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エルフ・インフレーション  作者: 細川 晃
第四章 革命の予兆

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革命の予兆1

 ガダルニア首都、ガイア。元老院本会議ビル、最上階。

 魔物大進行から丁度二年が経過したある日。

「メルカル様、お時間です」

 ガダルニア独裁官メルカル。今、彼の両手首に重厚な手錠がかけられた。

「…………」

 メルカルは抵抗しない。


 その気になれば、机の中の武器を使い、指先一つで己を拘束する不届き者を分子単位まで粉砕可能だったが、彼は自由を奪われた両手に目線を落としもせず、地上で最も高い人工物の最上階から、実に晴れやかな表情で、澄み切った空を仰ぎ見るばかりであった。

 メルカルを取り囲むのは、幼さを顔に残す三名の少年達。振り返ったメルカルは、順々に彼らの顔を眺め、それぞれの名を呼ぶ。

「メルキオール、カスパール、バルタザール」

「はい」

 三名は、名前を呼ばれたそれぞれのタイミングで歯切れよく返事する。まるで、メルカルと少年達とが師弟であるかのように。

「ガダルニアを任せた」

 それだけ言うと、メルカルは颯爽と本会議ビルの最上階を後にする。

 彼の両脇は、対物ライフルの銃弾すらも挫く装甲を有する警備ロボットで固められており、まさに実刑判決を言い渡された罪人のそれである。


 メルカルは現在、ガダルニア史上類をみない大罪人であった。

 メルカルは独裁官としての任期を終えたのである。

 ガダルニアにおいて独裁官となる者は、事前に自分の任期を宣言しておく必要がある。メルカルの任期は、将来発生するであろう魔物の襲来から二年後まで。つまり、今日、この日までであった。


 独裁官の権力は絶大だ。それこそ、ガダルニアに住まう全生命体の生殺与奪権を手のひら握しているに等しい。故に、この独裁官の椅子は、嫌われ者のババであり続けなければならないのである。

 この国では、独裁官となること自体が大きな罪となるのだ。

 独裁官は、その破格の権力が放つ誘惑の輝きすら霞む程に、数々の制約によって雁字搦めにされている。

 そんな制約の一つが、任期満了後の独裁官の即時更迭である。最短でも十年間の投獄生活を、元独裁官に強いるのである。


 ガダルニアの為に身を粉にして尽力してきたメルカルは、外界から隔絶された独房に潔く自ら身を投じた。

 暴れることを考慮しての、重武装の警備ロボットなど不要と言わんばかりの堂々とした退任である。彼に独裁官への未練は欠片も存在しなかった、むしろ重役から退けた解放感で清々しい。

 なにしろ、眼前に山として積み上がっていた問題の全てを、他者になすり付けることができたのだ。  耳にするだけで頭痛を覚える問題の数々。メルカルにとっての独房生活とは、それらの問題に今度十年間は関わらなくてよいとの福音なのである。

 この数年間、独裁官の椅子に座り続けたメルカルの精神は、擦り切れ、限界まで摩耗していた。

正直なところ、このガダルニアがどうなろうと、もはやメルカルは知ったことではなかった。

 最終覚醒したエルフの個体数が、一千体を超えたとの報告がなされている。

 もう止められないのだ。エルフという名の爆弾が臨界に達したのである。後は、炸裂して世界の支配構造を創り返るのみなのである。


 本質的な意味での、ガダルニアの終焉は近いのだ。

 メルカルは、ガダルニアの黄昏を他者に押し付ける為に、三名の賢者を選出した。いずれも、ここ数年で頭角を現した若手の逸材達だが、この詰みを打開できるとは到底思えない。

 それでも、自殺した無能な賢者達よりは数千倍優秀である。メルカル自身、彼らの能力には何度も助けられた。

 彼らがより大きな権力を手にしたいと熱望していたので、せめてもの褒美にと、賢者の地位を授けたのである。沈みゆく泥船の船頭を自ら志願するなど、メルカルにとっては失笑ものだが、彼らが望むならば是非もない。自分と同じく、沈む船と運命を共にすればいい。

「せいぜい、頑張ってくれ」

 疲れ果てたメルカルの声が、独房へと続く無機質な暗い廊下に残響する。




「それでは、最高意思決定会議を始めます」

 独裁官が去った本会議ビル最上階の一室は、賢者達が集い、ガダルニアの趨勢を策定するという本来の役割を取り戻した。賢者はわずかに三名と、定員の四分の一にしか達していないが、およそ三年ぶりとなる正式な会議であった。

 会議は滞りなく進み、各自に分担された役割におけるガダルニアの現状を報告し合い、議論する。メルカルが優秀だと太鼓判を押すだけあって、従来の賢者達では結論を出すまでに一年は掛かっていたであろう三十もの議題が次々と消化されていく。ものの四時間で、議論すべき議題は残り一つとなった。

「最後の議題。……エルフについてです」


 エルフの名が口にされた途端、場の空気が変質した。色濃い緊張と恐怖が、賢者達の表情に浮かぶ。彼らは交互に視線を合わせ、一様に口を噤む。静寂が場を包んで、五分あまりが経過した。

「――我々は闘う他ない。ガダルニアをなんとしてでも守るのだ」

「異議なし」

「同じく、異議なし。エルフ殲滅に賛同します」

 最初から退路はない。何としても勝利せねばならないのだ。ガダルニアはこの数年間で国力を大幅に引き上げた。これまで、旧来の賢者達が様々な理由をつけて遅延させていた技術開発も盛んに行い、数々の画期的新兵器の生産ラインも構築されている。独裁官メルカルは、腐っていた国家の屋台骨を取り払い、超大国の健全化に見事成功していたのだ。

 だが、それだけではエルフ達に太刀打ちできない。


 ところが、完全覚醒を果たしたエルフの、真の恐ろしさを知らない年若い賢者達は、絶頂にある現在のガダルニアの勝利を疑わなかった。慎重に慎重を重ね、最善を選び続ければ、エルフを根絶やしにするなど容易い。そう考えたのだ。

「――エルフ殲滅計画を提唱します。賛同の者はご起立ください」

 思い悩むまでもない。闘わねば終焉に行きつく。ガダルニアが終わるのだ。

「ありがとうございます」

 すべての賢者が立ち上がり、満場一致でエルフ殲滅計画が承認された。来たるべき戦いの日を定め、最高の戦力を揃えるべく、賢者達は奔走することとなる。




 解放歴二〇六九年。

 トートス王国の北東に位置する、エルトシル帝国の帝都ペンドラゴンには、マニエール学園という最高学府が設置されていた。全寮制の六年制。総生徒数二千五百名を誇るマニエール学園は、通常十二歳から入学可能で、順調に進級すれば十八歳で卒業する。

 ただ、マニエール学園の門扉をくぐる為には、倍率五十倍の入学試験をパスしなければならず、どうにか入学できたとしても、学府のカリキュラムはどれもハイレベルで、入学した生徒の半数以上が留年を経験するとされ、卒業までに二回三回と留年を重ねる生徒も多くいる。


 だが、入学試験がいかに高倍率で、授業がいかに難解であろうとも、ここを目指す者は後を絶えない。

 マニエールは、過去一千年間、トリキュロス大陸中の才能ある人間が集結し続けた学園だからである。この学園を卒業するだけで、エリートの中のエリート。軍人になれば、平民であろうとも、下士官を飛ばして士官に。商会に勤めれば、商館で一級コンシェルジュの側に置かれ、将来の一級コンシェルジュとして、様々なノウハウを叩き込まれる。研究者になれば、各国の研究機関から引く手数多だ。

 そして各国の貴族や王族も、箔を付ける為にと、最愛の子女をこぞってマニエール学園に入学させる。学園には、王侯貴族枠という特別な定員枠があり、男爵以上の爵位を有する貴族は、宝石貨十枚を納めることで入学試験を免除することが可能となるのだ。

「これより、第一千二十四回、マニエール学園入学式を開催します」


 収容人数三千名のマニエール学園が誇る大講堂では、今まさに、栄えある入学の儀が執り行われようとしていた。

 今年度の入学者数は、去年よりも少ない六百名。この六百という数は学年が進む毎に減り、六学年生では半数以下となる。学園を去る生徒の理由は様々だが、最も割合が高いのが二連続留年による退学だ。マニエールでは、一つの学年に最長でも二年間しか留まれないのである。

当然、王侯貴族はその限りではない。

「続いて、ご来賓のお言葉」

 式は粛々と進む。最前列の新入生は緊張した面持ちで口を噤み。後列へ、学年が上がる毎に、その表情には退屈の色が濃くなっていく。


 マニエール学園に特定の制服はなく、生徒は全員私服である。王侯貴族席と平民席とで大講堂は二分され、正面から見て左側へ行けば行くほど、身なりに貴金属や宝石の類が目立った。だが、例外も居た。極西、一番左側の王族が座する席に、プレートアーマーを身に付けた少女が鎮座していたのだ。

 鎧を纏おうとも問題はない。何を纏おうと本人の自由であるし、そもそも鎧を装備してはならないという規則が存在しないからである。屁理屈ではあったが、彼女の鎧姿を批判する者はいない。鎧は遠目で見ても、芸術品のようでありながら機能美に満ちた造りをしている。

彼女の鎧姿は凛々しく、美しく、まさに男装の麗人であった。

「それでは、今年の入学筆記試験主席並びに実技試験主席を発表いたします」

 マニエール学園の入学試験は大変難しいことで有名だ。何故なら試験は、筆記のみならず、受験者の戦闘技術までもが採点の対象となるからである。


 筆記は、歴史、宗教、魔法学、数学の四科目。実技は、指定日までに魔物一頭の討伐だ。なお、自分が魔物を斃したことを証明する為に、商会に証明部位を届ける必要がある。商会を介するので、他者が狩った得物を自分の物とする不正は絶対に通用しない。

両方の技能を精査し、よほど飛び抜けた技能を持ち合せていない限りは、筆記と実技の両点数を平均し、最終得点を導く。つまり、頭が良いだけでは学園の門扉をくぐることすら叶わないのだ。

 壇上の演壇の前に白髭を蓄えた高齢の学園長が立ち、その隣の司会進行役の手元に、二通の封筒が届けられる。

「名前を呼ばれた新入生は、壇上へとお進みください」

 当然ながら、この主席発表に、特別枠から入学した王侯貴族は関係ない。毎年ここで発表されるのは、末端貴族の準男爵や騎士爵、平民出身者に限られている。一千回を数えるマニエールの入学式ではあるが、王侯貴族から主席入学者が出たのは両手で数える程なのだ。

 ――にも関わらず。今年、それは起った。


「――筆記主席者、トートス王国、シルフィール=ファル=トートス王女」

 彼女の名が呼ばれた途端、数秒の静寂の後、場がワッと盛りあがった。居眠り寸前だった上級生達も、王族が主席となる数百年ぶりの偉業に拍手し、大講堂は歓声に包まれる。

上級生達の中には、筆記主席となったトートス王国王女を一目見ようと、実技教師の拳骨も恐れずに立ち上がる猛者もいた。そして硬直する。主に男性が。

「う、美しい……」

 と、誰が初めに口にしたのだろうか、起立した主席新入生を目にした男子生徒は皆、彼女の容姿に見惚れていた。

 彼女を間近で見た者は、誰であろうと放心の溜息を吐く。

幾枚ものプレートが重なり合い、彼女の体にフィットするように造形された鎧には、精緻な紋様が走り、もはや一個の完成された芸術作品であった。


――肩口で切り揃えられた彼女の金糸のような髪の毛が、雪花のような肌と白銀の鎧に栄え、歩く度に、プレートの擦れ合う涼やかな音色が響く。

緊張の欠片もない澄まし顔のシルフィールは、ゆっくりとした歩調で壇上へと上がった。同年齢の中でも比較的小柄なシルフィールであるが、背筋の伸びた堂々たる立ち姿に、鎧が似合う。彼女は鎧を着こなしていた。常日頃から纏っているのだろう、歩みにぎこちなさはない。

シルフィールは壇上で、実技主席者が呼ばれるのを静かに待つ。

「実技主席者……」

 手元の用紙を読み上げようとした司会役の教師は、この時初めて実技主席者が誰なのかを知ったのかもしれない。記入間違いではないかと、壇上の学園長に目配せしている。視線を受け、学園長が微かに首肯した。未だに半信半疑ではあったが、司会は高らかに、実技主席者の名を呼ぶ。

「失礼しました。――実技主席者、トートス王国、シルフィール=ファル=トートス王女!」

 今度こそ、マニエールの大講堂は歓喜と混迷のるつぼと化した。


 筆記実技共に主席を取得した者は、過去に三名存在するが、皆、騎士爵の出身であった。身分の高い者、それも王族がダブルで主席というのは、マニエール一千年の歴史上初の出来事であった。

 学園の生徒のみならず、来賓、そして一般参列者までもが騒ぎ始める。だがその喧騒は、学園長が口を開いた途端に静まった。

「筆記主席、シルフィール=ファル=トートス王女。筆記評価、八百点満点中、八百点。――筆記主席」

 場が凍りつく。マニエールの入学筆記試験は、一科目二百点満点のペーパーテストを四科目行う。テストとは、いかに点数差を付けさせるかに重きを置く。つまり、絶対に満点を取らせない為の問題が、どの科目にも一問や二問隠されているのだ。

 しかしながら、場を氷結させる事柄はこれだけで終わらない。


「実技主席、シルフィール=ファル=トートス王女。討伐した魔物、未踏破エリア生息のレッドドラゴン、レベル六百。実技評価、八百点満点中、八百点。――実技主席」

 参列者達は、すでに常識という名の回路がショートしてしまったのか、未踏破エリア、レッドドラゴン、レベル六百という単語を聞いても呆然とするのみであった。

 異様な静寂の中、シルフィールには、魔結晶から削り出されたペンと短剣が授与される。ペンは筆記試験、短剣は実技試験の、それぞれの主席合格者に渡される一品である。


 これを受け取るのが平民出身者ならば、材質が魔結晶と知って、その価値と達成感に震え、涙の一つでも流すのだろうが、シルフィールにとって魔結晶とは、石ころと同義なので、たいした感慨もない。

 一礼したシルフィールは、仏頂面を崩さずに壇上を後にする。

 その後どうにか持ち直した入学式は、順調に進行され予定された時刻に無事終わった。

 魔物の大進行からおよそ十年。十四歳となったトートス王国シルフィール王女の何かと規格外な学生生活がこれから始まるのだった。




「起きる」

 シルフィールの朝は早い。全寮制のマニエールであっても、朝日も顔を見せていないこの時間に、毎日欠かさず起きるのはシルフィールくらいのものだろう。

音を立てないよう注意を払いながら手早く鎧を装備すると、熟睡中のルームメイトのよだれまみれの寝顔を一瞥し、部屋を出た。

 彼女は、朝霧に煙る学園の校庭を黙々と走る。

「…………」

 全身鎧で、しかも帯剣し、なおかつ全力疾走するシルフィール。

彼女は表情一つ変えることなく、汗も掻かず、凛々しく固めた仮面のような表情で、鎧を鳴らしながら延々と走り抜く。

 空が明らみ始めた頃、シルフィールは立ち止まる。大きく息を一つ。ようやく彼女の顔に幾筋かの汗が伝っていた。


 次の鍛錬に移る。演習場で剣を抜き放ったシルフィールは、正眼に構え、練習相手を脳裏に思い描く。すると、夢想の住人が現実に召喚された。

 小柄で童顔。とても武人には似つかわしくない白銀の少年が、同じく白銀の手甲を両手に装備し、油断なく自分を見据えている。

 外見は子供でも、纏う闘気は達人のそれ。眼光には高純度の殺意が滲んでいる。白銀の髪と瞳、白亜の肌。薄っすらとした鋼の筋肉が、ゆったりとした武道着の下に隠されていた。

 シルフィールの抜群の記憶能力が生み出した幻影は、冒険者最強の称号を冠した存在、ウルクナルだ。

 六歳の頃より、何万回と、彼と共に組み手を行ってきたシルフィールには、彼の戦い方が完全にインプットされている。その記憶は、目を閉じて数秒瞑想するだけで、彼の幻影が眼前に具現するまでに至っていた。しかもこの幻影、自分が望めば日々の鍛錬の相手にもなってくれるのだ。

「はあッ――」


 初手。斬り込みは上段。無挙動からの一歩で、五メートルの距離を詰めたシルフィールは、鉄塊をもスライスするホワイトドラゴン製の剣を振り下ろす。が、難無く回避され、振り抜きで無防備な脇腹を晒した右側に回り込まれる。

 シルフィールとしても、初手が躱されることなど百も承知しており、振り抜きと同時に後退を開始していた。ウルクナルの拳が、彼女の残像を喰い破る。

「――やッ」

 好機は訪れた。ウルクナルの攻撃モーションは終っていない。無防備な肩口へと切っ先を定める。地を蹴って、渾身の突き攻撃を放った。

 タイミングは上々。速度も申し分なく、己の限界に近い。まだ届いてもいない剣の先端が、彼の肩口を貫くと確信できる程の理想的な突きだ。つまり、現在の彼女が考え得る限り、最高の一撃だったのだが、ウルクナルはそう容易くないらしい。

 手甲の上を刃が滑り、切っ先が肩口から大きく外れる。幻影の火花を散らしながら、金属が激しく擦れ合う幻聴を聞く。


 何という理不尽だろうか、確実に反応が間に合わない隙を狙った一突きだったにも関わらず、ウルクナルの手甲ははじめからからそこに置いてあったかのように存在し、シルフィールの刃を受け流した。瞬きすら永遠に思える刹那の間に、打撃途中から体勢を立て直し、彼女の攻撃を防ぎ、手刀を喉元に突き付ける。

 次元が違う。

 シルフィールは、脳裏に描いたウルクナルの幻影と相対する度にそう感じるのだった。

 だが、このデタラメさは紛れもなくウルクナル本人の強さそのもの。膨大な魔力を駆使した原初魔法を抜きにしても、彼の戦闘能力は間違いなく一つの極北に達している。

「……ゆきます」

 十秒程の休憩の後、再び幻影を相手取った模擬戦が開始される。結局シルフィールは、今日も、ウルクナルに一撃たりとも攻撃を加えることは叶わなかった。




「シルフィール、おはよう」

「……おはよう、ございます、カレン」

 太陽が顔を出し、寄宿舎に活気が戻ってくる時間。荒い呼吸を繰り返し、滝のように汗を流していたシルフィールに声が掛けられた。腕を伝って剣へと汗が伝う。剣を一振りして、鞘へと収めた。

「今日も凄かった。どう、愛しの人から一本取れた?」

「ち、違います! そんなんじゃありませんから!」

 シルフィールを茶化し、気軽に言葉を交わすのは、カレンという十八歳の女性であった。彼女は、シルフィールのルームメイトである。

 短く切り揃えられた茶髪と、野生動物のようなしなやかで鍛え抜かれた肢体を有するカレンは、意地の悪そうな笑顔を作りながらシルフィールに迫る。

「いひひ。いいじゃん、別に。で、どうだったの?」

「もう。……今日もダメでしたよ。私の剣なんか掠りもしません」

「シルフィールの技が一切通用しないなんて、その愛しい人は相当な化物なんだね」

「だーかーらー! 違いますッ!」


 平民出身で年齢も十八歳と離れているカレンではあるが、シルフィールとは友人であった。

 カレンは面倒見がよく、気さくな性格で、シルフィールが彼女に気を許すまで時間は掛からなかった。接していて実に気持ちのよい人物である。

「カレン。少し前に、私と本気の模擬戦をしたいと言っていましたよね。今からしてみますか?」

「ぜひ手合わせして欲しいところだけど、もう時間だね。食堂が開いちゃう」

「! それはいけませんね。――今日もお願いできますか?」

「はいはい、お姫様」

 おどけながら腰のホルスターから杖を抜くカレン。淡い魔力光がぼんやりと杖の先に宿り、カレンは短く詠唱する。

「水よ、在れ」


 瞬間、シルフィールの頭上に大きな水の塊が発生し、重力に従って一気に流れ落ちた。滝のような水流がシルフィールの汗を一気に洗い流す。初級の水系統魔法行使は三度行われ、汗を流してサッパリしたシルフィールは、豪快に頭を振って水気を払った。

 そんな野性味溢れる脱水方法に、カレンは苦笑しながら風系統の魔法で彼女を乾かす。

「ホント、シルフィールと一緒にいると、貴族とか王族とかのイメージが崩れてくわ……」

「むぅ。それって、私が王族に相応しくないって意味ですか?」

「いや、そうじゃなくてさ。何て言うか、シルフィールみたいに親しみやすい王族もいるんだってことが新鮮でさ」

「……まあ、親しみやすいと言って貰える分には嬉しいですが、結局は王族らしくないという意味ですよね」

「何、もしかして気にしてるの?」

「いえ、自分が、壊滅的に王女が務まらない性格であることなら自覚しています。今更何を言われようとも気にしません。――気にする必要もありませんから」

 自嘲気味に、時には諦め気味に、シルフィールは呟きながら目を閉じて、カレンが生み出す風に身を任せている。カレンの乾燥魔法には、かすかに火系統が絡められ、乾いた温風が杖の先端から噴き出している。細やかな魔力操作が成せる芸術的な二系統の複合魔法だ。


 カレンは、土を除く三系統の魔法が行使できる上級魔法使いである。しかも、剣の腕もなかなかのもの。何せ彼女は、五年前にマニエール学園へ実技主席入学を果たした逸材なのだ。シルフィールには遠く及ばずとも、大量生産品の鋼の剣一本で、ブラックベアー程度なら難無く斬り伏せてしまうことだろう。

 その分、勉学の方は大いに苦手としているが。

「よし、乾いた」

「ありがとうございました。お礼は、……アレで構いませんか?」

「――ふぇふぇふぇ、シルフィール様も大分わかってきたようですな」

「…………」

 邪悪な笑みを見せる悪友に、大きなため意を吐くシルフィールだった。




 学園の食堂で平民生徒と混じりながら、カレンと共に朝食を食べたシルフィールは、鎧姿のまま、教科書類が詰まった鞄を手に下げて教室に向かう。

 一学年は一階、二学年は二階、三学年は三階、四学年は四階をそれぞれ占領し、五学年六学年は共同で五階を使用している。何故かと言えば理由は単純で、学年が上がる度に生徒数は先細りし、六学年生に至っては毎年三百名を割り込んでいる。酷い年は、二百名を割ったこともあったらしい。それだけ、 この学園での勉学実技は過酷なのだ。

「シルフィール、今日って実技の日、勉学の日?」

「もう、いい加減覚えてくださいよ。今日は勉学の日、最初は歴史、その次は宗教。一日遠征を行う実技の日は明日です」

「あー、そっか。折角、実技科を選んで六学年まで上がったのに、どうして歴史と宗教なんかやるんだろ」

「一般教養です!」 


 五階にある六学年の教室へと、十四歳のシルフィールは、十八歳のカレンと共に入っていった。

 マニエール学園は実力主義の権化のような施設である。実力が伴えば、校則の許す限り、生徒の希望は大概叶えて貰えるのだ。今年入学したばかりのシルフィールがいきなり六学年の授業を受けているのは、彼女が学園長に、最上級生への飛び級を承認して貰えたからである。

 それも当然の帰結だったのかもしれない。

 現代科学の父にして大発明家のマシュー、次世代魔法の開祖にして至高の魔法使いであるサラ。その両名に四歳の頃から英才教育を施され。六歳からは、ウルクナルとの教練、さらにはバルクによるエル フリード育成カリキュラムを、通常の勉学と並行してこなしてきた。

 それは、人間とは肉体性能が根本から異なる、エルフリードという種族を基準とした英才教育であった。

 ――エルフリードという言葉は、この十数年で、神話上の一個人の名から、冒険者パーティ名を経て、一個の種族を表す言葉へと変化していった。

 現在のトートス王国では、エルフという言葉が急速に消えつつある。死語になりつつあるのだ。緑色の髪を持つエルフが、この十年間でほとんど消え。白化したエルフ全員が、陰惨な過去を塗り潰すように、自分達のことをエルフリードと呼び始めたのである。


 エルフという言葉を過去へ追いやるほどに、エルフリードは超人だ。素手でドラゴンを殺し、身一つで空を飛ぶ。

 そんなエルフリード基準の超人的な英才教育を受け、十三歳で冒険者資格SSSランクを取得したシルフィールにしてみれば、低学年のマニエールのカリキュラムなど児戯に等しい。学園長が六学年の教室にシルフィールを入れたのは正しい判断だったのだ。

「じゃ、シルフィール、後は頼む!」

「はいはい」

 言うや否やカレンは机に突っ伏して、始業前から静かな寝息を立て始めた。昨夜も遅くまで剣や魔法の鍛錬に勤しんでいたのだろう。彼女は興味のない歴史と宗教の授業を捨てている。そして今朝の魔法行使のお礼として、板書をシルフィールに任せ、睡眠を勤しむのだ。後でシルフィールからノートを写させて貰う予定なのである。

「席に付け、授業を始める」


 壮年の歴史担当教師が教室に入ってきた。カレンが授業中に寝るのは普段のことなので、教師は彼女を一瞥したきり注意することもなく授業を始めてしまった。何度注意してもカレンが居眠りをやめないので諦めているのだろう。

 そしてシルフィールも、ホワイトドラゴン製のプレートアーマーを着こんだまま授業に臨んでいるが、教師から特別なにかを言われることはなかった。これももはや見慣れた光景で、クラスメイトの誰もがその銀発色にわずかな視線を向けるばかりで、もう、大きな反応を示すことはない。シルフィールの美貌を目当てとする虫が寄ってこないのは、彼女が常在戦場の構えを示し続けている為だろう。

 長い長い歴史の授業が終わると、これまた非常に長い宗教の授業が始まる。ここでもカレンは熟睡していたが、教師に注意されることはなかった。

 本日の三時限目と四時限目は、校庭での実技演習である。

「よっしゃー! 実技だッ!」

「ちょっと、カレン! 引っ張らないで!」


 叫びながら復活したカレンは、実技科特有の圧倒的に男子生徒率の高い教室をシルフィールの腕を引っ張って駆け抜け、校舎一階に設けられた女子更衣室へ飛び込む。

 服をポイポイと脱ぎ去り、手なれた手付きで備品の鎧を装着した。そこに女らしさなど微塵もない。もっとも、エルトシル帝国の教育機関で随一の苛烈さを誇るマニエールの実技演習に、男らしさや女らしさなど不要と言わざるを得ないが。




 校庭に出ると、筋肉の塊のような教師が、剣を持って叫んでいた。

「これより、実技演習を始めるッ!」

この教師の声は学園中に響き渡っていることだろう。

「常に走れる者こそが、真に優秀な兵士だッ! 先ずは、この荷物を背負って学園を二十周ッ!」

 男子生徒が、うへーっと声を出すなかで、シルフィールとカレンは真っ先に三十キロの重さがあるリュックサックを背負って走り始めた。

鎧、剣、三十キロの荷物を身につけて猛烈な速さで走り始める女二人。これに感化された男子生徒達は、重りの詰まったリュックサックに我先にと飛び付き、全力疾走で二人を追った。

 鋼鉄鎧に比べ軽量なホワイトドラゴン製の鎧を装着しているシルフィールだが、重量の差分を事前に測定し、その分の重りをリュックサックに積み込んでいるので、他の生徒達と同じ重量を装備している。

「一等、シルフィール! 二等、カレン! オラオラどうして男共! 今日もこの二人に負けているぞッ! そんなんで将来のエルトシル帝国軍が立ち行くのかッ!?」


「…………」

 教師の発破にも無反応な男子達。それもそうだ。全身の穴という穴から汗の噴き出し、心臓が痙攣したように高鳴り続けている。肺は貪欲に大気を求め、自分の意志とは無関係に犬のような呼吸を繰り返していた。

 そんな男達の隣で。

「あーッ、悔しいッ! もう少しだったのにッ!」

「それじゃあ約束通り、今日の昼食おごってくださいね?」

「うー。わかったよ」

 汗の滴を額に浮かべるだけで、平然と立ち話を続けるシルフィールとカレン。肉体能力において、この二人は桁が違っていた。


 十分ばかりの休憩がはさまれ、その間に納屋から器具を持ち出して演習場に並べていく。

「これから、実戦形式の訓練を行う。得物は真剣。二人一組となって本気の斬り合いを行ってもらうッ! 遠慮することはない。腕の立つ魔法使いを複数名常駐させている。大概の怪我は治癒可能だ!」

 空気に緊張が走る中、普段と変わらぬ表情なのはあの二人だけであった。

「組分けだが、シルフィールはカレンと組むように」

「はい」

「はーい」

 人間同士の本気の殺し合いなど一度もしたことのない男達の合間をすいすいと抜け、彼女達はさっさと自分達の縄張りを確保し、ただの鋼製ながら刃を潰していない真剣を手に取った。

 カレンは肉厚の両手剣、シルフィールは片手剣を正眼に構える。

「シルフィール、その腰の剣は置かなくていいの?」

「当然です、この剣は私の命と同等ですから、わずかな間でも手放すなんてとんでもない」

「その、見たことも聞いたこともない金属で造られた鎧も?」


「はい。この鎧も、剣と同様かけがいのない一品ですから」

「トートス王国は、そんなにも見事な剣や鎧を造れるのか、……うん。ますますシルフィールの国に興味が湧いてきた」

「夏季の長期休暇にでも遊びに来ますか?」

「え、いいの?」

「はい、カレンにご予定が無ければ是非。王都の案内ぐらいならかって出ますよ?」

「じゃあお願いしようかな。シルフィールの愛しい人もこの目で見てみたいしねっ!」

 シルフィールの愛しい人、と筋肉教師並みの大声を張り上げるカレン。彼女の声は演習場だけに留まらず、授業中の校舎へも届いたことだろう。

「――ぶっ、カ、カレン!」

「隙ありッ!」


 ワナワナと震えながら赤面しているシルフィールへ、カレンは鉄剣を振り下ろした。

 刹那、オレンジ色の火花が瞬き、金属同士の激突に空気が震える。

「ふ、ふふ。やってくれましたねカレンッ!」

「あちゃー。完璧に入ったと思ったんだけどなー。やっぱり、その反射神経は反則級だわ」

 真上から振り下ろされた大剣を、片手剣の腹で滑らせて受け流し、獣の如き健脚で、両者の剣先が届かない距離を一瞬にして確保するシルフィール。正眼に構えた刃にはもう迷いがなかった。油断なくカレンを見つめ、次の動作を警戒している。

「もう容赦しません。――行きますよ」

「さあ、こいッ!」


 シルフィールとカレンの戦いは、妥協と容赦を知らない本気の斬撃の応酬だった。普段から笑顔で語り合うルームメイトに、迷いなく鋼鉄の刃で斬りかかる二人。いくら腕利きの水系統魔法使いが控えているとは言っても、頭、首、心臓、潰されれば取り返しのつかない臓器が密集する友人の人体を、素人が、剣で斬り付けることなど絶対できない。震える指先と理性が、斬撃を許さないのだ。

「オラ、男共! あの二人を見習え! この実技は、実際にエルトシル帝国幹部候補生が行っている訓練だ。この学園を卒業すれば、士官就任が確定しているとはいえ、斬り合いの一つもできないようでは、下士官達に示しが付かんぞ! 優秀な帝国軍人、優秀の冒険者になりたければ、さっさと剣を構えろッ!」

 六学年としての本格的な授業が始まってまだ二週間足らず。今はおよび腰な彼らだが、十分な才能を持ち、土台も完成している。半年もすれば、一端の戦士として完成するだろう。そんな風に演習場を眺める教師は考えていた。

 ただ、一組の例外はあったが。


 その例外とは言わずもがな、シルフィールとカレンの組みだ。あれは既に、戦士として完成している。カレンならば、剣一本でタワーデーモンを、魔法も合わせて使えばワイバーンすらも余裕で仕留められるだろう。

 そしてシルフィールに至っては、入学前にレッドドラゴンを討伐したSSSランクの冒険者だ。どうしてそんな怪物が、今更マニエールで授業を受けているのかが謎である。

 元Sランク冒険者の教師にしてみれば、シルフィールに教えるべき技術は一つもなく、逆に自分が、彼女の弟子にしてもらいたいくらいなのだ。

 真剣を用いた授業は、幾人かの怪我人を出したものの、魔法使いの治療によって途切れることなく続けられた。途中、戦いにおいての気構えや、戦闘中に負傷した際の行動。何が起きるか予測のできない実戦でも必ず役立つ基礎知識が丁寧にレクチャーされた。

 実技の教師は、その外見に似合わず、実に教え方が上手い。


 元々物分かりのよいマニエールの学生達は、教えられた知識をスポンジのように吸収し、次々と自分の物としていった。

 当然、例外はあったが。

 教師が模擬戦を中止させて生徒達を集め、有効な知識を伝授している時でも、彼女達は我関せずと斬り合いに没頭していた。実力主義が何よりも優先されるこのマニエールに、芸術的ですらあるその斬撃の応酬をやめさせようと考える者は誰もいない。

「……であるからして、水系統が使えない場合の応急処置として、土系統で石の輪を造り出し、傷口よりも心臓に近い位置を圧迫する。出血が酷く、緊急性がある時は、火系統で傷口を焼くのが有効だ」

「先生、風系統しか使えない場合はどうすれば……」

「うむ。その場合はだな――」

 人外二名を置いてきぼりにして、マニエール実技科六学年の授業は続く。




「あー。お腹空いたー」

「今日は何にします?」

「私はー、ちょっと奮発してー。ワイルドピッグのステーキ三人前、ブラックベアーの煮込み二人前、サラダ盛り合わせと、食パン一斤、デザートに甘い物も欲しいな」

「じゃあ私は、控え目にワイバーンステーキ五人前にしましょう」

「お、ワイバーン五人前とかブルジョワー。流石はSSSランク」

「むう。お金が欲しいならカレンも稼げばいいじゃないですか。腕も確かなんですし、近場の森で半日狩るだけでも金貨五十枚は稼げますよ?」

「それは無理。休日は寝て過ごすって決めてるから」

「…………」


 などと話しながら食堂に入り、腹の空かせた生徒達の大列の最後尾に並んでいると、一個の集団が現れた。全員が十代中頃で構成された計四名のその集団は、列などお構いなしにずかずかと食堂に入り込み、我が物顔で食堂のおばちゃんに注文している。

 おばちゃんが首を横に振ると、シルフィール達の数倍姦しく騒ぎ始めた。

「何だあれ?」

「貴族みたいですね、どうして平民用の食堂の一階に来ているんでしょうか?」

 マニエール学園の食堂は二階建てになっていて、一階は平民出身者、二階は王侯貴族用と明確に仕切られている。

 正確には、提供される料理の値段が高すぎて、身分の高い生徒しか利用できないだけであるが。

 シルフィールも本来は、二階を利用するべきなのだろうが、あそこは量があまり多くないのである。

極度の大飯食らいであるシルフィールにしてみれば、どれだけ味が良くとも腹が満たされなければ意味がない。ハッキリ言ってしまえば、利用価値は皆無であった。


 それに堅苦しいのだ。一応、テーブルマナーは知識として覚えたが、料理の味が分からなくなってしまう程に、貴族達との食事は堅苦しい。トートス王国王女として臨む、公務での食事以外では、絶対にテーブルマナーは守らないと心に決めているシルフィールだった。

「あれだけキラキラした取り巻きがいるってことは、相当爵位の高い貴族だろうけど、シルフィール知っているか?」


「うーん。記憶が確かなら、エルトシル帝国の第二皇女カトレーヌかも……」

「げっ、この国のお姫様かよ」

 数分間、第二皇女を中核とした貴族集団を眺めていた二人だったが、食堂のおばちゃんと皇女の取り巻きが何やら言い争いをしているようだ。

「列が進まない……。おばちゃんも可哀相だし、シルフィール、――いやシルフィール=ファル=トートス王女様、どうかお願いします。第二皇女様に一言注意してやってください! このお腹を空かせた、哀れな愚民めらの為に」


 ウルルと、瞳に偽物の涙を湛えるカレン。彼女を基点に、頼みのシルフィールへと悲しげな表情を向けるのは、ノリのよい実技科の六学年男子達だった。

 地獄の教練を共に耐え抜き、耐え難い空腹に襲われている彼らの連携は、以心伝心の域に片足を踏み入れているようだ。

「……わかりました!」

 ここまで大勢に頼られて動かないのは、王族としての沽券に関わる。ただ、喧嘩腰で行っては外交問題に発展しそうなので、剣はカレンに預けておく。

「カレン、少しの間、これを持っていてください」

「い、いいのか?」

「はい」

 途轍もなく高価で、しかも命と同等だと言って憚らないシルフィール愛用の剣が、目の前に突き出される。


 カレンは剣を確りと受け取ると、神妙な面持ちで任されたと首肯した。

 シルフィールは、ゆっくりと食堂の奥に位置する配膳カウンターへと向かう。

「――カトレーヌ様がここまで言っていらっしゃるのに、どうして料理を用意しないのですかッ!」

「あなたのような身分の低い料理人なんて、いくらでも代えが効くことを理解した方がよろしいのではありませんか?」

「カトレーヌ様せっかく、あなたの創作デザートをお食べになりたいと仰っているのです。平民が、カトレーヌ様の御心を無碍にしてよいと本気で考えているのですか?」

 調理場が見える配膳カウンターでは、皇女カトレーヌの取り巻きらしき貴族の生徒達が、食堂のおばちゃんをまくし立てている。当の本人である皇女カトレーヌは、一歩離れた位置からどこかオロオロした様子で取り巻きの貴族達に視線を送っている。


 食堂のおばちゃんは懸命に順番を守るようにと言って抵抗を続けているが、職を失う訳にはいかないので、貴族達の要求に屈しようとしていた。そんな時。

「あの、少しよろしいでしょうか?」

 よく響く透き通った声音が、貴族達の背後から発せられる。カトレーヌとその取り巻き達は一斉に振り返った。


「……ッ!」

 皇族のカトレーヌだけがシルフィールの素性を知っていたのか、目を大きく見開いている。予想外の人物の登場に、思考が追いついていなかった。

 エルトシル帝国の貴族達は、鎧姿の彼女を見て、身分の低い貴族であると判断したのか、一斉に蔑み始めた。

「誰、あなた。一学年の子? それにしてもチンチクリンね」

「何かしらその格好、もしかして騎士爵の方? 准貴族の騎士爵が、私達上級貴族に口答えして許されると思っているの?」


「ぷっ、その鎧、似合っていませんわ。まるで、鎧が歩いているみたい。見事なまでに寸胴ですし、数歩いただけで、胸の板がズルリと落ちてしまいそうね」

「――あははははっ」

「あ、あなた達……ッ」

 血の気の引いた真っ青な顔でカトレーヌが止めに入るがもう遅い。暴言は、取り巻き達の口から撒き散らされた。背が低い、胸がない、鎧が似合わない。シルフィールが密かに抱えていたコンプレックスに三連続でジャストミートした。

 柔和な笑顔がフリーズしている。そして次第に、温かな笑みは、暗い影を孕んだ、ナタリア直伝のアルカイックスマイルへと変貌してゆく。


 極力、権力に頼る真似はしたくないのだが、この怒りを貯め込んでは、重度の円形脱毛症を発症しかねない。シルフィールは、受けたストレスを倍にして吐き出すことにした。

「わたくし、――トートス王国第一王女、シルフィール=ファル=トートスという者なのですが。先ほどのお言葉、学園長先生にご報告させていただきます」

「え、ええッ!?」

「トートス王国第一王女……」

「ち、ちょっと」

 エルトシル帝国の貴族達がわめいているいるが、もはやシルフィールの眼中にない。最上級の立礼の後に百八十度ターンし、足早にカレンのもとに戻ると、剣を受け取り、駆け足で迷いなく学園長室へと向かっていった。その後から複数の足音と自分の名を呼ぶ声が聞えてくるが、シルフィールは振り返りもせずに突き進む。

「お、お待ちになってください……っ」


 すると、金色に輝く長髪が視線を横切った。プライドをかなぐり捨てた全力疾走によって、シルフィールに追い付いた皇女の顔に、余裕は微塵もなかった。焦りに塗り固められた表情には、恐怖すら浮かんでいる。

 彼女は心底、シルフィールを恐れていた。レベルが高いからではない。彼女のバックに控えるトートス王国を恐れているのだ。

「何でしょうか、カトレーヌ様」

 一応年上なので敬称を付けるシルフィールだが、その凍えた双眸は彼女を見ていない。最高位の冒険者、レベル六百の絶対者としての威圧を撒き散らしながら、おごそかに接する。

「学園長への報告は止めて頂けないでしょうか」

「いやです」


「…………。やめて、いただけないでしょうか……っ」

「カトレーヌ様!」

「お顔をお上げください、カトレーヌ様!」

 見ればエルトシル帝国の第二皇女が、深々と頭を下げてトートス王国の王女たるシルフィールに許しを乞うていた。取り巻き達は、カトレーヌの頭を上げさせようとするが、頑なに彼女は拒む。

 帝国の皇女が、王国の王女に頭を下げる。十年前までは考えられなった光景だろう。そして、カトレーヌの取り巻きであるエルトシル貴族達は無知だった。未だに自分達の祖国が、三国一の大国であり続けているのだと盲信している。

 井の中の蛙に過ぎない貴族達は、時代が移り変わり、大国の座がエルトシルからトートスへとすげ替わったことを知らないのだ。

「……申し訳、ございませんでした」


 カトレーヌは、集まった平民のヤジウマの目の前で、再度深く頭を下げて反省の意を示す。マグマよりも熱く煮えたぎっていたシルフィールの怒りは、彼女の度重なる謝罪で納まった。ここまで謝るのであれば、初めから問題を起こさなければいいのにと思わずにはいられない。肉体の主導権が、怒りから空腹へと変わり、お腹が小さく鳴る。

「謝るのは私にではなく、学食のおばちゃんにだと思いますけど?」

「! はい。わかりました」

「――カトレーヌ様!」

 第二皇女の低頭に我慢の限界が訪れた取り巻きの一人が、ヒステリックな声で喚く。だが、カトレーヌが一睨みすると、悲鳴を漏らして口を噤んだ。

「はあ、もういいですよ。学園長には報告しません」

「ありがとうございます。それでは、失礼いたします」


 シルフィールから許しが出ると、彼女は足早に走り去り、つられて取り巻き達も蜘蛛の子を散らすように退散する。周囲に残ったヤジウマも、見世物は終ったとばかりに散らばっていった。

「はあー。また並び直さないと」

「シルフィール、こっち!」

 先ほどよりも一層長くなってしまった学食の行列に辟易していると、名を呼ばれた。見ればカレンが、食堂の一角を陣取り、大量の食事を並べている。そこにはワイバーンのステーキも複数置かれていた。第二皇女に謝罪をさせている間に注文してくれたらしい。

 シルフィールは実感する。持つべきものは友であると。

「カレン。ありがとうございます」

「さっさと食べよう。午後は魔法学だしね」


 カレンは魔法剣士であるが故に、歴史や宗教と同じく座学ではあるが、魔法学の授業には極めて真面目な態度で臨むのである。興味ある知識は、どもまでも貪欲に吸収するカレン。大雑把な性格をしているかと思いきや、実は、努力家で研究者肌なのだ。

 暫く食事を続けた後で、カレンは言う。

「シルフィールって、本当に王族だったんだ」

「へ?」

「いや、普段から……、と言ってもまだ数週間だけど。同じ部屋で寝て、顔付き合せて飯食ってきたから、頭ではわかっていても、シルフィールがトートス王国の王族だって実感がこれまで湧かなかったんだ。でもさっき、皇女を注意して、謝罪までさせて、ああ、私のルームメイトは本当に王族なんだなって実感したんだよ」


「……あの、不味かったですかね。この国の皇女を、他国の王族である私があそこまで、その、自国の力を利用して、屈服させて」

「私はそこまで愛国的じゃないから言えることなんだろうけど、別にいいんじゃない? 見ている分には清々しかったし、何よりシルフィールは間違っていない。皆感謝してるくらいだし」

 そうでしょ? とカレンが食堂の生徒達に問い掛けると、大勢がグラスを大きく掲げ、料理が頬袋に溜まった笑顔をシルフィールに向けた。実技科六学年全員と、現場を目の当たりにしていた生徒達。彼ら彼女らは無言ではあったが、シルフィールに強い感謝の意を示す。

「ね? みんなシルフィールの味方」

「――はい」

 シルフィールは笑顔で頷くのだった。




 シルフィール=ファル=トートス程の逸材が、十二歳から入学資格を得るマニエール学園に、十四歳で入学してきたのには、ある理由があった。

 二年前、当時十二歳だったシルフィールは、この学園への入学を大反対していたのである。彼女は、住み慣れたトートス王国や、奇想天外なエルフリード達から離れたくなかったのだ。

 シルフィールにマニエールへの入学を勧めたのは、父アレクト国王であった。シルフィールを溺愛していた国王だったが、脈々と続く王家の伝統であるからと、心を鬼にして、娘を学園に押し込もうとしたのである。将来彼女が、人の上に立つ立場となった時のことを考えての決断であったのだが、そんな父親の気持ちを、年頃の娘が理解できるはずもなく。


 運悪くシルフィールの反抗期と重なり、結果、彼女は見事なまでにグレてしまった。

 アレクト国王に行き先も告げずに家出し、身分を隠して、美しかった髪の毛もバッサリと切り落とし、盗賊相手とはいえ殺人や略奪にも手を染め、他国で冒険者となった。

 そんな逃亡生活が一年間以上に続いたのである。逃亡生活は、シルフィールに生きる術と膨大な経験を与え、遂に彼女は十三歳にしてSSSランク冒険者に上り詰めてしまったのだ。

 だが、彼女の反抗期は、SSSランク取得と共に終わりを告げる。何でも、SSSランクが刻印されたギルドカードを手にした瞬間にふっ切れたのだという。


 レッドドラゴンの生首のハチミツ漬けを片手に、王都トートスのメインストリートを王宮に向かって北上し、王宮のエントランスをレッドドラゴンの生首で飾り、帰還を果たしたのだ。

 覚悟を決めたシルフィールだったが、アレクト国王曰く、エルトシル帝国の学園に通う期間は極々短くてよいとのことだった。要は、卒業したという証が必要なだけだからである。主席で入学し、一学年から六学年へと飛び級し、最短でマニエール学園を卒業してやると意気込んで、王都を発ったのだ。

 しかしながら、何事もやってみなければ、どう転ぶかわからないのが人生であるらしい。

 エルトシル帝国とナラクト公国を国力で抜き去り、なおも破竹の勢いで発展を続けるトートス王国。トリキュロス大平地一の大国であるトートス王国の王女が、他国の学校で友人を望むなど間違っている。顔を合わせれば愛想笑い、影では常に蔑まれる、そんな生活を覚悟していたのだが。

 入学翌日には、カレンと共に学食でワイバーンのステーキを口に運んでいたのだから、人生は摩訶不思議だ。


 そして入学から二週間も経つと、シルフィールは校舎内で学友から挨拶され、友好的に声を掛けられるまでに至っていた。王族に対して、お世辞にも適切な態度ではなかったが、非常に喜ばしい。

 快く自分を受け入れてくれる人々が大勢いる。

 ――学園生活も悪くはない、そう考え始めていた矢先のこと。誰もが予想すらしていなかった事態が発生する。


 皇女謝罪事件から一カ月。

 それは普段と何も変わらない平日の朝であった。

 ――今日、シルフィールは珍しく寝坊していた。

「うー、私としたことが、やってしまいました」

「あははっ、シルフィールでも寝坊することってあるんだ」

 シルフィールが今朝目覚めたのは、朝日が顔を出した後のことであった。普段ならば鎧姿でのランニングを終え、ウルクナルの幻影を相手取った模擬戦を行っている時間である。目が覚めた時、普段なら爆睡しているはずのカレンが、化粧台の前で髪をとかしている光景を目の当たりにしたシルフィールは凄まじく、現実を夢だと疑うほどであった。

 これから鍛錬を始めるには遅すぎる時間に起きてしまったシルフィールは、カレンを連れて早朝の食堂に向かい、現在に至るのである。


 カレンは、寝ぼけたルームメイトを思い出し、何度も噴き出しそうになりながら食事を続けた。

「それでさ、シルフィール。来月からの長期休みの予定なんだど。本当に、帰省に同伴してもいいの?」

「はい、ぜひ」

「そっか! じゃあ帰る日が決まったら教えて!」

「わかりました。ですが、あの、カレンの予定は……」

「平気、全然平気。毎年予定は白紙だから。去年も、飯食って、剣振って、飯食って、魔法ぶっ放して、飯食って、寝るだけの休みだったし」

「あ、あはは。それは、その……」


「言わないで。わかってる」

 二人が食べ終わると、時刻は授業開始の一時間前。食堂は朝食を求める生徒達で埋め尽くされていた。身動きが取れないほど一挙に、欠食児童達が押し寄せることなどそうそうないのだが。今日は運悪く、数カ月に一度の大混雑を引き当ててしまったらしいシルフィール達だった。

 食堂の出入り口は飢えた生徒達で飽和している。あの人垣を掻き分けて進むのは、相当骨が折れそうだ。幸い、授業開始までまだ余裕があるので、彼女達は食後のお茶を飲みながら、一時限目の魔法学について語り合う。

 そんな時であった。

「……何、この音」

「どうした?」


 唐突に、険しい表情で耳を澄ませるシルフィール。そのただならぬ雰囲気に、カレンはおどけたように首を傾げながらも、無意識下でホルスター内の杖を撫でる。

 甲高く、それでいて火山が噴火したような荒々しい轟音。シルフィールはこれと類似した音を知っている。だからこそありえないのだ。この特徴的な轟音を響かせる物体が、この学園に向かって来てはならないのだから。

「……あ」

 急激な推進偏向音を確認した。物体には、直上から垂直に降り注ぐ、トップアタックを仕掛ける機能が備わっているらしい。金属ロケットエンジンによる空中での自在な姿勢制御は、マシューが現在開発中の、まだ実用化には至っていない技術のはずだ。

 シルフィールはマシューが教えてくれたミサイルを用いた先制打撃戦術を想起して確信する。

「カレン! 伏せて!」


「ちょ、シルフィ――」

 椅子を薙ぎ倒し、テーブルをひっくり返し、カレンに飛びつき、床に組み伏せたシルフィールは、危機迫る表情で悲鳴に近い大声を張り上げる。

「目を閉じて、口を開けてくださいッ! 皆さん、姿勢を低く、目を閉じて、口を開け――」

 瞬間、音が消え、視界は光に包まれた。


 解放歴二〇六九年。

 トリキュロス大平地エルトシル帝国の帝都ペンドラゴンにて、ガダルニア本国より発射された通常弾頭搭載の弾道ミサイル二十発が炸裂した。ミサイルはピンポイントに帝都の主要施設を攻撃し、帝国貴族を中心に数多くの死傷者を発生させ、帝国中枢を麻痺させた。


 そしてミサイルの一発は、マニエール学園の寄宿舎にも着弾したのである。

 不幸中の幸いとして、生徒の大半が爆心地より離れた食堂に集まっていた為、怪我人は非常に少なかったが、それでも、貴族を含む一般生徒、寄宿舎事務員を含む二十名が命を落とした。

 戦端の口火はミサイルによる奇襲という形で切られた。ガダルニアによるエルフ絶滅計画が開始されたのである。かつての大国、その華の都ペンドラゴンは、誰も望まぬ戦火の中へと投げ込まれたのだ。



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