわけではなかったらしい。協会へ辿り着けた自分たち三人は幸運な方だったのかもしれない、と高木は思った。

 また、マジック・ウォッチに組み込まれていない古式魔術の発動には、魔法陣を記したものの用意や長い呪文の詠唱など様々な下準備が必要となる。これだけ広範囲に人払いをかけていたのだとすると、融和派はかなり周到に攻撃作戦を練っていたことになる。

「…まあ、俺のことはこの際どうでもいい」

 杉本は首を振り、本題に入ろうとしていることを示した。

「それでだ、高木。敵に血液を採取されたというのは本当なんだな?」

「はい。すみません」

 不手際を悔やみ、高木はうなだれた。その肩を軽く叩き、杉本は気にするなと励ますように言った。

「終わったことをあれこれ追及してもしょうがない。問題は、これからどうするかだ」

 髭の剃り跡がかすかに残る顎に手を当て、彼は考え込んだ。

「奴らの話が本当なら、倉橋烈という人造魔術師はじきに、高木と同じレベルの冥界術への適性を手に入れることになる。それが何を意味するのかは不明だが、いずれにせよ相当な脅威になることは間違いない」

 師の言葉に、高木は無言で深く頷いた。

 以前倉橋と戦ったとき、自分の力では全く敵わなかった。高い能力をもつ魔術師の遺伝子情報を組み合わせて生み出された、という彼の実力は恐るべきもので、さらに新型のマジック・ウォッチの性能もフルに発揮されて圧倒的な強さを見せつけられた。体力を消耗して隙が生じさえしなければ、完膚なきまでに叩きのめされていたかもしれない。この上倉橋が冥界術をも身につければ、一体どれほどの領域に達するのだろうか。

「…その件なんですが、師匠」

「何だ」

「俺には、倉橋烈が本当に悪い奴だとは思えないんです」

 唐突とも思える発言に、杉本は驚いたような表情を浮かべた。篠崎と北野も、真意を計りかねている様子だ。高木は、真剣な表情で続ける。

「今まで黙っていたことは謝ります。俺、襲撃を受ける前にも一度、あいつと会ったことがあるんです」

 北野が、口をぽかんと開けた。

「初めて会ったとき、あいつは魔法を使う練習をしてて、でも途中で消耗して…そこをたまたま通りかかった俺が助けた、って感じなんですけど。あのときの倉橋は、何かやましいことを企んでるような奴には全然見えなかったんです。礼儀正しくて、親切で」

 そこで一度言葉を切り、溢れ出しそうな言葉の奔流を、意味を成すかたちへと脳内で変換する。

「二度目に会ったときあいつは変わっていて、いきなり攻撃してきました。でもそれはきっと、倉橋が言われた通りに行動する以外の生き方を知らないからだと思うんです」

 倉橋はよく、父親について言及していた。父の命令だと告げて、問答無用で高木に襲いかかろうとした。父の言葉は絶対であり、常に正しい不変の真理だという妄信。高木には、彼がどこか父親にすがっているようにも見えた。

造られた存在である倉橋烈は、この世の誰とも血縁関係がない。彼に愛情を注いだのは、創造主である「父親」だけだったのであろう―たとえ、それがどんなに歪んだ愛だとしても。自らの思惑のために「息子」を躊躇なく利用するなど、正常な人間のやることではない。

「…俺は、本当のあいつ自身を信じたいと思います」

「…お前の考えはよく分かった」

 杉本は首を振った。ただし今度は横にではなく、縦にだ。

「俺は高木を信じている。お前が正しいと思ったことを為せばいい。彼を救いたいと思っているのは、俺も同じだ」

「俺たちも、でしょ」

 悪戯っぽく付け足し、北野がふっと笑った。篠崎もこくりと頷き、微笑む。

 暴走する融和派の計画を阻止し、倉橋烈のことも助ける。かなり大雑把だが、悪くない作戦だった。

最終決戦へ向け、四人の結束はさらに固いものとなった。


 関東の内陸部に構えた和風建築の別荘。そのベランダから夜空の星々を眺め、恰幅の良い剃髪の男はこぼした。

「『征』の使った術が、この局面で参考になるとはな」

 手すりにもたれかかった二条に、側に控える「覇」がふっと微笑む。

「奴の技術を応用して私の死体を偽装し、戦争を仕掛ける口実とするとは…恐ろしい男だ、君は」

「恐縮です」

 「覇」はうやうやしく一礼した。

 以前、「征」は杉本らに追い詰められたとき、その場から離脱するために自分の死を偽ったことがある。擬態能力をもった悪魔に自身の姿をコピーさせて身代わりに使い、その隙に逃走したというわけだ。

それを参考にし、冥界術を使えるものに同種の悪魔を召喚させて二条に擬態させる。あとは即座に魔法を撃ちこんで始末し、時間が経ち元の姿へ戻る前に偽の遺体を写真に収めればいいだけだ。

「烈、おいで」

 二条は不意に室内へ顔を向け、息子の名前を呼んだ。倉橋は素直に応じ、すぐに父の横に参じた。人間離れした美貌をそなえた青年は、寝間着にスリッパというラフな格好であっても見る者をはっとさせるほどであった。

「何?父さん」

「その後、体の調子はどうだ」

「全然問題ないよ」

 倉橋は屈託のない笑みを浮かべた。その表情はどこかあどけなくて、反抗期を知らない少年のようでもあった。

「そうか…それはよかった」

 二条が嬉しそうに息子の頭を撫でながら、「覇」の方を向く。

「高木賢司の遺伝子情報を移植して数日が経つが、異常はない。どうやら、成功らしいな」

「ええ」

 「覇」は倉橋をちらりと見て、満足そうに頷いた。

「今の烈君は、冥界術を問題なく行使できる状態にあります。二条様の進められてきた人造魔術師計画も、いよいよ完成形となりましたね」

「…ああ。我々の望みが果たされる日はすぐそこだ。もうすぐ、理想の世界が到来する」

「私も楽しみです。全ては、永遠の安寧をもたらすために」

 二人のやり取りを聞いていた倉橋はしかし、自分たちがやろうとしていることの意味をまだ知らなかった。

 星が瞬き、きらりと光る。終末へのカウントダウンは、既に始まっていた。

 




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