1. 軍曹は嘆いている
追いつめられた狐を見たことがあるか。
そう問われた時、ロブスタンは「ない」と答える。
狐狩りの経験も、する予定もないし、狩りの名手を父に持つほどの田舎出身でもないからだ。
件の狐などは、ついぞ見たことがなかった。
こんな質問に遭遇する機会は滅多にないだろうが、仮にあったとしたのなら、ロブスタンは眉間にしわを寄せて、まずは首を横に振るだろう。
次いで「待てよ?」と思わせぶりに呟き、顎を摘まんでみせる。
追いつめられた狐を見たことはない。
が、追いつめられた狐モドキなら見たことがある。
ぽんと手を打つと、身を乗り出してこれまでの経緯と、そしてこれから先の出来事を語って聞かせてやるのだ。
「…………」
見つめる先で、一人の少女が立ちすくんでいた。
ひどく面やつれをしている。ロブスタンと他愛ないお喋りに興じる余裕はなさそうだ。
癖っ気のある黒髪はボブに整えられ、朱色に染まった頬には可愛げがあった。
決して見栄えの悪い方ではなく、一般水準以上の器量には達しているのだが、だからといって、彼女を美少女と表現するには抵抗がある。
少女に「美」の文字は似合わない。つつけば、ぷるん、と押し返してきそうな頬のふくやかさは、未だに幼さを残している。
愛嬌のある丸っこい瞳は、失礼なことに、ロブスタンの顔面にこの世の終わりを見出しているようだった。
少女は泣いていた。
悲壮感を漂わすことはなく、せいぜい三、四滴の涙をほろほろとこぼすだけ。そこに窺えるのは洗練された美ではなく、透徹された意気地。川端の公園のベンチで泣いているというのも、ことに少女の土臭さを演出している。
うんざりした心持ちになった。
彼女は蠱惑的なプロポーションの美女ではなく、ややお尻の大きい素朴な少女だ。
ロブスタンは美女を口説くのではなく、鼻水を垂らしたガキを諭すのだ。
おまけに。彼女は人間ではなく、狐人間だった。
臀部に狐の尾を持ち、雷電を繰る狐人間――紛れもなく幻界種。
科学先進国として名高いアーメリア公領国に住まうのは、人間と共存しながらも、しかし人間とは全く別の血を宿した種族たち。
生まれながらに特別で、特異で、特殊な性質を受け継いだ種族だ。
三つの『特』を呈する幻界種の力は凄まじい。彼らにすれば、未来予知やサイキックなどの超能力も、「あの人は背が高いね」程度の個性に過ぎない。
たとえ魔法や魔術であっても、右に同じく。
彼らの多くが平穏な暮らしを好むことは、人類にとって非常に幸運なことだった。
「ロブスタン先輩、あたしは……」
消え入りそうな声を出す狐少女、茂来鮭流も幻界種の一人であり、多く枝分かれした種では『鳴神狐』と呼ばれる種族に属していた。
大層な修飾はともかく、狐に似た尾が彼女らのトレードマークとなっている。シャルルの場合、尾はふんわりとした墨色で、毛先にかけては抜け落ちたような雪色だった。
「フン」
ロブスタンは鼻を鳴らした。
眦を決したシャルル――茂来武彦の妹をどやしつけてやろうかと思ったが、彼女の尻の後ろで垂れた尻尾を見れば、怒りは飲み下さざるを得なかった。
いじけた少女をもっといじけさせてやろう、とは思えない。
できればそれ以外のことをしてやりたいのだが……。自分はしがないザリガニ怪人だ。
話の引出しは、カニともエビともつかない矮小甲殻類の脳みその如く、僅かしかない。
逡巡していると、にわかに意識が揺らぎ始めた。吐気がして、気持ちが悪いのやら、眠気を誘うようで快いのやら。
シャルルに会いにくる道中、熊に襲われたのだ。
熊。テディではないクソなベア。毛むくじゃらの幻界種、ピードゥ。
(忌々しい英雄長め!)
ぶり返しかけた怒りを制したのは、震える少女の声だった。
「あ、あの。あのぅ」
「んん?」
彼女は尻尾を垂らしたまま、無理につり上げていた眦も落として、
「あたしは、やっぱり。悪いことをしちゃったんでしょうか」
「……おお」
納得する。みすぼらしい尻尾を見たせいで、当初の目的を忘れていた。
ロブスタンはある友人を、彼女の兄の泣き面をちょいと蹴飛ばすつもりで、
ありのままの答えをくれてやった。




