第五話 泥棒のおじさん
意識が戻った時、ダリャトーリュンは薄暗い通りに倒れていた。瞬時に状況が飲み込めずにいると、目の前には見知らぬ子供が……いや、知っている?
「ってえ」
いつの間にやらダリャトーリュンの体の右側は固いものに強く打ち付けたように痛んでいる。自分の身に一体全体何が起きたのか、混乱する頭では考えることもままならない。
とにかく情報を集めようと目玉をぐるぐるさせていると、鈴の音のように澄んだ声が聞こえてきた。
「痛かった? おじさん大丈夫?」
先程から目に入っていた子供だ。子供、そうだ。リュックサックを背負って一人で大通りを歩いていた少年だ。
警戒されないようにしていたのは少年の方だったのだ。あどけない姿と仕草をしているが、目だけは油断なく此方を観察している。
周りに他に人はいない。というか、自分がいたのはもっと明るく人通りのある大通りだったハズだ……。
これはまずい。ああ、ヤバい魔族の子供か。自分が盗もうとしたのは。やってしまった。
横たわるダリャトーリュンを見据える目線は限りなく冷たい。寒空の下に放り出された時のように全身を鳥肌が走った。ひしひしと少年の情けのなさを感じとって、敵となった魔族への恐怖でダリャトーリュンは口を利けなくなった。
多人族であるダリャトーリュンは知っていた。魔族には決して、魔法を行使する口実を与えてはいけない。与えたら最後、万にひとつも此方に勝機はないのだ。
「でもごめんね。悪いやつはやっつけなくちゃダメなんだよ?」
リュックをなにやら探り始めたと思ったら、少年が取り出したのは見たこともない緑色の短刀だった。
限りなく鋭利に見える刃に喉が鳴る。刀? 冗談じゃない、嘘だと言ってくれ。ただでさえ魔族を相手にしているのに、自分は丸腰なんだ。こんな子供に対抗するすべもない。芯から心も体も冷えて動けず逃げられない。
ダリャトーリュンは少年の凛とした瞳から目が逸らせなくなる。
疾く動いたのだろうか。少年は相手の反応を待つこともなく男の顔面を蹴り飛ばした。容赦の欠片もない。男は壁に背を向けていたため、後頭部を盛大に打ち付けることになった。
これは――痛いなんてもんじゃない。顔が割れた、頭が割れたと思った。
一方、ダリャトーリュンの首筋に刃を突きつけるモモは、自らに向けられた悪意の正体を見極めようとしていた。
ここでモモの動きが止まったのは、相手からの反撃がなさ過ぎて疑問を抱いたからだった。この男は体術も使わず武器すらないらしい。
「なんだ、自分のことも守れないの? 赤ちゃんみたいだね」
モモは、相手――つまりはダリャトーリュンが相応の反撃をしてくると思っていたようで、本当に不思議そうな顔をした。
「ぼくはモモ、おじさんは?」
モモが刀をしまったのを見て、震える身体をそっと持ち上げたダリャトーリュンはとりあえず地面に座り込むことにする。しばらく身体は痛みそうだったが、一応顔や頭に手をやると少し血が付いているぐらいで割れてはいなかった。良かった。
「俺は中洋地方のダーカサーゼから来た、ダリャトーリュンだ。悪いやつじゃない……貧乏人がならず者ってなら話は別だが」
「ぼくの荷物取ろうとしたでしょ」
「取れてないんだから、悪いやつじゃないだろ? やっつけないでくれよ」
「なんで? 悪い人は殺さなきゃダメだって、兄さま言ってたよ。兄さまのお仕事だもん」
殺すって、マジかよ……魔族って家でそんな教育してんの?
友人にも家族にも親しい魔族のいなかったダリャトーリュンには知る由もないことだが、まあ勿論そんな教育は一般的ではない。
相手への観察を止めないモモと未だ震えているダリャトーリュン。
しばしの沈黙の後、二人の間に通りのどこかから飯の匂いが漂ってきた。そういえば、自分は飯を食うためにこの少年、モモに声を掛けたのだと思い出すダリャトーリュンである。
先に切り出したのはモモの方であった。
「おじさん、ぼくお腹すいた」
「なんだおチビ、金がないのか」
「あるよ、兄さまがくれた」
「金があるならそこら辺の店で買えよ」
「みせ? お店ならご本で読んだよ、ご飯も売ってるの? どこにある?」
詰め寄って質問をぶつけてくるモモにダリャトーリュンは本気で引いた。できるなら余り近づいてほしくなかったが、それを口にする事も出来なかった。
「どこって、たくさんあるだろ。町中に……」
「しらない。ねえ、おじさんお店教えて。そしたら、悪いことしたの兄さまにナイショにしてあげる」
爛漫とにっこり笑うモモにダリャトーリュンはうすら寒さを覚えた。そして、なにか得体の知れぬ厄介な気配も。
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モモが乗っていた列車は無事予定時刻に目的地へと到着した。しつこく心配するおばあさんにお別れをして、地図に従って大通りを進んでいたら泥棒のおじさんに絡まれたのである。
とんだ災難と思ったモモだったが、おじさんはおいしいパンのお店に連れてきてくれたので今は万々歳だった。小麦の香るパンはふわふわでとてもおいしい。
満足げなモモとは対照的に、向かいに座るダリャトーリュンは仏頂面である。震えは止まったものの、この少年から目を付けられることなく今すぐ立ち去りたいと願っているのだ。
もぐもぐと、うまそうに焼きたてのパンをほおばる少年は、見るところふつうの子供だ。しかし、魔族の力は体の大きさには寄らない、ただ血の濃さに依存する。
トキタスアに現在する二つの魔族と多人族の種族格差。その垣根は形あれども触れられはしない禁じられた神域のようなもので、魔法が使える者と使えない者、両者のバランスはその神域によって保たれていた。
少年の受け答えから、まあ良い教育を受けているのは間違いない。先程から話に出てくる"にいさま"とやらが教えているのだろうか。軍人か、警備隊か。どちらにせよ役人の身内だと当たりを付ける。薄い茶色の髪色からして淡色魔族の一族だろう。
未だにじくじく痛む体のことを思うと、魔族との違いを改めて痛感させられる。人を違う通りに移動させるだなんて、どんな魔法を使ったのかも分からない。もう勘弁してほしかった。
そんなダリャトーリュンを引き止め食事の話し相手にしたモモは、勿論飯など奢らない。兄からもらった大切なお金を盗人などのために使うはずが無かった。
「おじさんは弱いのにどうやって生きてるの?」
「モモが強いだけだろ……特別なやつと比べられてもな、困る。それにな、生きてたって金がなきゃいみねーんだよ。金のあるおチビには分からないだろうが」
「自分を守れないのにどうして家から出たの? 危ないでしょう?」
「はあ? そりゃ女子供なら、危ないトコもあるだろうがな。俺はおっさんだから誰もあいてにすらしりゃしない」
随分世間知らずな子供だとダリャトーリュンは思った。もしかすると街に来るのも初めてなお子様なのかもしれない。
「だからおじさんより弱い人から泥棒してるんだ」
「金がないんだよ、とにかく金がないんだ。最初は罪悪感で胸も痛んだが、夜の寒さや空腹を思えばなんてことなくなっちまった」
自嘲するダリャトーリュンはここ最近人とまともに話していなかったからか、気づけば身の上話などが口の端に上った。
「仕事を首にさえなんなきゃな。泥棒になることも、おチビに蹴り飛ばされることもなかったよ」
「どんなお仕事だったの?」
「つまらない仕事さ、地底探査機の設計。ずっとやってた……仕事に人生を捧げてもいいと、思っていた時もあったなあ。今思うと楽しかったんだよな……もっとしがみつけば良かったのかな。どう思う?」
「たいへんだね」
モモは心からダリャトーリュンがかわいそうだと思った。モモの兄は忙しいが、仕事がなくなるなんてそれこそトキタスアがなくならないと在り得ない。
でもきっとこんなに弱い人なら兄の仕事を代わりに行うこともできないだろう。世知辛いとはこういうことかと憐れみの目線をダリャトーリュンへ送った。
「おチビよ、同情するなら金をくれ。……ってこれ、言っても虚しい言葉だな。馬鹿高い腕時計に金出してた昔の自分に文句言えたらいいんだが、すまん、愚痴になっちまう」
「愚痴はじいので慣れてるから大丈夫だよ。今は仕事がないの?」
「きっとあるとも、やりたくない仕事はな。仕事もないし、金も家もなんもないよ。税金払えとか言われても、金があるなら払ってるっての……ああ、これおチビの”にいさま”には言わないでくれな。役人なんだろ?」
ちょうどパンを食べ終わったモモはお行儀よく紙ナプキンで手を拭きながら答える。
「役人? 兄さまはみんなのために働いてるんだって。だから兄さまなら、おじさんにもきっと優しいよ。何をしても兄さまは褒めてくれるんだ。じいは怒るだけだから、ダメだけど。たぶん、だから忙しいんだ……だからぼくと一緒に居られないんだ」
ぼくの大好きな兄さま。はやく会いたいな。
兄のことを考えたら寂しさが胸の底から湧き上がってきて、モモの表情は暗くなってしまう。
「ねえ、これからはいい子にしててね、頑張ってちゃんと働いて。兄さまのお仕事を増やさないでね」
分かっているけどこんな俺には働く場所が無いんだって、なんて、そう言うのは情けなくてダリャトーリュンは堪えた。先程まで溌剌としていた少年の表情が陰ったのも言い淀んだ理由だったかもしれない。
「お、おチビこそ。こんなトコで俺なんかと飯食って”にいさま”に心配かけてるんじゃないのか。もしかして迷子じゃないよな?」
「迷子じゃないよ。兄さまに会いに行くの。地図もあるよ」
怪しげな古地図を取り出したモモに何を思ったか、ダリャトーリュンは要らぬお節介を焼いてしまった。
「俺が言うのもなんだが一人で大丈夫なのか」
「じゃあ一緒に来てよ! 領事館に行くんだ」
刹那の間に嬉しそうに綻んだモモの顔を見て、身から出た錆のダリャトーリュンは断ることが出来なかった。