第103話 蜘蛛の糸を手繰るように
「私は、スーダン西部の小さな村で生まれた。取り立てて産業も無ければ特産品も無く、瘦せた土地を耕し、わずかな収穫で口に糊をする、そんな貧しい村だった。だからだろう……国は内戦で荒れていたが、私の故郷は外界から隔絶された様に平穏ではあった」
ウォッチャーが己の半生を語り始める。無辺の闇の中、宙に磔にされた男が過去を振り返る様子は、どこか犯しがたい雰囲気が漂う。南二尉もイヴも、静かに耳を傾ける。
「そんな村だ、満足に学校に通った者など居なかった。私の両親と兄妹もそうだ……しかし、父は『学』は無かったが愚昧ではなかった。自身が教育を受けられなかったからこそ、教育の大切さをよく知っていた。私が10歳になった頃、何処で聞きつけたのかは知らないが、『近くの街で勉強を教えてもらえるから行って来い』と言われた」
「スーダンは長年の内戦で疲弊しきっていたはずだが……無事な学校があったのか?」
南二尉は疑問を口にする。ウォッチャーはその横槍にも気を悪くした様子はなく、淡々と答えた。
「学校なんて大層なものじゃない。国外の慈善団体が医療支援の側らに開いていた私塾のような物だ。校舎も無く、筆記用具もノートも無く、生徒達は着の身着のまま、地べたに座って教師の授業を聞いた。適当な木の枝を拾って来て地面に字を書き、計算した」
『青空教室』というモノだろう。日本でも第二次世界大戦後の復興期によく見られた光景だ。『その気になれば、教育は何時でも何処でも行うことが出来る』という一つの事例ではあるが、風雨を凌ぐ校舎や様々な道具が無ければどうしても教育の質は落ちる。
十全な環境の元で施される教育と、何もかもが足りない環境の中で行われた教育との間には、大きな隔たりが出来るものだ。それは、当時のウォッチャー自身も、彼の教師も認識していたようだ。吊られた男の語りは続く。
「そんな生活がしばらく続いた後、ある日私は教師から『国外のちゃんとした学校に進学しないか?』と話を持ち掛けられた。自分でこんな事を言うのも何だが、私は生徒たちの中で一番飲み込みが早く、成績も良かった。……教師はそんな私の才能を埋もれされるのは惜しいと思ったようだった」
「国外の学校と言っても、そう簡単に国から出られたのか?」
南二尉が再び疑問を口にする。スーダンは泥沼の内戦中だった、政府・行政は満足に機能していなかっただろう。正規の手段での海外渡航など望むべくもない。更に、難民として国外に脱出しようにも、周辺国も無制限に難民を受け入れる事は不可能であったはずだ。
「通常であれば、国を出るなど不可能な情勢だった。周辺国も難民に手を焼いて国境を封鎖していたからな。意を決して越境しても、国境警備に見つかれば撃ち殺されかねなかったし、運よく国境を越えても、その後に助かる保証なんてどこにも無かった。必要な食糧や医療支援を受けられず、異邦の地で野垂れ死ぬのが関の山だっただろうな。だが、件の慈善団体の伝手で『緊急性の高い、少数であれば』国外脱出させることが可能だ、という話でね…………」
それはまさに『地獄に仏』の話であったろう。明日をも知れない暮らしを続けるより、異国の地であっても望みのある生活を送れるならば……しかし、ウォッチャーの表情は浮かないものだった。
「正直に言って迷ったよ。生まれ故郷を後にすることは言うに及ばずだが、慈善団体も1から10まで面倒を見てくれるわけじゃない……家族全員で国外を目指すのは不可能だった。家族を残して私1人が国を出る事に後ろめたさがあったし、国外での生活費用や学費は自分で用意する必要があった……。だが、父はこの話を聞いて喜んでくれてね。母も、兄妹たちも家族そろって私を送り出してくれたよ。家にあった少ない家財を売り払って、借金までして海外生活の当面の費用を持たせてくれた」
ウォッチャーは当時を思い出したのか、どこか遠くを見る様に顔を上げる。しかし、ここに広がるのは闇ばかりだ。
――――いや、だからこそ。彼には『何か』が見えているのかもしれない。
「エジプトに渡った私は、働きながら勉学に励んだ。家族の期待に応える為、学べるものは何でも貪欲に吸収したよ。祖国の窮状を世界に訴える為、特に語学には時間を割いた。空いた時間でスーダンの内戦を止めさせるよう、ネットに動画を上げたりもした…………まあ、それは誰に顧みられることも無く、有象無象のデータの底に埋もれてしまったが……」
ウォッチャーの話を聞きながら、南二尉は世に語られる多くの偉人伝を思い浮かべていた。洋の東西を問わず、生まれた環境や身体的なハンディキャップをものともせずに偉業を成し、歴史に名を残した人物は多く居る。
逆境をはねのけるバイタリティが人を傑物たらしめる条件であるとするならば、ウォッチャーも『そう』成れる可能性はあったはずだ。しかし、この男は人の道を外れ、冷酷なテロリストに成り果てた。
彼の身の上に、一体何があったのだろうか?
その疑問の答えは、ウォッチャー自身の口から語られる。
「そんな活動が実を結ばずとも、希望を持ち続けることは出来た。新たな学びを得る度に、新たな気づきを得る度に、自分の観測する『世界』が広がってゆく感覚――――こうしてチカラをつけていけば、いずれは世の中を変えられると信じる事が出来た。……まあ、そんな青臭い考えも、故郷の村が滅ぼされて吹き飛んだがな」
ウォッチャーは一度言葉を切り、南二尉に視線を向けた。まるで、眼前の自衛官が何を言うかを見透かしているようだ。そんな吊られた男の視線に、まるで誘導尋問を受けているような気がした南二尉は少しばかり眉を顰めつつ、口を開いた。
「スーダン西部と言っていたな……ダルフールか?」
ウォッチャーは口の端を歪め、笑う。その笑みは自嘲のように見える。
「正解だ。大学を卒業したあの日、私の元に届いたのは家族の祝いの言葉ではなく、故郷が焼き払われたという一報だった。戦略的価値が無く、政府派、反政府派の内戦からほぼ無縁でいられた私の故郷も、蒙昧な連中の狂信的な愚行……民族浄化の波に飲み込まれ、滅ぼされた。そこからしばらくの間は記憶が断片的でね、どうやって国境を越えたのかよく覚えていない……だが、どうにかして祖国に戻った私が見たのは、徹底的に破壊され、焼き尽くされた生まれ故郷だった」
ダルフール紛争……民族浄化が繰り返され、アフリカの熱砂を血の紅で染め上げた、人類史に残る悲劇である。
「焼け落ちた我が家の瓦礫の中に、生きたまま焼かれたのだろう……折り重なった父と母と兄妹たちの亡骸を見つけた時、目の前が真っ白になった。半分は真っ黒に炭化し、もう半分は腐り落ちて蛆が湧く家族の骸をこの腕に抱いて、私は哭いた。その時に悟ったよ……『問えば答えが返ると思うのは傲慢だ』とね。私は『何故争うのか?』と世に問うた。しかし答えは返らず、私は全てを奪われたのだからな」
そこで、ウォッチャーは大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
「声も涙も枯れ果て、夢も希望も、何もかもを失った私に残されたのは……怒りと憎しみだ。空っぽになった私という『器』を、絶望が満たした。それから私は、武装している連中を誰彼構わず襲った。政府軍も反政府軍も関係なかった、私の故郷を襲った者も、救わなかった者も、諸共に鏖殺してやった。そのうちに1人、また1人と私の行動に賛同する者が現れてね、気付けば結構な人数になっていたよ……皆それぞれに何かを失い、絶望している連中だった。私は集った彼等をまとめ上げ、世の中に復讐する組織を立ち上げた。後は……まあ、君も大体知っているだろう」
ウォッチャーが自身の半生を語り終える。南二尉は『ふぅ』と一つ息を吐き出すと、ウォッチャーを見据えながら口を開いた。
「それで『八つ当たり』……か?」
「そうだ。問いの答えは返らず、私が奪われたモノはもう二度と戻らない……ならば、もはや言葉ではなくチカラに訴えるしかないだろう? その点、この化け物のチカラは魅力的だ。私はコイツの一部となり、この世界に怒りと、憎しみと、絶望をぶちまける。そこに何の躊躇いがあろうか!」
徐々に語気を強め、最後には叫ぶように言葉を吐き捨てるウォッチャー。南二尉はその勢いに気圧される。しかし、今まで静かに話を聞いていたイヴが、闇に吊られた男の言葉を否定した。
「そんなのダメだよ! 『絶望』に飲まれちゃダメッ! そうなったら、アナタはずっとずっと苦しむことになるんだよ!?」
その細い身体から出ているとは思えないほどに、強くしっかりとした言葉を発するネーレイスの少女。対するウォッチャーは『意外だ』と言うように首を傾げた。
「私が見た資料が正しければ、君は私と同じはずだ。ネーレイス……遥か古代、都市国家間の戦争によって滅びた種族……。家族も故郷も失い、時を越えて1人目覚めた『異人類』が何故、この世界を憂う? 何故『絶望』を忌避するのだ?」
ウォッチャーの問いかけに、イヴは即答する。
「私にはみんなが居るから! キョージが家族になってくれたからッ! だから私は『絶望』を倒さなきゃいけないのッ!!」
イヴがその身に帯びた『絶望』を祓う使命……それは、ネーレイスの賢者である『おとーさん』の言いつけによるものだった。父と姉妹達から受け継いだモノに過ぎなかった。
しかし、この時代に目覚め、良き人達と巡り合い、新たな家族を得た事で、その『使命』はイヴ自身の『願い』になった。
――――故に『絶望』は、必ず滅さなければならない。しかし、そんなイヴの決意を、絶望に呑まれた男は嘲笑った。
「家族だと? 血の繋がりの無い他人が、どうして家族たり得る? 言葉だけなら何とでも言える。そんな上辺だけの繋がりなど――――――」
「それは……どうだろうな?」
「――――なに?」
ウォッチャーの言葉を遮り、南二尉が言葉を発した。その顔には、確信めいた余裕の笑みが浮かんでいる。
「血の繋がりが無ければ家族ではない……それは確かにそうだろう。だがな、言葉による結びつきが血の繋がりに勝る事だってある――――証明して見せよう。イヴちゃん、救難ビーコンを……その側面のスイッチを押すんだ」
南二尉に言われるまま、イヴは救難ビーコンのスイッチを押し込む。すると、ビーコンは赤いLEDをゆっくりと点滅し始めた。人の耳には聞こえないが、救難信号も発信し始めているはずだ。
「ハッ! A・Wの腹の中で、そんなものが役に立つか」
ウォッチャーは吐き捨てた。しかし、南二尉の確信は微塵も揺らぐことは無い。
「――――いいや、この信号は必ず届く。皆は……真道三尉は必ず来る!」
南二尉はそう言いながら、イヴが手にする救難ビーコンに視線を向けた。
確かに、その信号は縋るには頼りない、蜘蛛の糸のようなモノだ。だが、神仏が哀れな男を救うため……或いは試す為に、地獄の底に垂らした蜘蛛の糸は、どれ程の亡者が群がっても決して切れることは無かったのだ。
――――――そう、信じる心が失われない限り。