第十三話 ダウルム王家 前編
翌朝、モモはアドリアおばあさんと共にヴィナットレー家を後にした。
二人が向かうのは、政治都市フォルセティスの郊外にどかんと佇む国統会議場だ。
国統会議場はその名から分かる通り、トキタスアで三ヶ月に一度催される国家統一会議の会場として利用されている国の要所である。
石造りの会議場は一見遺跡のようであるが、その実も遺跡である。
大昔の魔法がかけられていると云われるその建物は、詳細が遺されていないためそのまま使われている、誰にもよく分かっていない建築物だ。
中は地上より地下の空間の方が遥かに広く。ないはずの部屋が現れたとか、いつの間にか部屋が入れ替わっていたとかは日常茶飯事だったりする。開けかたの忘れられた扉もあれば、閉じかたを忘れられた扉もあった。
会議中には王族を始めとする国の要人が集まるこの場所は、特別な人間でなくては入れないということはない。
基本的には一般に開かれていて、観光客も多く、この中で働く役人と合わさって賑やかな場所となっている。
しかし、その建物の大きな正面広場には今、どデカい看板が立て掛けられていて、そこにはこう書かれていた――清掃中、と。
看板の目の前で立ち尽くすしかないモモとアドリアは、あたりに吹く涼やかな風と対極の心境だった。
周りを見回しても、目に入るのは微動だにしない警備員ばかりで、役人の姿は見当たらない。
兄と会うための手掛かりは得られそうもない――期待を裏切られて、モモは強く唇を噛んだ。
アドリアもそんな様子のモモに声をかけることができず、しばらくの間そのままでいると、警備員や通行人の目が二人に集まってきた。
そしてついには、優しそうなお姉さんが心配してか、そろそろと近寄ってきた。
「ここ数日は大掃除で空いていないんです。数年ぶりに水を流して丸洗いするんですって」
そのお姉さんは薄い灰色の目と長い髪が綺麗な人だった。
兄と同じぐらい髪が長い人を初めて見たモモは、結わえられ風にそよぐ髪の毛に目を引き付けられる。
モモは兄の長い髪が好きだった。指の間を通して流すのも好きだったし、その間、兄が気持ちよさそうに寛ぐのを見るのも大好きだった。
「あら、かわいい。お孫さんですか?」
「いいえ、実は昨日会ったばかりなの。この子は役人のお兄さんを探しているんだけど……」
アドリアから軽く事情を聞いたお姉さんーーレジーナは、モモと目線を合わせて問いかけた。
「私はレジーナ。お兄さんはここにいるって言っていたの?」
「言ってない。わかんない」
首を横に振るモモに、レジーナは再度やさしく尋ねた。
「会うって約束はしているんでしょう?」
モモは再び首を横に振った。
「兄さまに会いたいのに、どこにいるかわかんない」
「うーん、私に会議場の知り合いでもいれば良かったのでしょうけど。困ったわ」
「他に心当たりもないみたいでね……」
レジーナとアドリアは悲しそうなモモを前に、頬に手を当て考え込むしかない。
「レジィ!」
呼び声と共に、誰かがこちらに走ってくる。気が付いたレジーナは手を振り返したが、若者を見て明らかにレジーナの顔が陰ったのをモモは見た。
レジィ、とは彼だけが呼ぶレジーナの愛称だった。
「レジィ、何かあったのか?」
彼女に声をかけた彼は、人のよさそうな亜麻色の髪の若者だった。
ふわりとした柔らかそうな髪が首筋で丁寧に整えられてとても品が良い。加えて清涼感というのだろうか、そういう雰囲気も彼は持ち合わせていた。
爽やかな風貌の青年シレウスは、レジーナの恋人だった。
「レジィ、置いていかれたかと思った。約束忘れちゃったの? 僕はいつでもレジィのことを考えているのに」
「シレウス! ごめんなさい! 時計を見ていなくて……もう待ち合わせの時間過ぎちゃった? また迷惑かけちゃったよね」
「迷惑とは思わないよ。日に日にレジィを好きになってしまって、それはちょっと困ってるけど」
デレデレと話しかけるシレウスにレジーナは完全に引き気味だ。
二人は、彼の方が熱烈にアタックして最近ようやく仲の良い友人から恋人になったところだった。
今日はミュージカルを見に行く約束をしていて、この近くで待ち合わせをしていたのだ。
シレウスは幼馴染のレジーナに幼い頃から一途だった。今も昔も世界一かわいい――と彼の信じる――レジーナに夢中で、全身全霊、全力の恋をしていた。
「お兄さんに会いに来たんですって。でもどこにいるのか分からなくって……」
見ず知らずの少年に心を掛けるレジーナへ、シレウスはにっこりと微笑む。
「レジィはほんとうに小さい子が好きだなあ。妬けてしまうよ」
「や、やだあ……シレウスったら。困ってる人がいたら、声掛けるのは普通のことでしょ?」
「ふふ、そうだね。普通のことだね」
シレウスはレジーナの手を取ると、手から手へと想いが伝わるとでも思っているかのように包み込む。ーー彼女の表情が引きつっているのは見て見ぬふりだ。だってかわいいから。
彼女にしか意識がいっていないシレウスは、モモやアドリアのことなど眼中にはなかった。カッコつけだと言う者もいるかもしれないが、ただ彼は、愛しい恋人の力になりたかったのだ。
「僕が送り届けるよ」
「でも……」
「お願いレジィ、僕に任せて。アセアはレジィが見に来ないと拗ねてしまうかも知れないからね」
今日これから見に行くはずだったミュージカル。その主演のアセア・プラータはシレウスの親戚であり二人共通の友人だった。
「なにも心配いらないよ、僕はレジィに振られない限りいい子にしてるから」
「……もう、冗談言わないでって。分かった、そんなに言うなら」
レジーナは再びモモと向かい合い、安心させるように微笑んだ。
「この人はシレウス。とっても優しい人だから大丈夫よ。きっと、すぐお兄さんに会えるからね」
「……じゃあ、よろしくね」
シレウスへそう言い残して去っていくレジーナは、何度も振り返ってモモを心配しているようだった。
彼女の背中が遠く指先ほどの大きさになった頃、やっと手を振るのを辞めたシレウスはモモに向き合い、しゃがみこんだ。
「さて。ではせっかくのデートを潰してくれた少年の名を教えてくれ」
シレウスは彼女からの頼まれごとを無事に果たそうと、まずは目を合わせようとしたが、モモの目に映るのは細い一本の剣だった。
シレウスが腰に佩いている剣である。
きらきらとした眼差しから察するに、その剣はひどく少年の興味を引いたらしい。
「ぼくはモモだよ。ねえシレウス、その剣は本物?」
「本物? それは見れば分かるだろ。本物の剣だよ」
「違うよ、王さまの剣なの?」
モモは遠慮の欠片もなくシレウスへ詰め寄り問いかける。
「おいおい、細いからといって、全部が王の剣だと思うのか」
「ぼく知ってるよ。兄さまがご本を読んでくれたの。それ、王さまの剣でしょ?」
国章に表されている王の剣は確かに細く、この腰に佩いたものと形が似ている。
小さな子供の好奇心と思い苦笑するシレウスだったが、続く少年の言葉に凍りついた。
「だってそれ、とっても強い魔法がかかってるよ。兄さまが言ってた、王さまと王さまの子供にしか触れない魔法だって」
魔法がかかっているかどうか、それは魔族であれば感覚で分かるものだと聞く。しかしどうだ、この剣の魔法については特別だ。この剣にかけられた不可触の契約魔法は、国のお役目に就く濃色魔族しか知らないはずの機密事項である。
そう、確かにシレウスは現王の子であり、この剣はとある事情で借り受けている王の剣であった。
余談だが、シレウスは温和で可もなく不可もなくと評される王族である。彼女と離れたくないから軍にも入らない王子様とも有名で、王族に向いていないとよく言われているが、現王夫妻は不仲で知られているために好意的な意見も多い。
現王はかつて熱烈にプロポーズをしたのだ――受けてくれなければ、世継ぎを作らないと脅して。
何かを言おうとしたアドリアをシレウスは手で制した。
彼は己が立場からして、冷静に情報を収集し、最悪の状況を想定して行動をとる必要があった。シレウスには、今は過ぎるほどの警戒感を持って然るべき事態であるとの直感があったのだ。
この少年の探しているという兄が濃色魔族であり、機密事項を漏らしたのだとしたらそれだけで問題になる。そこから推察するに、目に見えているこの容姿は偽りだと考え至り、唾をのむ。
兄が濃色魔族であるなら、この少年も濃色魔族のはずである。魔法学院へ入るまで魔法を習ってはならないとはいえ、血に宿る力はどの家のものでも強大だ。できるだけ刺激をせずに話をしなくてはならない。
「モモくんの姿は魔法がかかっているようだね?」
「そうだよ。出かけるときは危ないからだって」
なんでもないことのように言うモモだが、もちろんなんでもないことではない。
魔族の色を変えられるのは容姿魔法だけ。この魔法を操れるのは魔族の内でも卓越した限られた者のみであり、そのすべてが国に登録されている。
まさか、嘘を付いた大人が化けて迷子になっているのでもなし、子供に魔法をかけた者がいるのだろう。シレウスはそう見当をつけた。
「その魔法は、お兄さんがかけたんだよね?」
「ううん。ぼくだよ。兄さまがね、魔法がじょうずだねってほめてくれるんだ!」
ピキリと頬をひきつらせるシレウスに対して、モモは得意満面でにこにことする。何から何まで問題のあることだなんて、モモは本当に知らないのだ。
「……分かった。この剣に誓って、その魔法を解いてくれたらお兄さんの所へ連れていってあげよう」
シレウスはしっかりと地に膝をつき、少年と目線を合わせた。とにもかくにも、手掛かりはこのモモという少年だけなのだ。真実を明らかにするには、なんとしても少年の協力が必要だった。
「えー、だってお外だよ。解いちゃだめだよ」
渋るモモへ、シレウスも引くことはできない。彼はできる限りの真摯な眼差しを心掛けた。少年が言いつけをここまで忠実に守るのは、きっとそれを言いつけた"兄"への想い故、それを利用する。
「でも、お兄さんに会いたいのだろう?」
「シレウス、ほんとに悪い人じゃない?」
モモの問いに、シレウスは剣を眼前に掲げて返し横へ倒す。これは子供の物語によく出てくる、誓いと誠実を示す所作だ。それを見たモモは目を輝かせ歓声をあげた。
「僕はシレウス・ダウルム、モモくんの言うとおり王剣を持つ王の子だ。そして、お兄さんのお友だちだよ」
「どうしても解かなきゃだめ?」
「ちゃんと確認しないと。間違ってはたいへんだからね。僕だってお兄さんに失礼はしたくない」
シレウスの態度を見て、モモは姿を見せるだけで兄に会えるなら魔法を解いてもいいのではと思うようになった。それに――たとえ、この人が悪い人であっても一人で御しきれる自信があったのだ。
「兄さまはどこにいるの?」
「モモくん一人では、行けない所だよ」
「じゃあ……ぜったいだよ、兄さまに早く会いたいんだ。ちゃんと連れて行ってね」
そして、モモ……改め、ウィリディスはその姿を現した。
頭の先から偽りの容姿がほどけていく。
シレウスは現れたその姿に息を忘れた。
深く、美しくなびく緑の絹糸、そこから連想されるのはあの一族。国、ヘタをすれば国際規模の問題案件の予感が突如としてシレウスの胸を焼く。
深緑。彼の人と同じ色。
意志を持った化け物たち。崇めりゃ幸せ、敵せりゃ地獄のグリーンベール。
まん丸できらきらした瞳は、切れ長の彼とは異なるが、色は見間違えようもない。何度瞬きをしても変わらない。森の緑より深く、艶やかなその深緑。深緑の髪と瞳。王家の人間に頭痛と腹痛を引き起こす、グリーンベール家の色だ。
「君は……まさか」
待ってくれ、待ってくれ、この子どもは"何"だ? シレウスは内心の動揺を努めて隠してみせたが、頭をフル回転させても、何も分からなかった。
本当に、いったいこの子供は何なんだ。
何故なら現在、グリーンベール家には傍系も含めこんな幼子はいないのだ。かの家は一族その大半が先の戦争の折に死んでいる。
生き残った顔も名前も一人残らずシレウスは知っているが、その中に間違いなくこの子供はいない。間違いなく、存在しない。
はりつめた空気が辺りを包む。モモの隣にいるアドリアなどは口元を手で覆い声を失っていた。可哀そうに、今にも失神しそうな顔色である。
ただならぬ気配を感じ、少し遠くから見守っていた私服の軍人たちがシレウスへと駆け寄り目を見開く。シウとナルジス、国軍近衛師団の団員二人は本日のシレウスの護衛役だった。
また、王家のシレウス目当てであった野次馬たちは絶句するか、口々にその家の名を呟いた――グリーンベールだ、と。
「余計な口は開かぬように。……おばあさんも落ち着いて。下手をすればグリーンベール家への攻撃と見なされる。静かに、落ち着こう」
落ち着こう、それはシレウスが自分自身へ言った言葉だった。
トキタスア国内最強最精鋭の軍隊、南洋地方領軍、通称”南洋軍”。 この大陸、いや、彼が率いる今となっては八大陸中にも名が轟く精鋭軍である。
多くを南洋人で構成された、役目に命をかける兵士たちの目は味方であっても鳥肌が立つ鋭利な刃物だ。彼らはグリーンベール家にのみ従う、その行く先がきっと地獄であろうとも。
南洋人とは、グリーンベール家を誉めるだけで上手く付き合える。逆に言えば、彼らに危害を加えたらそれだけで敵になるということ。
彼らの忠誠はただ一人にのみ捧げられる。
統率するのが権力だけの人間ならばまだ良かったのに。あれでいて誰も脅されて従っていないのが恐ろしい。
人は人に理想を抱き、違えると離れていく。人々の理想通りに振る舞うのは、彼、アレヴターウェンにとってそう難しいことではないのだ。
南洋軍の旗頭、王家情報部によるカテゴリーにして最低最悪の危険人物、グリーンベール家当主にして南洋地方の領主、アレヴターウェン・グリーンベール。
彼はシレウスと違って、国民を退屈させない人物として有名だ。良くも悪くも、噂が絶えることがない。
アレヴターウェンはお役目のためならどのような謀計でも完遂し、誰であっても容赦なく殺す。
人を殺して甘い毒を吐く人形であると、悪魔童子、魔道羅刹、彼を示した名称は数多いがその内のどれも間違ってはいないとシレウスは知っていた。
シレウスにとって、アレヴターウェンがどのような人間かというとそれは口内炎である。
それも、ジクジク痛んでいつまでも居座るしつこい口内炎だ。
人をたらしこみ惑わす才を持ちながら、如何なる時も力強く妥協を許さないあの瞳を思い出す。
あれは真剣の刃のように研ぎ澄まされた、揺らがぬ覚悟の証であった。
神に愛され過ぎた人間は不幸になるはずなのに、彼の人にそれは適用されない。
感情的でもなければ、実利主義でもない。彼の本意は何にも向けられていない気さえする。
生命の原動力は感情と欲望だ。しかし彼にはそれがないと、シレウスはずっと感じていた。彼の関心を奪うものなどあるはずがないとすら思っていた――のに。
問題はそれだけに留まらない。濃色魔族家には国家権力に対してでさえ我儘を押し通すことが赦されている。濃色魔族家のお役目は国の守護だけではないのだ。
『お飾りの雑用王家なんてよくやるもんだ』
日に一度は聞くこの言葉。
王家がいなけりゃ成り立ちもしない国だ、仕方ないとそう言い返すのは、名も覚え切れないほどの大量の王族のお役目が”国をまとめる”為の雑用にあるからだ。
そしてそれは、グリーンベール家のような濃色魔族家に比重を置くことで真に国の要たる王家から目を逸らさせる狙いもある。
伝説の王家は国の真なる宝。王家の権威が失われることは、今この瞬間からジハゼル貨幣が使えなくなることに等しい。あってはならないことだった。
そんな裏話はあっても、王家の実行力のなさは真実で、逆にいえば伝承にしか正当性がない王家とは違い、グリーンベール家には民の支持を得るに十分過ぎる実績と貢献があった。
おかしいのはあちらでも、正義面で多数派で。誰かが彼の家の罪を声高に叫んでも、南洋人もトキタスアの民もまともに受け付けはしない……。
この少年は、そんな重要な一族の秘匿物だ。
今、間違いなく国家の平安がシレウスの双肩にかかっていた。こんな責任ひとりでおいきれるわけないだろうと歯切りしたいのを必死で押し殺す。
見るとウィリディスは、自分が魔法を解いた途端ざわざわし始めた周囲にびっくりして、不思議そうに周囲を見回すばかりの様子である。
しゃがみこんだまま、押し黙り思考を巡らせるシレウスへ、意を決して近衛のナルジスは問いかける。
「シレウス殿下……この方は?」
「グリーンベールの子だろう。ただし、記録上には存在しないが……」
「質の悪いジョークですよね。一族の子供を隠しますか?」
「ジョークだと思いたいね、ああ全く」
ただでさえ、王家にはやるべきことが腐るほどあるというのに。
今は火種であっても、いつか国を焼く大火事になるやもしれん。相手は人間だ、災害ではない。多少なりとも事前に防げる災禍ならば全力を尽くしておかなくては後に困るのは自分だ。ああ、……頭が痛い。
よりにもよってグリーンベール? アレヴターウェンが関係ない訳ないじゃないか。
『我らグリーンベールが民を守り、王家が国を守るのだ。お役目を怠るなよ、シレウス』
『お前もな、アレヴターウェン』
互いの罪を明かし、命を賭けて結んだ契約を忘れたはずもないだろうに。
シレウスは額に手を当て深く息を吐く。
悪い夢であれと願っても、この現実は覚めそうになかった。




