第十二話 音楽のおにいさん 前編
カウンターから反対側の広い空間に、楽器を持った人たちがいる。椅子に座って演奏をしたり、演奏をしながら歌っていたり。彼らは所々に散らばって、その周りをお客が囲んで賑わっていた。
モモはそれぞれのグループの間をトコトコ歩きながら、物珍しい視線を向けて回る。
このサウンドダイニング、ルシエルの店では国内外の人が集まって友好を深めるという側面もある。美味しいもの、楽しいものを集めた交流会だ。
数をこなしているからか、集まる演奏家も客も日常会話ほどのトキタスア語は操れ、曲の合間に自由な歓談を楽しんでいる。
食事中に聴こえてきた音はいろんなものが混ざった雑多なものだったが、こうして近くへ来ると歌や曲がひとつひとつ浮かび上がって聴こえる。
あまり音楽を知らないモモでさえ違いがわかるほど、様々な形の音が奏でられている空間。それらが幾つも重なりあって、新たなる調和を作り出そうとしているかのように響きあっていた。
――その近くに来て、モモは雨音が聞こえると思った。
薄暗い夜に静かに響く雨の音。その中に節々と飛び入る歌声。
音のその先には一人の演奏家がいた。
彼自身は、目立たない人だった。どこにでもいる風貌ではないけれど、目立たない雰囲気をしている。
彼の音を聴いている人は他にもいたが、何故だか遠巻きにされている様子だ。奏でる音に興味を引かれたモモは、戸惑いなく吸い込まれるように近づいく。
さて、"変わり者の偏屈ティバー"、彼がそう呼ばれていることをモモは知らない。
旅の創作音楽家ティバー・ランドは、一人を好むが故に気難しいと言われる……ならまだしもその思想的な意味で嫌煙されることも多かった。
世間を渡る中で変わり身は必要だが、誰もがそうできるわけではない。ティバー・ランドはそれができない人間だった。
薄茶色の髪の毛から片方だけの青い石のピアスがちらっと覗いて見える。若々しいおしゃれな格好をしていて、足を組んでいる姿がカッコいい。
兄の優美なカッコよさとはまた違う、俗っぽいカッコよさをモモは感じた。
見たことのない楽器を弾いていて、音がとにかく綺麗なのだ。
なんと透明感のある歌か、なんて繊細な奏曲か。周りの大人たちが少し遠くから聴き入っている中、モモはどかどかと彼の前に陣取った。
「ぼくこの曲好き。ねえ、おにいさん。なんて曲なの?」
話しかけられたティバーは、ぱっと驚いたように歌と演奏をやめて、少年モモをその視界に映した――モモには真ん丸の鳶色の瞳が一瞬だけ見えた。
そして何か落胆したようにまた、目線を楽器へと向ける。
「即興曲だから、題名はないよ」
「おにいさんが作ったんでしょ、名前をあげないの?」
「あげないよ」
ティバーの返答は素っ気ないものだった。
しかし、興味津々のモモは気にも留めない。
「じゃあ、その楽器はなあに?」
山嵐という名前の弦楽器だ、意外なことにティバーはそう答えると、モモに楽器を紹介してくれた。
山嵐はティバーの手作り楽器で、木の管や金属の管がたくさんついているのが特徴だと。楽器にやさしく触れながら語るティバーの姿はまさしく、彼の愛情深さを感じさせるものだった。
へえ、と感心するモモは彼の椅子の周りにたくさんの楽器があることに気がつく。
「ほかにもあるんだね」
「あるよ、この縦笛はサイ。こっちのは栗鼠。全部で十ある」
ティバーは水の笛や空気の爆発する円筒、金属の棒を指紋で鳴らす楽器も手に取って実演した。――どうやら、彼は人付き合いが悪いわけでもないらしい。
「名前は?」
「ん?」
ティバーはモモの胸を指さした。モモが名乗るとティバーはまっすぐ目を向けて言う。
「じゃあ、好きな楽器を選んで。演奏するよ」
「本当に? ありがとう!」
「……僕の音を楽しんでくれたから。スゴいと言う奴らは大勢いても、好きだと言ってくれる人はなかなかいないんだ」
「なら、さっきのがいい。たくさん聴かせて」
モモは先ほどの楽器、山嵐の曲がもっと聴きたかったのだ。
「分かった。僕はティバー・ランド。肩書きはない、まあ好きに聞いていって」
リクエストするモモに、ティバーは真摯に応える。そしてそれは、モモが何度も”もう一回”を繰り返しても変わらなかった。
同じ曲であるはずなのに、弾く度に喜びの曲、悲しい曲、怒りの曲と次々にアレンジをしてモモを楽しませたのだ。
「音楽ってすごいね! とっても楽しい!」
手をたたいて絶賛するモモの瞳は輝きにあふれている。屋敷にいるとき、誰もモモに音楽を教えてはくれなかった。歌なんて子守唄ぐらいのものだったのだ。
それがどうだ、知られざる音の世界が深く広く今、モモの眼前にあった。
モモが興奮している一方で、ティバーは――彼はモモと会う前からずっと演奏をしていた――少し休憩がしたい気分になっていた。演奏とは神経を使うもので、見ているよりよっぽど疲れるものなのだ。
「あっちにいるエウフォニアの歌でも聴いてくるといい」
ティバーがそう提案するが、モモは断る。
「おにいさんとお話したい。ねえ、いいでしょ?」
どうやらティバーはモモに懐かれてしまったようだが、彼も満更でもない様子である。その証拠に、初めの素っ気ない態度が嘘のように柔らかい対応をしていた。
気づけば、二人は膝を寄せ合って会話をしていた。人の音楽への関心よりティバーを喜ばせるものはなかったし、素直で率直なモモに彼は好感を抱いたのだ。
「どうやって弾いているの?」
「一音一音弾くんだよ、少しずつ少しずつ繋げていって音楽になる」
メロディのない音もある音にも、音楽は宿っている。数式の美に表される美しさのようなものだ、必要でいて不足がない。音に込める趣情こそが音楽を芸術として、この世界に現わせる。
そうやってティバーが語る”音楽”というものを、モモはすべて理解することはできなかった。それでも真剣に耳を傾けるモモへ、ティバーは次第に自分のことも話すようになった。
「この魔法の国は好きだから、たまに来たくなるんだ」
ティバーは、音楽だけで旅をしていた。長く同じ国には留まらないず、今回も明朝には国を立つ。
ここトキタスアは泊まらせてもらえて金払いも良いところが多く、よく来ている国だった。
「特にこの店は良いところだ。誰かの音に影響されたくなければ、なおさら多くの音を耳に入れる必要があるからね」
彼にとって、音楽は人生の相棒だった。
昔から誰かと一緒に演奏するのが好きで、言葉にならない想いを歌にすることは生き甲斐だった。だからこそ旅のなかで触れあう文化や人々は、余りあるものを彼に与えてくれていた。
多様な価値観に向き合うことは、創造的な仕事に多大なる恩恵をもたらしたのだ。
「そういえば、おにいさんはどうして他の人みたいに紙を見て演奏しないの?」
モモとティバーの周囲で演奏をしている人たちは何かの書かれた紙を見ながら演奏をしている。しかし、ティバーはそんな紙を持ってはいなかった。
「頭の中に音楽があるからだよ」
「じゃあおにいさんの曲は? おにいさんがいなくなったらなくなっちゃうの?」
「僕は自分の音楽を後世に残すつもりがないんだ。だから、題名もつけないし楽譜も書かない。今この場と時を共有する人にだけ聞いてもらえたら満足なんだよ」
「僕は短い一年じゃなく、長い一日を生きたいんだ」
そう言うティバーの横顔が、一瞬、たまに見る兄の顔に重なって見えた。遠い何かに思いを馳せるような、そんな顔だった。
せっかくだからとティバーが二人分注文したプリンを、モモはたいそう喜んだ。
「プリン! 兄さまが好きなんだ!」
「へぇ、トキタスアでは兄弟に敬称を付けて呼ぶのか」
「うん、ぼくの兄さま。プリンはね、母さまが作るの得意だったんだって。とっても美味しそうに食べるんだよ」
ルシエルお手製のプリンはモモの口に合ったらしい。固めのプリンに香り豊かなフルーツソース。その味はティバーも舌を唸らせるものだった。
「ねえ、おにいさんはずっと旅をしているんだよね」
「僕には帰るところがないからね。家族も友人も今はいないし。……モモくんはお兄さまが好き?」
「好きだよ! 大好きだから、いつもぎゅーってするんだ」
手振りまでして見せるモモにティバーは微笑みを溢した。
モモから伝わってくる曇りのない温かな感情は、彼の心を和ませたのだ。
「なら、大好きだってちゃんと伝えないとね、ずっと一緒にいたいって、しがみついて離れないようにしないと」
その時、二人の視界にすうっと入ってきた者がいた。その人は静かにモモとティバーに近づいて、これまた静かに近くの椅子に腰を下ろしてティバーの陰に隠れた。
人当たりのよさそうな、清潔感のある青年だった。
「ティバー、リジ=フェレンをどうにかしてくれ」
来て早々、愚痴る青年にティバーはため息を吐く。しかし、迷惑そうな顔はしていなかった。どちらかというと、呆れ顔というものである。
「まだ絡まれていたのか?」
「そうだよ、悪い人じゃないんだけど……しつこくて」
「苦手だと言えば良いのに」
「でも彼女と演奏するのは嫌いじゃないんだ」
青年、フレディ曰く、リジ=フェレンという人はとにかく彼を誉めまくるのだとか。誉めまくるのは良くてもその後に自虐に走るのがめんどくさい、だとか。
ポツポツと愚痴っていたフレディは、酒が効いていたらしくすぐに潰れて寝た。
そして、おとなしく聞き流していたモモとティバーは、ほっと肩を撫で下ろす。丁度いつまで続くのかと顔を見合わせていた所だったからだ。
「モモ、こいつはこれでも凄い演奏家なんだぞ。もっと大きな舞台にも立てるだろうにこんなところばかりにいる」
そう言いながらティバーがフレディの肩に自身の上着をかけると、それは一秒も保つことなくサッと横から取り払われた。
「分かっていないな、フレディに大舞台は向いていない。いや、大舞台がフレディに向いていないのさ」
モモはピンときた――この人がリジ=フェレンだ。
「リジ、良いご挨拶だな」
「ごきげんよう、ティバー。フレディは暑がりだからかけない方がいいんでね」
華麗な所作でティバーに上着を返す彼女。彼女を言葉に表すとすれば、陽気そうな、だが影のあるスマートな大人の女性といったところだろう。
フレディやティバーとは古い付き合いのある馴染みであった。
「なあ、ティバー、せっかく久方ぶりに会えたんだ。あなたの"革命"を聴かせてくれないか?」
リジ=フェレンは寝ているフレディの背をさすった。そっと、起こさないよう労るように。彼女が彼へ向ける情感は、複雑なものでありながら純粋なものだとティバーは知っていた。
「リジ、リクエストは嬉しいが、戦いの讃歌はキライでね。別の曲にしてくれ」
「おやおや、あなたにはあの曲が戦いの讃歌に聴こえたのか」
「まさか、僕は……」
一瞬、刹那の遺憾を抱いたティバーは、にやにやとする彼女を酷く睨み付けて、それ以上の言葉を切った。その面差しには、彼女の"言葉遊び"に引っかかってしまった自分への苛立ちも籠っている。
「僕は詮索もキライだ。それと、フレディにあまり付きまとうと嫌われるって忠告をしておくよ」
ふざけるのはやめたのか、リジ=フェレンは顔をもとに戻してティバーに向き合う。
「そりゃどうも。そうか、なら……前と同じで頼むよ"無限のワルツ"、気に入ったんだ、あなたはこの曲をよく分かっている」
睨みのまったく効いていない彼女へ、返事の代わりに、ティバーが楽器――縦笛のサイーーを奏で出すと、旋律が溢れた。
その水の笛は、モモが思っていたよりずっと低い音をしていた。
ティバーの笛から紡がれるのは、どこまでも暗く、出口のない迷路をさまようような調べだった。盛り上がるところも盛り上がりきらず、同じような音の繰り返しで"何か"が物足りない。
モモはつまらない音楽だと思ったが、リジ=フェレンは立ったまま頭を抱えて聴き入っている。
そのため、モモは空気を読んで真面目な顔をし、最後までおとなしく聴くことにした。音楽の邪魔はするべきでないと思ったのだ。
そして、曲が終わった後、リジ=フェレンは重々しい雰囲気で礼を言い、フレディを肩に抱え人混みへと消えていった。




