呪魔女っ子メリイちゃん
白いワイシャツから法衣に着替えた男は、座禅を組んで二連の数珠を握りしめ、ひとりきりの室内で目を閉じていた。
「やはり……思い違いではなかった。上の階の気が歪んで流れている。今度引っ越してきた人に何事もなければいいが」
男はさらに神経を集中させた。
「人形だ。大きな人形が見える。あの人形が……」
◇
「行って来るよ、メリイちゃん」
僕は、メリイちゃんの等身大フィギアの頭をなで、今朝もしぶしぶ会社へ向かう。
彼女なし歴24年=実年齢。それでも僕は不幸じゃない。この等身大メリイちゃん――超レアな懸賞ゲット品――がいてくれれば大丈夫。
メリイちゃんは魔女育成ゲーム『呪魔女っ娘』のメインキャラで、黒髪のツインテールに緑色の大きな目をしている。ピンク地のセーラー服に緑のリボンが胸元を飾り、スカートは短めで下着が見えそうで見えない感じがたまらない。すらりとした足には膝下までの赤いブーツ。左手には呪魔女武器の藁人形、右手には大きな出刃包丁を握りしめている。かわいくてかっこいい。見ているだけで幸せだ。
社会人2年目に入り、兄の結婚、実家同居を口実に家を出た。ここ「裏野ハイツ」203号室に引っ越しひとり暮らしを始めて、今日で3日目。家族がいないここなら、メリイちゃんをおおっぴらに飾っておいても邪魔にされないし、ふとんに一緒に入れて寝ていても問題ない。ひとり暮らし最高!
部屋は築30年で少々古いけど、二階の角部屋で日当たりはまあまあで、リビング9畳と洋室6畳の部屋はひとりなら充分な広さだ。しかもバストイレ分離型で駅徒歩7分。これで家賃がたったの4,9万円なのだから、多少古くても文句は言えない。
事故物件かどうかは、契約前に大家さんに確かめた。大家さんは悪徳業者という感じはせず、ふっくらしたどこにでもいそうな中年おばさん。
大家さんによると、前にこの部屋を借りていた20代の男が死んだらしいけど、この部屋ではなく入院先で病死したとのこと。それならここは事故物件ではない。駅近物件でも単に古いから安いのだろう。
その夜、10時を回った頃、仕事から戻った僕は、夕食のコンビニ弁当をつつきながら、日課となっているメリイちゃんのアニメDVDを見ていた。
『呪われなさい、悪しき魂を持つ者よ。藁人形発動、霊魂捕獲! 破壊! 黄泉でおやすみ』
アニメ版もゲーム版と同様、メリイちゃんが藁人形を投げる。藁人形が敵を捕獲し、そこにメリイちゃんが包丁を刺し、敵がバラバラになって、めでたしめでたし……なんだけど。
『いやぁん、失敗しちゃった』
メリイちゃんのスカートがはらりと落ちて、彼女は真っ赤な顔になる。
彼女は呪いに失敗すると服の一部が脱げてしまうのだ。超かわいい。
『やり直すわ。藁人形再発動!』
「ん?」
一話分を見終わって電源を切った僕は、外から入ってくる音に思わず反応してしまった。
『呪われなさい、悪しき魂を持つ者よ――黄泉でおやすみ』
どこかの部屋からメリイちゃんの霊魂捕獲声が聞こえてくるじゃないか。
このハイツの中に、こんなマイナーな魔女育成ゲームを知っているやつがいるらしい。
どの部屋だ?
隣の202号室か?
隣のやつは、入居して3日過ぎてもまだ顔も見ていない。
ふすまを開けるような音は確かに隣から聞こえて、人がいるはずなのに、引っ越し挨拶へ行くと誰も出てこない。借金かなにかで居留守を使っている可能性がある。どういう年代のやつか見当もつかないけど、メリイちゃんのファンならば、仲良くなって熱く語り合いたい。メリイちゃん関係のイベントも一緒に行けるかもしれないし。
よし、今すぐ挨拶に行ってみよう。
心をはずませながら、挨拶用に用意したミニタオルの箱包みを持ち、202号室の扉を叩いた。電気は消えていて真っ暗だ。また居留守を使う気か。メリイちゃんの音も今は聞こえてこなかった。
「隣の者ですが、引っ越し挨拶に参りました」
返事はない。中で誰かが動いている音も聞こえない。また居留守か。あきらめずに声をかける。
「あのう、今、メリイちゃんの音が聞こえたんですけど、こちらではなかったでしょうか。僕、それの大ファンで」
恥ずかしさを堪え、しばらく待つ。
顔をみせてくれるどころか、返事すらなかった。
なんだよ。中にいるなら顔出せよ。勇気を出してメリイちゃんファンだと暴露したのに。
しょんぼり気分で自室に戻る。
ただ赤面しただけで終了。挨拶もできず。202号室のやつはメリイちゃんのファンじゃないのか?
違うとしたら、メリイちゃんの音はどこの部屋からだったのだろう。
この二階建ての「裏野ハイツ」には各階3つの部屋がある。
一階の住民、101号室は雨布佐さんという50歳ぐらいのおっさん。大きな目の人で、髪の半分ほどは白髪だけどはげてもおらず、刈り上げに近い程短く切って清潔な感じ。挨拶時の印象も悪くなく、仕事ができそうなサラリーマンに見えた。白いワイシャツに紺の縞ネクタイがよくお似合いだ。そのおっさんがメリイちゃんを愛しているというイメージは全くないけれど、実はオタク、と言われればそんな気がしないでもない。
雨布佐さんの隣、一階の真ん中102号室の住人もずっと不在でまだ会えていない。今夜も窓から下を覗いても真っ暗だ。この部屋は本当に人がいないようだ。
僕の部屋の真下、103号室は30代ぐらいの夫婦と3歳ぐらいの子どもがひとりいる家庭。たまに子供の高い声は聞こえてくることはあるが、そううるさくもなく、メリイちゃん関連の音が流れてきたことは今のところない。メリイちゃんのゲームは大人要素が強いから、あんな小さな子がいる家庭で楽しむのとはちょっと違うんじゃないかなあ。
とりあえず、103号室のファミリーはメリイちゃんファンの候補から除外。
二階、僕の部屋の隣はさっきの居留守のやつ、そしてそのさらに隣、201号室に住んでいるのは品のよさそうな白髪のおばあさん、倉本さん。ここに住んで20年ぐらいになり、ひとり暮らしだとご本人の口から聞いた。
今朝、ゴミ出しのときに倉本さんを見かけたので、隣の202号室の人がいついるのか訊いてみたら、急によそよそしくなって逃げるように部屋に入ってしまった。どうやら、このおばあさんは、自分の話は大好きで、人のうわさは大嫌いらしい。
あの倉本おばあさんがメリイちゃんのファン?
うーん……ちょっと違うよなあ。孫が出入りしている様子もないし、たまたま動画サイトでちらっと見ていただけかもしれないけど。201号室の倉本おばあさんもメリイちゃんを見ていた人である可能性は低いと思う。
となると、メリイちゃんの音は、やっぱり101号室のサラリーマンおっさん、雨布佐さんの部屋からか。次のごみの日に偶然っぽく会えるようにがんばってみることにする。
◇
入居四日目の夜、僕は普通に就寝した。
たぶん、夢を見たんだと思う。突然意識が覚醒した。
誰かが僕の耳元で何かつぶやいているじゃないか。
『呪われなさい』
『呪われなさい』
『呪われなさい』
メリイちゃん……の声?
『藁人形発動、霊魂捕獲!』
ちょっと待て。
なんだこれ。
かわいいメリイちゃんがほほえみながら藁人形を飛ばす。僕に向かって。
藁人形がゴムみたいに伸びて広がり、僕に巻きついて締め上げてくる。
おい、メリイちゃん、どうしたんだよ。
それじゃあ僕は動けなくなる。
やめろ。
なんで僕を呪い殺すんだよ。僕はおまえの保護者だぞ。
世界の誰よりもおまえを愛しているのは僕。
彼女の手にはとどめを刺す大きな出刃包丁が。
冗談だろう?
それを使ったら僕は死ぬ。
メリイちゃんが声を出して笑いながら近づいてくる。
「うっ……!」
胸を踏み潰されるような強い痛みで目が覚めた。
シミのある天井からぶらさがる豆球のランプが目に入る。時計は深夜二時をまわったところ。
顔を横に向ければ、愛するメリイちゃんが普通に僕と同じふとんの中にいた。
胸を押さえながら体を起こし、数回深呼吸すると、痛みは治まった。こんなことは初めてだ。引っ越して日が浅く、慣れないひとり暮らしの疲れが出てきたかもしれない。
顔や首筋を濡らす汗を袖でぬぐい、寝直す。
「メリイちゃん、僕を殺さないで。愛しているからね」
メリイちゃんを背中から抱きしめ横になって目を閉じた。
悪夢はその日は見なかった。
だけど。
胸に何かが少しめり込んでいるような、おかしな感覚が翌朝になってからも抜けなかった。気のせいだとわかっていてもなんか胸糞悪い。
仕方がないので、次の夜からはメリイちゃんをふとんに入れずに眠ることにした。メリイちゃんだって僕と寝て狭くていやだったかもしれないと思うことにする。
メリイちゃんは窓際に飾っておこう。
◇
なんだかんだで入居一週間が過ぎてしまったのに、隣の202号室のやつにはまだ会えていない。
なんとなく人がいる気配はやはりある。ほら、今、襖を開け閉めするような音がしたじゃないか。やっぱりやつは中にいる。また居留守かよ。メリイちゃんを知っているのはやっぱりこいつじゃないのか。
あれ以来、メリイちゃん関連の音は一度も聞こえてこない。耳を澄ませば、いろいろな物音が入ってくるのに。
リーンと鳴る仏具の音とかすかに流れてくる読経らしき声は、たぶん201号室の倉本おばあさんだ。未亡人らしいから仏壇を室内に置いているのだと思う。念仏が夜に耳に入ってくると不気味な感じがして気持ち悪いけど、そこは壁が薄い安ハイツ。他人の日常音はがまんすべきところだろう。
翌朝、出勤ついでにゴミ集積場にゴミを運んでいると、ちょうどいい感じに、101号室のサラリーマンのおっさん、雨布佐さんが部屋から出てきた。驚いたことに、雨布佐さんは、今日はネクタイ姿ではなく、法衣を身に着けていた。
この人、お坊さんだったのか!
――ということはあの仏具の音はこの人の部屋からの音?
雨布佐さんは僕のびっくり顔を見るとにっこり笑い、自分から語ってくれた。
「実は実家がお寺でして、今日は葬儀の応援で仕事を休んで読経に出かけます。普段はサラリーマンですよ。坊主だけでは食っていけないんで」
「そうだったんですか、あのっ」
せっかく偶然会えたのだから教えてもらわなきゃ。
僕は、急ぎ去ろうとする雨布佐さんを呼び止め、未だ会えない101号室と202号室の住人情報を求めた。
「ああ、101号室の方は40代の男性おひとりですけど、先月、救急車で運ばれたからまだ入院しておられるかもしれません。202号室は、大きな声で言えませんが、ちょっと訳ありで、お隣の倉本さんがお世話しているみたいです」
ふーん。あのおばあさんが202号室のやつをお世話……それで僕が202号室のことを訊いたら急によそよそしくなったわけか。おばあさんが昼間のうちに差し入れを入れているなら、出入りしなくても暮らしていけるわけで。
雨布佐さんは急いでいるようで、メリイちゃんのファンかどうか訊く暇はなかった。でもまあいいか。雨布佐さんならまた会う機会もあるだろう。親切なお坊さんならこれからもいろいろ教えてくれそうだ。
「おやすみ、僕のメリイちゃん」
窓際に飾ったメリイちゃんの頭を撫で、今日も気持ちよく就寝。
なんか体が重い。ふとんが急に重くなったような。
『呪われなさい』
ちょ、マジ? またこのシリーズかよ。
メリイちゃん声がどこかから聞こえる。
『呪われなさい』
メリイちゃん、夢で僕をいじめるのはやめてくれ。
世界で一番おまえを愛しているのは僕。
出刃包丁を手にしたメリイちゃんが笑っている。その笑顔、めっちゃかわいいけどさ、自分が刺されるのはちょっと。
なぜか動けない。
笑いながらメリイちゃんの包丁が、僕の胸に押し当てられた。
痛い。
痛いよ。
しゃれにならない。皮膚がチクチクして、さらにもっと深くゆっくりと入ってくる。
おい、マジ痛い! やめろって!
『呪われなさい』
なんで僕は殺されようとしているんだ?
僕は『悪しき魂を持つ者』なんかじゃない。
「やめろぉぉ!」
リーン、と仏具の音が聞こえた気がして、僕は、はっ、と目が覚めた。時計に目をやれば深夜2時すぎになっていた。
どこかからお経らしい声がもれてくる。雨布佐さん?
声はすぐに止んだ。
電気をつけると何事もなかったような、散らかった部屋が目に入る。
メリイちゃんに目をやれば、置いた場所にちゃんとあった。
メリイちゃんの顔色は青白く、ちょっと不気味に見えたけど、一歩も動いていないと思う。
はぁん? なに考えているんだ、僕は。
動くわけがないだろう。メリイちゃんは人形なんだから。
あまりぐっすり眠れないまま朝はすぐに来てしまった。起きる時間だ。夢の中でメリイちゃんにやられた胸がまだ痛い。
なんか気分が悪い。でも会社に行かなきゃ。朝食なんか食べたくもない。
のろのろと着替え、だるい体にむちうって部屋を出る。眩暈がする。
今日の仕事は午前中で上がらせてもらおう。風邪をひいたかもしれない。
「うわあっ!」
よろめいた僕の体は勢いよく階段の上から転げ落ちて行った。
階段の一番下に叩きつけられ、痛みでもがいていると、誰かが駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか? 今、救急車を呼びますからね」
雨布佐さんだ。今日も法衣姿か……。
遠くから救急車の音が聞こえてきた。
◇
深夜、すーっと押し入れの扉が開いた。
しわだらけの老婆、倉本は背を丸めて、押し入れ内に密かに作られた「連絡通路」を抜けて、隣の部屋202号室に移動した。
6畳の洋室の真ん中にしかれた布団の中には、誰かがあおむけになって眠っていた。
倉本はその枕元に移動すると、髪や顔をゆっくりと撫でまわした。
撫でられている若い男性――どこかの芸能事務所にいそうな整った目鼻立ち。
――の大きな人形。
標準的な成人男性の大きさで、ぱっとみると、本当に生きた人間が眠っているようにみえる。
倉本は誰にも聞こえないような小さな声で人形に話しかけた。
「あんた、具合はどうだい? うまくいったよ。新しく来た人のパワーをもらったからこれできっと元気になれる」
「……」
「まだ足らないのかい? 早く起きておくれ」
そのとき、トントンと扉を叩く音がした。ここ、202号室ではなく、201号室の扉だった。
倉本は急ぎ押し入れを潜り抜けると、自分の部屋201号室に戻った。
「下の雨布佐ですけどお話があります」
倉本がガチャリと扉を開くと、そこに法衣姿の雨布佐が立っていた。
「倉本さん、もうやめませんか」
「はあ?」
「何の話かおわかりのはず。今朝、203号室に引っ越してきたばかりの人が病院に運ばれた。これでとうとう3人目。101号室と、203号室の前の住人もあなたが呪いをかけましたね? 俺だって坊主の端くれです。この建物の空気が異常に歪んでいることぐらいわかります」
老婆は、ふん、と縦しわの入った口元で微笑んだ。
「おや、あたしを責めるのかい? あんたが情報をくれたんじゃないか。今度引っ越してきた人は呪魔女ゲームオタだってさ」
雨布佐は大きなきつい目で倉本をにらみつけた。
「俺は情報を提供したつもりなどありません。あなたが、203号室の窓辺に置いてある大きな人形のキャラについて訊いてきたから答えただけです」
その時の場面には103号室の親子も傍に居り、雨布佐は普通に会話をしただけのつもりだった。
倉本は、怖い顔の雨布佐を恐れる様子もなく、しゃあしゃあと述べ立てた。
「呪魔女っ娘メリイなんて知らなかったから、動画サイトでアニメを観たけどなかなか面白かったねえ。呪魔女人形という最高の媒体があってちょうどよかった。メリイの呪いのセリフが念を込めるのにぴったりで」
雨布佐は険しい顔のままで倉本に詰め寄った。
「あなたは人の命を吸い、人形に命を与えるつもりですか」
「人形? なんのことかい?」
「とぼける必要はありません。あなたが隣の202号室に置いている男性型人形のことです」
「あれは人形じゃない。あの人は、今は人形みたいにみえるけど生きているんだよ。だから、あたしが動けるようにしてやるんだ」
「あなたのやっていることは犯罪だ。人を呪い殺しても、人形が命を宿して動くことなどありえません。まだ続ける気なら警察に言いますよ」
老女は目じりをしわだらけにしてコロコロと笑った。
「どうぞご自由に。証拠なんてないから逮捕されないと思うけどね。もしも取り調べられたら、おかしいのはあんただって言ってやる。あんたの都合の悪い過去を全部世間に公表してやるから」
雨布佐はピクリと片眉を動かした。
「……なんのことです?」
「あんたこそ、とぼけなくてもいいんだよ。あんたさ、過去に上司の女を奪い取った挙句、結局その女を幸せにできず、上司ともども自殺に追い込んだんだって? お坊さんのくせに酷いことをやったねえ。だから実家のお寺にいられなくなってこんなところに住んでいるって?」
「なっ……それは」
「ほら、顔色が変わった。あんたの過去は誰にも言わずに黙っていてやるから、邪魔はしないでおくれ」
「俺のことを調べたんですか」
「あたしの式神が何でも教えてくれるのさ。あたしは若いころは霊能占い師をやっていてねえ」
「あなたが祓い屋かなにかをやっておられることはうすうす気が付いておりました。その式神とやらが、あなたにとりついている本物の悪の親玉。今からでもうちの寺へ来てください。あなたに憑いている悪霊を必ず払ってあげますから」
「いやだね。大きなお世話さ。人間のクズのあんたなんかにあれこれ指図されたくない」
「人間のクズ……」
「ああ、そうさ。あんたは人の気持ちなんか考えずに、自分の考えばかり押し付けている。そういう人間なんだよ。昔も今も。だから大切な人を殺しちまったんだろうが」
「そんなことは……」
返した雨布佐の声には芯はなかった。
「あんたにはあたしをどうこうする権利なんかないからね。あの人、もう少しで起き上がりそうだから邪魔しないでおくれ」
雨布佐はうつむいていたが、拳を握りしめると顔を上げた。
「クズでもゴミでもいい。なんとでも言ってください。繰り返しますが、人の命を食らっても人形に命を吹き込むことなど不可能です。202号室に置かれている人形は、寺へ引き取って供養します」
「うるさいねえ。あの人形は、人形師だったあの人があたしのために残してくれた大切なものさ。あの人が死んだあとの部屋代だってあたしが払っているんだから、問題ないでしょう?」
「あなたの人形は放っておくと人の魂を食らいます。どうしても祓う必要があります」
「魂を食う人形って言うなら、今度越してきた203号室のメリイちゃん人形の方が気持ち悪い。祓うならあっちを先にどうぞ」
「あれはごく普通の人形です。怪しい物は憑いていない」
「ヘボ坊主のあんたに何がわかるのさ。あの人はこんなあたしにもやさしくしてくれた。あたしはあの人が生き返るならなんでもやる。さあさ、用が済んだならとっとと帰っておくれ」
「明日、202号室の人形を引き取りに来ます。危険すぎるので応援を呼びます。この建物の空気はすでに人形に支配されていて、ここでは調伏できません。人形をここから出さないと、このままではあなたまで危ないですよ」
「害獣のような男がよく言うよ。危ないのはあんただ。この人殺し!」
「準備ができたら迎えきますから、明日必ず」
「来なくていいからね!」
雨布佐が帰って行くと、倉本は、再び押し入れを抜けて202号室へ戻った。
「あの男もそろそろ処分しようかねえ。お坊さんだから手間がかかりそうだけど、それよりもまあ、その前に今度来た人からもう少し搾り取ろうか」
倉本は静かに呪の言霊をつぶやいた。リーン、と鳴った鈴の音が静かな室内に広がる。老婆の口から吐き出された言葉は目に見えない列を作り、壁を突き抜け、203号室の方へ流れていく。言葉の列は窓際に置かれている大きなメリイちゃん人形を取り巻いた。
『呪われなさい』
◇
僕は点滴の下がる病室で、ピンポーン、ピンポーン、と何度も呼び出しブザーを鳴らし続けていた。
看護師さんは忙しいのか、なかなか来てくれない。
苦しい。また胸が。息ができない。
いったい、僕は何の病気にかかってしまったんだろう。
メリイちゃんの声が聞こえる。
『呪われなさい』
幻聴なのか?
なんだよこれ。
メリイちゃんが僕を。
「メリイちゃ……」
メリイちゃんの包丁が僕の心臓を潰しかかっている。
なんで?
呪いに失敗してくれよ。頼むから。
「助けて……やめ……ろ……」
メリイちゃん!
『黄泉でおやすみ』
◇
裏野ハイツ203号の室内に置かれたメリイちゃんの首がコロンと落ち、ボトンと鈍い音を立てた。
「成就したね」
倉本はにっこり笑った。
それから数日後、雨布佐は、メリイちゃん人形がきゅうくつそうにごみ袋に入れられて捨てられているのを見た。203号室の遺族が捨てたのだろう。メリイちゃん好きのあの若い男は病院で亡くなった。
「なんてことだ……」
問題の202号室の人形を取り上げようとしたが、倉本は警察を呼んで、大声で騒ぎ立て、がんとして人形を渡さなかった。202号室は倉本が契約していることになっており、雨布佐には室内に入る権利はなく、大家にも人形を取り上げる手段がわからなかった。手をこまねいているうちに203号室へ引っ越して来た若い男は死んでしまった。
「あの悪霊人形さえなければ、このメリイちゃん人形だってこんなふうにはならなかった」
メリイちゃんの首はちょうどごみ袋の中から外を覗くように入れられていた。
メリイちゃんの愛らしい顔は、顔全体が青黒く変色していた。毒でも飲んだような色。窓辺に飾ってあったのを見た時は、こんな色ではなかったような。倉本が呪殺の道具として使ったに違いない。
「俺はまた何もできなかった」
あの時と同じ。
愛するあまり、人から女性を奪い取ったが、彼女はそれを悔やんで死を選んでしまった。入水して発見された彼女は元の男と手首を強く縛り合っていた。
彼女が死ぬほど悩んでいたとわかっていて、どうすればいいか考え続けているうちに事が終わった。今回もこれと同じこと。もたもたしているうちに大切な命が失われてしまった。
「まただ。俺は……愚図すぎる。窓を割ってでも202号室に入って人形を引きずりだしていれば、新しく来た人を救うことができたかもしれなかったのに。畜生!」
思わず声に出してしまった雨布佐は、全力でその場から駆けだしていた。
急ぎすぎ、横合いから出てきた車が――。
急ブレーキ、そして鈍い衝突音が、さやわかな朝の空気を突き抜ける。
車にはね上げられた雨布佐の脳内で、メリイちゃんの声が一瞬流れた。
『黄泉でおやすみ』
◇
202号室の人形の頬を撫でながら倉本はつぶやく。
「お坊さんも案外簡単だった。ねえ、あんた、そろそろ起きておくれよ。まだ魂が足らないのかい?」
あっ、と倉本は喜びの声を上げた。
人形はむっくりと上半身を起こしていた。
「あんた、よみがえったんだね。ああ、よかった。会いたかった……」
身を起こした人形を抱きしめた老婆の目から涙があふれる。
「話はできるかい? あたしのことはわかる? まだ魂が必要なら、もうひとりぐらい」
急に会話をふさがれた老婆の喉が、ひゅう、と鳴いた。
彼女のしわがれた首には人形の硬い指が食い込んでいた。
◇
「ねえ、ママ、なんか臭い」
103号室の子どもが最近しきりに訴える。
「ん? おしっこ出ちゃったかな?」
「違うの。お外、臭い」
3歳ほどの幼子は窓の外を指差す。
「そうねえ、確かに生ごみが腐ったような臭いがする。どこからかしら。雨布佐さんも、新しく来た人も亡くなったからお部屋の生ごみがそのままになっているのかもね」
外からかすかな異臭が入ってきている。
「その辺に野良猫の死体でもあるんじゃないか?」
父親が窓から外を覗いたが、それらしいものは見当たらなかった。
数日後、異臭を訴える103号室の親子の要請により、大家と数人の警察官が202号室の鍵を開け室内に入った。
死臭が充満する202号室内には、腐敗が始まっていた倉本の遺体があった。彼女の細い首は、おかしな方向にねじ曲げられていた。そのすぐ横に敷かれた布団の中には、イケメン俳優風の人形が一体。目を閉じているそれは、肌も人間そっくりでやわらかい素材で作られており、まるで生きた人間が眠っているように見える。
警察官たちが室内を調べ、押し入れ内の通路を発見した。
「この部屋の荷物はこの人形だけか?」
「そのようだ。倉本さんはこの人形のためだけにこの部屋を借りていたらしい。押し入れ内から出入りしていたとみられる」
「おや?」
「どうした?」
「おいっ、見ろよ、この人形、さっきまで」
その場にいた者たち全員が息を引く。
ギャッ、と声を上げた者もいた。
閉じていたはず人形の目は、ぱっちり開いて爛々と輝き、その口元には微笑が浮かんでいた。
「この人形っ、生きている!」
了