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ポルノシアターのブルース

作者: さむらいみ

 俺がムーチョと出会ったのは、じめじめとしたカビと精液の臭いが壁の奥まで染み付いた地下のしみったれた古いポルノ映画館だった。

 今時オールナイトのポルノ映画館に来るやつなんてのは、俺と同じようなドヤからあぶれて寝どこ探しのあげくにたどり着いた半分ホームレスみたいなのしかいない。

 少なくとも、三日前に流れ着いたこの街に終夜営業の映画館があったのは、俺のような人間にはありがたい事だった。

 画面上で展開されている男女の絡み合いなんかは、すでに駅に貼ってある宣伝ポスター並に無意味で、その日も俺はクッションの潰れた狭い椅子に体を捻じ込んで、なんとか眠気を呼び寄せようと奮闘していた。

 朝方、浅い眠りを繰り返したあげく、外に出る前にトイレへ行こうと嵌り込んだ椅子から体を引っこ抜いて立ちあがり伸びをするが、体中が強張って寝る前より疲れてるような気がする。

 穴だらけのビロードが貼りつけられた観音開きのドアを押しあけ、ロビーに出てトイレへ向かうと、トイレの前の壁に男が一人立っていた。

 190センチ近いんじゃないかと思うような長身で、横幅もがっしりと大きく、服装は細いストライプ柄の入ったダブルのスーツに、白いマフラーを結ばず首から垂らし、薄暗い照明が点滅する中でもレイバンのサングラスをかけている。

 その場所にまるでそぐわないマフィアみたいな格好をした大男が、ポケットに手を突っ込み俯き加減で壁に寄りかかって立っているのだ。トイレへ行くにはその男の前を通らなければならず、俺はトラブルへの予感に一遍に眠気が吹き飛び、下腹に重い石を次々詰め込まれるような気分でトイレへ向かった。

 前を通り過ぎても男は何の反応もしなかったのだが、ほっとして便器の前でチャックを開けて真っ黄色の小便をひり出し始めた瞬間、男がトイレへ入って来た。

 男は隣の便器の前に立つが、小便を始める気配が無い。

目の球だけを動かして横を見ると、男は小便もせず、便器の間にある仕切り越しに俺の小便を流し続けているペニスを凝視していた。

 瞬間的に頭に血が上った俺は、「ふざけんな」と叫び男の顔面に拳を叩きつけた。

 身長差25センチ、体重差40キロの相手と喧嘩して勝てるようなスキルなど勿論あるわけが無かったのだが、こんな生活へと落ちぶれた原因となっている性格はどうしようもない。

 しかし、痛んだのは俺の拳だけだった。まるででかい岩を殴ったような感触だった。

 少しずれただけのサングラスの隙間から覗く目をきょとんとさせて、男は驚いたように俺を見ていた。

 俺は絶望的な気分で痛む右手をさすりながらも、男を睨みかえした。

 しばしの沈黙。

「パンチより、こっちのほうがダメージだよお」

 男が間の抜けた声で、自分の足を指差す。

 小便の途中にパンチをしたせいで、振り向いた勢いをそのまま乗せた出続け中の小便が、男のスーツの足にたっぷりとかかっていた。

「あ、すまん」

 男の情けない言い方に、思わず謝る。

「気にしなくていいよお。僕が悪いんだからさ」

 男はそう言いながらサングラスを直すと、トイレの個室へ行き、トイレットペーパーをガラガラと引っ張り出してズボンを拭き始める。

「お前、ゲイか」

 俺が聞くと、個室にペーパーを流しながら男が答える。

「違うよお。でも、男の人のおちんちんを見るのが好きなんだ」

「それってゲイだからじゃないのか」

「ううん。わからないよ。おちんちんって、人によって全然違うから、いろんなおちんちんを見てみたいんだ」

「まったくわからねえ」

「兄さん、コーヒー好き? よかったら、ご馳走させて。迷惑かけちゃったお詫びに」

「二度とおれの股間に興味を示さないなら付き合ってやってもいいぜ」

「うん。わかった。じゃあ、一緒にコーヒー飲も。あ、僕の名前、ムーチョ」

 男は洗面台で手を洗いながら、無邪気な笑顔で言った。


 俺たちはこれから会社へ向かう会社員でほぼ満席に近い低価のコーヒー屋へ行った。

 小便の臭いをほのかに漂わせている見るからに胡散臭い男二人に顔を引きつらせるカウンターの女の子の表情に気付く様子も無く、ムーチョは楽しそうにメニューを選ぶ。

「兄さんも好きな物頼んでよ。僕がご馳走するから」

 結局俺たちは二人とも一番安いブレンドコーヒーを頼んだ。

 ムーチョのスーツは明るい所で見ると、ほつれだらけで薄汚く、マフラーも黄ばんでいるし、サングラスは一目で安物と分かるレイバンもどきだった。

「ちゃんとした格好してないと、おちんちんを見られる人も嫌でしょ」

 なんでそんな服装をしているのか聞くと、ムーチョは真面目な顔をしてそんな事を言う。

 確実にちゃんとした格好というものを勘違いしているうえに、意図は完全に失敗している事に気付いていないらしい。何より大男にポルノ映画館のトイレで股間を覗かれる男にとっては、相手の服装など何の関係も無いという大事な事が分かっていない。

 その後三時間にわたって、ムーチョは楽しそうに今まで見た色んなタイプのおちんちんについて語った。その話にまったく興味は無かったし、店の店長が頻繁に俺たちの横のテーブルを拭きに来て早く出て行けオーラをまき散らしていたが、俺はなんとなくこの大男の事が憎めない気持ちになっていた。


 その日以来、俺たちは映画館で会うと、そのままコーヒーを飲みに行くようになった。

 映画館は相変わらず俺の宿代わりだったし、ムーチョは定期的にあそこでおちんちん観察を続けていたしで、なんだかんだ週に1,2回はムーチョと話した。

 ムーチョはその日に見たおちんちんについて報告をし、俺はそれを適当に聞き流し、コーヒー屋の店長の顔は日に日に険しくなっていくなんて事がしばらく続いたある日、ムーチョが珍しく真剣な顔で切り出した。

「兄さん、頼みがあるんだ」

「金なら俺もねえぞ」

「違うよお」

 実際コーヒー代はいつもムーチョ持ちで、金持ちそうでは無かったが少なくとも俺よりは金に困ってる様子は無かった。

「じゃあなんだ」

「僕、今度娘と会うんだ」

「娘?」

「うん。ずっと昔に別れた奥さんが、やっと会う事を許してくれたんだよお」

 こいつがかつて結婚していて、娘までいるってのは、ちょっとした衝撃だった。

「娘が二十歳になったから、一度だけ、お祝いをしてもいいって」

「そうか、良かったな」

 内心の動揺を悟られないように答える。

「それでね、兄さんに僕の彼女の振りをして欲しいんだ」

「は? 意味わかんねえ」

「娘が家に帰って奥さんに僕の事聞かれた時、彼女と一緒だった事にしたいんだ」

「何でそんな必要があるんだよ」

「奥さんは僕に彼女がいれば、きっと安心なんだよお。奥さんや娘に近づく心配が無いからね。もう僕の事を怖がらないで済むんだ」

 ムーチョと元妻との間に何があったのか俺が踏み込む話ではなかったが、それなりに不幸で面倒な事があったのだろう。珍しく悲しそうに目線を下げるムーチョの表情を見ても、その事が分かった。

「でも、どうやって」

「映画館の受け付けのおばちゃんに、服と化粧品を借りるお願いをしたんだ。大丈夫だって」

「お前、あのババアと知り合いなのか」

「うん。いい人だよ、あのおばさん」

 例の映画館にはいつも受付に同じ婆さんが座っていて、世の中の全てを見たけどその全てに興味が無いって表情で客が券売機で買った入場券の半券を千切っている。

「ね、だから、お願い」

「あ、ああ」

 必死な表情で俺を見るムーチョに、嫌と言えず曖昧な返答をしてしまった。


 三日後、映画館の前でムーチョが待っていた。

 手には紙袋を下げている。

「兄さん、待ってたよお。娘と会えるの、明日になったんだ。リハーサルやろうよお」

 嬉しそうに言うムーチョに、断る口実を考える事を諦めた。

 取り敢えず映画館の中に入ると、ムーチョは受付のババアに半券を手渡しながら、ありがとうありがとうと繰り返す。

 ババアはそのムーチョに向かって見ようによっては笑顔のように見える表情を浮かべている。このババアの表情筋がまだ活動している事に驚きを感じてしまう。

 まず、トイレに行って紙袋に入っていた服とカツラを身に付ける。

 服は50年前に買ったような生地の色も柄の色も霞んだ花柄のワンピースで、小柄な俺はなんとか着る事が出来た。

 頭に肝試しに使うようなボサボサに絡みまくった黒髪のカツラを被る。

 割れ目だらけの鏡にその姿を映して見ると、いつだったかに観たホラー映画の化け物そっくりだった。

 ロビーに一脚だけ置かれた長椅子に座り、ムーチョが俺の顔に化粧をした。

 薄暗い照明の下で長椅子に横座りで向かい合って、マフィアコスチュームの大男が化け物みたいなオカマに化粧をしている風景は地獄でしか見られないような恐ろしい物だったが、この場所にそんな事を気にするやつは一人もいない。

 化粧をしても、化け物感は薄まるどころかさらに増したように見えた。こんな姿で彼女だと紹介しても、娘の心配と恐怖は増えるだけに違いない。

「大丈夫だよお。僕の娘、ちょっとぼんやりしてるから」

 俺の心配をムーチョはまったく意に介していないようだった。

 俺たちは朝まで映画館で過ごし、娘との待ち合わせ場所に直接向かった。


「今日のためにレストランを予約したんだよお」

 と嬉しそうに話していたムーチョだったが、実際行ったのは国道沿いのファミリーレストランだった。

 客入り三分の一程度の店の一番奥の席に、予約席の札が所在無げに置かれていた。

 店員に注文は連れが来てからしますと断って並んで座っていると、ほどなく女が店の扉を開け、迎えに出た店員と何か話すと、俺たちの席に向かって来た。

 女は、贔屓目に見てもほぼゴリラだった。

 真っ赤なTシャツと伸縮素材のパンツに巨大な体を無理矢理押しこめ、店内を睥睨しながら大股で歩いてくる。おかっぱ頭の下にある顔には、肉に開いた穴のような目と、風通しがやたら良さそうな鼻と分厚い唇が、小学生が始めて描いた似顔絵のように配置されている。

「あ、ミミちゃん、こっちこっち」

 ムーチョが立ちあがって嬉しそうに手招きをする。女はその声に何の反応も示さないままやって来ると、無表情のままドスりと座った。

 ムーチョが店員を呼んでメニューを持って来させると、「好きな物、なんでも頼んでいいからね」と嬉しそうに言いながら、俺とミミちゃんにメニューを手渡す。

 ミミちゃんは無言のままメニューを見て、無言のままコールボタンを押して店員を呼んだ。

 店員が来ると、黙ったままメニューの写真を指差し、ハンバーグステーキとスパゲッティナポリタンと鶏のから揚げとチョコレートムースを注文した。

 俺とムーチョは、コーヒーだけを頼んだ。

 ミミちゃんは分厚いのを気にしているのか、唇を内側に丸めこむようにしているせいで、益々ゴリラっぽく見えた。肉の陰に隠れた目は、ほぼ真っ黒で表情も読み取りにくい。

「ミミちゃん、元気だった? ママは? 元気にしてる?」

 ムーチョが聞くと、少し考えるように間を置いた後、ミミちゃんはようやく口を開く。

「うん」

「そうかあ。二人が元気でよかった」

 注文した物が運ばれて来ると、ミミちゃんは「頂きます」も言わず、黙々と食べ出した。

 それは掃除機がゴミを吸い込むような勢いで、店内に響き渡る音も掃除機その物だった。

「この人、僕が今付き合ってる人」

 ムーチョが俺を紹介し、俺が軽く頭を下げると、ミミちゃんは初めて俺の存在に気付いたように箸を止めると、無表情のまま少しの間俺を見つめた。

「そう」

 それだけ言うと、すぐに俺の存在など忘れてしまったかのようにバキューム活動に戻った。

 食事会は寒々しい空気のまま一時間ほどで終了したが、ムーチョは満足そうだった。

「成人のお祝いに何か欲しいものある?」

「シャネルのバッグ」

 最後にムーチョが聞いた質問にミミちゃんはその時だけ、ほんの少し感情の籠った声で答えた。

 バナナパフェを食べてから帰ると言うミミちゃんを残し、俺たちは店を出た。


 半月ほど、ムーチョは映画館に姿を現さなかった。

 その間一度だけ繁華街の道端でムーチョとばったり顔を合わせた。その時、ムーチョはいかにも柄の悪そうな男たちと一緒で、その男たちに何か断ってから俺の前まで走って来ると、息を弾ませて言った。

「今、ちょっと仕事をしているんだ。時間が出来たら、兄さんにもお礼をさせてよ」

「お前、大丈夫なのか?」

 少し離れた所から俺たちを見る男たちに目線を送りながら聞いてみるが、ムーチョは何の事か分からない様子だった。


 数日後、映画館に行くと受付のババアが俺の顔を見て、無表情のまま口を開いた。

「ムーチョ、死んだよ」

 意味が分からず、目だけで先を促す。

「お金がいるとかで、筋者から危ない仕事を紹介してもらってたらしいよ。そのあげくにトラブルに巻き込まれて刺されたんだと」

「お金って、何にそんな」

 思い当たるのは、シャネルのバッグだった。

 その日以降、どんな姿勢を取っても映画館の椅子では眠ることが出来なかった。

 そろそろ別の街へ行く頃合いだった。

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