第十話 おばあさんの家
アドリアの家は政治都市フォルセティスの住宅街、その内の長屋にあった。
木造三階建ての一角、扉横の表札には"ヴィナットレー"と彫られている。
「ここが玄関?! ぼくの部屋のトイレより小さいのに」
そして、人様の家に入ったモモのはじめの一言がこれである。
一応説明しておくと、アドリアの家は特別狭いわけでは勿論ない。トキタスアでは標準的な広さである。
それどころか玄関にはおしゃれな小物が飾られていたり、花が生けてあったりと、なかなかに心配りがされてある。しかし、見慣れているのかモモの目がそれらに向けられることはなかった。
なんと言っても、モモの住んでいる城屋敷は、彼の兄によって出来うる限りの居心地のよさを配慮された代物である。比べる対象としては相応しくなかった。
失礼な子供の言葉にアドリアは苛つくこともなく、世間知らずのところがあるモモをやさしく諭した。
「モモくん、人のお家に来たときは"おじゃまします"と言うのよ」
「おじゃまします? ぼく邪魔なの?」
「いいえ、邪魔ではないわ。でも大切な挨拶なのよ」
アドリアの注意をモモは素直に受け入れた。
「わかった。おばあさん、おじゃまします」
「ふふ、"いらっしゃいませ"モモくん」
良くできました、アドリアにそう褒められたモモはご満悦である。
モモは褒められることが好きだった。それに、優しい人も好きだった。
アドリアは、駅で困っていたときに助けてくれた。そして今も、家にまで連れてきてくれて、兄に会いに行く自分を手伝ってくれるという。
モモの中のアドリアの地位はうなぎ登りなのだった。
「そっちのソファーに座っていてね。お茶とお菓子を持ってくるから」
「うん!」
走ってソファーに飛び込むモモを、危ないからとアドリアは窘める。
モモの子供らしい無邪気さに、アドリアは口元に笑みを浮かべるのだった。
「お菓子をたくさん食べると怒られちゃうんだ。ないしょだよ」
二人が食べているのは、チョコレート粉末でコーティングされたラズベリーが棒に刺さったお菓子。”ぱくぱくラズベリー”という名の商品である。
アドリアが南洋地方で購入してきたものだが、モモは食べたことのないお菓子だった。
「これ、なんで棒にささってるの?」
「食べやすいからだと思うわよ。手も汚れないしね」
すっかりくつろいでいるモモは、アドリアとお茶の時間を楽しんでいた。
おいしいお茶とお菓子には元気をもらえるモモである。
「棒があると食べやすいの? 兄さまはいつも取っちゃうのに」
「あら、どうして?」
「しらない。取って食べさせてくれるよ。たぶんあぶないからだと思う。兄さまは心配するんだ」
子供扱いに少しぶすくれたように言うモモへ、アドリアはあえて本当のことを言わなかった。
子や孫をみてきた彼女にとって、大丈夫な年ごろだと思っていても心配してしまうのは、痛いほど分かる気持ちだったからだ。
今だって、少年の目や喉の奥に棒が刺さりはしないかと、心中ちょっぴりハラハラしている。
それは、この子の兄となれば猶更だろうとも思った。
同時に、名も姿も知らぬモモの兄を慮る。今頃はたいそう心を痛めているに違いなかった。
「明日、国統会議場へ一緒に行くけれど……その、お兄ちゃんは決まった場所でお仕事をしているのではないのよね?」
「うん。兄さまはいろんな場所でお仕事をするから」
実際のところ、いつどこで仕事をしているかなんて分からなかった。モモの兄は仕事の話はあまりしないし、そもそもおしゃべりな人ではなかったから。
いつも穏やかで、やさしくて。本を読んでくれて、本の説明や感想のお話もしてくれる。お話を全部ちゃんと聞いてくれる。
二人っきりでのんびりするのが、モモの兄との特別な時間だった。
だからこそ、誰にも邪魔されない大切な場所で、あまり仕事の話を聞きたくなかったのもある。仕事の話にはよく部下の人の話も出てきてしまうからだ。
モモにとっては部下の人なんてどうでもよかった。
三ヶ月に一度開催される国家統一会議の専用会議場の話は、フォルセティスの領事館の次に多かったはずだ。
兄に会いたいと思う理由に、今は違うものも加わっていた。
ルヒネイアがもうテオエラに教えてしまっただろう。モモの脳内では怒り狂って探し回るテオエラの姿が容易に想像できた。
昼寝の時間は過ぎてしまっているから、ルヒネイアが伝えなくとも気づかれていたかもしれないが……。
テオエラの前に兄に会わないと、怒られる。一度兄が"良い"と言えば、誰も咎めなくなって、怒られずに済むのだ。
モモは怒られたくなかった、テオエラの説教は長くて面倒くさいのである。
もしも、兄の前にテオエラに見つかったら……そんなことを考えてしまったモモの顔には憂いが浮かんでしまう。
そして、それを見たアドリアはモモが兄を思って寂しがっていると勘違いをした。
「焦らなくていいわ。きっとお兄ちゃんも探してくれているからね、明日きっと会えるから」
その時だ。奥の部屋から、のろのろとだらしのない恰好の男が出てきたのは。
男はモモを見留めた途端に固まり、数秒後に叫んだ。
「ばあさん! その子はなんだ!?」
その男は、ポーデ・ヴィナットレー。アドリアの娘チグイルの入り婿である。
「ぼくはモモだよ、兄さまに会いに行くの」
冷静に答えるモモに、ポーデは口をぽかんと開け、目をぱちくりしてアドリアを見た。
その視線は雄弁にこう語っている。"どういうこと?"と。
「そのままよ。モモくんがお兄ちゃんに会えるように手伝ってるの。ね?」
「ねー」
仲の良さそうな二人、そしてお茶会の名残を見てポーデは嘆息した。
「ばあさん……アンタのお人好しに驚かせられるのは何度目だろうな」
「詳しい事情は後で話すわ。チグイルは今日遅いかしら」
「どうだろう」
くしゃくしゃ頭のポーデは、尻をかきながら壁に掛けてあるカレンダーを確かめた。今日の日付の欄に、当直の印はない。
「ああ、もうすぐ帰ってくると思うよ」
「母さん、お疲れ」
ポーデが帰宅したチグイルを出迎えたのは、それからすぐのことだった。
モモを見つけたときの表情がポーデとそっくりで、モモはおかしくて笑ってしまった。
チグイル・ヴィナットレーは役所勤めだ。
ここ政治都市フォルセティスでは十歩歩けば役人に当たると言われるぐらい役人が多い。地方の領事館だけでなく、国の主要施設がいくつもあるためそれでも人手が足りないぐらいなのだ。
そのため、チグイルはたいてい夜遅くに帰ってくる。夕飯に間に合うのも珍しかった。
「イリニポトスに次いで教国からの使者で何処の役所もてんてこ舞い……もう今日は帰ってこれないかと思ったけど、当直の人でなんとか回すって」
眼鏡とひっつめ髪の容貌には、彼女の几帳面さがにじみ出ていた。
ポーデと共にアドリアから耳打ちで事の次第を聞いた彼女は、モモを歓迎してくれた。
「寂しいでしょうけど、今夜は楽しいところに行くからね。どうか気を落とさないで」
「母さん、どこかへ行くのか?」
「せっかく早く帰れたから、今夜はみんなでルシエルさんトコに食べに行こうと思っていたのよ」
帰ってきた娘へお茶を出したアドリアは、娘の案に同意する。
そして、夫婦二人もお茶会へ参加することにしたようだ。
「いいわね。子供たちはあのお店が大好きだから、きっとモモくんも気に入るわ」
「このお家は子供がいるの?」
モモが聞くと、ポーデが答えた。
「二人ももうすぐ帰ってくるよ。学校帰りに武道の道場へ行っているんだ」
「学校? 学校って、頭のわるい子が行くんじゃないの?」
眉を上げ、その後目を見合わせた大人三人は、訳ありの雰囲気を察し、触れないことにした。
首をかしげるモモに、ポーデは、言いたくないなら言わなくてもいいと前置きをしてから、問う。
「お兄ちゃん以外の家族はどうしているんだ?」
モモは自分の知っていることを答えた。
「母さまは戦争で死んじゃったって。父さまは知らない。兄さまはお話に出さないんだ」
「そうか……それは、家族はお兄ちゃんだけってことか」
「うん、兄さまだけ。ぼくは兄さまのたからものだから。ぎゅーってしてくれるの」
「……お兄ちゃんはモモくんが大好きなんだね。今頃たくさん心配していることだろう」
アドリアとチグイルは共に口元へ手をやって声も出ない様子だ。目に涙まで浮かべている。ポーデもなんだか暗い気分になってしまった。
彼らは南洋地方が先の戦争で多くの戦争孤児を出したと知っていたのだ。
しかし、大好きな兄の話題が出たモモは対照的である。
「兄さまはすごいんだよ。トキタスアを守ってるんだ」
咲いたような笑顔で話し出すモモは、兄の話ならいくらでもできた。
絵を描くのが上手なこと、とても頭が良いこと、プリンが好きなことまで。なんでも。
そして、三人は兄の話を聞いてくれていた。時折相槌を打って、真剣に。
モモの目の前にあるのは物語の中にあった”家族”、家庭の光景だ。おばあさんに、お父さん、お母さんがいて……自分がいる。
――一瞬、ほんの一瞬、モモの頭に浮かんできたのは二人っきりの食卓。膝にのせて食べさせてくれる兄の顔だった。
どうして違うのだろう。悲しくなってしまうのがイヤで、モモは首を横に振ってその影を振り払った。
「南洋といえば、また合衆国のカトー議員が南洋の入領申請を却下されたらしいね」
モモの話で落ち着いたのか、アドリアは世間話をする気分になったらしい。
最近小耳に挟んだ話を口から滑らせた。ヴィナットレー夫婦もそれに乗る。
「ただ甘いものが食べたいのか政治アピールなのか、民主主義者のやることはまったく、複雑怪奇ってね」
「外国人は申請手数料だけで四百万ジハゼル。俺の年収分だぜ? まったく」
「今の領主さまになってから入領制限が一段と厳しくなったから」
「そら、南洋と言えば、領主様だろう。あの人は特別だ」
ポーデは南洋地方の領主の話を始める。彼は一度抽選が当たって国統会議を見に行ったことがあり、それからは大ファンになっていたのだった。
「あの人だけ次元が違った。世界の見え方が全然違う。この国を発展させ、周知させて、さらなる発展につなげることが出来るのはあの人しかいない」
いつだって、やり方に無理がなく大胆。勝つべき時に勝ち、引くべき時に引き、為すべきことを成す――答えのない問いに諦めず立ち向かい続けられる人だ。まったく立派なお人だよ。
語るポーデはまさに心酔している様子で、アドリアとチグイルは呆れ顔だ。どうやら、語りはいつものことらしい。
「まあ、あの人を悪く言う層は絶えないがね……仕方がないところもあるが」
ポーデがそう言うと、チグイルは納得がいかない様子で顔をしかめる。
「あら、そんな厚顔無恥な方がいらっしゃるの。度胸があるわね」
「南洋の領主さまは悪い人なの?」
モモは南洋地方に住んではいても、領主の名を聞いたことはなかった。ましてや、それが自らの兄のことだなんて誰からも知らされてはいなかった。
もちろん、兄から領主の話が出たこともない。だからモモは、自分の住んでいる場所の領主がどんな人なのかを知りたかった。
「悪い人ではないさ。俺らにとってはな」
不思議がるモモに、ポーデは向き合った。
「俺らが求めてんのは、敬虔な指導者でも誠実な指導者でもない。食料と安全な街、ちゃんと年金をくれる人だ。だからな、何か変なことを言うやつがいても気にすることはない! 誰がなんと言おうとあの人は国に必要な人なんだ」
「モモくんも知っているだろ、二つの魔族と多人族。その垣根は形あれども触れられはしない大きな溝だ。それは問題ではあるが、そもそも国とは人の集まりだ。問題がない訳がない。国なんて、理不尽じゃなきゃ何でもいいのさ。トキタスアの民すべてをあの人一人では守りきれない。そのための多国間協力も信用できないからこそ、俺ら民が協力して――……」
ヒートアップする話し方にだんだんとモモの心は離れていく。
モモが気が付くと、もうポーデの話をアドリアとチグイルは聞いていなかった。この手の話で熱くなるのは、ポーデの悪い癖だと二人はよくよく分かっていたのである。
これでは自分が話相手をするしかないと悟って、モモは口をへの字に曲げた。
計らずもその時、玄関から大声が轟く。ただいま、という大声だ。
それはモモにとっては天恵のようなものだった。なぜなら、今モモは酔っ払ったテオエラに絡まれた時と同じぐらい嫌な思いをしていたからだ。簡単にいうと――とても面倒だった。
リビングで行われているお茶会の席にやってきたのは、モモよりおおがらで背の高い男の子と、モモよりずっと小さな女の子。
モモを視界に入れた二人の表情は、彼らの両親とそっくりだった――。




