4. 茂来家伝統のヘボ狐
瞼を開けると、窓から差し込む朝日に、細かな埃が漂っているのが見えた。
何度も瞬きをしつつ、夢に置いてきぼりになった、もう半分の意識が覚醒するのを待つ。
そのうちに意識が浮上してくる気配があり、シャルルは半身を起こした。
両腕を開いて大きく伸びをする。
デジタル時計を見ると、朝の七時十分。横の布団では兄の武彦が寝息を立てていた。
シャルルは武彦をゆすって声をかけ、それからロフトを下りた。
しゃっとカーテンを開けて、もう一度、今度は全身で伸びをする。寝癖のついた尻尾もピンと立てて起こしてやる。ウール仕立ての白毛のスリッパを履くと、のそのそと洗面所へ。
顔を洗ってから、しゃこしゃこと歯磨きをする。
ひどい顔だ。腫れぼったい瞼が重たいせいで、狐よりも糸目になっている。いつもよりも多く冷水を顔に浴びせ、最後に泡立てた洗顔クリームで洗った。
化粧水の上から乳液でコーティングして、頬をぺちぺち。
続いて、鏡の前で笑顔の練習だ。
「にっこり」
寝起きの笑顔は三・五秒だけ保たれ、次の瞬間には、それで生気をこそぎ取られてしまったかのように暗く翳った。こちらを見つめる丸顔は自信なさげで、蒼白だ。
軽くため息をつき、鏡面の丸顔に背を向ける。
玄関前の立ち鏡の前に進み出て、しょぼくれた尻尾を引っ張ってみた。尻尾は手で掴んでいる間は元気でいてくれた。離してしまうと元通りに垂れてしまう。
尻尾には嘘をつけない。
リビングに戻ると、鍋に水を張って火にかけた。
ロフトに上り、まだ眠っているぐーたらな兄を揺さぶる。局所的に、マグニチュード8レベルの大地震が発生。
「お兄ちゃん、朝だよ。あーさー!」
「うー」言語を忘却し、唸る武彦。
「起きなきゃ駄目だよ。七時二十分だからね、遅刻しちゃうよ」
「うー」
「お兄ちゃん、朝だってばぁ」
「わかってる! もう。一度言えばわかるに決まってるだろうが……ったく!」
わかっているようなので、目覚まし時計(スヌーズ機能は解除されていた)を二分後にセット、やかましく鳴り出す前に退避しておく。ちなみに、「もう言わなくていい」との訴えを素直に聞くと、遅刻した後で散々嫌味を言われるので注意が必要だ。
アニメに出てくる素晴らしき妹たちは、嬉々として兄を起こしている。
シャルルには無理だ。どうせなら朝に強い兄が良かった。
洗面所に戻ると制服に着替え、霧吹きで髪を湿らせる。ドライヤーを近づけたり遠のけたりしながら髪をセットしたら、尻尾にも同じことをやる。
お湯が沸くまでのタイムアタックだ。
が、チャレンジは失敗。戻った時には、お湯は溶岩と見まがうほどに泡を噴いていた。
ロフトからは血の気のない地縛霊か、あるいは兄の武彦が顔を出している。
「むかつく。見てないで降りてきてよ。遅れたって知らないよ」
火を止めたら、茶葉を入れたティーポッドに熱湯を注ぐ。
カップラーメンと同じ時間待ち、ハチミツ入りのカップに注ぎ入れた。
三本のチョコチップのスティックパンと、一杯のマテ茶が今朝のごはんだ。
気分が安らいだところへ、洗面所から武彦が戻ってきた。
部屋には三人掛けのソファーにテーブル、その向こうにテレビが置いてあるだけで、必然的に並んで座ることになる。
「スティックパンはセルフサービス?」
武彦はおどけた風に言った。さっきの暴言は忘れてしまったよう。
黙ってテレビ――アニメに負けず劣らず目の大きな美人アナウンサーが、最近は隠者ファッションがブームなのだと言い張っている――を見つめていると、彼は袋からパンを取ってきて、あむと頬張る。
「自分でカップを取ってきたら、お茶をわけたげる。飲めるサラダなんだよ」
「んんー? んお、あふはほ」
パンの粉を飛ばしながら何かを言って、カップを取ってきた。
約束通り注いでやったマテ茶を、眉間に縦皺を刻んで飲む。
「こいつは……うーん、気が利くね。うん、眠気が吹っ飛んだ」
「癖になる味なんだぁ。本当はね、フィルターがついた〝変てこストロー〟で飲むんだけど、うちにはなくて……。今度通販で買ってみようかな……」
シャルルは口を噤んだ。
憂鬱が急に沸き上り、喉に言葉が詰まってしまったのだ。
「シャルル?」
横目で兄を窺い、テレビに視線を戻す。眼球の裏側が気味悪く疼いた気がした。
(何か言わなきゃ……)
震える唇を開きかけ、閉じて、また開いた。
「あたし、今日は学校に行きたくない」
「えっ?」我が兄は心配性だ。「どうした? シャルル、何か嫌なことでも」
「……だってぇ! 前にお兄ちゃんに殴られたせいで、まだお腹が痛いんだもーん!」
「え、ええぇー?」
武彦は「なんだよう」とあからさまに安堵した。
「お前な。びっくりさせるなよな。いじめられてるのかと思ったぞ」
「ふふん、そんなわけがないのだ! なんたってー、あたしは総英雄長の妹様だもん」
ぶい、とピースサインを作って立ち上がる。尻尾は限界まで持ち上げた。
「ちょっち早いけど、もう行くね。玄関の鍵はよろしくぅ!」
「あ、お、おい」
やっぱり武彦は、心配性で神経質なシャルルの兄だった。
微妙に意気地なしで、あえて触れてこないだけで。
子供の時から自分の吐く嘘なんて、うっとうしいくらいお見通しなのだ。
「前の事だけどさ、おい! お前は悪くないからな!! もしかして、本当にもしかして、失敗したと思ってるかもしれないけど、別に失敗してないしっ、万が一失敗だとしても、人生にある何千何百回のうちの一回だよ! 気にするなよ!? いいな、シャルル!」
「気にしないよぉー」
そう言って出て行きたかったのだが、できなかった。
彼の考える〝もしかして〟は、実際に自分の中で行われているのだから。
シャルルは外へ飛び出した。
後ろ手にドアを閉めると、へなへなと尻尾が垂れた。




