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人斬り蘭  作者: シバパパ
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第二話

ある男の過去との清算のお話です。

 細く長く続いていた雨模様が途切れ始め、雨上がりの涼しさの中にも夏の暑さの気配を漂わせている初夏のころ。

 陽射しの強くなり始めた昼間と比べ、いくらか過ごしやすい夕方となっていた。

 男装の御用聞きであるまつは、現在下宿している蔵長の二階にある自室で店の亭主である弟の由兵衛が出してくれた冷酒を飲んでいた。

 今のまつはいつものような男装ではない。

 すでに湯を浴びて、肩まで伸びる黒髪も広がるにまかせている。

 一単の着流しに帯だけの気楽な格好で、初夏の空気を肌身で感じていた。今のまつの服装は蘭のそれとほとんど変わらないものであったが、帯をしっかりと締め胸元も閉じているまつの印象は、蘭のそれとは、まったく違うものだった。

 それほど酒量の多いわけではないまつが、今夜は酒が進んでいた。由兵衛のだしてくれた肴がうまいことはもちろんだが、穏やかな空気に気分がよくなり、酒の旨さを手伝っていることもある。

 そしてそれ以上に、先日の辻斬り事件の後処理も決着し、ここ数日は久々に穏やかな日々を送ることができた。

 そのことによる心身の緩和が心地よく、ついつい杯を持つ手が動くのを、止めることができなかった。

 日が傾き始めた町からはにぎやかな喧騒が聞こえてくる。今日は一日何事も無く終えることができそうだ。そう思った矢先、階下から尋常でない様子の男の声が聞こえてきた。

「だから、松佐さんに会わせてくれりゃあそれでいいんだ。頼むから邪魔しねぇでくれ」

「うるさいな。何の騒ぎだ」

 自分の名が呼ばれたのを聞いて、まつは階下へと降りていった。

 そこで彼女が見たものは、床に額をこすりつけるようにうずくまっている男と、困惑した様子でそれを見ている弟夫婦と客達であった。

  まつの声を聞いた男が顔を上げる。その顔にまつは見覚えがあった。

「お前、清之介か」

 男、清之介はまつの顔を見た途端、ぐったりとその場に倒れ伏してしまった。

 清之助は町の一角にある長屋に住む、大工見習いの男である。齢二十。

 捨て子であった彼は、長年ごろつき達に雇われ、盗みをやらされていた。だが元締めのごろつきを現役であった宗吉が捕縛したことにより、一気に後ろ盾をなくしてしまった。それを哀れに思った宗吉は一時我が家で養い、しかる後に知り合いの大工の家を紹介してやったのである。まつとはその際に面識ができていた。未だ兄弟を持たなかったまつは、清之助がうっとうしがるのも構わず、何かと世話を焼いたものである。

 脱力してしまった清之助を助け起こし、まつは二階の私室に向かった。半ば呆けている清之助に酒を飲ませてやる。

 それ以上はしない。まつは、清之助が自分で喋り始めるまでじっくり待つつもりでいる。

 ぐっと喉を鳴らし酒を飲み下した清之助は、幾分心落ち着いたようで、ぽつりぽつりと要件を話し始めた。


 清之助の師匠にあたる大工の棟梁、加瀬屋甚兵衛は職人歴四十年以上の熟練である。

若い頃に各地を渡り歩き、腕を磨き上げた。優秀な弟子を何名も育て上げ、今は現場に姿を現すものの、悠々と更なる後進の指導に力を入れていた。

 未だ雑用の仕事が多い清之助のことも、前科者であるということを差別せず、温かく見守ってくれている。

そんな甚兵衛の様子がこの数日どうもおかしいというのである。

それはとある家を建てている時だった。いつものように現場で働く若者たちを視察していた甚兵衛が、あっ、と声をあげて立ち上がった。

職人たちが一斉に振り向いたが、甚兵衛は唖然とした表情で遠くを見つめるだけで、その視線の先には何もなかった。その日は、それ以上何事もなく甚兵衛も清之助や他の弟子たちに二三言伝をしたのち帰っていった。

それ以来甚兵衛は家にこもり切りになり、誰にも姿を見せなくなった。

甚兵衛の妻はすでに死別しており、子も成していなかったために、家には甚兵衛一人きりである。

清之助や他の弟子たちは仕事の合間に訪問し、声をかけてみたが応答はなく、一番弟子ですでに独立している棟梁にすら、返事が返ってくることはなかった。

それと並行して、現場で妙な男を見かけるようになった。見かけは町人の風体だが、かつて荒事の世界にいた清之助にはわかった。この男は、殺しに慣れている。

おそらく、この男が甚兵衛の異変の元凶だろう。

だが、それ以上はどうしようもなかった。

 一度尾行を試みたこともあったが、瞬く間に姿を消され、足取りすらわからなかった。

 そこから事態は膠着し続けた。甚兵衛は家にこもり続け、謎の男は数日ごとに様々な現場で見かけた。そのことをいよいよ気に病んだ清之助は、旧知の仲であるまつを頼ることにしたのだった。


「それで、私に探ってほしいと」

 ことのあらましを聴いたまつは、思案を巡らせていた。十中八九、その不審な男が、甚兵衛の行動に関係があるのだろう。甚兵衛は父の知り合いで、まつの生家や蔵長の建物も甚兵衛の普請だ。

二人が知り合う切っ掛けは知らないが、温和な棟梁の過去に何かあったのかもしれない。

「俺や仲間の力でどうにかできればいいが、もともと学のないやつが多いから、何をどうしたらいいかわからない。松佐さん、頼む。助けてくれ……」

 清之助の言葉は涙で濁り、大粒の涙が流れる。

「わかった。大丈夫だから、大の男が泣くな」

清之助を送り届けるよう由兵衛に頼み、まつは宗吉が住まう生家へと向かった。


まつと由兵衛の生家は市中の川を少し下ったところにある。簡素ではあるがしっかりとした造りの家で、甚兵衛の腕のほどがうかがえる。

「おお、どうした、まつ」

 宗吉は妻のお里と共に、夕食をとっていた。鯵を三枚におろし、身を刺身にして骨で出汁を取り、吸い物にしている。お里は炊きたての白米、宗吉は酒を飲みつつ、まったりとした夕べを過ごしていた。

 母のお里は、食事をするようしきりに勧めてきたが、甚兵衛のことが気にかかるまつは、宗吉に本題を切り出した。

「先刻、大工の清之助が蔵長を訪ねてきたのですが、ここ数日、甚兵衛棟梁の様子がおかしいと」

 まつが、清之助から聞いた話を語っている間、宗吉は酒を飲み、難しげな表情でそれを聞いている。

 話し終えるころには、眉間に皺が寄り、口がへの字に歪められていた。

「父上、何か心当たりが」

「ないわけでは、ないが……」

 宗吉は、何か言おうと口を開きかけたが、なおも憚られるようで、口ごもるばかりであった。まつとしては、もどかしい。

 まつが御用聞きの役目を継いでからおよそ三年の時が経っている。数々の事件を治めてきたまつであったが、時折このような様子の宗吉に出くわすのである。

「父上、なぜお聞かせくだされないのですか」

「……わしも、確たるものがあるわけではないのだ」

 重い口を開き、宗吉が語って聞かせたのは以下のようなことであった。

 五年程前のこと。宗吉の上役に当たる町同心、飯沼鹿十郎が宗吉に妙な話を持ってきた。つい先日、久保田藩藩士園部伊三郎が斬死体で発見された。藩邸に問い合わせたところ、伊三郎はとある男を探して江戸を訪れていたとのことだった。

伊三郎の父が、妻の不貞をめぐって諍いとなり、その末に殺されてしまう事態が起きた。相手は果し合いであったと主張したが受け入れられず、結局逃亡し行方をくらませてしまった。父に代わり園部家の跡目を継ごうとした伊三郎であったが、家老から父の仇を討つまでは、跡目を継ぐべからずという沙汰を受けてしまった。

 仇が江戸へ向かったらしいという情報は何とか手に入れたものの、その先はどうしようもない。家のことを母と老僕に任せ、数少ない情報を頼りに伊三郎は江戸へ向かった。

足掛け七年。藩邸を拠点として方々を探し回った。伊三郎の父は真面目で実直な人間であり、周囲の評判も良かったため、藩邸の人間も協力を惜しまなかった。そして長年の追跡と情報収集が実を結び、ついに仇と思われる男を発見したのだった。

 伊三郎は逸り、すぐにでも敵討ちをと望んだが、周囲はそれを諫め、助太刀を頼み確実に仕留めることを良しとした。その矢先、酒を飲むために外出した伊三郎が、帰り道に殺されてしまったのだった。一撃で仕留め損ねたのか、胴に刺し傷が二つ。伊三郎は刀を抜いていたものの、ろくな戦いもなしに、殺されてしまったらしかった。

 だが、本題はここからである。久保田藩が掴んでいた情報では、仇の男は大工として身分と名を偽装し、江戸に潜伏していた。それ以上の情報を藩士たちは明かさなかったものの、その男が件の甚兵衛棟梁であるというのだ。しかし、あくまで噂の域を出ず、確たる証拠もなかったため、宗吉と鹿十郎はそれ以上話を進めることもなかった。が、今回の一件で、その噂は本当であったのではないかと思い至ったとのことであった。

「もし、これが真実であったならば、事は久保田藩の内部に及ぶ。一介の御用聞きには荷が重いぞ」

 深刻な表情の宗吉にそう言われれば、まつとしても言える言葉は少なかった。

「……。今少し、情報を集めてみます」

 ようやくそれだけ言ったまつに対し、宗吉は何も言わず、黙って頷くのみであった。


 その翌日、まつは朝食もろくにとらず、朝のうちから蘭の家を訪れた。

 林道を抜けると、ぼろ小屋からは煙が上がっている。どうやら、初芽が朝飯の準備をしているらしかった。

 戸を開けると、いそいそと動き回る初芽の姿が目に入る。小さな体を忙しなく動かす様はどこか小動物を思わせ、とても愛らしいものだった。

「おや、姉御。こんな朝早くからどうしたんだね」

 対照的に、奥の座敷から寝ぐせにまみれた黒髪をなびかせのそりと現れた蘭は、だらしない服装も相まって、怠惰そのものといった風体だった。

「仕事の話かね?」

「ああ、そうだが、私も飯を食っていいか」

「初芽」

 蘭が呼ばわると、初芽は大根の味噌汁を白飯にかけたものと漬物を持ってきてくれた。味噌汁自体は少し濃いめの味付けで、炊き立ての白米によく馴染む。誰に遠慮することもなく掻き込み、胃袋に流し込と、口休めに糠に漬けた大根が丁度良く、思いがけず充実した朝食となった。

「美味かった。また上達したんじゃないか、初芽」

 まつは精一杯の愛想を振り絞り初芽に話しかけたが、表情一つ変えず後片付けにかかってしまった。

「初芽は本当に一生喋れないのか?」

「さあ、どうだろうねぇ。まあ、そんなに心配することはないさ。初芽が本当に言葉を発したくなった時、何もしなくても口をついて出るだろうさ。それで、姉御。今度はどんな仕事だい」

「今回頼みたいのは見張りだ」

「見張り、か。で、どんな奴を見張っててほしいのかな」

 まつが事の次第を語っている間、蘭は聴いているのかいないのか曖昧な様子だった。

 が、現場に現れる男と、園部伊三郎の一件を聞いたとき、その瞳には妖しい光が宿っていた。

「それで、甚兵衛の身を守ってほしいと。いいねぇ、なかなか愉快な仕事になりそうだ」

「今回は特に真面目に頼むぞ。甚兵衛は父上の昔馴染みいうこともあるが、清之助にとっても私にとっても世話になった男だ。過去に何があったにせよ、老いさばらえた命を奪われるほどのことは無いはずだ」

「ずいぶん身勝手な話だ。姉御にとっては大事な恩人でも、仇は仇。しかも武士のお家を継ぐはずだった嫡男を殺されたとあっては、、是が非にでも殺してやりたい相手だろうに」

 まつは言い返してやりたかったが、今は蘭と問答している時間はない。

「今回は公儀の仕事じゃないからな。これで済ましてくれ」

蘭に金を投げよこすと、初芽がまた瓶にしまう。

蘭は今から甚兵衛の家へ向かうといい、腰に太刀を差すと、初芽の世話をまつに頼み、朝の爽やかな林道を下って行った。


 義妹のお光に初芽を頼み、まつが遅れて甚兵衛宅に向かうと、向かいの空き家に蘭が陣取っていた。手ぶらで出て行ったはずだがいつどこで手に入れたのか、年季の入った瓢箪の酒を、欠けた猪口でやっている。ここから見える家には、人間の気配はあるが、動きは何一つない。甚兵衛がいたとしても、相当弱っているようであった。

「おい」

 まつが思わず声をかけようとするのを、蘭は手で制した。

「いよいよの時は、扉蹴破って中に入ればいいだけだ。それより姉御、気付いているかい」

 指さされた方向を見ると、妙に目つきの鋭い男が周囲の様子をうかがっていた。頬骨の張ったいかつい風貌の男。何の確証もなかったが、まつは瞬時に理解した。この男が、甚兵衛の命を狙っている男だ。

 男は甚兵衛宅に近づこうとしたが、大工の弟子らしい男が訪ねてきたのを見ると、物陰に隠れ、また姿を消してしまった。

「こりゃあ、近いな」

 蘭が何ともなく呟く。

「あいつ、仕掛けるか」

「ああ、それも、早ければ明日の晩」

 太刀を抜き、刀の手入れを始めるまつ。その様子は、間もなく訪れる刃傷沙汰を心底心待ちにしているようであった。


翌日の朝から昼にかけて、初夏の陽気はあまりにも穏やかだった。

この日、事前にまつから言い含められていた弟子たちは、甚兵衛宅に近づかないようにしていた。ただ清之助だけは、事の顛末を見届け報せるためにまつ達に同行していた。

夜も更けたころ、例の男が現れた。それまでの町人風とは違い、袴をはいて二本のものを差している。後方に何か話しかけているのを見ると、今回は複数人で来ているらしい。

 蘭はすでに姿を消している。いぶかしげなまつに、大丈夫だと一言だけ言って。

 夜の闇から、男が姿を現す。髭面の堂々とした体躯の男に、まだ若い月代を剃ったばかりの青年。神経質そうな細目の男が後に続いている。首魁の男が戸に手をかける。

「松佐さん」

 たまらず清之助が声を上げる。空き家から出ようとする清之助をまつが制した。まつにはある予感があった。

 男たちが侵入する。

「加瀬屋甚兵衛!」

男の声に続いたのは、数人の男の困惑の声であった。

「なんだと!」

「もぬけの殻だぞ!」

「甚兵衛は、そこにはおらんよ」

 屋外から、声が響く。ゆらりと、蘭が姿を現した。

 慌てて、男たちが出てくる。あまりにも場違いな女の登場に、男たちの困惑は深まるばかり。その状況を楽しむように、蘭は太刀を抜いた。

 蘭の姿を見て、まつと清之助も空き家を出る。見ず知らずの三人の闖入者。男たちはたまらず刀を抜き、三人に向き直る。

「女、何のつもりだ」

首魁の男が震える声で問うた。夜襲の失敗からあまりにも妙な出来事が起こりすぎている。月の光に照らされた五本の刃が、この場の雰囲気をさらに奇妙に演出していた。

「いやあ、私は久保田藩園部家のごたごたなんぞ知らないんだが、恩ある人が甚兵衛を助けたいって言うんでね。金までくれるもんだから、助けることにしたのさ」

 家の名が出た瞬間、男たちから凄まじい殺気が放たれた。その様子を見るに、どうやら、事の顛末は宗吉やまつが推測した通りのようであった。逸った神経質そうな男が上段に切りかかった。それを刃で軽くいなすと、すり抜けざまに背中を斬りつける。だが、殺しはしない。絶妙な手加減で斬られた男は、もんどり打ちながらぎゃっと叫び倒れた。

 にわかに場が動く。清之助を突き飛ばすと、まつは脇差を抜いて、別の若い男からの攻撃を防いだ。蘭は、斬った勢いそのままにひげ面の男に向かっていく。首魁の男がその場から走り去ろうとしたとき、その場に小柄な老人が現れた。

「棟梁!」

 清之助が叫ぶ。その一言で全てを察した男が、刀を抜き老人に斬りかかる。正しくその老人こそ、加瀬屋甚兵衛その人であった。

「馬鹿が」

 蘭のつぶやきを聞いた瞬間、髭面の男の右手が刀ごと飛んだ。叫び声に気を取られた若い男の腹に、まつは拳をめり込ませる。

 二人が動いたのはほぼ同時だったが、男が甚兵衛に達する方が速かった。三人が老人の死を覚悟していたその瞬間。振るわれた刃を躱し、懐に潜り込んだ甚兵衛が、脇差で胸の急所を一突きにしてしまった。男は、苦し気なうめき声と共に、ずるずるとその場に倒れ伏した。

 まつや清之助は、愕然として動けない。蘭は、太刀の血を拭い、自らが殺した男をじっと目詰める甚兵衛に歩み寄った。

「なかなかのお手並み」

「なんの。やはり長年振るわなんだ刃は、鈍っておるな。かつての儂であったなら、苦しまずに逝かせてやれたろうに」

「確かに。話に聞いただけだったが、園部伊三郎を殺した手並みも、精彩に欠くものでしたな」

「棟梁、ご無事で」

 ようやく気を律したまつが甚兵衛に駆け寄る。清之助も慌てて後に続いた。二人に目を向けた甚兵衛は緊張の糸を解き、二人がよく知る好々爺に戻っていた。

「おまつ、清之助よ、心配をかけたな。すべて儂一人で始末をつけるつもりだったのだが。かえってお前たちに気を使わせてしまったようだ」

「棟梁、こいつは一体」

逸る清之助を手で制し、傷を負った三人の男たちを見やる甚兵衛。

「それも、語って聞かせよう。しかしあの者たちを、早う手当てしてやらねば。なあ、弥九郎よ」

 かつての幼名を呼ばれた若い男は不満げに、今は惣三郎であると訂正しながらも、清之助やまつの手を借り、甚兵衛宅に傷を負った二人を運び込んだ。

 応急の手当ても済み、二人を奥に寝かせると、甚兵衛は四人に酒を配り、自身の過去を話し始めた。


加瀬屋甚兵衛。本名を佐部藤次郎。久保田藩の下級武士の家に生まれたこの男には、こと武術に関して、天性のものがあった。若くして藩内の道場に藤次郎に敵うものはなく、四十を超える頃には、ついには御前試合にて勝ち残り、藩の剣術指南役の大役を務めるまでになった。今回の襲撃の刺客たちは、皆藤次郎の教え子たちであった。

 藩内の武士たちに対して、剣術や武術の鍛錬を求める藩主の期待に応え、苛烈な稽古をつけていく藤次郎は、腕はともかく、次第に周囲の反感を買っていった。下級武士という生まれはもちろんだが、未だ血気に逸っていた藤次郎自身が様々な罵倒を使って門弟たちを責め、頑なな態度を崩さなかったことも、大いに影響していた。

 そんな中で、一際おもしろくないのが、前任の指南役であった伊三郎の父、園部主水である。この男、先の御前試合で藤次郎にしたたかに敗れ、常にそのことを根に持っていた。久保田藩の中でも上位の家格である園部家の当主が、格下の相手に敗れただけでも屈辱であったのに、あろうことかその男が師として、事あるごとに主水を打ちのめし、へりくだりもせず頑強な態度で、「どうも、役職に甘んじてたるんでおられたようだ」などとのたまうのである。日々の恨みに耐えかねて、主水はついに、一計を謀った。

 あくる日の夜半、藤次郎は主水に呼び出された。町はずれの河川敷。そこに現れたのは主水だけではなかった。主水のもとで、かつて師範代をしていた大野何某という老侍である。この男も、藤次郎のことを快く思っていない一人であった。

 突然の呼び出しについて藤次郎が詰問すると、主水は声高に己の弁を述べ始めた。

 曰く藤次郎が主水の妻を誑かし、不貞を働いたというのである。これより、その件について果し合いをしようというのだ。大野はその立会人であるという。無論、藤次郎にはまったく心当たりがなかった。そのことを、あくまで冷静に説こうとした藤次郎だったが、すでに気が昂っていた主水は聞く耳を持たず、むしろ泰然とした藤次郎の態度に逆なでされ、さらに語気を強めていった。

 これでは埒が明かぬと、藤次郎がその場を去ろうとした。その背中めがけて、主水が刀を抜いた。背後の殺気に反応した藤次郎も刀を抜き、二人は鍔迫り合いの形になった。一瞬膠着したが、若く、技量も上だった藤次郎が圧倒し始めた。しかし、藤次郎としては主水を斬る気はない。適当にあしらい、気持ちを挫いてやるつもりでいた。瞬間、主水が吼えた。

「大野!」

 立会人であるはずの大野が刀を抜いた。最初から、主水は大野に助太刀をさせるつもりでいたのだ。最早、考えている余裕はなかった。肉体に染みついていた剣術は、藤次郎の五体を無意識に動かした。気が付いた時には主水の返り血を浴びて、藤次郎は立ち尽くしていた。情けない声をあげて逃げていく大野を追いかける気も起きず、ぼんやりと、その場を去った。

 そこから先は、宗吉から聞いた話の通りだった。藤次郎は果し合いを主張したが、大野が目撃者として名乗り上げ藤次郎が一方的に攻撃を仕掛け、主水を殺してしまったことになった。周囲の恨みを買い、家格の低かった藤次郎の主張が通ることは無く、命の危険を感じた彼は、藩を脱したのだった。


「その一件以来、儂は刀を捨てたのだ。あまりにも、馬鹿馬鹿しくなってな」

 甚兵衛のため息一つを残して、場に沈黙が訪れる。その沈黙を破ったのは、惣三郎だった。

「大野様のご子息が、只今藩の要職に就いておられ、何としても藤次郎殿を討てとのご下命でした。藩内でも未だ藤次郎殿を庇う声も聴かれるのですが、やはり多くの者は大野様に賛同のようで」

「で、どうするんだ、甚兵衛殿」

 静かに酒を飲んでいた蘭が、視線を向けて甚兵衛を射抜く。それに何ら反応することもなく、甚兵衛は静かに酒を口にする。

「儂は、腹を斬ろう」

「介錯ぐらいは、してやれるだろうさ」

 事も無げに交わされた会話に、三人は騒然とする。

「と、棟梁、冗談はやめてくださいよ」

 こと清之助は、動揺の色が激しかった。顔を引き攣らせ、無理に笑みを作ってみせる。そんな清之助を、優し気な視線で見やると、幼子をあやすように、口を開いた。

「なあ、清之助よ。儂はもう人を二人も殺してしもうた。荒事に身を置いていたお主なら、わかるだろう。罪を犯すということは、心の臓を鷲掴みにされたように苦しいものなのだ。お主や他の弟子たちのおかげで、儂は十分穏やかに生き、癒された。そろそろ幕引きでもよかろう」

「しかし、何も今死ぬことはねぇじゃないですか!」

「清之助、聞け。此度は松佐が手をまわしてくれて、このように事は治まった。しかし、次もこうなるとは限らん。惣三郎の言によれば、大野は儂が死ぬまで刺客を送ってくるだろう。次は、更に血が流れるやもしれんのだ」

 激するでもなく、静かに諭してくる甚兵衛の言葉に、清之助は何も言えず、その場に泣き伏した。まつや惣三郎は悲痛な面持ちで聞いている。

「惣三郎、後のことは任せる。あとの二人と口裏を合わせ、儂は相討ちで討たれたと。そのようにでもすればよかろう」

 のそりと、甚兵衛が立ち上がり、無言のまま家の裏戸から外に出た。蘭がそれに続き、数瞬の沈黙。何かが肉を裂く音と、うめき声が響く。

「お見事」

 蘭の呟きに続いて、風切り音と、重い物が落ちる音が響いた。

「惣三郎、首だ。持って失せろ。あの怪我人どもも忘れるなよ」

 惣三郎は深く頭を下げた。黙したまま甚兵衛の頭を包み、よろつく二人の男を連れ、夜の闇に消えていった。


 後日、まつは宗吉を訪ねた。事の仔細を語る間、宗吉は表情一つ変えず終わりまで聞いていた。

「初めて会った時、甚兵衛は儂に頭を下げおった。どうか、自分に深くかかわらないでくれと。年月を経るうちにあの男も柔くなり、何らかの傷は癒えたものと思っていたが」

 そう語る宗吉の目にも、言いようのない陰りが宿っていた。まつとしても、今回の一件は負ったものが大きかった。自分ならば、清之助や甚兵衛のために、最良の収め方をできると信じていた。だが、真相のあまりの大きさに、結局は蘭に頼りきりになってしまった自覚がある。清之助は表向きこれまでのように振舞っているが、やはり心に負ったものは大きいのだろう。口数も減り、時折蔵長で、黙したまま酒を飲むことが多くなった。

「私は、何をしくじったのでしょう」

「何も、しくじってはおらんだろう。だがな、世の理は、良い方向には進まんことが多いのだよ」

 またも沈黙が訪れる。まつの心情など知る由もなく、初夏の夕暮れは明るい日差しで、江戸の町を照らしていた。


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