5. 妹と便利屋
武彦の住まいは人文学科の校舎のほど近く。南西部の住宅地にたたずむ学生寮だ。足早に外付け階段を上り、部屋のドアノブに手をかける。
ドアは抵抗もなく開いた。
広がっていくドアの隙間を眺め、うんざりした。
それから心臓が止まりそうになった。薄暗い玄関で体育座りをしている〝たわけ〟を見つけた時には、誰でもびっくりするはずだ。
もふもふの尻尾に顔をうずめて、誰かが眠っている。尻尾は狐のもので、整った黒の毛なみに、毛先にかけては抜けるような雪色。
「シャルル!」
「ほわっ」
一喝すると、シャルル――妹の茂来鮭流は叩かれたように顔を上げた。
「ほわぁー」じゅるりと涎をすすり、「しまった! たばかられた!」
「何にだよ」
「やや! なんだかぶっこみ……ツッコミたそうな顔をしてるね、お兄ちゃん! 違う?」
「漫才の意味でなら違わない。それ以外だと触れたくもない」
「あはーん!? いいよいいよ! あたしは下ネタも〝おっけぇ〟な鋼の女だもん! 発情期のお兄ちゃんにも真心を込めて対応するよ! あ、でも、あんまり近寄らないでね!」
シャルルは体育座りから、一挙動で立ち上がった。
「お兄ちゃんを驚かそうと思ったんだけど、途中で眠っちゃったんだ」
「それはいいよ。けど、鍵をかけろっていつも言ってるだろ」
「ご飯できてるよ! それともお風呂にする? それとも、あ・た・し?」
「お前、鼓膜ついてるか」
「付いてるよぉ。それに聞いてるけどぅ……でもっ、まずはベタなネタを優先しなさいって、神様に言われたような気がしたよ! ビビっとね!」
そんな神様がいるのなら、今すぐ免職処分にすべきである。
尻尾を振り振り、嬉しそうにはしゃぐ少女は、武彦と二つしか歳が離れていない。
元気横溢な未来学園の一年生。
癖っ気のあるセミロングの黒髪に、ぴかぴかの制服を着込んだシャルルは、照れるよりも引く意味で、花も恥じらううら若き乙女だった。
「シャルル」靴を脱ぎつつ、ちらりと妹の顔色をうかがう。「他にやることはなかったのか」
シャルルは屈託なく笑んだ。にっぱりと、ひまわりのような笑顔。
「なーんも!」
断言されても困るのだが。クラスに友達はいないのだろうか。ちょっとだけ心配になる武彦だった。
「英研と悪研のどっちに付くか決まったか」
とりとめのない話をかわしながらリビングに入る。
「あ、おかえりなさい」
「ただいま。……え?」
「しばしお待ちを」
「え、あ、ああ」
英雄はいつでも公平だ。総英雄長でも扱いは一般の三年生と同じ。
狭苦しい相部屋から始まり、二年生のときには狭い個室で、そうしてやっと与えられたロフト付きワンルームには、けばけばしい色のソファと安物テーブル、台付きのテレビが置かれ、生活必需品の他にはこれといって物が置かれていない。
置きたくとも、部屋に二人もいると置くスペースがない。夜にはロフトに上がり、妹とならんで寝なければならなかった。
妹との同居を決めたのは武彦の実家の両親だ。
犯罪から守るため、という慈愛の精神には涙を禁じ得ない。
(経費も浮いたしな)
本来なら学友との相部屋を強いられるシャルルも、いきなりロフト付きのワンルームが提供される。強くてニューゲーム状態。
「お兄ちゃんのために、頑張ってご飯を作りました!」
武彦がソファに座り込むと、シャルルはてきぱきと料理を運んだ。
「おう。サンキュ」
バラエティでも眺めようかと思ったが、テレビは剣を持った勇者に占拠されていた。
一年前に買ったゲームだった。ちょうどドラゴンとの死闘を繰り広げている。となりで知らない女がコントローラーを握りしめていた。
「なあ」
「すみません。話しかけないでください。今忙しいので!」
「はあ」と頷き、武彦は神妙な顔でみそ汁をすする。「これ、ダシ取ったか?」
シャルルは「何言ってんのこいつ」とでも言いたそうに顎をしゃくった。
「っち、なんなの。そのパターンばっか、おいやめろよ……はぁ? おかしいって……!」
どうして食事中に、知らない女の悪態を聞かなければならないのか。
「しかし、今日は嫌に寒いなぁ」
「そうかな。お兄ちゃんも自分の尻尾を出して、もふもふすればいいじゃんか」
「嫌だね。それじゃ馬鹿みたいだ」
「ふうん? あたしは馬鹿みたいなのか。ようし、じゃあ馬鹿の尻尾でもふってあげよう!」
「えっ!? そんな展開をタダで見られ――あ」勝手に興奮する知らない女。
勇者はドラゴンブレスの余熱で即死した。
「あぁー」
「よし。もういいか?」
武彦は箸を持ち上げ、かちかち鳴らした。
なるべく柔らかな口調で、
「この子はお友達かい?」
この子とはもちろん、人の家のリビングでゲームに没頭している女のことだ。武彦は知らないし、シャルルの友達以外ではありえないのだが。
(家に招くなら最初から言えよな。気まずいじゃんか)
そんな風に軽く考えていたものだから、シャルルの返答には、目玉がみそ汁につっこみそうなくらいに驚かされた。
「ううん。知らない人だよ」
「……っ!」
武彦は口を押えてみそ汁を見た。幸い、目玉は浮かんでいない。
「知らないってどういうことだよ。冗談だろ?」
「え、なあに。あたしは、お兄ちゃんの彼女さんだと思ってたんだけどぅ……違うの?」
ゆっくりと視線を横に移す。
「……」
女はまだゲームのコントローラーを握りしめていた。
握りしめるだけ力いっぱい握りしめて、しかし操作はしていない。
眼差しで液晶画面を砕いてやろうという気概を感じるほど、テレビを凝視していた。
たっぷりとしたロングヘアに目がいく。夜の海を髣髴とさせる深い紺色だ。顔立ちも端整で、美少女、と呼んでもいいだろう。
だが。
「僕には彼女なんていない! こいつは知らないやつだ!」
「えー? それじゃおかしいよう? だったら、この人は誰の彼女さんなの?」
どうせなら『誰』ではなく、『何』かを問うた方が賢明だろう。
「そういえば」と、シャルル。「お兄ちゃんが帰ってきたら、大声で伝えるように言われてたのに。あたしったら忘れちゃってたね。てへへー、ごめんなさーい」
「えぇそれって……! やっぱり!? あんた、まさか空き――」
「オーケー。落ち着いてください」
にわかに気色ばんだところで、女は両手を上げた。
降参、とでも言うつもりだろうか。
「ちゃんと説明しますよ」
「や、説明するも何も! これって不法侵入じゃ」
「でーすーかーら! それも含めて説明しますってばッ!」
説明するというので、武彦はひとまず黙った。すると女も黙った。腕を組み、女とは思えないレベルで眉根を寄せている。
「う、うーーーーーーん……」
(駄目だこりゃ)
「シャルル、学生監督センターに電話を」
「やぁんっ、せっかちさん!! もう五秒だけ待ってくださいよ、良い説明を考えますから」
理由がないと言っているようなものだ。
(もしかして悪研の手先か?)
全身スーツを着ていないところ、幹部クラスとして。それでもプライベートの空き巣はルール違反だ。事業の乗っ取りは許されても、空き巣は許されない。学園の定めた正悪のルールは複雑なのだ。
「整いました。では、ご説明します!」
女はまだやる気のようだった。
諦めが悪いというか、納豆のように粘り強い。
「行動順に言いますね。ではまず一、わたしは部屋を借りようと思いました。困ったなー」
「うん」
「二、空いている部屋を借りよう。どれがいいかなー?」
「適当すぎるよう」
「三、空き部屋と思ってベランダから入ってみたけど、意外と空いてなかった。わーお」
「ほう。それで?」
「四、まあいっか」
「わーお」
「五、発見される。そして、わたくしめに行動六を与えるのは、心優しい住人様です!」
「シャルル、早く電話を」
「ええぇー!? わっからないんですかァアッ!? ちょっとした勘違いでしょこれぇ? な、の、に? どうしちゃうんですかぁー。電話しちゃいますかー? 学生さんでしょー? 学生さんなら人に優しくしなくっちゃあ、いっけないんじゃないデスカー!? 社会に出たらドン、ドン! 削られる要素を今使わないで、どぉこで、いつ使うってんすかー、今でしょー、優しさ。ね、優しくしてくださいよ。してよー、っしろよぉお!」
「見苦しい。諦めろ」
「六、目撃者を抹殺する」
「っ!?」
部屋にいる女は〝物凄くやばい人〟らしい。しかも自分がからまれている。
(これなら、まだロブスタンの方が……)
おかしい。周りの誰と比べても、怪人の方がマシに思えるとは。
「頼みますよぉ! 本当はのっぴきならない理由があったんですよぉ!」
「何もないだろうが! うわっ!?」
飛びかかってきた女を、武彦は邪険にはね除けようとした。幻界種は人間と比べてケタ外れに力が強い。不測の事態は起こらない。
はずだった。
「え」
女は武彦の腕をいともたやすく払いのけ、
どん、と。武彦は女に押し倒されていた。
――ガチン。
硬い音とともに、両腕はそのまま、透明な氷塊で床に固定される。
「きゃああぁ! お兄ちゃんが受けに! 謎の女×お兄ちゃん状態に!」
家族会議を開かざるを得ないくらい、気になる言い回しをする。
「お、お前……なんなんだ?」
「わたしは水上ゆきです! ひぃっ、しまった名前を! どうか見逃してくだしゃあ!」
「お前はなんだと聞いているんだ!」
「だから水上ゆ……わたしは天ノ川カグヤです。天ノ川カグヤをよろしく、はいどうも」
「嘘つくなよ!?」
「え、えっとー? えへへ? ばれちゃいました?」黙って睨んでいると、やがて女も観念した。「はぁ、そうですねー……。わたしは、ま、あれです。人間じゃあないです。幻界種の第一種で凍結怪異生物。俗称は……雪女」
肩をすくめて、
「何でもできる便利屋さんですぅ」
「……?」
見上げる女の瞳は、その言動に反して、透徹された美しさを秘めている。
ともすれば吸い込まれてしまいそうに、深く、深く。
瞳はどこまでも――蒼い。