9. 雪女vs小鬼熊①
「えっ、ま、魔法……!?」
クラスメートたちがざわめく。……魔法、か。
(ま、否定はしない)
雪女渾身の〝腹パン(ボディブロー)〟を魔法扱いしたい人がいたとして、彼ないし彼女の推測をぶち壊しにする理由はないからだ。
「安心してくださいな、アンビスくん」腕まくりをすると、ぐるぐる回す。「わたしは高校の水泳部時代に、厳しい筋トレ生活にのぞんだ過去を持っています。わかりますね?」
「わからん! その話のどこで安心すればいいんだ!?」
「筋トレ生活の部分にですけど」
「さっぱりわからないぞ!?」
「と、に、か、く! 400メートル自由形400秒の記録でなじられたわたしですが、筋トレのおかげで力だけは強くなったんです」
「わかりたくもなくなってきたんだがッ!」
「鈍いですね! だから、熊退治くらいは朝飯前だっつってんですよ! 朝飯前なのは、主にあなたが朝ごはんを提供しなかったせいですけどっ! それとは関係なく、あなたは黒船に乗ったつもりで……って危ない!」
どん、と武彦をつき飛ばす。
今の今まで武彦がいた場所を、ひしゃげた机が通過した。
「っぎゃ」武彦は床を滑り、無事に……、
「ぶ、ぶ、無事に昏倒しちゃってあんた……どうすんですかぁ!? う、うわぁあー!」
「……どうやら、お前さんも幻界種のようだなぁ」と、ピードゥ。
「そそ、そそそ……! んん、こほん。――そうですが?」
生徒たちが蜘蛛の子を散らして逃げていく中、ピードゥだけがのしのしと戻ってくる。机はぞんざいに蹴り飛ばしたようだ。
彼はポケットから手を抜き出して、拳を受けた腹をさすった。
大したダメージは食っていないようだ。結構強めにいったのだが。
「やはり拳はいいものだ。面倒事も一言で済むからのう」
にぃ、と口腔に覗いたのは、巨体に身合った太い牙。
どう猛な笑みだった。
「改めて、わしは英雄長V‐Ⅰのピードゥ・サムド。熊でありながら、人文学科の学生代表をつとめておる身よ」
「エイユウチョー……。シャルルちゃんの妄想じゃなかったんですね」
「名乗ったところで、まずは先の非礼を詫びよう。すまんかったな、女だからと侮った」ピードゥはなんとも慇懃な熊である。「お前の名は?」
「あ、はい。わたしは水上ゆきです。種族名は凍結怪異生物。俗称は雪女」
ひとさし指を立てて、
「みんなの町の便利屋さんですよぉーう」
あえて愉快なキャラで言ってみた。
が、ウケない。和まない。ツッコまれない。
それもそのはず。ピードゥはお喋りがしたかったわけではない。戦国時代の武将よろしく、我こそは何々~的な名乗り合いがしたかったのだ。
「これでもう、お互いに言葉はいらんなァ?」
ピードゥは満足げに言った。途端。
その足が教室の床板を踏み割った。いや、違う。一歩、足を踏み込んだ。即座に巨体が迫り、放たれたのは、大型肉食動物の膂力を乗せた右ストレート。
馬鹿みたいな大振りだった。ボクシング漫画を読めばわかる通り、こんな大攻撃が無条件で当るわけがない。ゆきは身をかがめて攻撃をかわし、無防備になった横腹に、再び拳を、
「ぬうぇいッ!」
ピードゥの学生服がひるがえる。踏み込んだ足で転回し、重心が入れ替わった。風を巻き込んだ回し蹴り! 腹パンは即刻中止する。
(ガードを上げて防御しなくちゃ……)
「っ!」
やはり中途半端はいけなかった。
ドパン! と、衝撃よりも早く音を認識。同時に空白がゆきの意識に差し込んだ。
まるで丸太で殴られたようだった。理解できない。それでも足は直感的に床を蹴っていた。再度の打撃音が耳朶を打ったとき、ゆきの寝ぼけた頭脳はようやく『追撃の膝蹴りをかわした』と理解した。
「ようかわしたの」
冗談ではない。ピードゥは教室の奥の、もっと奥。繋がっていてはいけないとなりの教室から取って返す。作りたてのトンネルをくぐるさまは、居酒屋の暖簾をくぐるサラリーマンのノリと大差ない。
「壁を崩す膝蹴りなんか、死んでもくらいません」
なぜなら。
「かわさないと死にます!」
「っかか! よせやい。褒めても何も出んぞ」
「褒めてはいないんですが!」
と、会話はしていても決闘は中断されない。
パンチ一発でのせると思っていたのだが、ピードゥは予想外に手強い。
突きに、蹴り。どれもが殺人級の威力を誇るために、半端な防御は許されない。
幻界種の大暴れで机はなぎ倒され、教科書とノートが狂ったように乱舞する。
その隙間を、ぱっと群青の光が縫った。
光を引き起こしたのは、雪女の冷凍能力。
飛んできた椅子を靴底ではねつけると、床に手をかざす。机が窓ガラスを割って飛び出すのと同時に『特別特異特性』を解放した。
「キーンとしゅまっ、しますよ!」
決め台詞を噛んでも気にしてはいけない。
拡散したのは強力な冷気。瞬きの間に教室は氷で覆い尽くされていた。目的は教室でスケート遊びを楽しめるようにすること、ではない。
放し飼いにされた凶暴な熊を、氷の枷で床に繋ぎ止めてしまうこと。それは成功した。
「ははは、どうです。ここからはわたしの反げ」
「寒いわァ!」
ピードゥは怒声を上げて氷の床を殴った。
なんのことはない。捕獲された動物のとるつまらない抵抗だ。今に極上の冷気にうっとりと微睡み、うっかり冬眠したくなってしまうだろう。
心地のいい振動が足首を這い、腰にまでのぼり、そうして振動が激震に変わるまでは、ゆきは気楽に構えていた。
ピードゥの拳が床をぶち抜いてしまうとは、思わなかったから。
「んなぁあああああああ!?」
轟音とともに、落ちていく。
氷は砕け、床も砕けた。机やら教科書やら学生鞄やら、一切合財まとめて崩落する。
落下以外の動きを見せたのは、真っ黒の影。学生服をはためかせ、学帽をすっ飛ばしたピードゥが机を蹴り、肉食獣の身のこなしで迫ってくる。
(うわ。避けらんない……)
頭からの突進をもろに受け、また背中で壁をぶち抜いた気がする。
「っくそ!」
ピードゥの顎に膝を入れて突き放し、一目散に逃げ出した。
教室の階下、逃げるにはうってつけの縦長の部屋は……職員室だろうか。
折れかかった心は逃げの算段に終始している。
ゆきがいくら氷の棘を生成して妨害しようとも、ピードゥはデスクを蹴り、壁を蹴り、天井まで蹴りつけてかい潜り、距離が離れない。冷気で野性を刺激したのは、失敗だったと言わざるを得ない。
(なんてこった!)
ピードゥは本能に任せて四足で疾駆していた。
「っ!!」
辿りついた職員室の端で、とうとう熊と対峙する。三秒弱の追いかけっこは終わり。
「こんのぉ! 氷結棍・フリージング!」
雪女の力で氷製バットを構成したゆきに対して、
「ダブルA級、超重拳」
ピードゥは空中でくるりと回転し、二足歩行に戻る。剛腕を振りかぶり、音がしそうなほどに脇を引き絞った。
「――ボンバァアア!」
「――熊なみの愛を込めてッッ!」
氷結バットと熊パンチが激突する。
ぶつかるべきではないものの勝負の果てに、氷は拳に打ち負けた。