13. エピローグ 腹ぺこの好敵手
追い詰められた狐を見たことがあるか。
そう問われることがあれば、シャルルは気乗りしない話題に眉をひそめながら、「ない」と断言する。万が一見る機会ができても、訊かれれば同じように答える。
当たり前だ。
なぜならシャルルが鳴神狐であって、少なくとも自分の種族を狐に例えられない人々よりは、糸目のワンちゃんに愛着を感じてしまうからだ。
もし続けて「追い詰められた狐モドキを見たことはあるか」と問われれば――この場合、相手はデリケートな問題に踏み込むのを吝かとしないクソ野郎でなければならない――しばらく押し黙る。怒りのためと、それよりももっと馬鹿なせいで。
目玉をふた回りほどさせて納得し、もう一度「ない」と返す。
シャルルは件の狐モドキを目にすることができない。なぜって、鏡像ならともかく、自分自身は普通なら見えないものだから。
追い詰められた他の鳴神狐を直接見たことだってない。
そうだ。追い詰められているわけじゃない。きっと。そのはずだ。
「お兄ちゃん!」
ドアを開けた先の玄関だった。
明りもつけずに三角座りで待機していた兄の武彦が、緩慢に頭をもたげる。寝起きのナマケモノに比肩するとろとろしさだった。
「おかえり。シャルル」
兄ともなれば、一言で意思疎通は足りる。いじけ腐ったオーラが全身から発散している。
思えばメールを返していないままだった。
「ごめんお兄ちゃん! 忘れてて……」
「いいんだ」武彦は即答し、「そんなことより、今日はオムライスだぞ。エリンギとしめじとマッシュルームのハヤシソースがけ。好きだったろ? 今卵を焼いてやるから」
「ホントにごめんね。違うんだよ、あのぅ」
「残念なことに。僕はオムライスを包めないが……。そのかわり、シャルルのオムライスは奮発して卵を二つだ! ミルクは適量!」
硝煙弾雨を思わせる凄まじい会話のドッジボールをしている気がする。
ゆきとフロップほど、シャルルはドッジボールが得意ではない。
「お兄ちゃんはまだご飯済ませてないの?」
「まあな。というか、なんだ、聞いていいかな。その、その髪の毛……どうした?」
シャルルは首を傾げた。
どうしたって、変身用に銀のヘアチョークを塗っただけだ。
「んぅ? これね……っや、違うよぉ!? 自分でやったんだよ。ちょっとしたイメチェン! なんとかチョークっていうのが流行ってるんだって、ね、ほんとだよ」
「チョォオークでぇ!? そ、そんなことをしやがったのか! ぐ、クソッタレ! うちの妹に」
「いやだから」
「大丈夫だ。言わなくていい。好きで髪にチョークを塗るやつなんていないよな! 僕に任せておけ、そんなことしたやつはタダじゃおかない!」
行き過ぎた心配症が、今まさに兄の胃に風穴を開けようとしていた。
(シスコンなんだからな、もう)
「いいよ。露払いだって自分でできるもん」
「え?」
「ううん。あのね、台所っていうのは女の縄張りなんだよう、お兄ちゃん? あたしは卵焼くだけなんだろうけど。そっち座ってて」
リビングを素通りして、奥まったキッチンに入る。コンロには鍋に三種のきのこが入ったハヤシライスソースが、ガーリックライスの盛られたお皿は網状のフードカバーが被せてあった。
エプロンをかけると、冷蔵庫から卵と牛乳を取り出した。
ボウルに卵を二つを落として、かき混ぜる。牛乳を投下。
「誰にやられた? 何も隠さなくていいんだぞ」
武彦は座っていてくれない。
「いい? お馬鹿を見る時は、第一に尻尾を見る! あたしの尻尾は垂れてる?」
ふわり、と尻尾を持ち上げてみせる。今朝と違って不自然さはない。空元気で繕っているわけではないからだ。
「いいや」と、武彦。「でもシャルル」
「いい加減にしないと女々しい尻尾を引っ張っちゃうからね! ほら撤退!」
「シャルルゥー……」
兄がとぼとぼと撤退するのを見届けて、シャルルはコンロに火をかけた。少量のサラダ油をフライパンの表面に塗りつけ、さらに熱する。冷蔵庫からバターを取り出して入れたら、強火にしてとき卵を流し入れた。
ジュウウ、と耳に快い音がして、広がったとき卵を震わせる。頃合いを見て菜箸で掻き回す。
「なぁシャルル。あの、なんていうのかさ」
「なあに?」
端から卵の形を整えて、ガーリックライスの上に滑らせる。大したことでもない癖に、毎度息を詰まらされる作業だ。オムライス作りで肝要なポイント、と言っても過言じゃないだろう。
お玉でハヤシソースを掬って、ここぞとばかりに盛り付けた。躊躇いはなし。
仕上げに便利な瓶詰パセリをぱらっと振りかけて、出来上がり。
「ふんふふーん」
湯気にデミグラスの酸味が香り、自然と頬がほころんでしまう。
見た目だけならお店でも十分出せそうだ。
リビングから顔を覗かせ、武彦はこともなげに言った。
「お前さ。どうしてか、急に色っぽくなったような」
「へ? えー、えへへ、そっかなぁー?」
「うーん、おかしな感覚だなぁ。まるで日常系萌えアニメに迷い込んだみたいな」
変なことを言っている兄――ちょっと近づきがたい領域だ――にオムライスを運んで行き、今度は自分の分の卵を焼き始める。
武彦はオムライスを前にして律儀に待っていた。シャルルは尻尾を振り振り、同じ手順を繰り返す。本当に上機嫌だと見て取ると、彼もようやく安堵してくれた。
おもむろにテレビのスイッチをオン。
翌年に第六都市ティルタニエで開かれる『第六回全都対抗トーナメント(仮)』なる、オリンピック的なものを特集していた。つまるところ、幻界種やV‐ドライブ――公平性を著しく乱すという認識――のせいで、国際オリンピック委員会からハブられているアーメリア公領国が開く、大規模な独りよがりである。
武彦は、画面に映った野次馬の端から端までに目を走らせていた。
ふと気がつく。
(確か、便利屋ハピネスチェリングの本社があるのって……)
「ねぇー、お兄ちゃーん。ゆきちゃんのメールアドレス教えたげよっかぁー?」
「いらん。間違っても送ってくるなよ? とっとと卵を焼くんだ、腹が減った」
にやつきを背に隠して問うと、武彦は即答した。案の定の反応だ。
「りょーかーい! にししし」
卵に目を戻すと、いけない、少し焦げている。
慌ててお皿に移そうとして盛大にぶちゃけ、ため息を吐きながらも、特集にあったトーナメントのことを考えていた。
明日からの学校のことで不安になったりはしない。
魔法の言葉があれば、不安を感じる必要もなくなっていた。
むしろ。
数時間前に誕生した下級怪人トリオ『V‐LINX』に悩まされるのは、どこぞのシスコンで心配性な総英雄長様の方だろう。
相手が妹じゃやりにくいな、とか思うかもしれないが。まぁ、
だったらどうした――と、是非兄にも思ってもらいたいものだ。
「はあい! 大変長らぁーく、お待たせしましたぁー」
シャルルはようやく、兄の隣に腰を下ろすことができた。




