契約
プロローグ
六畳に満たない畳部屋、そこに散乱した生活用品。
窓から差し込む赤い月の光、そして突如現れた女の子。
小さな体に不釣り合いな腰まで伸びるしなやかな銀髪。シミ一つない真っ白な肌、そして一糸まとわぬ裸体。
しかしそれ以上に目を惹いたもの、それは彼女の瞳だった。
気の強そうな印象を受けるその両目は、左右で違う色の景色を投射していた。
左は最上級の紅玉が液化したような情熱的な紅、右は月の輝く夜の海を思わせる幻想的な蒼。
その美しさはまるで神様が精巧に作りあげた人形のようだった。
彼女は自分の置かれている状況を確認するように部屋中を見回し、やがてこっちを見た。そして口の端を僅かにつりあげ微笑を浮かべた。
「…………カケルじゃな?」
喋った!? いや、それよりもどうして俺の名を!?
「やっと会えたな、カケル。ワチはうれしいぞ」
「え、ええ!?」
俺のことなど気にも留める様子もなく、彼女は俺に握手を求めるように手を差し出した。そして、こう言った。
「カケル、ワチと契れ」
最初、彼女が何を言ってるのかわからなかった。
「ちぎ……る?」
「そうじゃ、ワチと契り永遠の忠誠を誓うのなら、今そなたを縛る絶望の鎖を断ち切ってやろうぞ」
この子は何を言っているんだろう。
たしかに俺は今、絶望のどん底に頭からすっぽりとハマっている。
この絶望から救ってくれるならきっと……悪魔とだって契約するだろう。
だけど冗談で言ってる顔じゃない。彼女は本気だ。
「本当に……助かるんだな?」
返事はない。彼女は手を差し出したまま、じっとこっちを見つめたままだ。
「…………」
俺は決めた。いや、元々俺に選択肢などないのだ。
俺はしっかりと彼女の手を握りしめた。
「契約成立じゃな」
にっこりと笑う彼女の顔は、窓から差し込む月明かりより眩しかった。
「それで……俺は何をすればいい?」
「ではまず、ワチの前で跪いて目を瞑るのじゃ」
彼女が何をするつもりなのか、俺には見当もつかない。俺は素直に彼女の言葉に従って跪くと、彼女は両手を合わせ、何か呪文のようなものを唱えだした。
「エボル、ユグラマソ、レゾソウラ…………」
不思議な感覚だった。聞いたこともない言葉なのに彼女の言葉がなんとなく理解できる。まるで目の前の彼女と精神の一番深い場所で繋がっていくような、そんな感覚。
(……我が手に、我が足に、我が目となり我にその命捧げん。ならば我、いにしえの運命により汝の願い聞き届けたり!)
「!」
突然、胸を雷で撃たれたような鋭い衝撃が走った。
なにが起こった?
とっさに自分の胸に手をかざした。緊張で汗をかいたせいか、服はじっとりと濡れていた。
ゆっくりと目を開ける。
「!?」
手についていたのは汗ではなかった。胸を触った俺の手は、まるで紅葉のように真っ赤に染まっていた。
衝撃の中心に目を向ける。胸から赤い花が咲いていた。
否、それは血飛沫だった。俺の胸には文字通りぽっかりと穴が開いていたのだ。
痛みはなかった。しかし急速に力が抜けていく。
「う……ああ……」
言葉が出てこない。服が血で真っ赤に塗装されていく。流れ出る血液と共に体温が急激に失われていくのが分かった。
「ふむ。そなたの心臓は綺麗じゃ」
目の前の少女はそう言った。
心臓!?
彼女が何を言っているのか、理解するのに数瞬の時間が必要だった。
しかし、急激に色を失っていく目で少女を見上げて俺はやっと理解した。
彼女の右手、血に染まったその手の中にあるのが俺の心臓だという事を。
月明かりに映った少女は美しかった。妖しく、雅で、まるで聖堂に飾られる一枚の名画のようだった。
そして彼女はゆっくりとした仕草で――俺の心臓を飲み込んだ。目の前で起こった事ながらまったく現実味を帯びない光景の中、彼女は俺に笑いかけた。
「完了じゃ。よろしくのぉ、カケル」
その時、少女にしか見えないはずの彼女の姿が、一瞬成熟した大人の女性のように俺には見えた。
それが目の錯覚だったのかどうか、意識を失った俺にはわからなかった。
彼女は口の端から零れた俺の血をゆっくり拭き取ると、愛おしそうに血のついた手を舐めていた。子供が溶けたアイスを舐めるように……。
それが俺の生きていた時に見た、最後の光景だった。
第一章
「……朝か」
スズメ達が電線の上で楽しそうに世間話に花を咲かせいる。
カーテンから漏れる光が網膜に容赦なく降り注いでくると、惰眠という名の甘い蜜を舐めていた睡魔達はベソを掻きながらどこか遠くへ飛んでいってしまったようだ。
何も変わらない朝の風景。
家賃月六万、築二十年越えの趣あるアパートに住み着いて早六年。
この家のシミだらけの天井を見るのも慣れてしまった。
昔はあのシミが人の顔に見えて恐かったな。
ぼ~っとした頭でそんな少年時代の事を思い出しながら二度寝の悪魔と密談をかわしていたのだが、どうやら互いの合意が成される前に時間切れになってしまったようだ。
「カケル~。そろそろ起きなさ~い」
母さんの声だ、もうそんな時間か。
ビデオのスロー再生のようにゆっくりと体をおこす。そのまま洗面所に向かってまだ半分眠っている頭を冷水で無理やり叩き起こした。春だというのに水はまだ真冬のように冷たかった。
タオルを洗濯かごに投げ込み、そのまま居間へ。
「おはよう」
ちょうど母さんが台所から味噌汁を運んでいた所だった。
小さな畳部屋の真ん中に丸くて茶色いちゃぶ台。男なら一度はこのちゃぶ台をひっくり返してみたくなる(まぁ実行した奴は少ないだろうが)
今朝の朝食は焼き海苔と鮭、それと豆腐とワカメの味噌汁。悪くない、まさに日本人の朝食と呼ぶにふさわしい。
輝くホカホカ銀シャリの上に黒光りする海苔。この完璧な調和の前には黄金比だって霞んで見えるだろう。
「いただきます」
うむ、うまい。
軽快な箸裁きで瞬く間にテーブルに並んだ料理を胃の中へ流し込んでいく。
テレビからはいつものように新鮮だが代わり映えしないニュースがお茶の間へ淡々と届けられていた。
「……で発生している盗難事件について同一グループの可能性が高いと発表がありました。しかし目撃証言などは寄せられておらず捜査は難航しているとの事です。では次のニュースです。史上初の幻卵が発見されてから今日で丸百年が経ちました。今現在確認されている種は千三百十七とされていますが、現在でも新種が数多く発見されており詳しい数はわかっておらず……」
百年か……。
俺は正直幻卵がない時代の様子が想像できない。なにせ教科書で習うまで原始時代からすでに存在したと思っていたぐらいだ。
なぜなら当たり前のように存在してたから。俺や母さんが生まれるはるか前から。
「昔の人って穴を掘ったりとかしなかったのかしらね?」
母さんがそんな事を言ってるくらいだ。
「そんなことないだろ。でも何で百年前から急に見つかるようになったのか、専門家でもわからないみたいだし俺たちが考えてもしょうがないよ。あ、おかわり」
今日の味噌汁は格別にうまいな。多分味噌の配合具合がよかったんだろう。
「ところでカケルの幻卵はどう? そろそろ孵化しない?」
茶碗を差し出して母さんが言った。
「全然ダメだね。拾った時からもう随分経つけどピクリともしないよ」
「そう……残念ね。ふふ、小さかったカケルが自分と同じぐらい大きい卵を持ってきたときは母さんびっくりしたわ」
ああ、そういえばそうだった。
「その日からカケルはまるで兄弟みたいに卵と接してたわね。憶えてる? あなたったらいっつも卵を抱いて寝てたのよ」
憶えてるよ。あの頃は若かったんだ。
「そんな時代もあったね。でももう諦めたよ。あの卵は孵化しない卵なんだ」
「そんなことないわよ。カケルの愛情をいっぱい受けたんだから、きっと孵化するわよ。お母さん勘だけはいいんだから」
「別にいいんだ孵化しなくても。孵化しちゃうと金も掛かるしね」
「またまた、そんな強がり言っちゃって」
「それより母さん、時間大丈夫?」
母さんは壁にかかった時計に目を向けると、デスラーのように顔を青くした。
「た、大変! もうこんな時間だわ! カケル戸締りお願いね。あ、なるべく早く帰ってくるようにするけど遅いようなら何か適当に食べて。寄り道してもいいけど遅くならないようにね。それと車に気をつけて。あと、それから夕方に雨が降るかもしれないから遅くなるなら傘を忘れないで。え~っとそれから……」
「わかったから。大丈夫だからもう」
止めないといつまでも喋ってるからな。
「そう……じゃあ後お願いね。カケルも遅刻しないようにしなさい。じゃあお母さん先に行ってくるから」
母さんは大急ぎで仕事用の靴を履くと多少立て付けの悪い玄関から弾丸のように飛び出して行った。
「まったく……しっかりしてる癖にどっか抜けてるんだから」
母さんは今、小さな会社の事務仕事をしている。それまでは色々な仕事を転々としてきた。その理由は母さんが十六の時に俺を生んだのが原因らしい。
詳しい事は話してくれないけど何か複雑な事情があったらしい。
だから物心ついた時から母さんは女手一つで俺の事を養ってくれた。だから俺にとって母さんはたった一人の家族だ。
手早く慣れた手つきで食器を流し台に運ぶ。なにせ家事の半分以上は俺の担当だからな。これくらい、ものの二分もあれば洗い終える。
終わったらさっさと自分の部屋に戻って学校指定の制服に袖を通す。
灰色のズボン、白いシャツ、赤いネクタイに紺色のブレザー。
高校に入って早一ヶ月、ようやくこの新品のブレザーにも慣れ始めてきた。
「よし準備完了。え~と忘れ物は……ないな」
おっと、そういえば今日はまだアレをやってなかったな。
部屋の隅に置かれたバスケットボールほどの大きさの卵、そいつの頭の部分を軽く撫でた。
「じゃあ行ってくる」
いつもの日課だ。
このことは母さんにも秘密にしている。朝、出掛ける度に卵に話しかける男なんて変人以外の何物でもないからな。
大きく真っ白な卵、狭い俺の部屋にあって明らかに異彩を放っている。
「ちょっとのんびりしすぎたかな……」
居間に飾ってある老朽化した時計は学校までのタイムリミットを刻一刻と告げていた。
右手に鞄、左手にゴミ袋を持つと、少し急ぎ足で玄関を飛び出した。
うかつだった。まさか出がけに話好きの大家さんに会ってしまうとは……。
おかげで貴重な時間を五分もロスしてしまった。
ここから学校まで徒歩で約十五分、しかし残り時間はあと十分を切っている。
なんとか間に合うか? 自慢じゃないが脚は速い方だ。
運動会では二位以下になった事はないし、リレーではアンカーではないにしろスタメンの一人だ。
しかし残念ながら一番ではない。一番は別にいる。
「お~い」
とか言ってるそばから奴の声が。
背後から猛烈な勢いで追いかけてくる奴。敵だ。
「お~い待ちなさいよ~」
アホか、待ってたら遅刻するだろうが。
「待てって行ってんだろうっが!」
「ぶおぅ!?」
背中にものすごい衝撃が駆け抜けた。
(ああ……母さん、刻がみえる)
バランスを崩し、そのままアスファルトの上を豪快に転げ回る俺。
なんて奴だ、普通走ってる奴の背中にドロップキックかます奴がいるか? いや、いない!(反語)
「いって~な! 何すんだよ!」
「何すんだよ、じゃないわよ! 人のこと無視しすんなっての」
このアマ、いつか覚えてろよ。
茶髪(地毛らしい)のショートカット、キリッと整った顔立ち、中でもくっきりとした眉毛が特徴的でいかにも活発そうな印象を受ける。
こいつの名は水無月アカネ。ガキの頃からの腐れ縁だ。
ちなみにこいつが中学時代、俺の前に立ち塞がったせいで俺のクラスのポジションはずっと「二番目に足が速い奴」だった。
一見美少女に見えないこともないが騙されてはいけない。性格は俺より男っぽい。変な期待をしないようにはっきり言っておこう。
幼馴染におかしな幻想を抱いてる奴は幼馴染がいない奴だけだ!
たとえ長く顔を合わせていても恋愛感情なんて沸かない。目の前にいるのは俺が超えるべき壁だ。
「ほらさっさと起きる。遅刻するわよ」
お前のせいでこんな状態になったんだろうが……。
アカネが俺に向かって手を差し出した。バカめ……その甘さが命取りよ。
「きゃあ!?」
差し出されたアカネの腕を思いっきり引っ張ってやった。無様に倒れるがいい。さっきのお返しだ。
この時、俺の背中にはきっと悪魔の羽が生えていただろうよ。
「ふははは! 生きることは戦いなのだよ。さらばだ明智くん」
俺は走った。ピリオドの向こうが見えるほど速く、両の足が千切れんほどのスピードで。しかし……。
「むぁぁぁてぇぇぇぇ!」
背後からありえないほどの声と重圧が俺に向かって迫ってきやがる。
「ファック! あいつは奥歯に加速装置でも仕込んでやがんのか!?」
学校まであと二百メートル、間に合うか……?
「チェストオオォォ!」
だめでした……。
校門の五メートル手前で俺はあえなく鬼の制裁を受けることとなった。
ボロボロになりながらもどうにか時間前に教室にたどり着くことができた。
「うおっ!? どうしたカケル! トラックにでも跳ね飛ばされたか?」
アカマルよ、開口一番に言うことがそれかよ。
「そんなんじゃねえよ」
「わかってるよ。どうせ水無月にちょっかい出したんだろ?」
「ちょっかい出されたのは俺の方だ!」
このちょっと猿に似た顔を持つ生物はアカマル。トレードマークは頭に巻いた赤いバンダナで本名は……とにかくアカマルってあだ名で通ってる。同じ中学出身ということもあってまだギクシャクしてるクラスの中、気を使わずに会話できる貴重な存在だ。
「お前はいいよな。近くに住んでたってだけで朝から二人で仲良くご登校だもんな。神様は不公平だよ」
神様の件は俺も同意だ。どうして神は俺に穏やかな登校時間をくれないのだろうか。前世で神社でも燃やしたか?
「あっそうだ、それよりさ。二組の吉沢って知ってるか?」
「吉沢? いや誰だっけ?」
「ほら背が小さくて長い黒髪の無口な娘だよ。そいつがなんと、幻獣を連れてきてるんだってよ! で、何の幻獣だと思う?」
「う~ん。ゴブリンとかスライムとか? それとも日本妖怪の類?」
「なんと妖精だってよ! いいよな中々のレア種だぜ」
へぇ、妖精とは珍しい。今までの記憶をすべて掘り起こしても妖精をつれた人なんて精々二人いたかどうかだ。
幻卵は孵化するまでどんな種族が生まれるかわからないからな。
「あ~、オイラも幻卵欲しい~!」
また始まった、アカマルの幻卵欲しい病。これさえなければ普通にいい奴なんだがな。
こいつは重度の幻卵マニアだ。孵化した幻卵の種類から原産国の特定まで、こいつの頭の中は幻卵の知識でいっぱいだ。勉強はからっきしのくせに。
なのにこいつは幻卵を持っていない。それはなぜか?
答えは簡単、幻卵は希少なのだ。
世界中で発見されているといっても数には限りがある。
幻卵を専門に扱う業者もあるのだが最低でも諭吉先生が十数ダースは必要で、とても一般家庭が手を出せるレベルじゃない。
俺のように自分で見つける手もあるが、残念ながらそれも不可能に近い。個人が幻卵を見つけるには相当な運と労力が必要らしい。
「悪いことは言わん。たま○っちで我慢しとけって」
「嫌だね! 一人でいくつも幻卵や幻獣を持ってる奴だっているんだ。不公平だと思わないか?」
そうは言ってもな、こればかりはどうにもならん。
「お前も欲しいだろ? 幻卵」
「いや、俺持ってるし…………あ!」
やばい! 面倒なことになるから今まで隠し通してたのに……。
「カケルく~ん」
何だよその陰のある笑みは! とりあえず逃げるか。今こいつのそばにいるの裸でサバンナにいるより危険な気がする。
「逃がすか!」
アカマルはまるで猛禽類のような素早さで俺を羽交い絞めにした。
「お前んち貧乏って言ってたよな!? ありゃあ嘘か。ああ? オイラのこと馬鹿にしてやがったのか!?」
アカマルの腕がギリギリと俺の頚動脈を締め上げる!
「ちょ……スリーパーホールドかよ! チョークチョーク、完全に極まってるって!」
ヤバイ、こいつ目がマジだ。
「ち……が……拾った……んだ」
「拾った?」
アカマルの腕の力が僅かに緩んだ。
あ~、死ぬかと思った。
「そう……だよ。十年ぐらい前に……」
アカマルの奴、信じられないと言った顔をしてやがる。
「本当かよ? 十年も孵化しない幻卵なんて中々ないぞ?」
「さあな、はずれの卵だったんだろ。別にいいんだ孵化しなくったって」
そうさ、孵化しないからって俺の愛情が変わるわけじゃない。そりゃあ、昔は寝る間も惜しんで孵化するのを待ってた時期もあったけど……。
「変わった奴だな。俺だったらきっと毎日ワクワクして眠れないぜ」
「おれも最初はそうだったさ。だけど四年も経てばそんな気持ちもなくなるよ」
本当は五年かかったけど。
「けどよ、気にならないのか、中身?」
「そりゃあ、気にならないわけじゃないけど……どうしようも出来ないだろ」
「いっそのこと、ガツンと割ってみるのはどうだ?」
割る……割るだって!?
「できるわけないだろ!!」
ほとんど無意識に俺は叫んでいた。
教室の空気が一瞬で凍りつく。
「あ!?」
やってしまった。やばい、めちゃ恥ずかしい。
あの卵はもはや我が家の家族みたいなものだからな。それを割るって聞いてついカッとなってしまった。
「わ……悪かったよカケル。冗談だ冗談」
「いや、こっちもつい大声出して悪かった……」
さすがにアカマルもドン引きしてる。うわー時間戻してぇ~。
「あ~と、そうだ! 卵はどこで見つけたんだ?」
俺は返答に困った。
「う~ん、それがよく憶えてないんだ」
「へ? 憶えてない」
「卵を見つけて持って帰る所は憶えてるんだけどな、どこだったかって聞かれるともうさっぱり……」
「まあ何にせよ幻卵見つけるなんて運のいい奴だよ。素直にうらやましいわ」
それは自分でも思う。正直昔のオレに感謝したいぐらいだ。
「思い出したらでいいからよ、幻卵見つけた場所オイラにも教えてくれよ。そしたらもうオイラ、学校なんてすぐ抜け出して……」
「ほ~う、その話、先生にも教えてくれないか二人とも?」
時が凍りついた。
赤いジャージからはちきれんばかりの筋肉をのぞかせる無精ひげの男がアカマルの後ろに立っていた。
もちろんこの学校の生徒などではない。
「「あ」」
時計に目を向ける、すでに朝礼の時間を迎えていた。
気づいた時には遅かった。
「いつまで話とぅるかああぁぁぁ!!」
身構えるスキもなく、巨大熊のように太い腕から繰り出された鉄拳が脳天を直撃したのだった。
ようやく頭痛が和らいだのは本日最後のチャイムが教室に響き渡る頃だった。
「んんー、終わった~!」
この瞬間がオレ達勤労学生にとっては一番の癒しの時間だ。今ならきっと空も飛べるだろう。
「お~い、アカマル帰ろうぜ」
いつものようにアカマルを誘う……が、どうも様子が変だ。
「おいお~いカケル。帰るにはまだ早すぎんぜ」
なんだ? いつもと様子が違うな。何ていうか……大好きなアニメが始まるのをテレビの前で待っている子供のような顔だ。
「……なんかあったっけ?」
「OH! HAHAHA」
海外ドラマの外人のような笑い方をしやがった。正直いらっとくる。
「体育館裏でサプライズパーティーが催されるらしいぜ」
なんだよそのサプライズパーティーってのは。大体サプライズなのにどうしてお前は知ってんだよ。
「実はファミリアバトルが始まるらしいぜ」
聞いてもいないのに勝手に喋りだした。よっぽど話したかったんだろう。
それにしても……、
「学校で幻獣や妖怪を戦わせるなんて大道寺先輩ぐらいのモンだと思ってたけど、物好きは結構いるもんだな」
ちなみに大道寺先輩ってのはアカマルと同じように幻卵、および幻獣マニアの二年だ。ただ、個人経営のスーパーのせがれのアカマルと違い、彼の親は結構な会社を経営している。いわゆるボンボンという奴だ。
そんな奴だから当然のように幻卵や幻獣を所持している。さらにそいつらを学校に連れてくるから始末に負えない。
学校からすれば当然頭痛の種、トップクラスの問題児だ。
「それがさ、どうも大道寺先輩が強引に勝負を申し込んだらしいぜ?」
まあ、そうだろうな。まともな神経の奴なら学校で幻獣同士を戦わせようなんて思わないだろうし。
「で、先輩の相手させられる哀れな羊はどこの誰だ?」
「ほら朝に話しただろ、吉沢さんだよ。あのピスキーを連れてきたって」
ああ、そういえばそんな話もしたな。
「見に行こうぜ!」
まるで変身ヒーローに出会った少年のように目をキラキラさせるアカマル。
「そうだな、俺もちょっと興味あるし行ってみるか」
今日は母さんも遅いし早く帰る理由もない。ピスキーも見てみたいしな。
「さすがカケル、早く行こうぜ! もう始まってるかも」
アカマルは陸上選手のようなスタートダッシュで教室を飛び出していった。
「本当にマニアだな、あいつは」
そうは言いつつ俺もわくわくしながらアカマルの後を追いかけた。
案内された場所は学校の体育館裏だった。
普段、木と草とゴミしかないその場所には、すでに二桁に及ぶ生徒たちが殺到して制服の輪を作っていた。
そしてその中心に二人の人影。
片方は長身の男。透き通るような白い肌、短くカットされた銀髪、端正な顔立ちに似合わない金のネックレスと豪華な腕時計がこれでもかと言うほど己の存在を主張している。
「ハーッハッハ! いい感じにギャラリーも集まってきたじゃないか!」
この人が大道寺先輩。入学当時から何かと目立った存在だが本人も目立つことが大好きらしい、周りの視線を一身に受けてご機嫌な笑い声を上げていた。
その後ろでドスの利いたうめき声を上げる人型の幻獣。
三メートルに届こうかという巨体、電柱ほどもある巨大な棍棒を持つその姿はまさに圧巻。
「おい、あれトロールじゃないか!」
思わず声を上げてしまった。
ピスキーはせいぜい手の平サイズ。大人と子供どころの話じゃない、象とリスほどの差がある。いくらなんでも大人気なさ過ぎるだろ。
「ははは、どうだ! 僕の自慢のファミリア、トロールの『ギガント』だ!」
大舞台で演劇でもするように大道寺先輩はトロールの存在をギャラリーにアピールする。
その過剰なまでの演出に歓声が沸く中、目の前の人物はまったくの無反応だった。
その人物、それは吉沢さんである。
長い黒髪が風になびいて羽の形をした髪留めに手をかける。
女子の平均から見ても背が低い、高校一年にしては少し幼さい印象を受ける。
そんな彼女の周りを光の玉がぼんやりと飛んでいた。
「お、あれが吉沢さんのピスキーか。オイラ感激」
目を凝らしてみると、確かに光の中に人のような形をした生き物が見える。
しばらく吉沢さんの周りを飛び回っていたが、やがて肩に止まるとその姿がはっきりと確認できた。
トンボのような半透明な羽を背中に生やした小さな女の子、そんな感じだ。だけどなぜか妖精の服は大正時代を思わせるような袴の和服だった。
和服の妖精……か。
「はっは~、そんなに小さいファミリアじゃ僕のギガントの一撃で大気圏の外まで飛んでいってしまうかもしれないな」
余裕の顔で大道寺が言うが、吉沢さんの顔に変化はない。
「…………早くして」
吉沢の態度はクールと言うより無表情と言った方が近いな。
「そうだな。ギャラリーも十分集まったことだし、そろそろ始めようか。誰かスタートの合図を!」
大道寺の声に真っ先に反応したのはアカマルだった。
「はいはいは~い、オイラやります」
せっかくの幻獣同士の戦いだ、特等席で見物したいんだろう。
輪の中心に飛び出したアカマルは、二人の間に立って一つ咳をした。そして大きく右手を振り上げ勢いよくその手を振り下ろす。
「ファミリアバトル、レディーGO!」
先に動いたのはやはり先輩だった。
「いけギガント! あの妖精を空の彼方へ吹き飛ばせ」
ドス利いた獣のような雄叫びを上げて先輩のトロールが吉沢さんのピスキーに襲いかかる。その迫力たるやB級怪獣映画顔負けだ。
天高く振り上げられたトロールの棍棒が空気を切り裂いてピスキーの頭めがけて降り注ぐ。
「あぶない!」
刹那、大地が震えるような衝撃が体育館裏を中心に波紋のように広がった。
「おいおいマジか!」
まるで爆弾でも落ちたようなすさまじい衝撃で、辺り一面に土煙が立ち上っている。
「ははは、今の一撃で勝負が決まってしまったかな?」
大道寺先輩、もう勝利を確信していた。
しかし、その笑い声は長くは続かなかった。
煙が引いてみると、そこには棍棒の先と同じ形の穴が開いていただけ、ピスキーの姿は影も形もなかった。
「妖精が消えた!?」
確かにどこにもいない。俺を含め、その場にいる野次馬達の誰ひとりとして妖精の姿を見つける事が出来ない。
「……今」
吉沢さんがポツリと呟いた。
「おい、あれ!」
野次馬の一人が空に向かって高々と指さした。
全員の視線が空に向かう。ほぼ同時に太陽から人型の影がトロールの頭上目がけて一直線に飛んできた。
「ピスキーだ!」
速い! その姿はまるでツバメの滑空!
「叩き落とせギガント!」
大道寺の言葉を受け、トロールはその大きな手を突撃してくるピスキーに向かって突き出した。掌の大きさはピスキーの三倍はある。
ダメだ捕まる!誰もがそう思った。
「なに!?」
伸びるトロールの手に飛び込む直前、あろうことかピスキーはそのままスピードを緩めることなく直角に向きを変えた。
人間、いや幻獣以外には絶対に不可能な動き。
慣性や重力を無視したその動きでトロールの手を間一髪で回避する。
そのままトロールに向かってさらに突っ込む。
「バカめ、そんな小さな身体ではこのギガントに傷一つつけることはできんぞ!」
たしかにその通りだ。妖精のタックルなんてトロールからすれば蚊に刺されたようなもの。どう考えてもダメージなぞ与えられるものではない。
「…………今!」
吉沢さんの口調が強くなった。
同時に妖精がトロールの眼前で急停止、全身から光を放った。
「うおっ!」
目の前で小さな太陽が誕生したような強烈な光。
ある程度距離が離れていた俺たちですら目を開ける事が出来ない、目の前で直撃を受けたトロールはたまらないだろう。
トロールは両手で目を覆ったが時すでに遅し、ドタバタと地団駄を踏んで悶えることしかできないようだ。
それと同時にピスキーの動きが変化した。
さっきまでの直線的な動きではない。トロールの頭上をグニャグニャとまるで8の字を描くように変則的に飛び回る。
「うるさい子蝿だ! たたき落とせギガント!」
主人の命令に忠実なトロールは頭上の敵を排除するため目を瞑ったまま棍棒をぶんぶんと振り回す……が当然そんな攻撃が素早い妖精に当たるはずない。トロールの巨大な棍棒は空気を切り裂くだけだ。
その間もピスキーは執拗にトロールの頭上を飛び回っている。
「あのピスキー、一体何をしてるんだ?」
誰に向って言ったわけではなかったがその疑問にはアカマルが答えてくれた。
「鱗粉を振り撒いているんだ」
確かによく見るとトロールの体中に細かい粒子のようなものが付着してる。あれが鱗粉か。
だけどそんなものがなんの役に立つんだ?
「ピスキーの鱗粉ってのはただの鱗粉じゃない」
アカマルにはこの後何が起こるのかわかっているようだ。瞬きすら忘れてファミリア同士の動きを凝視してる。
変化は突然起こった。
「ぐ、ぐおお……」
あれほど激しく振り回していた棍棒が突然スローモーションのようにゆっくりとした速度に変化した。
「どうしたギガント、早く叩き落とすんだ!」
大道寺先輩の叱咤もトロールの耳に入ってないようだ、動きはさらに鈍重になっていく。
とうとう振りかざしていた棍棒がトロールの手を離れ、ドシンという音と共に地面に落下した。
「なんだ? トロールの奴、一体どうしたんだ?」
まさかあの鱗粉が?
「あの鱗粉、相手を眠らせる効果があるみたいだな」
アカマルの言ったとおり、トロールの瞼がゆっくりと下がっていく。
まるで赤ん坊が遊び疲れて眠ってしまうようだ。
やがて瞼が完全に閉じるとトロールの巨体が音を立てて倒れこんだ。
それと同時に輪になった野次馬から歓声が上がる。
「すげえ! あのピスキー、マジでトロールを倒しちまいやがった!」
そんな称賛の声を意識してか妖精は自分の存在をアピールするように飛び回っていたが、やがて吉沢の「……おいで」の声を聞くと脇目も振らず彼女の肩に飛び乗った。
「……よくやったね」
吉沢が人差し指で妖精の頬を撫でる、さっきまでの機械のような印象とは対称的にその顔は柔らかい笑顔に包まれていた。
妖精も満面の笑みを浮かべてそれに応えているようだ。
一方、体育館裏の中心でいまだ夢の世界を放浪しているトロールを大道寺が必死で起こしていた。
「コラ! 起きろギガント!」
しかし一度眠ってしまったトロールはそう簡単に起きるものではないようだ。
鼻ちょうちんを膨らませて幸せそうな寝顔を浮かべている。
「早く起きろ、このうすらバカ……ぐえっ!?」
不用意に近づいた大道寺先輩にトロールの寝返りが炸裂、先輩は三メートルの巨体の下敷きになってしまった。
「ぐ、ぐるじい……誰がたしゅけて……」
輪の中でどっと笑いが巻き起こった。
結局、数人の野次馬の助力を借りて命からがら生還した先輩は、先ほどの失態などなかったと言わんばかりの不遜な態度で立ち上がると、吉沢を睨みつけ指差した。
「調子に乗るなよ! 今回は引き分だ、次は叩きのめすからな!」
負け犬全開のセリフを吐いた先輩は、ようやく目を覚ましたトロールを起こすと、スタコラと体育館裏から消えていった。
それが終了の合図となって輪を作っていた野次馬達も次々と体育館裏から立ち去っていく。
「いや~、面白かったな~」
「絶対トロールが勝つと思ってたんだけどな~」
それぞれ思い思いの感想を口にして帰り道の会話に花を咲かせていた。
さてと、俺たちも戻るか。
アカマルに声をかけようとしたが、肝心のアカマルは、立ち去ろうとする吉沢を半ば強引に呼び止めて何やら必死に訴えていた。
「……いや」
「……そこを何とか! ちょっと見せてくれるだけでいいから! ほんとちょっとだけ……一瞬だけでいいから……」
だめだこいつ、早く何とかしないと。
「人道パンチ!」
「げふっ!」
正義の鉄槌は見事アカマルの右頬に直撃、謎の奇声を発して三回半ほどキリモミしたアカマルはそのまま地球と情熱的な接吻を交わした。
「見苦しいぞアカマル。こんな場所でセクハラとは」
漫画の主人公のように悪漢に襲われた女の子を守る俺、今最高に輝いてる。
「ちが……オイラはただ……ピスキーを……見せてもらおうと……」
へ?
無言で吉沢に顔を向けると吉沢はコクコクと首を縦に振った。
「まあ……なんだ、そんなこともあるさ。人間だもの」
この後、オレとアカマルが拳を交えたのは言うまでもない。
ちなみにケンカが終わった時には吉沢さんはいつの間にか消えていた。
教室に戻るとすでにお日様は夕日へと姿を変えようとしていた。
帰宅部である俺たちがこれ以上学校に残る理由はない。寄り道でもして家に帰るのがいつものパターンだ。
「あ、おいら今日お前ん家いくから」
「はぁ?」
何言っちゃってんの? このおサルさんは。
「お前の家にあるっていう卵を拝見しに行く!」
ああ、そういうことね。
「嫌とは言わせないぜ! 何せ今までオイラに隠し事をしてたんだからな!」
「まぁ、別にいいけど……」
アカマルにばれた時点でいずれこうなるだろうとは思っていた。
「そんじゃ早く行こうぜ!」
アカマルは俺の背中を押すようにして教室を出て行こうとした。
が……、
「ちょっとそこの二人!」
天を衝くような怒声が背後から聞こえてきた。
「げ! アカネ」
なんという重圧だ。
「カケル、あたしの目の前で掃除当番サボろうなんていい度胸してるじゃない」
あ~うるさい奴に見つかっちまった。それにしてもよく怒るやつだ。
「あ~と、今日はちょっと……用事があって」
アカマルが適当に話を合わせてくれるがアカネの表情は変わらない。
「カケル、今あなたの前には二つの道があるわ。一つは教室を綺麗にして気持ちよく帰る道、そしてもう一つはあんたの血で教室を染め上げて極楽浄土を歩む道よ」
こいつ……目がマジだ! どうするオレ? このままじゃバッドエンド一直線、何とか突破口を見つけないと……。考えろ、考えるんだ俺。
頭をフル回転させて大きく深呼吸する。そして遠い眼をして外の景色に目を向けた。
よし、これだ!
カッと目を見開くと窓を指差してこう叫んだ。
「あ! 赤い人型機動兵器!」
「え!?」
二人が一斉に窓へ目を向ける。
かかったなアホめ。アディオスアミーゴ。
「ぐえっ!?」
逃げようとしたところで襟首を掴まれてしまった。
「引っかかるか!」
「ちぇっ、いけると思ったのに……」
「いいから掃除する!」
「へ~い」
こうなってしまってはしかたない。いわゆるガメオベアと言うやつだ。
アカマルが不平たらたらに文句を言ってくるが、もはやどうしようもできない。
「アカマル、なんだったらあんたも手伝ってくれてもいいのよ?」
「うきゃ!?」
突然のアカネの問いにアカマルは猿になった。
「そ……そういえばオイラ、家の手伝いがあったんだっけ。じゃあまたなカケル」
「あっ、待てコラ!」
待てと言われて待つ奴はいない。アカマルは吹き抜ける空っ風のような速さで教室を飛び出していった。
その場に残る俺とアカネとその他の掃除当番。
「さて、それじゃ始めますか。カケル、とりあえず机の移動からお願い♪」
俺という僕を手に入れたアカネはひどくご機嫌な様子だった。
結局、掃除を終えて学校を出たのは夕日が地平線に溶けだしてからだった。
思ったより時間を喰ってしまった。まったく、凝り性な自分が恨めしい。
普段のこの時間ならアカマルとゲーセンでバーチャルな殴り合いに闘志を燃やしてる最中だろう。
「はぁ、さっさと帰ろう」
なんかどっと疲れた。家に帰って飯でも作ろう。
今日の献立は何にしようかな。そういえばセールの時に買った豚肉が残ってたな。しょうが焼きでも作るか。
あとはキャベツを切って……あ、醤油切れそうだったっけ。次のセールの日にでも買っておくか。
「はぁ……どこの主婦だオレは。高校生の思考回路じゃないな」
まぁ、ウチはしかたないか。母さんは仕事で疲れてるだろうし、このぐらい俺がやらなくちゃ。
「そんじゃ、ご馳走でも作って日頃お疲れの母さんを驚かせるとしますか」
最速で調理すれば母さんの帰宅時間までに何とか完成できるだろう。
学校から家までそんなに距離があるわけじゃない、あっという間に家の前までたどり着いてしまった。
「鍵は……掛かってるな」
母さんは帰ってないみたいだ。内心ほっとした。
鍵を開け、玄関を抜けるとすぐに我が家の中心地である居間にたどりつく。
隣の部屋は俺の部屋だ。居間とは襖で仕切られていてスペースは四畳ほど。
といっても大したものが置いてあるわけではない。ぱっと見た限り目につくのは勉強机とテレビと収納タンス、その他にあるものと言えば布団と目覚ましぐらいだ。
おっと忘れてた。
「ただいま」
俺はしゃがみこむと幻卵の頭の部分を撫でまわした。
「お前はいつになったら孵化するんだろうな?」
母さんやアカマルにはああいったが、やっぱり孵化してほしいと心の隅で思っている俺がいる。親心ってやつか?
「……っと、早いとこメシの支度をしなくちゃ」
もたもたしてると母さんが帰ってくる。
変身ヒーローもびっくりのスピードで部屋着に着替え、お気に入りのエプロンを装着する。
そのまま流れるように台所へ。そして華麗に、大胆に、時に慈しむように食材を料理へと変えていく。
まず生姜焼きのタレを作り、豚肉をそのタレに浸してそれをフライパンで焼く。
うむ、中々の出来、やはりつけダレにはリンゴだな。
添え合わせのキャベツを地味に千切りにして肉と一緒に皿に盛ればメインディッシュの完成。
あとは味噌汁と漬物でもあれば完璧だな。
時間は……よし間に合った。
ミッションコンプリート! 後は目標の帰還を待つばかりだ。
母さんの喜ぶ顔が目に浮かぶ。
ふっふっふっ、さあ母よ。いつでも帰ってくるがいい!
そんな家族水入らずな食事風景を思い描いていると、突如電話が鳴った
今では珍しいダイヤル式の黒電話だ。
フリーマーケットで母さんが一時間かけて値切り倒し、見事二十円で落札した自慢の一品である。
この時間帯なら電話の相手はきっと母さんだな。大方もうすぐ帰るという連絡だろう。
軽やかなステップと共に受話器を取った。
「はいもしもし? 母さん?」
しかし電話の声は母ではなく年老いた男の声だったのだ。
「月城さんのお宅ですか?」
「え? は、はい。そうですけど」
「私、横須賀○○病院の者です」
病院? 病院がウチに何のようだ?
「失礼ですが、月城ツバキさんのご家族の方ですか?」
「はい、ツバキは母ですけど……」
「あの~ですね。大変申し上げにくいことですが……その、そちらにお住まいの月城ツバキさんがですね、先ほど当病院に運ばれまして、至急こちらに……」
そこから先は覚えてない。
頭が真っ白になった。
今、何て言った? 母さんが病院に運ばれた?
焦点の定まらない目に窓が写った。あれほど晴れ渡っていた空はすでになく、厚く広がった暗雲がどこまでも広がっていた。
手にした受話器は鳴り響く雷鳴と共に床へと落下した。
俺はエプロンをはずすのも忘れて着の身着のままで玄関を飛び出した。
誰もいなくなった家内に受話器からこぼれる声だけが空しく響き渡っていた。
「母さん母さん母さん母さん母さん母さん!!!」
無事でいてくれ母さん!
突然の豪雨で目の前すら霞んで見える夜道をガムシャラに走る。
上ではなく前から突き刺さる雨粒がまるでムチのように痛覚を刺激して俺の前進を阻む。耳に入ってくるのは風と水の音、目に映るのは薄暗い灰色の世界。
普段見慣れた道がまるで別の世界だ。
「くそっ! 病院はまだか!」
心臓が張り裂けるほど走ってるのにちっとも病院が見えてこない。
これほど病院までの道のりが遠いと思った事はない。
永遠とも思える道を俺はただひた走った。
「!? あの光は……」
遠く、高い丘の上にうっすらと浮かぶ赤十字のマーク。
母さんのいる病院だ。
冷え切って殆ど感覚すらない体を最大限酷使して傾斜のきつい坂道を登ると筋肉が悲鳴をあげた。だが関係ない。そのまま一も二も無く病院へと駆け込んだ。
この豪雨のせいか病院内はガランとしていた。
そのままの勢いで受付の女性に詰め寄る。
「母さんは! 母さんは無事ですか!?」
しかし受付席に座る女性は小さな悲鳴を上げるだけで返事は帰ってこなかった。
落ち着けオレ。きっと大丈夫、たいしたことない。
深呼吸を繰り返して絶え絶えの息をゆっくりと整える。
そして再度受け付けに尋ねた。
「母さ……月城ツバキの息子です。事故でここに運ばれたって聞いて……」
「あ……ああ、さっき運ばれてきた女性の……」
「そうです! 母さんは……母さんは今どこですか?」
女性の表情が途端に暗くなった。まるで言いにくい事でもあるかのように。
なんだよその顔。何があったんだよ。
数瞬の間を置いて、女性が何かを決意したように真っ直ぐオレの目を見て答えた。
「大丈夫、あなたのお母さんはきっと助かるわ。だから手術が終わるまでお母さんの無事を祈って。それが今のお母さんにとって一番の薬になるはずだから」
その言い回しは女性の僅かばかりの心遣いだったのだろう。
だけどそれは逆にオレにつらい現実を認識させることになった。
なんだよ手術って。大体こういう話のオチってのはピンピンしてる母さんを見て「なんだよビックリしたなも~」とか言って一人空回ってたってのがお決まりのオチだろ?
なんだよ祈るって? まるで母さんの命が危ないみたいじゃないか。
「君は一人? お父さんと連絡は?」
お父さん!?
「父親なんていません!!」
怒声は外の雨音をかき消さんばかりの大きさだった。
ある種の感情が嵐のように体中を駆け巡る。
それは怒り。
頭のてっぺんから噴出した怒りはやがて時間と共に薄まっていく。
そこで思い出した。ここが病院の中だったことを。
女性は右手人差し指を立てて口に持っていった。静かにという意味だろう。
「ご、ごめんなさい、大声出してしまって……」
どうも家族の事になると冷静でいられなくなる。
女性に教えられた道を進むと、薄暗い廊下の突き当たりに大きな扉があった。扉上部に手術室と書いてあるプレートには赤い光が灯っていた。
近くにあったベンチに腰掛ける。
黒く、背もたれもないベンチはひどく据わりが悪い。
それが母さんの安否に黒い影を落とすような気がして不安を感じずにはいられなかった。
無事でいてくれ母さん。
まるで胃を鷲掴みにされたような感覚、胃液が逆流しそうだ。
無限とも思える時間の中、ただひたすら母さんの無事を祈った。
どれぐらい時間が経っただろうか……。
まだ数分しか経ってないような気もするし丸一日は経ったような気もする
母さんとの思い出が頭の中をグルグルと走馬灯のように駆け抜けていた。
座っては立ち上がる不毛な行動を数十回繰り返す中……ついにプレートの灯が落ちた。
終わった!?
もうすぐ結果が分かる。そう思うと尋常じゃないほど心拍数が跳ね上がる。まるで全身が心臓になったみたいだ。
手術室の扉がゆっくりと開かれる。
現れたのはドラマでよく見るような青い手術用の服を着た初老の男だった。
「母さんは無事ですよね!?」
それは質問ではなく願望だった。
慌てふためく俺と対照的に、医者はあくまで冷静にオレを見て、はっきりとした口調で発音した。
「一命は取り留めました」
取り留めた? 手術が成功したのか!
緊張で硬くなっていた体中の筋肉が急速に弛緩していくのを感じた。
良かった。本当に良かった。
今になって足の震えが止まらなくなってきた。もう立っているのが精一杯だ。
戻ってくるんだ。またいつもと変わらないあの平凡で平和な日々が……。
そんな淡い希望は医者の一言であっさりと吹き飛ばされた。
「ただ……」
医者の顔色が目に見えて悪くなった。
「頭を強く打っていて……我々も全力を尽くしたのですが……最悪、二度と目を覚まさない事も覚悟しておいてください」
医者の言ってる事が理解できなかった。
いや、本当は理解できた。だけど理解したくなかった。
母さんがもう起きないかもしれないなんて……。
天国に昇った直後に地獄にたたき落とされた気分だ。
すでに医者の声は聞こえない。まるでテレビでも見てるように現実感が薄い。
よろめき、ベンチに足を取られてそのまま尻もちをついた。
医者が俺の肩を掴んで何か言っている気がしたが、何を言っているのかはわからなかった。
俺は医者に連れられるままにどこかの個室に案内されると、何か錠剤のようなものを渡され、それを飲まされた。
少し苦い気がしたが味は覚えていない。
その後しばらく個室のベッドに寝かされた。薬が効いたのか少しずつ意識がはっきりとしてきた。
そして同時に実感する。
これはまぎれもない現実だと。
目頭が熱くなった。目に映った天井が涙で歪んだ。
薬を飲んでから十分ぐらい経っただろうか? さっきの医者が戻ってきた。
カルテを見て、母さんの病状をオレにもわかりやすく説明してくれた。
説明によると母さんは事故で頭に強い衝撃を受けて脳の一部から出血、それが原因で脳が正常に機能しなくなってしまったらしい。
「昏睡状態から意識を取り戻した例は世界にいくらでもある。希望を捨てなければいつか目覚めるさ」
そう言って医者は話を締め括った。
「……母さんに会えますか?」
母さんに会いたい。
「残念だが……今は無理だ。集中治療室は関係者以外立ち入り禁止なんでね。すまないが規則なんだ」
「そうですか……」
なんだろう、さっきまであんなに色んな感情が溢れてたのに……、もう何の感情も湧かない、怒りも、悲しみも何も。
「近日中には面会できる、その時は連絡しよう。今日のところは帰ってゆっくり休みなさい」
「……わかりました。帰ります」
医者に返事をした記憶はある。
だけどその後どうやって家に帰ってきたのかは覚えてない。
開けっ放しの玄関から四角く照らし出された電球の光が地面に向かって縦長に伸びていた。
中はひどいものだ。
バラバラになった靴、受話器の外れた電話、散乱した調理器具。
いつも綺麗に磨いていた畳に冷えた味噌汁がこぼれていた。
普段ならこの光景を見れば闘志を燃やして掃除に勤しんだだろう。
だけど闘志のかけらも湧いてこない。
まるで電池の切れた人形のようだ。身体から力が湧いてこない。
雨で濡れた体を拭くのもおっくうだ。
散乱した居間を無視して自分の部屋へ向かう。
ふすまの向こう、朝と何も変わらない風景。
この家もこの部屋もこの窓から映る景色だってあの時と同じまま。
ただ、いつも笑っていた母さんだけがいない。
滴り落ちる水滴を畳が飢えをしのぐように吸いこんでいく。
「……これからは母さんの入院費も工面しなくちゃいけないな」
二人で生活するだけでも精一杯だったんだ。学校に行きながらそんなお金用意できるわけない。
「やっとあの制服にも慣れてきたんだけどな……」
もうきっとあの制服を着ることはないだろう。
これからは俺が母さんの面倒を見なきゃならない。
昼も夜も働けば母さんの入院費ぐらいどうにかなるだろ。
「……がんば……ない……と」
猛烈な睡魔が襲ってくる。
ほとんど倒れこむように俺は畳の上に突っ伏した。
どれぐらいの間眠ってただろうか?
あれほど降り注いでいた雨と風は、嘘のように消えていて、かわりにプラネタリウムのような満天の星空が窓の外に広がっていた。
服の湿り具合からいって、どうやらそんなに長いこと眠ってたわけじゃなさそうだ。
精々2~3時間って所か。
ただ、もう眠れる気はしない。
かといって何かをしようと思うほどの気力もない。
窓に映りこむ満月をただぼ~っと見つめていた。
湿度のせいだろうか、月の色が赤く見える。
「赤い……月か」
そういえば昔から赤い月は不吉の前兆だとか言うな。
だめだ、一人だと嫌なことばかり頭に浮かんでくる。
なにか……なにか気を紛らわせられるものは……?
救いを求めるように部屋中に視線を移動させて、ある一か所でピタリと俺の視線は止まった。
忘れていた。目の映る大きな卵の存在を。
小さい頃から悩み事はいつもこいつに相談してたっけ。もちろん答えが返ってくることはなかったけど不思議と話すとすっきりしたな。
赤ん坊をあやす様に幻卵を抱きかかえ、卵の頭の部分を優しく撫でる。
「聞いてくれるか? 今日は色々な事があったんだ」
今日あった出来事を思い出せる限り細かく、腕の中の相談相手に説明した。
母さんと二人で朝食を食べたこと、母さんが慌てて家を出ていったこと、アカネと学校まで競争したこと―正確には逃げ回っていただけなのだが、アカマルと雑談してたら教師に殴られた事、幻獣同士の戦いを見たこと、掃除当番をサボろうとして失敗したこと、母さんを驚かせようとして一人で料理を作ったこと。
そして――母さんが事故に遭ったこと。
「……当たり前だと思ってた日常はこんなにも儚く崩れていくものなんだな」
涙線に僅かに残っていた水滴が頬を伝ってゆっくりと卵に滴り落ちる。
ぽたり、ぽたりと。
しっとりと濡れていく卵の表面が、月の光に反射して、まるでぼんやり光って見えた。
――いや、光って見えるんじゃない。
「ホントに光ってる!?」
光はどんどん強くなり、卵は今や月の光よりも強く光ってる。この狭い部屋を飲み込まんばかりの勢いだ。
とてつもない光量をまともに受け、思わず卵から手を放してしまった。
卵は畳に落下して転がったが、その輝きは少しも失われてはいない。
なんだ、何が起こったんだ?
まさか……。
突然卵が震えだした。
卵の中心から突然現れた小さな亀裂が、表面に雷のような線を描く。
「生まれる!?」
伸びた雷線の奥からさらに強い光が洩れる。
雷線の数はさらに増える。
一本が二本に、二本が八本に。
ピシピシ、とヒビの入る音と共に加速度的に雷線の数は増えていく。
そしてついに、一瞬の静寂の後、すべての色を吹き飛ばす強い光が部屋中に弾け飛んだ。
まるで部屋の中心で竜巻でも発生したように猛烈な風が吹き荒れる。
まるで百も二百もの雷がいっぺんに降り注いだような圧倒的な光。
もちろん目を開けてはいられない。とっさに右腕を上げて目を守る
しかしそれも一瞬のこと、気がつけば光は完全に消え失せ、部屋の中は元の月明かりだけの薄暗い場所へと戻っていた。
「な……なんだったんだ?」
おそるおそる瞼を開いて卵の方に視線を向けた。
そこには俺以外にもう一人の影が畳のキャンパスに映し出されていた。
影の主は小さな女の子だった。
◇◆◇プロローグへ戻る◇◆◇
気がつくと天井を見上げていた。
見慣れたシミだらけの天井。
あれは夢? それとも病んだ精神が生み出した幻?
どちらにしても気持のいいものではなかった。
「どうかしてるな。心臓を抜き取られるなんて……」
ゆっくりと状態を起こす。
体が重い、風邪でもひいたかな?
「夢でも幻でもないぞ」
「うわあぁぁ!?」
背後からの声に驚いてカエルのように勢いよく飛びのいた。
そこには先ほどと同様、卵の殻に腰掛けた女の子が俺の事を興味深そうに見つめていた。
夢じゃなかったのか!? じゃあ、あの出来事は……。
無意識的に胸に手をあてると、ぬちゃりとした感触が手の平を通して全身に伝わってきた。
嫌な予感を感じつつも、視線をゆっくりと胸元へ下げていく。
「!」
胸の真ん中から広がる赤い花、血で真っ赤に染まった服。
「う……うわあああああぁぁ!」
ほとんど無意識に叫び声をあげてしまった。
「うるさい奴じゃな、憶えておらぬのか? そなたはワチと契約したのじゃ」
「じゃあ俺の心臓は!?」
焦る俺に対して目の前の女の子はアクマでにこやか。
「ワチの中じゃ」
女の子は心臓のありかを主張するように自分の胸のあたりをぽんと叩いて見せた。
その、あまりにあっけらかんとした態度に思わず力が抜けてしまう。
「……なんで俺は生きてるんだ? 心臓を抜き取られたのに」
もしかしたら魂が死んだことに気付いていないだけで、俺はとっくに死んでいるんじゃないか? 漫画とかでよくあるオチみたいに。
「安心しろ、死んではおらぬ。穴も開いてないじゃろ」
そういえば……たしかに血が噴出した後はあるが胸に穴も開いてないし出血もたいした事はない。
「お主とワチの命は今ひとつに繋がっておるのじゃ」
命が繋がってる?
頭に大量の疑問符を浮かべる俺に、女の子は「しかたないのぉ」と一言告げて語りだした。
「よいか、一度しか説明しないからよく聞くのじゃぞ?」
彼女は犬に芸でも教え込むような調子で今の状況を説明し始めた。
どうやら今、俺と彼女の命は俺の心臓を通して一つにくっついているらしい。
つまり彼女が死ねば俺も死ぬと言うことだ。
今の俺の身体には心臓が無い。その代わり彼女が注いでくれた大量の魔力が体中を包んでいる。
どうやらその魔力が身体に不可欠な機能を補ってくれているらしい。
心臓の機能をそっくり魔力が代用してくれるらしいが、そのためには定期的に彼女に魔力を注いでもらう必要があるらしい。
それを疎かにすると電池が切れるように身体機能が停止して、あっという間にお陀仏らしい。
つまり、簡単に言えば俺はオモチャのロボットで彼女がゼンマイを巻くご主人ってことだ。
「……と、言うわけじゃ。わかったか?」
信じられない話だが、今更驚くことも出来ない。
「……いくつか質問がある」
学校で先生に質問するようにまず手を上げて指名されてからはっきりとした口調で答える。
「魔力はどのぐらいの周期で注いでもらわないといけないんだ?」
「心臓の代わりをするぐらいならワチのそばを離れなければ心配いらぬ。たとえ離れても太陽が三回沈むぐらいは持つはずじゃ。無論、無駄に魔力を消費しなければの話じゃけどな」
「無駄にってことは……他に何か使い道があるのか?」
「当然じゃ。今は心臓だけじゃが他の臓器が機能しなくなればそこも代用せねばならぬ。その場合、当然魔力の消耗は激しい。それに魔力を消費すれば驚異的な身体能力を使うことができるしの」
「身体能力って、速く走ったり高くジャンプしたりとか?」
「まあ、そんなところじゃ」
意外と便利な能力だな。
「た・だ・し!」
女の子が人差し指を立てながらズズイと俺の顔の前に近づいてきた。
「そなたはワチの下僕じゃ。ワチの意にそぐわぬようなら魔力は補給せん!」
それは事実上の死刑宣告だ。
「わ……わかった」
女の子はにやりと笑うとパチンと指を鳴らした。するとどうだろう、彼女の身体が光の泡に包まれる。
淡く輝いていた光が消え去ると、先ほどまで一糸纏わぬ姿だった彼女の裸体は見たことも無い衣服に包まれていた。まるでゲーム世界の女魔族のようなちょっと露出の高い艶やかな服を着ていた。
「君は……一体、何者なんだ?」
俺は聞かずにはいられなかった。
彼女はにやりと笑ってこう答えた。
「ワチは魔王。万物の頂点に君臨する世界の王じゃ」
「ま……おう?」
女の子は静かに頷いた。
「では参ろうか、カケル。母者のところへ」
女の子は俺に向かって小さく細い手をめいいっぱい伸ばしてくる。
どうして俺の名前を……? そういえばずっと卵の中で聞いてたって言ってたっけ。でも今はそんな事はどうでもいい。
「ああ、行こう。母さんの所へ」
差し出された彼女の手を、俺はしっかりと握り締めた。
「うわああぁぁ!」
なぜ俺がこんな絶叫をあげているかって?
それは今、上空数十メートルの空を見事に滑空しているからだ。
「う~ん、この風この肌触り、たまらんのお♪」
今、俺の命を繋いでいるのは両脇に感じるこの子のか細い腕だけ。
まるでスズメバチに捕まった昆虫のようだ。
なぜこんな事になった?
たしかに俺はこいつの手を掴んだ。だけどそのまま窓を飛び出すとは誰が予想できようか? うん、できないはずだ。
しかも原理はまったく分からないが、いつの間にか自称魔王の背中にコウモリのような翼がついている。
大きさ的にどう考えても飛べるはずない翼で余裕しゃくしゃくで飛んでいる。
しかし高い。落ちたら文句なく即死する高さ。
たしかに空飛ぶ事に憧れたことはあったさ。
竹トンボを頭に付けてみたり、泥棒が使うような風呂敷でモモンガのマネごとをしてみたりもしたさ。
バカだったよ。今なら分かる、自分を支えてくれる大地のありがたさが。
「コラあまり暴れるでない、落ちても責任はとれんぞ! ビョウインとやらにつくのも遅くなる」
そうだ、確かに怖がっている場合じゃない。
一刻も早く病院へ向かわないと。
母さんのためにも。俺の命のためにも。
「あそこだ! あの十字のマークの所に母さんがいる」
言い終えると同時に体がふわふわと浮いた感覚に陥った。
なんだ? 自分の体重すら感じないぞ。
それとほぼ同時に台風のような突風が真上から襲ってきた。
「なんだなんだ!?」
何が起こった? 真上から急に風が……真上?
やっとわかった、魔王が病院目がけて垂直に降下したのだ。
「…………!」
声にならない叫び声が俺の口から洩れた。
点だった病院の屋上が一瞬後には面になり、さらに一瞬後には壁になる。
「うわあぁぁ!」
絶叫と共に床に激突すると思った刹那、魔王はその場でくるりと円を描くように一回転すると、UFOキャッチャーのアームのようにゆっくりと屋上の一角に俺を下ろした。
「着いたぞカケル」
い……生きてる? 死んだかと思った。
無意識的にかつて心臓があった場所に右手を置いた。これだけ精神が乱れたにも関わらず右手からは小波程度の鼓動も感じられない。
ああ、本当に心臓はないんだな、と思いながら荒くなった呼吸を整える。
「何をハアハア言っておるのじゃ、何もしておらぬクセに」
こいつ……わざと言ってんじゃないか?
しかし、何はともあれ俺達は病院の中への侵入に成功したのだった。
薄暗い病院の廊下をコソコソと移動する影。
音を立てないように細心の注意を払いながら俺は母さんの元へと向かっていた。
この小さな魔王を抱きかかえながら……。
「放さぬか! ワチは一人でも歩けるのじゃ」
「しっ、大声出すな。見つかるだろうが」
耳元で、小さく囁くがあまり効果はないようだ。
病院内に侵入した所までは良かったのだが、問題が起こった。
魔王に全く落ち着きがなかったのだ。
右へ左へウロチョロと動き回る上、事あるごとに「これは何じゃ?」攻撃。
そのおかげで危うく見回りをしている警備員に見つかりそうになってしまった。
「お願いだから目的地まで大人しくしていてくれ」
そう言ってみたがどうやら効果はないようだ。
まあ、卵が孵化してから間もない。見るものすべてが新鮮に感じてしまうのも分からなくはないんだが……。
だけどこのままじゃいずれ見つかる。
そんな事態を防ぐため、今は半ば無理やり彼女を抱きかかえているわけだ。
「ここだ」
表札に月城ツバキと書かれたそこには、大きくも冷たく輝く銀色の扉がただ静かにたたずんでいた。
ここに母さんが……。緊張のせいか腕に力が入る。
「カ……カケル、く……るし……い」
その一言で意識が戻った。
魔王は締め付けられる腕から逃れようと体中をバタバタと動かして抵抗していた。
悪い、と一言謝罪して彼女を床に下ろすと、小さな魔王のさらに小さな口から大きな怒声が飛び出した。
「そなたはワチの下僕なのじゃぞ! それを無理やり抱きかかえるとは、まだまだ下僕としての自覚が足りんのじゃ!」
「だから悪かったって」
そう言って頭を軽く撫でてやると、納得いかないといった顔はしたものの、先ほどまでの怒声は幾分勢いを失ったようだ。
なんか主人と下僕というより、手のかかる妹ができた感じだな。
さっきまでの緊張感がどこかに飛んでいっちまった。
「それじゃ、いくぞ」
飾り気のない白い扉をゆっくり引くと、空気の流れと共に漂ってきた消毒液の匂いが鼻孔を刺激した。
医療機器以外、何の飾り毛もない部屋の中に人影が見える。
半透明なビニールのようなカーテンをかき分けると、中で母さんが眠っていた。
「母さん、お見舞いにきたよ」
頭に包帯が巻かれている事以外はどこから見てもいつもの母さんだ。
今にも目を覚ましそうなその様子を見てると、目頭が熱くなった。
「ふーむ、コレは危険じゃ」
魔王が母さんの手を強く握りしめた。
「生命の波動が徐々に弱まってきておる」
「本当に直せるんだよな? ええと……魔王」
そういえば名前を聞いてなかった。今更ながら気付くとは。
「死んでさえいなければ大丈夫じゃと思ったが……ちょっと荒治療になるぞ」
魔王が目を閉じる。 長く、まるで時間が止まったかのように彼女は動かない。
病室の中は長い静寂に包まれる。唾を飲み込む音さえ聞こえそうな静寂。
医療機器の作動音だけが無音の空間を彩っているようだ。
魔王も母さんもぴくりとも動かない、そう思っていたが変化はゆっくりと起こっていた。
蒼白い?
目の錯覚か? 二人の体がぼんやりと光って見える。
まるで目を瞑った時に見えるぼんやりした霧のようなものが二人の周りを浮遊してるようだ。
「見えるかカケル? これがワチの力、この世界で言うなら『魔力』じゃ」
集中してみると、ソレは確かに見えた。
魔王の体から溢れて来るようなソレは、彼女の腕を伝って確かに母さんの体に移動している。
「カケル、ワチを持ち上げろ」
へ? 持ち上げる?
「もっとワチを母者に近づけるのじゃ」
「あ……ああ、わかった」
魔王に言われた通り、そのちっちゃい体をひょいと抱き上げる。
「うむ、もっと右じゃ……行き過ぎじゃ戻れ!」
悔しいが今の俺は何の役にも立たない。せいぜいこの小さな女の子の言われた通りにすることぐらいだ。
「……よし、そこじゃ」
魔王が真剣な表情を浮かべる。
仰向けに眠っている母さんの胸の中心あたりに手を置くと、先ほどまで緩やかに流れていた蒼白い光がまるで濁流のように急激なスピードで流れ始めた。
「なんだ、何が起こってるんだ!?」
質問に対する返答は返ってこない。聞こえていないのかもしれない。
ひとつ言える事は今、目の前の女の子が母さんを助けようと必死に頑張ってくれているって事だけだ。
「……がんばれ。がんばれ! がんばれ!!」
眠ってる母さんはもちろん、トランス状態の魔王にもきっと俺の声は聞こえないだろう。
だけどこの声が僅かでも励みになる可能性があるなら……そう思って叫び続けた。母さんと魔王のために。
魔王が苦悶の表情を浮かべる。額には汗が滲んで今にも倒れてしまいそうだ。
それでも光の流れが滞る事はない。しかし先ほどまでの厚もない。魔王が纏っていた蒼白い光も今は卵の膜のように薄くなっている。
それだけの魔力を注ぎ込んでいるにもかかわらず、ベッドに横になる母さんには毛筋ほどの変化も見られなかった。
「魔力が……足りぬ」
魔王がポソリと呟いた。
だめなのか? これだけ頑張っても母さんは目を覚まさないのか?
いやだ!
「母さんお願いだ! 目を覚まして! 母さん、母さん!!」
何度も無心で母さんに呼びかける。
母さん、母さん、母さん。
すると、魔王の顔が驚きに満ちた表情に変わった。
「これは……」
なにか起こったのかは分からないが魔王は口元を僅かに釣り上げた。
「カケル! もっと強く母者の事を思うのじゃ。ワチの魔力にそなたの念を込めて流し込めば母者の意識が戻るかもしれぬ」
「念って? 母さんの事を強く思えばいいのか?」
「そうじゃ、もう魔力も残り少ない。急げ!」
母さんを思う。
これほど簡単で難しい事が他にあるだろうか。
いつも一緒にいた母さん。
厳しくも優しい。ちょっとおっちょこちょいで子供っぽい所があるけど、しっかりした信念をもってどんな事でも一生懸命頑張る母さん。
親父がいなくなった後、女手一人で俺をここまで育ててくれた母さん。
思い出が走馬灯のように頭の中を駆け巡る。
「いいぞカケル、その調子じゃ!」
自然と言葉が出てくる。
「帰ろう母さん、あのボロアパートに! そして大家さんやアカネ達を呼んで宴会をしよう。母さんの大好物の肉ジャガもカツオの刺身もいっぱい用意するからさ、目を覚ましてくれ母さん」
左腕で魔王を支えたまま、右手で母さんの頬を撫でた。
濡れてる!?
「母さんが……泣いてる?」
意識のない母さんが涙を流している。
「だ、だめじゃ。もう……限界……じゃ」
魔王の体から魔力の光が消えると同時に、彼女を支える左手がずっしりと重くなった。
「お、おい!? しっかりしろ!」
一瞬最悪の結末が脳裏をよぎったが、魔王は腕の中ですうすうと寝息をたてていた。どうやら杞憂のようだ。
魔力を消費しすぎて意識を失ってしまったのか。
「こんなになるまで頑張ってくれたんだな」
濡れた手の平で、手のかかる妹の頭を軽く撫でてやると、うっすらと笑ったようにも見えた。
「…………か……け……る……?」
突如聞こえた懐かしい声。
「母さん!?」
その声は小さくて、普段なら聞き逃してしまっていただろう。
でも、確かに母さんは俺の名前を呼んでくれた。
「母さん、俺はここにいるよ」
腕の中で眠っていた魔王をベッドに寝かせ、母さんの細い手を両の手で強く握りしめた。
「母さん俺がわかる? わかるよね」
俺は夢でも見ているのだろうか? ゆっくり母さんの瞼がと開いていく。
もうずっと目を覚ましてくれないかもしれないと、心のどこかでこの現状を受け入れる覚悟をしていた。
だけど奇跡は起きた。
いや、この小さな魔王が起こしてくれた。最大級の奇跡を。
「カ……ケル。か……あさ……ん……」
「待ってて母さん、すぐに医者を呼んでくるから」
すぐに走り出そうとした。風よりも音よりも疾く駆け出そうとして母さんの手を離そうとした。
「……母さん?」
離そうとしたその手を今度は母さんが握り返した。
「かあ……さん、ね……」
声が小さくて聞き取れない。
「何、母さん?」
母さんの口の傍まで耳を傾ける。
一語一句を聞き逃さないよう全神経を集中させた。
「かあ……さん、お……なか……すい……ちゃ……た」
良かった、いつもの母さんだ。
出尽くしたと思った涙が頬を伝って流れ落ちた。
担当医を含めその場にいた看護師たち全員が目を丸くしていた。
「信じられん。こんなにはっきり意識が戻るなんて……まさに奇跡だ」
機械音以外、静寂の世界だった集中治療室に、今は二桁に近い病院関係者たちが集まっている。
奇跡の立会人にでもなりたいのだろう。
ちなみにその頃、俺たちは病院に忍び込んだことがばれて関係者にこってりと絞られていた――魔王はずっと眠っていたが。
だけどそんな事はもはや問題じゃない。
説教が済むと、魔王を預けて再び母さんの所へ舞い戻った。
「ただいま母さん」
「おかえり」
すでに先ほどまでのスタッフ達はいなかった。
母さんの容態が一段落したので、それぞれ本来の仕事に戻ったのだろう。
手にしたパイプイスをベッドの横で組み立て、そこに腰を下ろした。
「ごめんね、心配かけて」
母さんは浮かない表情で俺を見つめた。
「そんな顔しないでくれよ。すぐに退院できるさ」
飛び切りの笑顔を母さんに見せると、母さんも柔らかい笑顔を見せてくれた。
「あのねカケル……わたし夢を見たの」
「夢?」
物思いにふけるような表情で母さんがゆっくりと語りだした。
「……まっくらな何も無い場所に一人でいるの。とっても寂しくてうずくまっているとね、空から光る糸が降りてきたの。何だろうなと思ってその糸に触るとね、カケルとの思い出がたくさん見えたの」
母さんはクスクスと笑い出した。
「懐かしかったわ。それでね、カケルとの思い出を見ていたら、なんだかすっごく会いたくなっちゃって、会いたいって強く思ったの。そしたら真っ暗だった部屋が急に真っ白に光って……気づいたら病院のベッドで眠っててそばにはカケルがいたの」
「……そっか」
俺の思いはちゃんと母さんに届いていたんだ。
「母さん、実はさ……俺の幻卵がついに孵化したんだ」
「そう……。だから言ったでしょ、母さんのカンは当たるって」
「今連れてきているんだ。疲れて眠ってるけど。待ってて、すぐに連れてくる……」
立ち上がって扉に手をかけた所で母さんが優しく呼び止めた。
「無理に起こしちゃ可哀そうよ。また今度連れてきて頂戴」
「う、うん、わかった」
扉に掛かった手をゆっくりと離した。
「もう遅いわ、今日は帰りなさい。母さんは大丈夫だから」
「そんな!? 今日くらい病院にいるよ」
母さんの鋭い視線が俺を射抜く。ダメだ、この目には逆らえない。
「わかった……また明日来るよ」
本当は帰りたくない、ここで母さんの看病をしていたい。
だけど頑固者の母さんはそれを許してくれないだろう。
「学校……サボっちゃダメよ」
「わかってるよ」
少し重い扉の戸をゆっくりと開けた。
「おやすみカケル」
「おやすみ母さん」
お決まりの夜の挨拶を済ませるとゆっくりと扉を閉めていった。
病院からの帰り道、背中におぶった魔王が目を覚ますことはついに無かった。
起きたら感謝の一言も言おうと思っていたけど、家に戻るとそんな事を思い出す暇もなくなった。
何せ今、家の中は警察沙汰になってもおかしくないほど荒れていたからな。
年末でもないのに俺はせっせと家の大掃除に勤しんだ。
魔王を部屋の布団に寝かせ、居間の清掃にかかる。
調理器具を片付け、こぼれた味噌汁を綺麗に拭き取り、まだ食べられそうな冷えたしょうが焼きを皿ごとラップにかけて冷蔵庫へ移す。
猛烈な睡魔と闘いながらもようやく居間の掃除を完了したのは家に戻ってから三十分後の事だった。
「ふい~、ようやく終わった~」
正直もう無理だ、限界だ。
まだ自分の部屋の掃除も残っているが、それはもう明日に持ち越そう。
部屋に散らばったゴミを端に集め、空いたスペースに布団を敷く。
「ふあ~、疲れた」
そのまま力なく布団の上に崩れ落ちた。
「なんじゃ、こっちは掃除せんのか」
「おわっ!?」
横になった俺の目の前、そこに魔王がごく自然に立っていた。
「何をそんなに驚く?」
そりゃあ、いきなり目の前に立たれたら驚くだろ。
「いつ目を覚ましたんだ」
「さっきじゃ、ドタバタとうるさかったからのぉ」
静かに掃除してたつもりなんだがな。
「それよりも!」
突然魔王の口調が高圧的なものに変わった。
「契約は施行されたのじゃ。お主は完全にワチの僕じゃからな」
「ああ……わかってる。母さんの命の恩人だからな、なんでもするよ」
「ではカケル、最初の命令じゃ! ワチに名前をつけろ!」
名前?
「自分の名前はないのか?」
そんだけ流暢に話してるのに?
「さっぱり思い出せん。言葉も卵の中で時間をかけて学習したものじゃからの」
それにしては喋り方が年寄りくさいな……。あ、もしかして毎週見てた時代劇の影響?
「と・に・か・く!」
魔王がずずいと顔を寄せてくる。
「今すぐワチに名前をつけるのじゃ!」
名前って言われてもな……。
「雅なものを頼むぞ」
う~ん、変な名前はつけられないな。
「魔王……マ……オウ…………あ!」
「なんじゃ?」
魔王はきらきらした目で俺の顔を見つめている。
「花子ってのはどう……ガッ!?」
突然魔王の手の平から野球ボールほどの黒い球体が現れ、見事俺のミゾオチにめり込んだ。
「なんだ……今のは?」
「魔力を球体の形に凝縮して放出したのじゃ。ところで何か言ったか? よく聞こえなかったぞ♪」
魔王は笑顔を保っているが、その小さな体からはとてつもない怒気が溢れている。
こりゃあ本気で考えないと死ぬな。
とは言っても、ネーミングセンスには自信がない。
「魔王……か」
そう言えば日本にも魔王っていたよな。確か第六天魔王とかなんとか言う……。
「どうじゃ、そろそろ決まったのではないか?」
「……テンマ」
「ん?」
「テンマなんてどうだ?」
「テンマ!?」
何となく体中に力を込めて第二撃を受けとめる態勢に入る。
「……あれ?」
意外にも予想していた衝撃は来なかった。
魔王はテンマという言葉を反芻するようにポソリと呟いた。
「ふむ……テンマか。中々良い響きじゃ」
気に入ったのか? ふう、良かった。
「じゃあ今日から君は月城テンマだ……ガフッ!?」
さっきと同じ黒い球体がさっきと同じように脇腹にめり込んだ。なぜ?
「『君』とは誰の事じゃ?」
どうやら怒りの琴線に触れてしまったようだ。
怒り心頭といった様子で仁王立ちしていた。
「悪かったよ、テンマ。ほ~らよしよし」
そんなテンマを引き寄せ卵だった時のようにやさしく抱きしめる。さらにこれでもかと言うほど頭を撫でまわしてやった。
「え、こ……こら!? や……やめにゅか!」
バタバタと手足をばたつかせて抵抗するが、さっきのように実力行使をするつもりはないようだ。
顔を真っ赤にしてるところを見ると、照れるという感情はあるようだな。
「ああ、もう! そのままで良いから聞け!」
テンマは無意味な抵抗を諦め、上目づかいにこちらを見上げた。
「今ワチの魔力は雀の涙ほどに少ない! じゃからとりあえずその力を取り戻す」
「どうやって?」
「卵じゃ」
「卵?」
「そうじゃ、ワチの意識と体が封印されていたように、ワチの魔力もどこかに封印されておるはずじゃ」
テンマの力が封印された卵を見つけ出す……か。
「で、その卵の場所はわかるのか?」
「皆目見当もつかぬ」
「それじゃ、見つけようがないだろ」
「安心せい。近くに卵があればワチの魔力が反応するはずじゃ」
それでも難しいと思うが……ん?
「なあテンマ、本来の魔力を取り戻したらどうするんだ?」
「そんなの決まっておろう。ワチを封印した奴に復讐してやるのじゃ!」
思わず拍手をしてしまいそうな真剣な表情でテンマは言い放った。
何となくまた頭を撫でる。
「テンマは封印されていたのか。しかし何でまた卵なんかに?」
「知らぬ、封印した奴にでも聞くがよい。こら……真面目に話をしてる時に頭を撫でるな!」
「それで、その封印した奴っていうのは誰なんだ?」
魔王を封印するぐらいなんだからやっぱり神様か?
「……知らん」
へ?
「べ、別にいいであろう。そんな事は魔力を取り戻せばおのずとわかってくる」
「でもそんな大切な事……」
「うるさいうるさい! ああ、今日は魔力を使い過ぎて疲れた、もう寝る!」
顔を少しだけ赤くしたテンマはそのまま俺の布団の中へと潜り込んだ。
「お、おい! これは俺の布団だぞ!」
テンマは「知ったことか!」と言わんばかりの態度で領地の半分を占領した。
やれやれ、本当に世話が焼ける。
しかたない、俺は母さんの布団で……。
そう思い片膝をついて立ち上がろうと腰を上げるが、何か妙に服が重い。まるで服が何かに引っかかっているようだ。
「なんだ?」
振り向くと、テンマが俺の服の裾をしっかりと掴んでいた。
「どこへ行くのじゃ」
その眼は真剣そのもの、怒っているようにすら見える。
「布団を持ってくるんだ。二人で一つの布団じゃさすがに狭いだろ」
しかし、相変わらずテンマの腕は服を掴んだまま離さない。
「必要ない」
意志の強いはっきりとした口調でテンマは言った。
「そなた、昔はワチを抱いて眠っておったじゃろうが」
「昔って……それって卵の時だろ」
そんな事はもう何年も前に卒業している。
「卵の時にはできて、今はできんというのか!」
怒りの目を惜しげもなく俺に向けて抗議してくる。
卵と今じゃ、状況が違うだろうが。
「い……いいから手を離せ! 布団を持ってこれないだろうが」
無理にテンマの手を振りほどこうとするが、どうやっても離さない。
「こら! いい加減に……」
思わず強い口調で言ってしまった。
瞬間、テンマの腕がピクリと震えた。
「……そんなに、嫌か?」
先ほどの不遜な態度から一変、想像もできないほど弱弱しい声が返ってきた。
怒りに燃えていた目は、今では捨てられた子犬のような悲しみの目に変わっている。
テンマの腕が伸びきったシャツからゆっくりと離れた。
そのあまりに意外すぎる反応に俺も戸惑った。
「テンマ……」
その時わかった。この子は今、不安で仕方ないんだ。
考えてみれば当然だ。いくら強い力を持っているとはいえ、見た事もない世界に急に放り出されたら……そりゃあ怖いだろう。記憶を失ってるならなおさらだ。
今、この子が憶えているのはきっと、卵の時に感じたぼんやりとした記憶だけなんだろう。
そんな吹けば飛ぶような記憶しか持っていないからこそ、その時に感じた感情やぬくもりを大切にしたいのかもしれない。
「悪かったよ、テンマ」
労わるようにやさしくテンマの頭を撫でた。
「……別によい」
「そうか……じゃあ一緒に寝るか」
テンマは驚くほど素直に頷く。その様子はどこから見ても一人の小さな女の子だった。
蛍光灯のスイッチを消し、二人で布団の中に入る。
こうやって人のぬくもりを感じて寝るのはいつ以来だろう?
俺も昔は母さんの布団によく潜り込んだっけ。
怖い夢を見て泣いていた俺を母さんは優しく抱きしめてくれたな。
ん?
服の袖が引っ張られている事に気づいた。
「どうした?」
寝返りをうつようにテンマの方に体を向けてみると、テンマはもじもじと何か言いたそうな顔をしていた。
「あ……えっと、ワ……ワチが卵だった時のように……その……」
そこまで言葉を続けたが結局それ以上先のセリフは出てこなかった。
しかし何が言いたいかはわかる。
昔は卵を抱きしめて寝ていたのだから。
「ほら、今日は特別だからな」
テンマの手を引いて、胸の中に引き寄せた。
「ひゃっ!?」
昔、幻卵を抱いていたその場所に今、ぴったりと小さな魔王が納まる。
「お休みテンマ」
「う……うむ、お休みカケル」
卵から現れた魔王。
その子は、小さいが強くてわがままでとても手の掛る子だった。だけど弱くて素直でとってもいい子だった。
この日から我が家に新しい家族が誕生した。
月城テンマという名の可愛い女の子だった。