第三話 優しいおばあさん
「フォルセティスへ兄さまに会いに行くんだ!」
眼下に街が過ぎ行くのを横目に、小さな男の子、モモは喜色満面として沸き上がる高揚を抑えることもせず言の葉に乗せた。
列車の車窓から見える世界は端から端まできらきらとしている。モモの小さな瞳にはその景色がいっぱいに映っていた。
目に映るすべてのものが美しい。
目に映るすべてのものが新しかった。
見たことのない素晴らしい世界はモモを魅了し、心の内にあった外界への不安さえ吹き飛ばしてしまった。
「あら、一人で空の旅だなんて、とてもすてきなことね。でも大丈夫かしら、さっきだって……」
モモの隣に座るのは品のあるおばあさんである。
傍から見ると祖母と孫の様にも見える二人であるが、実は先程出会ったばかりであった。乗車切符を買うときに困っていたモモをおばあさんが助けてくれたのだ。
「降りる駅ではちゃんとお兄さんとお約束しているのよね?」
「ううん、ないしょで来たんだ」
「あらま!」
「お仕事の場所はしってるよ。ちゃんと地図も持ってる」
モモは抱えていた皮のリュックから色褪せた紙地図を取り出して見せた。それを見ておばあさんはまたもや不安を覚える。それはどう見てもまともな地図ではなかったからだ。
古ぼけた地図には確かにこの国の主要都市が描かれているが、おばあさんの記憶にある道とは大きく異なっていた。
「気分を悪くしたらごめんなさいね? モモくん、本当に大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。兄さまはぼくに怒らないから」
「えーっと、そう、なの?」
自信満々のモモに対して、おばあさんは強く言葉を発することが出来ないらしい。モモのわくわくとした表情はとてもかわいらしいものであり、曇らせることが咎められたのかもしれない。
そんな二人が乗っているのは空飛ぶ魔法の列車。
そこは空の上だった。
特殊な訓練を受けた資格持ちの魔族のみが操縦できるその列車は、定められた航路を悠々と進んでいく。細長の車体を遮るものはなにもない。流るる雲も厚い風すら追い越して、列車は行くよ定時の通り。
トキタスア機構国有数の大都市フォルセティスには、各地方都市から毎日列車が運行している。魔法国家トキタスアが誇る大きな空飛ぶ運び屋だ。
国章を模した塗装に、一部には子供の好きな物語の登場人物も描かれているものもある。十数年前、世界一の大商家ラグドールとトキタスアが共同開発した空飛ぶ魔法機関車は本日も平常運転を行っていた。
数ある航路の一つ――モモとおばあさんの乗っている――南洋地方ベールズ地区からの直行便は、休日としては珍しく人が少ないようだ。車内は窓からの明かりに照らされ、穏やかな雰囲気に満ちていた。
その中には勿論、明るいお茶色の髪を持つモモが隣に座るおばあさんと和やかに話をする姿がある。
「それにしても、モモくんはしっかり者でえらいねぇ。孫たちにもみならわせてやりたいよ。あの子らったら一人でお遣いにも行けないんだから」
「ぼくは兄さまの弟だもん。できて当たり前なんだよ」
「あら。モモくんのお兄ちゃんは凄いひとなのかしら」
おばあさんは軽い気持ちで相槌を打ったものだが、モモは大好きな兄さまの話ができると思い、殊更笑みを濃くして言った。
「そうだよ! 兄さまは誰よりも強くて、かっこよくて、頭も良くてとっても優しいんだ」
「あれまあ! そんなお兄ちゃんがいるなんて、モモくんはしあわせものねえ」
そうでしょう、とモモは嬉しそうにはにかむ。
この一見人畜無害な少年が、実は姿も名前も偽っているのだと知ったらおばあさんはきっと飛び上がって驚くに違いない。……しかしまあ、そんな事態にはきっと陥らないだろう。
●◒○・∫・∫・∫・∫・∫・∫・∫・∫・∫・∫・∫・∫・○◓●
その時からちょうど二時間前。ウィリディスはグリーンベール家の自室にて宝物箱をあさっていた。
ウィリディスの体の大きさ程もあるその宝箱は、今は亡き母親が使っていたものだったらしい。ウィリディスは主に兄からもらったものをしまっておくのに使っていた。
中から取り出したのは、お金の入った巾着袋と地図、お菓子の缶、短刀、そしてリュックである。
「危ないところに行くんだから、たくさん準備しなくちゃ」
リュックの肩ひもを調節しながら、ウィリディスは先程庭で思いついた計画を形にしていく。
待っていても兄さまに会えないなら、家を出て会いに行けばいいのだ。こんなに素晴らしいアイディアを思いついたなんて、ウィリディスは自分がたいへん誇らしかった。
「いいこにまってろって、じいはうるさいんだよ。ぼくは兄さまに会いたいんだ」
じいとは、グリーンベールの家人の中で古株の翁であり、ウィリディスの家庭教師を務めている――ウィリディスにとっては小うるさい――人物である。テオエラと名乗っているその人は、公私ともにウィリディスの兄から信頼を置かれている重鎮で、医術と剣術に秀でた知識と技能を持っている。
なお、近年はいたずら者のウィリディスと叱りもしないその兄に神経をすり減らされており、周囲からよく「ご病気ですか」と心配されるほどに痩せてしまっている。
そのじいからウィリディスが仕入れた情報によると、兄アレヴターウェンはフォルセティスという場所にいるらしい。
フォルセティスと言えば、屋敷によく来るルヒネイアという南洋役人の働いている場所があるとウィリディスは覚えていた。なので、そこに行けばきっと兄にも会えるという万全な計画だ。
家人たちは昼寝の時間はゼッタイ部屋に入らないようにとアレヴターウェンに言いつけられているため、行くなら今行くのがよいのだった。
弟の昼寝の邪魔をしないようにと配慮した故のまさかの失策である。
出発の前に、ウィリディスはリュックの中身を確認することにした。
そのリュックは見た目はただの皮鞄だが何百年物の軽銀革物である。
目立つ巾着袋には貨幣がなみなみと入っており、地図は現在の世界を自由に俯瞰して見ることのできる最高級魔法具。
片手サイズのお菓子の缶には、縮小魔法によって小さくなっている寝具、簡易食料、テントがしっかり入っている。ウィリディスが魔法をあまり使わなくても済むよう、合い言葉によって管理できるように兄が計らってくれたものだ。緊急時の避難用だとウィリディスは聞いていたが、ちょうどいいから持っていくことにしたのだった。
いくら領主の弟とはいえ、この年の子に持つべき物々ではないのだが。そんなことを世情を知らないウィリディスが知るはずもない。
最後に、護身用の武器である短刀。これは先祖伝来の品であるが、これもまたウィリディスは聞かされていない。
兄が持っているのを羨ましそうに見ていたらくれたのである。「ウィリが持っていた方が剣も幸せだよ」と。
短刀の持つ深緑――兄の色の刀身は、持っていると兄に守られているかのように安心させてくれる。
その刀剣は、実用性のない半月刀を打ち直したものだと云われがある、その名も”月影”。反りのない片刃の短刀で、災いや悪しきものを祓う破邪の力を持つ唯一無二の名刀であった。
ウィリディスはリュックの中にそれらをしっかりとしまって、紐を背中と肩にひっかける。
瞬間、もしも外へ行くことがあったらグリーンベールの名は言わないようにと、外では姿は変えなくてはならないという兄の声を思い出し、慌ててウィリディスは容姿魔法を使って姿を変えた。髪の毛は短く、薄いお茶の色、顔の配置は適当に。
「モモ、ぼくはモモ。よし」
この間兄に読んでもらった物語の主人公の名前を貸してもらって完璧だ。
揚々とした気分で部屋の扉を開ける。
こうして、ウィリディスの冒険は始まった。初めての外。屋敷の窓から見た景色。本の中の広い世界。恵まれた不自由のない温かなゆりかごからウィリディスは自分の足で出ていく。
この時ウィリディスの頭の中には、大好きな兄に会い、力強く抱きしめてもらう事しかなかった。箱入りの少年がとるはずもなかった行動に周囲がどのような反応をするかなど考えもしなかったのである。
モモは冒険物語の主人公になったような、ドキドキする心に身をゆだねた。