第105話 La vie en rose
■ヘリ空母駿河、格納庫
「…………あれ?」
見慣れた駿河の格納庫の中、恭司は疑問の声を発した。今この場で自分が何をしていたのか……直前の記憶がすっぽりと抜け落ちていた。
誰しも一度は経験した事はあるだろう、白昼夢を見ていたような奇妙な感覚。思考に靄がかかっているような……妙に足元が覚束ないような……そんな感覚が恭司を包み込んでいる。
「俺、何をして――――痛ッ!」
恭司が今までの事を思い出そうとした時、刺すような強烈な頭痛が彼を襲った。頭痛だけではなく、『キーン』という耳鳴りもする。すぐ耳元で鳴っているような……いや、頭の中で反響するようなその耳鳴りは、頭痛と相まって只管に不快だった。
「真道三尉、どうかしたか?」
頭を抱える恭司に、背後から声がかけられた。振り向いた彼の眼前に居た@は※……南二尉だΩ
「あ――――いえ、ちょっと頭痛と耳鳴りが…………」
南二尉の姿を見た途端、強烈な違和感が恭司の脳裏を過った。『どういう事だ?』と戸惑いながら、恭司は体調の不良を訴える。
「頭痛? コクピットの気圧調整が上手くいってないのか……それとも心因性のものか? 先日もGLFの襲撃があったばかりだからな。無事撃退してケロン防衛には成功したが、また何時襲撃があるか分からん……中村医官に診てもらって、もう休め」
「え? ケロンの……防衛?」
南二尉の言葉に、恭司は再び違和感を抱く。ハワイ沖の洋上採掘プラットフォーム――ケロンの防衛。確かに、それが任務だ。
しかし、GLFの襲撃以外に何か……『何か』が――――――。
「らしく無いな、ぼーっとして。よっぽど体調が悪いのか? 023の気圧調整は私が見ておく。早く医務室に行ってこい」
そう言って、南二尉は恭司の八式へと向かう。その背中を見送りながら、恭司は何げなく格納庫の中を見渡した。すると、奇妙な事に気付く。
――――忙しく動き回る整備班の隊員達。彼等が、まるで同じ動画をリピート再生しているように、同じ動きを繰り返しているように見えるのは気のせいだろうか?
■アメリカ合√国カリフォル&ア州、サンディHゴ海軍基地
サンディエゴ海軍基地の広大な敷地内、海に面した一画。恭司は久方ぶりの陸を歩く感触を楽しんでいた。
ケロン防衛の合間、補給のために寄港したサンディエゴ海軍基地。上陸許可が下りた恭司は基地内の公園区画を散策していた。
多くの人が余暇を楽しむ中、アコースティックギターの演奏をしている人物を見つけ、そのプロ顔負けの演奏に聴き入った。
演奏が終わると、いつの間にか集っていた人々から盛大な拍手が沸き起こる。恭司も惜しみない拍手を贈り、腕時計の時刻を確認する。
「そろそろ時間か……よし、駿河に戻るぞ――――」
そう言いながら背後を振り返り、恭司は動きを止めた。
勿論、恭司の背後には誰も居ない。
自分は一体、『誰』『だれ』『ダレ』『だ、だ誰@だダ÷れだダ□れだレれ』に話しかけようとしたのか?
「あれ……俺――――ッ!?」
疑問と同時に、再び頭痛と耳鳴りが恭司を襲った。
■ヘ∬空ぼ駿河@医M室
恭司は駿河の医務室に居た。度々訪れる場所ではあるが、何故だろうか……良く見知っている気がする。
しかし、そんなデジャヴのような感覚とは裏腹に居心地は悪い。その理由は直ぐに分かった、静か過ぎるのだ。スルガの船内であれば感じられる波の音や、僅かな揺れが全く無く、医務室内に響くのは壁掛け時計が時を刻む音と、部屋の主である中村医官がノートPCを操作する打鍵音だけだ。
「頭痛と耳鳴りね。南二尉の話だと八式の気圧調整は問題ないって言うし……心因性のモノかしらね」
中村医官はそう言うと、恭司に視線を合わせた。いつもと変わらない優しげな中村医官……だが、その表情を見た恭司の胸の中に不安が湧き上がった。
「あ、あの…………」
自分でも戸惑う感情の動きを悟られまいと、恭司は視線を彷徨わせ……ある物に目を留めた。
それは一脚の椅子。恭司と中村医官が腰を下ろしている椅子の他に、座る者の居ない椅子がポツンと、不自然に置かれていた。
「この椅子は? この後誰か来るんですか?」
恭司は思いついた疑問をそのまま言葉に乗せる。すると、中村医官が口を開いた。
「ああ、その椅子は※%〇∧Σ――――――――」
「え?」
中村医官の口は動いているのに、その言葉が聞き取れない。再度聞き返そうとした時、恭司を頭痛と耳鳴りが襲う。
そして、テレビの電源が切れる様に……唐突に恭司の意識は途切れる。
■ヘり空拇駿Д、乗組いN居Ю凶角
駿河の乗組員居住区角……恭司は私服に身を包み、私物をまとめた鞄を肩から提げている。駿河は補給と整備の為に横須賀に帰港、乗組員には下船許可が下りていた。彼は2年ぶりに里帰りするのだ。
駿河の狭い通路を歩きながら恭司は思う……海上自衛官として命がけの仕事をしてはいるものの、良き同僚、良き仲間に恵まれ、帰る家があり、待ってくれている家族もいる――――資源不況の世の中、足りない物は多いが『本当に必要なもの』は持っている。
『バラ色の人生』は言い過ぎだろうが、『上々の人生だ』と胸を張って言える。
言える……はずだ。だが、ここ最近、奇妙な不安感が恭司に付きまとっていた。何か大切な事を忘れているような、何か致命的な間違いを犯しているような……思い当たるフシの無い不安と焦燥。
普段なら笑い飛ばして忘れる所だが、この正体不明の不安は恭司の脳裏にベッタリとこびり付いて離れない。
「恭司サン!」
頭を抱えながら歩く恭司に声がかけられる。立ち止まり、首を巡らせて声の主を探すと……いつの間にか背後に宗像三尉が立っていた。
「ああ、慎太郎お前も――――ってなんだその恰好ッ!?」
『お前も下船するのか?』と聞こうとして、しかし宗像三尉の姿を見た恭司は驚きの声をあげた。背後に立っていた宗像三尉はいつもの作業着姿だったが、全身ずぶ濡れ、いたる所が擦り切れ、破れ、まるで何かに襲われたような有様だ。
そんなボロボロの宗像三尉だったが、駆け寄ろうとする恭司を右手を上げて制止させた。その仕草は、『こちらには来るな』と拒絶しているように見える。
そうして、何故か宗像三尉は申し訳なさそうに口を開く。
「俺にこんなこと言う資格は無いっスけど、こんな所で油売ってていいんですか? あの娘が呼んでますよ」
「何言ってんだ慎太郎! 『あの娘』って――――うぁッ!!?」
今までで最も激しい頭痛が恭司に襲い掛かった。堪らずに頭を抱え、うずくまる。頭がねじ切れそうになる激痛の中、彼の脳裏に少女の影がフラッシュバックする。
――――この世界にたった一人残された、褐色の肌に黒髪の……家族だと言った……家族だと誓ったその人は――――。
「し、慎太郎……お前…………これ…………」
痛みに抗い、恭司は宗像三尉を仰ぎ見る。しかし、そこに宗像三尉の姿は無く、それどころか目に入る景色の全てが崩れ始めていた。まるで不具合を起こしたゲーム画面の様に、今まで見ていた物は舞台の書割だとでも言うように、駿河の船内がボロボロと崩れ去っていく。
世界が崩れる様を見ながら、再び恭司の意識は深淵へと沈んでいく。
■????
恭司が目を覚ますと、辺りは一面の闇だった。右も左も、上も下も区別無く、無辺の闇が広がる虚無の世界。
何も無い、誰も居ない闇の中、恭司が呻きつつ体を起こすと、唐突に人の気配が現れた。地に両膝をつく恭司の眼前に現れたのは――――南二尉だった。
南二尉の姿を見上げた恭司の頬を、涙が伝い落ちた。それを見た南二尉が口を開く。
「どうした? なにか辛い事があったのか? 無理はするな、辛い事からは目を背け、逃げ出しても良いんだぞ」
――――――その言葉が、決定打になった。
「…………隊長」
涙が止まらない。これが夢だと気付いたからだ。
「隊長、どうして……」
目の前に居る南二尉も『まやかし』だ。何故なら、困難にぶち当たった時、心が折れそうな時、南二尉は『逃げてもいい』なんて言わなかった。本物の南二尉が口にするのは――――――。
「どうして『全力でやれ』って言ってくれないんですかッ! 『俺も力を貸すから』って……どうして言ってくれないんですかッ!!?」
そう、南二尉は厳しく……優しい人だった。挫けそうな時、彼は恭司達の背中を押すのだ――『共に進もう』と。
恭司は叫ぶ。その勢いに押されたのか、南二尉の姿をしたナニかは、一歩、二歩とよろめきながら後ずさる。
今や、恭司の意識はクリアーだ。頭痛も嘘のように消え去り、耳鳴りも聞こえない…………いや、今まで聞こえていたのは耳鳴りではなかった。それは彼を呼び戻そうとする声だ。今まで何度も耳にした、美しい歌声だ。
宗像三尉も言っていたではないか――『あの娘が呼んでいる』と。
「隊長、すみません……」
偽物だと分かっても、南二尉を罵倒する気にはなれない。恭司は地についた両膝に拳を乗せて、辞儀をする様にして視線を下げた。
「アイツが歌ってるんです。アイツはまだ戦ってるんです。だから俺は――――」
まやかしの南二尉が声無き叫び声をあげる。苦しそうに自分の喉を掻きむしりはじめた。
「――――俺は……『そっち』には行けません」
明確な拒絶の言葉。それを聞いた南二尉の輪郭が歪み、『ドロリ』と飴が溶ける様に崩れ、消え去った。
「――――……ぅぅッ、ぅッ」
恭司は強く右手を握りしめる。
「うああああああぁぁぁぁぁ――――――ッ!!」
やり場のない思いをその拳に込めて、力の限り地に叩きつける。すると、殴りつけた闇に亀裂が入り、その亀裂から膨大な光が溢れ出す。
――――――恭司の視界は、真っ白な光で染め上げられた。